2014年2月11日 (火)

TOEIC905点でした

先月受験した第187回TOEIC公開テストの結果が今日届いた。その公式認定証によると、そのスコアは次のとおりであった:

リスニング(Listening) 465/495

リーディング(Reading)440/495

トータル(Total Score) 905/990

受験に当たっての目標は「最低でも800点突破、あわよくば900点越え」だったので、その目標が達成できたことは大変嬉しいことであった。

本ブログに前回も書いたように、「リスニングで思った以上の手応えがあった一方で、リーディングは思っていたよりも苦労した」というのが受験直後の感触だったが、実際の結果もその通りだった。とはいえ、受験者全体(今回は100,166人)の平均点でもリスニングがリーディングを上回っていたそうなので(リスニング315.0、リーディング256.7)、リスニングとリーディングの比較という点では、私の結果もその全体的な傾向に沿ったものだったと言えるのかもしれない。

この公式認定証ではいくつかの指標が用いられているが、その中で私が初めて目にしたのは、''Percentile rank''(パーセンタイル ランク)というものだった。それは「あなたのスコアをある母集団の中においた場合に、あなたのスコアに満たない受験者が何%いるかを示している」ものらしい。

そのパーセンタイルランクが、私の場合は「リスニング93、リーディング96」とのことだった。リーディングの方が点数が低かったにもかかわらず、パーセンタイルランクはリーディングの方が高かった。その点からしても、TOEICはリーディングの方が難しいと言えそうである。

そのパーセンタイルランクでの母集団は、今回の日本における受験者総数100,106人のことかと最初は思った。ところが、実はそうではないらしい。というのも、その説明の続きには、「今回の母集団は、2010年1月から2012年12月に世界中で実施したTOEIC公開テストの全受験者です」と書かれていたからだ。その母集団におけるパーセンタイルランクが上記の通りだったことは、素直に喜んでよいのかもしれない。

しかし、私自身は完全には満足していない。まだまだ改善の余地があるからだ。公式認定証に同封されていた「レベル別評価の一覧表(Score Descriptor Table)」には、私のレベルにおける弱点として、次のように書かれていた:

リスニング セクション 495〜375

一般的に、このレベルのスコアを取得する受験者には、解答する際に、あまり使用されない文法や語彙が出てくるときにのみ、弱点が認められます。


リーディング セクション 495〜425

一般的に、このレベルのスコアを取得する受験者には、解答する際に、多くの考えや複雑な考えが、少ない単語もしくは複雑な方法で表現されている場合、または難解な語彙が出てくる場合にのみ、弱点が見られます。

ここに指摘されているような弱点が私にも見られることは言うまでもない。つまり、今後もさらに練習を積んでいけば、さらに伸びていけるはずなのである。それを信じて、これからも明るく楽しく練習を続けていきたいと思う。

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2014年1月12日 (日)

TOEICを受験

今日、第187回TOEIC (R) 公開テストを受験してきた。今日の私は「受験生」だったというわけである。このような「受験生」としての経験をしたのは、大学を一浪受験した1988年(昭和63年)1月〜2月の時以来だから、実に26年ぶりのことである。

アルクの通信講座「1000時間ヒアリングマラソン」を2013年5月号から開始していたことは、本ブログ2013年5月31日の記事ですでに報告していたが、その後、それと並行して、同じアルクの通信講座の「TOEIC (R) テスト 800点攻略プログラム」も2013年10月から受講し始めていた。何か具体的な目標があった方が、学習を続けるよい動機付けになると考えたからである。

ご存知の方もおられるだろうが、ここでTOEICテストの問題構成を確認しておこう。それは以下のとおりである:

Listening Section リスニングセクション(45分間)100問
パート1 Photographs 写真描写問題 10問
パート2 Question-Response 応答問題 30問
パート3 Short Conversations 会話問題 30問
パート4 Short Talks 説明文問題 30問

Reading Section リーディングセクション(75分間)100問
パート5 Incomplete Sentences 短文穴埋め問題 40問
パート6 Text Completion 長文穴埋め 12問
パート7 Reading Comprehension 読解問題
・Single passage 1つの文書 28問
・Double passage 2つの文書 20問

