2009年5月31日 (日)

世界政治学会に備えて

今日は英語で書いた論文を1本完成させることができた。7月に南米チリで行われる第21回世界政治学会(IPSA)での研究報告のための論文である。

この英語論文は、今月に入ってから、授業の合間を縫って書き続けてきたものである。拙著『ハイエクの政治思想』(勁草書房、2007年)の主に第1章(およびその他の章)の内容を踏まえたものだが、5月23日(土)にその草稿を書きあげた。

その草稿の英語を見てもらうため、丸善の英文校正サービスを利用したのだが、5月28日にそれが納品されたので、その後、最終的な推敲を経て、今日、そのPDFファイル(WordファイルをPDFファイルに変換したもの)を、世界政治学会のオフィシャルサイトへと無事アップロードすることができたのであった。分量としては、A4サイズで13ページ、4276単語の英文となった。

その丸善の英文校正サービスによる「原稿評価カルテ」によると、全体的に、「平均的レベルです」(5段階評価の3)あるいは「習熟したスキルを持っています」(5段階評価の4)という評点であった。項目別にみると、次のとおり:

英語表現について 平均評点 3.3
 構文の正確さ 3
 文章運びのスムーズさ 4
 単語の選び方 3

英文法 平均評点 3.7
 主語と述語の一致 4
 冠詞a, an, theの使い方 3
 時制の正しさ 4

英語表記のルールや論文スタイルについて 平均評点 4.0
 句読点の使い方 4
 参考文献の書き方や引用の手法 4
 アカデミック・スタイルの遵守 4

また、校正者からのコメントも付けられていたのだが、それによると、校正前の原稿は「英語のライティングスキルという観点から見ると、原稿は非常によく書けており、あとは文法などのささいなミスを変更するだけ」だった-とのことであった。

ちなみに、5段階評価の5は、「非常に高度なスキルを持っています」というものだが、私はまだ3~4の間のようである。今後は、全体の平均評価が4点台となることを目指していきたいと思っている。

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2009年5月30日 (土)

虹の架け橋

今日の午後5時半頃、我が家の東向きの窓から、本当にきれいな虹の架け橋がよく見えたので、急いでデジカメで撮影した。ここにその写真を掲載し、読者の皆さんにも楽しんでもらうことにする。

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2009年5月27日 (水)

授業シーズンをプロ野球にたとえて

今日で今年度春学期の授業期間の第6週を終えた。プロ野球の日程にたとえて言うなら、「第6節」の終了である。明日から「第7節」に入る。

ところで、実は私はプロ野球が大好きなので、授業シーズンも、プロ野球のシーズンにたとえて考えることが多い。そうすると不思議と元気が出てくるからである。

たとえば、今学期の毎週月曜日は、まず名張で2コマ、引き続いて午後には伊勢で2コマなので、これはさしずめ「ダブルヘッダー」である。翌火曜日は、また1時間目に授業があるので、これは「ダブルヘッダーの翌日にデーゲーム」と考えることにしている。明日の関西大学での授業は18:00から2コマだが、これはまさに、「ナイトゲーム」の時間帯だ。

野球のように「対戦相手」があるわけではないので、文字どおりの意味では勝敗がつくわけではないが、1回1回の授業のできばえ、手応えがそれに近い意味を持つ。その「勝敗」は、これまでのところ、「勝ち」が多いと思っているのだが、はたして…?

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2009年5月26日 (火)

多忙さのおかげで出来るようになったこと

授業等で多忙な日々だが、その多忙さのおかげで、前よりもテキパキ、クルクルと身軽に働けるようになった。余計なことを考えずに、無心で働けるようになったからである。

元々の私は沈思黙考型で、物事をじっくりと考えるのは得意中の得意である。しかし、それも度が過ぎると、何も行動できなくなってしまう。
しかし最近の私は、考え過ぎる癖が時には顔を出すこともあるが、以前よりもずいぶん行動派になってきた。授業で忙しくならなければ、こんなふうにはならなかっただろう。その意味で今の生活には感謝している。

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2009年5月25日 (月)

大講義室での授業

今年度の毎週月曜日4講時目は伊勢学舎で政治学入門の授業であるが、今年は受講生が200名を超えている。私語が出やすい状況である。

これを放っておくと、真面目な学生から苦情が出るので、こちらも毅然とした態度で臨むことにした。

他の授業では、真面目な中にも和やかな雰囲気で出来るのだが、大講義室ではやむをえない。実は今日もまもなくその授業である。

普段の私とは少し違うことになるが、これからもこの授業の際には、大いに気合いを入れて臨むつもりなので、受講生諸君もそのつもりをしておいてほしい。

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2009年5月13日 (水)

総合演習(伊勢H21春)次の授業での持参物

平成21年度 伊勢学舎 春学期 総合演習(担当:山中優)受講生の皆さんへ

次の2つのものを、次回(5/27・水Ⅳ~Ⅴ)の授業に持参して下さい。

(1) 環境家計簿
次のウェブサイトにアクセスし、教室で用いる教材として、環境家計簿の用紙をプリントアウトしておいて下さい。

環境家計簿-暮らしのCO2チェック

このサイトより、自分の住む都道府県用の環境家計簿をプリントアウトしておき、次回の授業に持参すること。これを教室での練習用教材として使用します。

(2) 電気・ガス・水道・ガソリン・灯油の使用明細
各自の家庭(下宿あるいは実家)での5月分の使用明細を持参すること。次回の授業で、それを使って環境家計簿をつける練習を行ないます。

以上2点を次の授業に必ず持参して下さい。

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2009年5月 5日 (火)

パワーポイントで授業の心理的負担感を軽減

いつの間にかもう5月5日だが、いま振り返ってみると、先月すなわち新年度が始まってからの1ヶ月は、その最初の1週間が新入生へのガイダンス、その後の3週間はひたすら授業に明け暮れる日々だった。今年度からは、非常勤の授業として関西大学法学部で政治思想史も教えることになり(毎週木曜日2コマ16:20~19:30)、その準備も加わったからである。

今年度の春学期も、その関大での非常勤も入れると、昨年度とほぼ同様のコマ数の授業担当である。すなわち、週平均10コマの授業--隔週で11コマと9コマ--を担当しているので、なかなか忙しい。特に月曜日は、朝7時半に家を出て、まず午前中に2コマの授業を名張で行なった後、すぐに伊勢へ移動してさらに2コマの授業を行ない、帰宅するのは午後8時半頃となるので、非常に慌ただしい。しかも翌日の火曜日には、また1時間目に授業があるので、月曜日は帰宅後もテキパキ行動して、10時までには就寝できるようにしなければならない。

このように今年度も昨年度と同様に--ちなみに昨年度は私の大学人生で最も多忙だった年である--担当授業がかなり多いのだが、授業をこなしていくにあたっての心理的負担感は、実は今年度が最も軽いものであるように思う。その大きな原因は、授業の方法を今年度から完全に切り替え、すべての授業でパワーポイントを使うことにしたからである。

昨年度も実は最初のうちはそうしていたのだが、6月頃からは、やはり従来通り、もっぱら黒板を使った授業に戻っていた。そのやり方にこれまでずっと慣れ親しんできたからである。しかし、今年度の月曜日のように非常に慌ただしい時間割となると、授業中の板書に必要な労力にはとても堪えられないと思ったので、パソコンでパワーポイントのスライドを映しての授業に完全に切り替えることにしたのである。

その場合、たしかに事前の準備には、以前よりもかなり多くの労力が必要となる。しかし、スライドファイルを作ってしまえば、授業本番の間は、心理的に非常に楽なのである。そのことには今さらながら非常に驚いた。事前に作っておいたスライドを順番に映していけばそれでいいし、アニメーションをちょっと工夫すれば、黒板よりも訴求力が格段に向上するので、学生の受けもよい。