さて、今日の受験であるが、意外な点が二つあった。一つは良い意味で、もう一つは悪い意味である。

良い意味での意外な点は、リスニングセクションで、かなりの手応えがあったことである。リスニング力に大きな自信はなかったので、ヒアリングマラソンやTOEIC800の通信講座でかなり練習を積んだ。そのおかげだったのか、「全く歯が立たない」というリスニング問題は一つもなかった。

リスニングの計100問のうち、少しだけ聞き取りにくいと感じたのは、多く見積もっても7〜8問ぐらいだったように思う。そのうちの半分強は集中していても聞き取りにくかったものだが、残りの半分弱は、少し集中力が途切れていたために聞き逃したものだ。いずれにしても、思った以上に手応えがあったのは嬉しいことだった。

それに対して、悪い意味で意外だったのは、リーディングセクションで、最後の5〜6問(あるいは6〜7問だったか?)が時間切れで未解答のまま終わってしまったことである。「リーディングは大丈夫だろう」と高を括っていたので、これは少々悔しい結果であった。

そのように高を括っていたのは、英文の学術書や学術論文を数多く読んできた経験が自分にはあったからである。読むことは大好きだし、得意でもある(と思っていた)ので、大丈夫だろうと考えていた。

しかし、考えてみると、これまで自分が積んできた訓練は、時間をたっぷりかけて行う「熟読・精読」の方であった。ところが、TOEICで必要なのは、時間が限られている中での「速読・多読」である。その後者の方の訓練が、私には不足していたのである。

そういえば、TOEIC800の通信講座の最初に受験したプライマリーテストでも、最後の5問が時間切れで未解答に終わっていたのだった。にもかかわらず、「リーディングは大丈夫だろう」と思っていたのは、かなり甘い見込みだったと言わざるを得ない。リスニング力の向上の方にあまりに多くの気を取られていて、多読・速読力アップはおろそかになっていた。そのことが、今回の大きな反省点である。

上述のプライマリーテスト(2013年10月16日・自宅受験)では、200問中170問の正解で、990点満点中820点の成績だった。今回のTOEIC (R) 公開テストでは、そのプライマリーテストの時よりも、リスニングセクションの手応えが大きく、リーディングセクションでの手応えは同等か少しだけ小さいかぐらいだった。しかし、もちろんその手応えは、あくまでも主観的なものにすぎない。果たして、客観的な点数はどのくらいなのだろうか…? そのテスト結果の通知は30日以内に行われるとのことである。

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2013年12月 8日 (日)

転身について

前回の記事以来、かなりの月日が経ってしまっていたが、今日は重要な報告があり、半年ぶりに本ブログを更新することにした。

その重要な報告というのは、私の転身についてである。

平成10年度より現在に至るまでの16年間、皇學館大学に所属してきたが、その皇學館大学を今年度末(すなわち平成26年3月31日)を以て退職し、宗教法人「生長の家」の国際本部というところへ移籍することになった。地球環境問題の解決に貢献するための決断である。

このことは、数か月前にすでに正式決定していたことだが、もうそろそろ本欄でも公表してよい頃だと考え、ここにご報告する次第である。

私の研究関心が「市場をめぐる政治・経済思想」にあることは、本ブログの読者ならご存知だろう。すなわち、市場の必要性は認めつつ、市場が人間および自然環境に対して暴力的な作用を及ぼすことがあるという問題を思想的に探求していきたいという研究関心である。

これまでの私の研究業績は、もっぱら「市場と人間」の関係について考察したものであった。しかし、本ブログでは、地球環境問題のことについても折に触れて文章を書いてきた。そのことは読者の方々もご記憶かもしれない。

特にここ数年は、異常気象の兆しが全地球的にますます深刻となりつつある。そのような昨今の状況を見るにつけ、「市場と自然環境」の問題を本格的に探求するとともに、地球環境問題の解決に少しでも実際に貢献していきたい、という思いを心ひそかに強めていたのである。

実を言うと、私は祖父の代から生長の家を信仰している家に生まれた。そして、母を通じて生長の家を伝えられ、24歳の頃からその信仰を糧に人生を生きるようになっていた(ちなみに、私の妻との結婚も、その生長の家の信仰を縁としたものである)。