そんなわけで、たしかに今年度の授業スケジュールは、特に月曜日のそれは、今まで経験したことのない慌ただしさだったのだが、そのおかげで、授業方式をパワーポイントを使ったものに完全に切り替えることができた。その意味で、今年度の授業スケジュールに感謝している次第である。

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2009年4月 1日 (水)

経済危機で注目を集める古典思想(2)

今日から新年度が始まったが、それに先立って、先月中旬から末日にかけては、年度内に書き終えなければならなかった二つの仕事を抱えていた。一つは昨年10月開催の「皇學館大学社社会福祉学部10周年記念国際シンポジウムの概要と総括」の原稿であり、もう一つは萬田悦生著『文明社会の政治原理:F・A・ハイエクの政治思想』(慶應大学出版会、2008年)の書評である。先月中旬からはその二つの仕事で手一杯だったのだが、その二つの原稿を何とか年度内に書き終えて、無事に新年度の初日を迎えることができたことに安堵している。

さて、昨今の経済情勢のなかでハイエクを含めた古典思想に改めて注目が集まっていることに、本ブログ2月9日の記事で触れておいたが、ハイエク全集刊行元の春秋社編集部によると、この3月にもまた、ハイエクに関する記事が二つ出たという。一つは今年1月に出た『致命的な思い上がり』(ハイエク全集Ⅱ-1)への毎日新聞の書評記事であり、もう一つはハイエク研究者の一人・江頭進教授(小樽商科大学)への日経BP社によるインタビュー記事である(ただし後者を全部読むには無料の会員登録が必要)。

そうした中で、私も最近、ハイエクに関する論稿を依頼されたので執筆した。それが掲載されたのは、実は公明党機関誌『月刊公明』の2009年4月号である(本ブログ3月4日に③として挙げていたのは、実はこの原稿のことであった)。

誤解のないように急いで付け加えておくと、もちろん私は公明党支持者でもなければ、ましてや公明党員でもない。私自身は無党派層、より正確には「新無党派層」(政治的関心は高いものの、あるいはむしろそれゆえに、特定の固定された政党支持のない層)に属する者である。なので、その依頼があったときには大変驚いたのだが、その依頼の主旨は、党派的な議論ではなく、ハイエクの資本主義観と、そこから導出される政策的含意について、学術的に論じてほしい--ということだったので、執筆を引き受けた次第であった(ただし、その拙論のタイトルは編集部によって付けられたものである)。

『月刊公明』誌の著作権に触れるといけないので、ここで詳しくその内容を紹介することは控えねばならないが、そこで論じたことは、要するに、ハイエクが必ずしも資本主義を無条件に礼賛していたわけではなかった、ということである。

これは通俗的なハイエクのイメージとは違うかもしれないが、そうした通俗的なイメージがあるとすれば、やはりそれは誤解であると言わざるを得ないのである。そうした誤解を正し、今後の政治経済のあり方について考え直す上では、昨今の経済情勢の中でハイエクに改めて注目が集まっていることは、大変よいことだと思う。小生が公明党という現実の政党の機関誌編集部から原稿の執筆を依頼されたということは、わが国の現実政治の世界においても、ハイエクが改めて注目されつつあるということなのだろうと思う。

もっとも私自身は、ハイエクを最終的には思想的に克服すべき対象と見ている。そのことを私は、たとえば拙著『ハイエクの政治思想』(勁草書房、2007年)の188-189頁で次のように述べていたが、もちろんその考えは今も変わっていない。

たとえ理性の濫用をもたらした性急な野心は排斥されるべきであったとしても、社会主義がすでに崩壊した現代において、ハイエク的な自由原理が今後とも保持され続けるためには、ハイエク自身の所説よりも積極的な信念、すなわち、「たとえ幾多の失敗を重ねることになるとしても最終的には必ず報われることになる」という信念が、単なる方便以上のものとして説かれなければならないだろう。さもなければ、人々は困難な自由競争に勇気をもって挑み続け、創造力を発揮できるだけの気概を堅持しつづけることができないにちがいない。