その生長の家では現在、全教団を挙げて地球環境問題に取り組んでおり、その運動を国際的に展開している。また、2011年に設立された「宗教・研究者エコイニシアティブ」(Religious and Scholarly Eco-Initiative)にも参画し、環境問題に関心のある宗教家や研究者とともに、現在の環境危機を克服するための活動を展開している。

その生長の家の国際本部はこれまで東京・原宿にあったが、八ヶ岳南麓の山梨県・北杜市に“森の中のオフィス”を建設し、今年の10月より本部機能をそちらに移して、自然と共生する新たな文明の構築を目指す運動を展開している。その“森の中のオフィス”が来年4月からの私の職場である。したがって、私たち夫婦と一人娘(10歳)の家族三人で、山梨県・北杜市へと転居することになる。

昭和44年2月生まれの私は、来年の2月で45歳になる。ちょうど人生の半分ぐらいだろう。残りの後半生を、生長の家の信仰に基づいた地球環境問題の解決に捧げる決意である。

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2013年6月 2日 (日)

映画ゼロ・ダーク・サーティを観る

今日、伊勢市内の進富座(しんとみざ)という映画館で、ゼロ・ダーク・サーティというアメリカ映画を観た。米国によるビンラディン殺害の実話に基づいて作られたもので、「ゼロ・ダーク・サーティ」とは、ビンラディン(暗号名:ジェロニモ)殺害に至った作戦の決行時間、深夜0:30を指す軍事用語である。

ビンラディン発見につながる重要情報を吐かせるため、捕虜に対して拷問を加えるシーンからこの映画は始まるが、その拷問シーンは、今ちょうど読み始めた本の第1章でもまさに取り上げられていたものだったので、そのシーンはリアリティを大いに感じさせるものだった。ちなみに、ちょうど読み始めた本というのは、ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン:惨状便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店、2011年)である。

ビンラディンを追い詰めたのは、C.I.A.の若き女性エリート情報分析官だったのだという。彼女の非常に高い情報分析能力と、狂気と紙一重の執念とによって、アメリカは遂にビンラディン殺害を成功させる。それは、たしかに一方で、「殺す者は殺される」という人生上の法則とでもいうべきものの実証例なのだろうと思う。

しかし他方で、パキスタンに潜んでいたビンラディンを殺したからといって、パキスタンに不法侵入して、裁判にもかけずに9.11の首謀者を成功裡に射殺できたからといって、それじゃあ、テロ問題は解決したかと言えば、それは間違いなく「否!」と言わざるを得ないだろう。

先のボストンマラソン爆弾テロ事件が示しているように、いま問題になっているのは、米国内でのhome-grown terroristsの存在である。テロリストを、裁判を受ける権利を持った人間とみなさず、ただちに殺害してもよい「敵性戦闘員」とみなしてその根絶を図ったところで、そこで展開するのは、「憎しみは憎しみを呼ぶ」という悪循環だけだろうと思うのである。

この映画は、アメリカの対テロ対策にまつわるそのような問題点を鋭く突くものであることは間違いないと思う。もしも、ビンラディン殺害を手放しで賞賛することを狙ったものであれば、あのような意味深長なラストシーンにするはずがないからである(これから観ようと思われている読者のために、それがどのようなシーンだったかはここには書かないことにする)。

ビンラディンを有無を言わさず、半ば独善的に殺すのもアメリカなら、その問題点を鋭く抉る映画を作るのもアメリカである。そこに、アメリカという国の懐の深さがあるように思った次第である。

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2013年5月31日 (金)

1000時間ヒアリングマラソンを始めました

先月の4月10日から、アルクの1000時間ヒアリングマラソンを受講している。聞く力をもっと上げたいと思ったからだ。

コースガイドに「レベル別おすすめ学習プラン」が載っていて、初級・中級・上級それぞれのレベルの目安が書かれていた。そのうち、中級と上級の目安は次のとおり:

中級 ところどころ内容を聞き取れる。 TOEIC 500点〜600点前後。英検準2級から2級程度。 簡単な日常会話の場面では、意思の疎通が図れる。

上級
何を聞いても概要をつかめる。
TOEIC 730点以上。英検準1級から1級程度。
ネイティブスピーカーと、日常会話を超えて交渉や討論ができる。


この目安を見て少し迷ったが、結局、中級レベルから始めることにした。「何を聞いても概要をつかめる」と言い切れる自信はなかったからだ。

毎月の学習期間は10日から翌月9日までで、必須のマンスリーテストの提出期限は9日である。また、自主的な課題として、ディクテーション・コンテストの応募締切が25日に設定されている。

そのディクテーション・コンテストには、すでに2回挑戦した。1分間ほどの英語を聞いて書き取りに挑戦するコーナーだ。2回とも数カ所、間違っている箇所があったが、大体は合っていた。滑り出しとしては、まぁよしといったところかなと思っている。

前回、最初に受けたマンスリーテストの結果は、26問中21問正解で、得点は79/100、評価はA-(総じて優秀である)だった。A-の得点区分は94〜77点だから、要するにA-ギリギリといったところだ。

二回目のマンスリーテストも、実は今日、すでに答えを提出した。6月9日が締切だが、仕事の関係上、今のうちに出しておいた方がいいと思ったからだ。その結果は6月10日に分かるのだが、はたして…?

そのマンスリーテストの前に今日学習したコーナーで、聞き取れずに驚いた単語がある。それは、levelである。「今月の本音トーク:外国人から見た日本」というテーマで、3人のスピーカーが会話をしているのだが、そのうちの一人、アメリカ人のRyan LaRosaという名前の男性が、the level of service is amazing and it still surprises me.と話していた。そのなかの level of...の部分がよく聞き取れなくて、「liberal service? 何じゃそりゃ?」と思ってしまったのだ。

ネイティブスピーカーは、levelを「レベル」とは発音しない。辞書で確かめてみると、発音記号は [levl]だった。目でみると簡単な単語なのに、耳で聞くと聞き取れないーーこういうことは時々あるものだが、このlevelもその一つだったことには、本当にビックリだった。

コースガイドの「レベル別おすすめ学習プラン」で、中級者へのアドバイスとして書かれていたのは、次の言葉である:

「中級」というレベルは、努力の割に力の伸びが見えにくく、横ばい状態が続くように感じられます(「学習の高原現象」)。大切なのはここで「毎日3時間英語に接する」というラインを崩さないことです。そうすれば、蓄積された力がスーッと一段高くなって現れる時期が訪れます。学習時間の記録を付け、「着実に前進している」自分を数値で感じながら、「高原現象」を乗り切ってください。

毎日3時間×365日で1000時間を目指すのがこの講座の趣旨だが、この春学期は授業がたくさんあって、正直、1日1時間から1時間半ぐらいが今は精一杯だ。1時間を切ることもある。だが、上達を焦らず、毎日英語に触れること自体を楽しんで、これからも続けていきたいと思っている。

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2013年1月18日 (金)

関大最終講義「“権力の病理学”に代わるものを求めて」

今日は、私の関西大学での最終講義を行った。今年度最後というのではなく、非常勤講師として関大で授業するのが最後という意味である。本務校の皇學館大学での仕事が非常に多用になったので、非常勤の仕事は今年度限りとすることにしたのである。

その最終講義では、「“権力の病理学”に代わるものを求めて」と題して講義を行った。その概要は以下の通りである。

政治思想史として教えられることになっている内容は、実は、大体において、“権力の病理学” (the pathology of power)とでも言うべきものである。というのも、それは人類史における危機的で異常な場面に焦点を当てたものであることが多いからだ。

しかしながら、現代アメリカの文明評論家ジェレミー・リフキンに言わせれば、もしもそれが人類史のほとんどを占める本質であったとすれば、種としての人類は、もうずっと以前に滅んでしまっていたことだろう。ところが、リフキンによれば、実は人間は “共感スル人 Homo Empathicus” なのであり、他者の立場に自分を置いて、感情を共有することができるのである。リフキンはそのことを、心理学や脳科学等における最新の研究成果を豊富に挙げつつ、縦横無尽に論じている。そして、リフキンは現代のわれわれに“感情共有文明”(The Empathic Civilization)の構築を訴える。しかも、その感情共有の範囲を、人類にのみとどめることなく、自然界にまで及ぼすべきことを説くのである。というのも、地球環境問題の根本的解決の道はそこにしかないからである。このリフキンの議論は、最近のグリーン・リベラリズム(green liberalism)の目指す方向性とも一致していると私には思われる。