とはいえ、それでは一体、ハイエクを超えていかなる自由原理を唱えるべきなのか--そのための思想的営為については、私などよりも、北海道大学の橋本努氏の方が、その力作たる『帝国の条件:自由を育む秩序の原理』(弘文堂、2007年)等において、ずっと先を行った議論を展開している。

ちなみに、この力作については、図書新聞第2830号(2007年7月21日)に小生の書評記事が掲載されており、本ブログ2007年7月23日の記事にも転載しているが、それはともかく、拙著に対して氏がそのウェブサイト上で2007年5月に掲載された書評記事で、小生に対して今後の議論の展開を求められているにもかかわらず、私にはまだそれができていないのを恥ずるのみであるが、少しでも早く氏に追いつけるよう、地道に研究を進めていきたいと思っている。

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2009年3月 4日 (水)

取り急ぎ、近況報告

前回の更新以来、何をしていたかというと--

①卒業研究の口頭試問(2/16~17)&そのための準備

②学友会のリーダーズ研修会(2/18~19)

③ハイエクの資本主義観に関して、最近の日本政治の状況も踏まえつつ、5500字程度で書くことを依頼された小論の執筆--2/17締切。締切の1日前に提出できたが、そこに至るまでに案外時間がかかった。

④2/25には名張市民向けの講義--日本の福祉政治はなぜ行き詰っているのか?というテーマで、宮本太郎『福祉政治』有斐閣の内容紹介という形で講義した。

⑤そして現在は、実は明後日より、中国社会科学院日本研究所の社会文化研究室と皇學館大学社会福祉学部との学術交流に伴う訪中団の一員として、来週月曜日まで北京に行くので、その報告準備…などなどであった。

この訪中時の報告では「(東)アジア福祉モデル」について論じることが要請されているので、一から勉強しなおさなければならなかったが、おかげでよい勉強になった。

ちなみに、この報告レジュメ作成に当たっての参考文献は、以下のとおり:

【参考文献】(報告での引用順)
[新川・井戸・宮本・眞柄 2004]新川敏光・井戸正伸・宮本太郎・眞柄秀子(2004)『比較政治経済学』(有斐閣)

[White & Goodman 1998]Gordon White and Roger Goodman “Welfare Orientalism and the search for an East Asian welfare model”, in R. Goodman, G. White and Huck-ju Kwon (1998) The East Asian Welfare Model: Welfare Orientalism and the State (Routledge)

[澤田 2004]澤田ゆかり「報告――計画経済期のツケ払いと市場化への対応」大沢真理編著(2004)『講座・福祉国家のゆくえ第4巻 アジア諸国の福祉戦略』(ミネルヴァ書房)298-309頁

[宮本 2003]宮本太郎「福祉レジーム論の展開と課題――エスピン・アンデルセンを越えて?――」埋橋孝文編著(2003)『講座・福祉国家のゆくえ第2巻 比較のなかの福祉国家』(ミネルヴァ書房)第1章

[宮本 2008]宮本太郎(2008)『福祉政治――日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣)

報告時間は20分間に過ぎないのだが、密度を濃くするためには、やはり勉強しておかねばならないと思い、ありうる質問にも備えるため、上記以外の文献を、現在も読書中である。

以上の5つの仕事に追われていたため、ハイエク監訳は、またもや、しばらく手つかず状態となってしまったが、前回ここに書いた「出来たことを数えて前進する」という方針は堅持している。その代りに、他の仕事はこなせているからだ。

とはいえ、疲れがたまったときもあり、そのときには休養するしかなかったが、その休養も、「何もできなかった1日だった」と以前までは考えていたのを改めて、「今日は1日ゆっくり休養できたので、明日からはまた元気に仕事ができる」と考えるようにしている。

そんなわけで、休養も挟みつつ、他の仕事は無事にこなせてきたのだが、監訳はずっとずっと以前から抱えている仕事なので、中国から帰ってきたら、またその仕事に立ち戻らなければと思っている。