こうした議論を今の日本政治にあてはめるならば、これまでの日本政治を蝕んできた「分断の政治」を超えるためにこそ、感情共有文明の構築が不可欠だという結論が出せるだろう。生活保障問題にせよ、TPP問題にせよ、現代の日本では、高生産性部門と低生産性部門との間で深刻な亀裂が走っている。TPP問題ひとつとってみても、再び政権の座についた自民党の中で推進派と反対派が混在しており、その両派の間で対立の火種はくすぶり続けている。それがいつ火を噴いても、決しておかしくはない状況だ。今夏の参院選の時期が近づくにつれて、両者の間での緊張は高まる一方であろう。“アベノミクス”に、それを解消・昇華させる知恵が果たしてあるのかどうかーーそこに現政権の試金石の一つが存在していると思われるのである。

さて、関大での非常勤が今年度限りであることは、先週の授業で、受講生諸君に公表した。その授業のあと「授業評価アンケート」を行ったが、その自由記述形式の用紙には、「熱意がたくさん伝わってくる授業だったので、毎週楽しみにしていました」とか、あるいは「先生の授業を受けることができなくなると思うと寂しいです。ありがとうございます」というように、これが最後であることを惜しむ声が少なくなかったことは、大変有難かった。この場を借りて、授業を熱心に受けてくれた受講生諸君に、心からの感謝の念を表します。

【参考文献】
Rifkin, Jeremy (2009) The Empathic Civilization (Penguin Books)
鷲田豊明(2006)「グリーン・リベラリズム」環境経済・政策学会編『環境経済・政策学の基礎知識』(有斐閣)94〜95頁。
宮本太郎(2008)『福祉政治 日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣)
中野剛志(2011)『TPP亡国論』(集英社新書)

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2012年11月15日 (木)

アダム・スミスを改めて勉強中

前回の更新から、もう数ヶ月も経ってしまったが、その間、何をしていたかというと、春学期末の試験の採点と、論文執筆(およびそのための読書)である。

その論文執筆であるが、今年から来年の夏にかけて、実は5本もの論文を書く仕事をもらっている。なので、なかなか大変だが、前向きに取り組もうとしているところだ。

夏休み中に、9月が初稿提出期限だった論文が2本あったので、何とか、その期限に合わせて提出したが、2本とも修正の必要が出てきたので、最終稿の期限(11月末と1月中旬)に向けて、ただいま奮闘中である。

さて、その修正の必要に合わせて、今はアダム・スミスを勉強し直している。スミスの『国富論』と『道徳感情論』は、もう20年ほども前の大学院生時代に読んだことがあったが、その記憶にだけ頼っているわけにもいかなくなったので、いま大急ぎで勉強し直しているところだ。

いま読んでいるのは、田中秀夫『原点探訪 アダム・スミスの足跡』(法律文化社、2002年)である。まずは、その第10章3「わが国のスミス研究」を先回りして読んだのだが、それによると、スミスの思想はある一つの思想的伝統(たとえばカルヴィニズム神学など)に単純に還元し切ることはできない。その社会思想には、キリスト教の伝統のほか、ストア哲学、共和主義、自然法などが密接な関係を持っていることが、近年の研究を通して明らかになってきた。そして、いま求められているのは、こうした個々の成果を踏まえて、スミス研究を総合する大きな構想をもった試みなのだという(同書164頁)。

裏を返せば、これまで我が国でもスミス研究の長い積み重ねがあるにもかかわらず、まだそういう総合的な研究が出ていない(!)ということである。それほど、スミスの社会思想は奥が深いということなのだろう。

だとすれば、スミスの描いた市場概念を古代・中世・近代以降という三つの時代区分のうち、どの時代の現実の市場に近いものと考えるかは、なかなか難しい問題だということになりそうである。

スミス自身は紛れもなく近代の人間であるが、たとえば共和主義やストア哲学は、紛れもなく古典古代に由来する思想伝統である。また、スミスのうちに見られる経済的個人主義の要素は、おそらく中世ヨーロッパの遠隔地市場で活動していた遍歴商人に由来するものかもしれない。さらには、スミスの市場概念には近代的な要素も当然入っているものの、それは、絶対王政下の重商主義によって人為的に創出された国内市場(国民市場)と完全に重なるものではないだろう。

なかなかに難しい問題であるが、現在、その答えを求めて奮闘している次第である。

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2012年6月28日 (木)

公務員講座(行政法)を受けて考えたこと(2)

前回も言及した村松岐夫『日本の行政』〈中公新書1179〉(中央公論新社、1994年)によると、日本の行政システムは「最大動員システム」と呼べるものであった。それは、目的を達成するために、行政が利用できる公務員数、予算、法的権限等(これらを総称してリソースと呼ぶ)を最大限に利用しようとするシステムを意味するが、その際の「目的」とは、言うまでもなく、近代化という国家目標だった。

私なりに言い換えれば、要するに「欧米に追いつけ、追い越せ」という国家目標である。戦前日本においては「富国強兵」だったし、戦後日本では「富国」あるいは「経済成長」であった(特に池田勇人内閣以降の日本)。

同書に話を戻すと、そうした行政システムにおいては、最大動員のためには組織成員個人の事情をかまわない。権限の割り振り方、作業場に関して、大体でよいから早く大量にやりやすい方式が大原則になる。分業的な規則はそれほど問題とされない。規則を犠牲にしても目的実現の最大化に関心が向けられたのである。

同書によると、これと対照的なのが規則による管理である。ここにおいて組織のトップは目的にではなく、規則に従う。トップの恣意性の危険性は少ないし、組織内規則は組織外の行政規則にリンクしており、司法的監視体制の下に置かれる。その代わり、責任のためにしばしば目標が達成されなくても仕方ないという覚悟がある。

それに対して、最大動員システムにおいては、個人責任を明らかにすることを犠牲にしてでも、目標の達成を第一と考えるのである。すなわち、最大動員とは、「規則による責任志向の管理」に対する「目標による能率志向の管理」なのであった。

同書の「まえがき」では、以上のように日本の行政システムの特徴を述べたあと、次のように述べている。

このシステムが大きな功績を挙げたことは否定できない。だから評価され、今後も維持されるべき多くの長所を持つ。しかしシステムとしては、しだいに有為の青年の自主性を引き出すよりもその時間を奪い、不透明をもたらしそれゆえ国民に不安を与え始めた。

こうした不透明性を解消し、行政手続の透明性を確保すべく制定されたのが、行政手続法に他ならなかった。この法律の制定は、「目標による能率志向の管理」から「規則による責任志向の管理」への移行という非常に大きな転換期に日本の行政システムが置かれていることを示すものなのである。

こうした大きな背景を知った上で、行政手続法の勉強を進めて行けば、公務員試験勉強への興味が増すのではないかと思う。公務員志望の学生諸君に、この『日本の行政』の一読を強くお勧めする次第である。

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2012年6月21日 (木)

公務員講座(行政法)を受けて考えたこと

皇學館大学・公務員試験対策講座の経済学は毎週火曜日だが、毎週木曜日は行政法である。今日もその行政法講座を志望学生たちと一緒に受けてきた。経済学とは違って、行政法は大学生時代に授業を受けて単位も取っているので、その学生時代に戻ったつもりで、懐かしい気分にも浸りつつ、毎週受講している。

さて、その学生時代に受けた行政法の授業では全く習わなかった項目が、今日の公務員講座では出てきた。それは、行政手続法のことである。

この行政手続法が制定されたのは平成5年(1993年)のことだったという。私が大学の学部を卒業したのは平成4年3月のことだったから、それを私が学部生時代に習わなかったのは当然である。