以上、取り急ぎ、近況報告まで…。

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2009年2月13日 (金)

出来たことを数えて前進する

やらなければいけない色々な仕事がたくさん重なってくると、「これもまだ出来ていない、あれもまだ出来ていない、それもまだ…」と考えてゲンナリすることがある。実際、以前までの私には、そんなことが、これまで度々あった。

しかし最近の私はそれをやめて、逆に、まずは「出来たことを数える」ことにした。具体的に言うと、日記に「今日出来たこと」を書いていくのである。そうすると、次の日をとても明るい気分で迎えることができるようになってきた。そんな毎日が、最近ずっと続いている。

それなら何故、以前の私はそれをしなかったのかというと、「まだ出来ていないことがたくさんあるのに、出来たことを数えて安心すると、能天気になってしまって、前に進む意欲が薄れてしまうのではないか」と心配していたからであった。言い換えれば、「まだ出来ていない」という一種の“危機感”がないと、怠けてしまうのではないか、ということである。

ところが、実際にまず「出来たこと」を日記に書くことを始めてみると、「前進を妨げるような“思い上がり”につながるのではないか…」という心配は全く無用だった。そうではなく、まったく逆に、むしろ「まだ出来ていないこと」も、「これまでに出来てきたこと」と同じように、「きっと出来ていくに違いない」という確信が生まれ、かえって前進する意欲がこんこんと湧いてくるのである。

たしかに、「これからしなければならないこと」は、「これまで出来てきたこと」とは違い、何かしら新しいことなので、今後為すべきことが、以前と完全に同じやり方で実現できるわけではない。新しいことへのチャレンジは、人生を生きていく以上、つねにつきまとう。

しかし、だからといって「まだ出来ていないこと」をあまりに心に強く印象づけてしまうと、「出来ていない」「まだ出来ていない…」という印象ばかりが心を占領してしまい、そうなると、「以前に達成できたはずのこと」までもが、なぜか心の外に追い出されてしまうのである。

たとえて言うなら、「すでに出来たこと」を白とし、「まだ出来ていないこと」を黒とすると、「まだ出来ていないこと」(=黒)をあまりに心に強く印象づけてしまうと、いつのまにか、その黒色で心が全部占められてしまい、同時にあるはずの心の白色=「すでに出来たこと」までもが、意識の外へ消えていってしまう。要するに心が「暗く」なってしまうのである。

このたとえで言うなら、心のなかには「黒」と「白」が同時に併存していてもよさそうなものである。にもかかわらず、なぜか心は「黒」一色に染められてしまう。「黒」と「白」という相反するものを同時に心で認めることは、心理的に言って、非常に難しい。そこで、いつのまにか、黒一色で心を染め上げてしまうのである。

ところが、全く逆に、心のなかの「白」=「すでに出来たこと」をまず認めることにすると、不思議なことに、その「白色」が、今度は、それまで「黒色」と感じられた領域の方にも染み出していって、「まだ出来ていない」とばかり思っていた思い=黒色だったはずのものが、いつのまにか「いずれ出来ていくこと」という、いわば「ほんのりとした白色」に変わってしまい、心は白色ばかりになってしまうのである。

より正確に言うと、その白色は、完全な白色(=すでに出来たこと)と、ほんのりとした白色(=これから出来ていくこと)とがあって、その二つの白色がグラデーションになっている感じである。

こう言うと何か非常に複雑な感じがするが、とどのつまりは、要するに、心が「明るく」なるのである。さっきとは逆に、心が今度は白一色に染め上がることになる。白と同時に黒も存在すると認めることが、心理的には、なぜか気持ち悪い。心理的には、むしろ、どうしても、どちらか一方にしたくなるのである。だとするならば、同じ一色に染めるのなら、白い方に、明るい方に染め上げた方が、元気が出るというものではないだろうか。

そんなわけで、最近の私は、「出来たことを数えて前進する」ようになった。心の健康に非常に効果的なので、やってみる価値は大いにあると思う。

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