その行政手続法の条文の逐次解説を今日の講座で聞いている時に、思わず心の中で笑ってしまうことがあった(いや、今思い返すと、声を出して笑っていたかもしれない)。というのも、至極当たり前だと思われることが、何とも仰々しく明文化されていたからである。

その一例を挙げてみよう。たとえば同法第7条には、「行政庁は、申請がその事務所に到達したときは遅滞なく当該申請の審査を開始しなければなら」ないーーと定められている。すなわち、たとえば飲食店の営業許可申請が行われた時には、行政庁は速やかに審査を開始せよーーとわざわざ規定しているわけである。

このような至極当たり前と思われることが同法にわざわざ謳ってあるということは、その制定前には、申請がすぐに審査されるとは限らなかったということだ。実際、講座担当の先生によると、その申請書類が役所の机の上に、封も切られないまま、一ヶ月以上も放ったらかしにされていることも決して珍しくなかったというのである。

そのような弊害を是正するため、至極当たり前と思われる公正な手続をわざわざ規定したのが、行政手続法という法律である。そのことだけを捉えてみれば、「それまでの日本の行政は一体何をしていたんだ…」と半ばバカらしくなってしまうかもしれない。

しかしながら、この行政手続法が新しく制定されたということの背後には、実は、日本の行政にまつわる非常に重大な事実が横たわっていた。そのことが分かるのは、日本における行政学の第一人者である村松岐夫氏の著書『日本の行政』(中公新書、1994年)を読むことによってである。(続く)

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2012年6月 5日 (火)

公務員試験のミクロ経済学について思ったこと

私の勤務する皇學館大学では、大原専門学校による公務員試験対策講座を放課後に受けることができるので、この五月より、私も公務員志望の学生と一緒に、その授業を受けている。その理由は、試験勉強に取り組む学生たちと苦楽を共にしようと考えたからである。

その学生たちの苦労がよくわかるのは、例えば、ミクロ経済学に出てくる計算問題を解けと言われた時である。そこでは、完全競争市場における消費者/生産者の効用最大化/利潤最大化条件を求めるために、偏微分を使って計算するーーといったような作業が求められるのだが、これが結構ややこしくて、手間がかかるのだ。

こうした計算問題を、公務員試験の一次試験(択一式)で出題するのは、一体何故なのだろう?ーー私が思うに、それはおそらく、型の決まった日常業務を忠実にこなす意欲と能力が受験者にあるかどうかを判定するためだと思う。

新しい問題発見・解決にむけた意欲と能力については、それとは別の試験、例えば論文試験とか面接での集団討論などで見定めるのだろう。その前に、まず一次試験では、定型的で、必ずしもエキサイティングではなく、それでいて結構複雑な日常業務を着実にこなせるかどうかーーその資質の有無を問うていると思われるのである。

他方、大学教員として私が養成すべきなのは、何か新しい問題を発見し、その原因を探り、その解決ができる能力であり、そして、そのための旺盛な意欲である。もしも私が現在のように公務員試験対策講座を受けていなかったとしたら、このことにのみ専念していたことだろう。

だとしたら、公務員試験の択一式で、完全競争市場に関わる出題がされているのを見て、「ナンセンス……!」と一蹴してしまっていたかもしれない。というのも、私の専門はハイエクの政治・経済思想であり、そのハイエクは、完全競争市場などという極めて非現実的な想定を行うことを厳しく批判していたからである。ハイエクに言わせれば、完全競争市場という概念は自由市場を擁護すべき根拠を却って掘り崩してしまうことになる。彼はそのことを、社会主義経済計算論争で雄弁に主張していたのである。

しかし、そんな専門的な知識を公務員志望の学生たちに頭ごなしに説いたとしても、あまり意味を為さないだろう。というのも、その学生たちは学者になろうとしているわけでは決してないからである。

もっとも、定型的な仕事だけしかこなせない、あるいはこなそうとしないとすれば、それはまた別の意味で問題だろう。だからこそ、他方で私のような大学教員の出番があるのだ。

しかし、その大学独自の仕事にだけ専念していたのでは、一次試験の勉強に苦労している学生たちの気持ちは、全く分かってやれなかったに違いない。そんなわけで、私は今、公務員志望の学生たちと一緒に、ミクロ経済学を受講している。

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