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2005年5月31日 (火)

再開の辞

5/18以来、ずいぶんと日があいてしまった。治ったと思っていた風邪が、そうではなく、ぶり返してきて、5/23~27まで、授業をずっと休講する破目になってしまったのである。熱に咳、それに下痢といった症状が入れ替わり立ちかわりやってきて往生したものである。

歯がゆい思いをしたが、もうそうなったらシッカリと休んで完全に治すほかないので、自宅でずっと静養していた。

実をいうと、去る4/12に父が交通事故で急逝した。先週の風邪は、それ以来たまってきた心労がドカッと出たものだったように思う。

実をいうと、この研究日記を始めたのは、自分をその悲しみから立ち上がらせ、自分を活性化させたい、という思いからだった。そういう意味では、ちょっと力みもあったかもしれない。

5/29はその四十九日の法要だった。四十九日を終え、心身ともに一区切りをつけることはできたように思う。

心の傷が完全に癒されたわけではないが、時間とともにそれも癒されていくだろう。

ともあれ、体調も回復したことだし、この研究日記も、当初のようなハイペースではなくなるかもしれないが、これからも気楽に続けていきたいと思う。時事問題をハイエク的観点から考えるにも、このブログがその格好の試行の場になってくれるからだ。

5/18に『途上国のグローバリゼーション』のさわりを書いて以来、中座してしまっていた。この問題は大問題なので、「次回以降、続きを書きます」と言ってしまったが、ちょっと後回しにさせていただいて、また別のトピックで、気の赴くまま、気軽に続けていきたいと思う。

そのようなわけですので、皆様、これからもどうぞよろしくお願い致します。

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2005年5月18日 (水)

『途上国のグローバリゼーション』

先週の木曜日からちょっとカゼをひいていたので、しばらく間があいてしまった。それからも休講することなく何とか授業ができたことは幸いだったが、授業だけで手一杯だった。ようやく本調子に戻ってきたので、研究日記を再開することにしよう。

さて、ここしばらくは、研究日記をつけたり、博士論文の続きを書くことはできなかったが、大学の行き帰りに本を読むことはできた。最近読み始めたのは、大野健一氏の『途上国のグローバリゼーション』(東洋経済新報社、2000年)である。

この本と出会ったのは、実はフトしたことだった。迂闊にも、この本のことを私は知らなかったのだが、今月の初めにフト立ち寄った本屋さん(啓文堂書店)で何気なく本を眺めていたら、この本が目に飛び込んできたのである。手に取ってみると、私にとって非常に重要な本だということがわかったので、早速購入したというわけである。

この著者・大野健一氏には、この本の姉妹編に当たる前著『市場移行戦略』(有斐閣、1996年)というのもあるということを知った。幸い、勤務先の大学図書館に所蔵されていたので、これも早速借り出して、こちらから先に読み始めた。そしてそれを読み終えたので、今は、『途上国のグローバリゼーション』の方を読み進めている最中である。

大変興味深かったのは、この著者がかつてIMFエコノミストとして働いていたにもかかわらず、帰国して日本で教鞭をとるようになってから、わが国の開発経済学に触れることによって、氏の言葉によると「新鮮で強烈な知的体験」を得、新古典派パラダイム(のもっとも単純なタイプ)にのっとった性急な「市場移行戦略」を批判する立場に転向し、それとは異なった新たな「市場移行戦略」を構築しようとしていることである。

IMF
や世銀などの国際機関の主導する市場化戦略が新古典派パラダイムにもとづいた性急なものであることについては知っているつもりだったし、以前に私の読んだ本としては、例のスティグリッツのIMF批判(邦訳『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、2002年)や、また、よりスケールの大きなものとしては、もちろん私の師・木村雅昭・京都大学教授の大著『「大転換」の歴史社会学-経済・国家・文明システム-』(ミネルヴァ書房、2002年)があったのであるが、今回、大野健一氏の著書に出会うことによって、改めて、昨今の市場原理導入の試みがいかに当該諸国の歴史を無視したきわめて性急なものであるかということを知ることができたことは、しかも実際にIMFで働いていた人物からの声として聞くことができたことは、たいへん大きな収穫であった。

さて、ここで私にとって大問題となるのが、昨今の新古典派パラダイムによる市場移行戦略とハイエクの議論との関係である。

J
・グレイは、ハイエクをもこの新古典派パラダイムによる市場移行戦略そのものの中に入れて、辛辣に批判していたのであるが(邦訳『グローバリズムという妄想』日本経済新聞社、1999年)、はたして本当に、ハイエクをそのように解釈してよいのだろうか? それはむしろ、ハイエクを単純に理解したものであって、われわれはもっと丹念にハイエクを読み、そのメッセージを正しく受け取るべきなのではなかろうか? そのように私には思われて仕方がないのである。

それでは一体お前はハイエクをどう解釈するのか――ということが当然問われることになるだろう。詳しくは今執筆中の博士論文に譲るほかないが、昨今の驚異的なグローバル化とそれがもたらしているきわめて不安定な国際情勢との関連でハイエクの議論をどう受け止めるべきか――ということについては、荒削りになるかもしれないが、次回以降、この『研究日記』で書き綴ってみたいと思う。

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2005年5月10日 (火)

自然体で書くということ

この研究日記をつけ始めて、私の中でちょっとした変化が起きはじめた。それは、いわば“自然体で”文章を書けるようになってきた――ということだ。

これまで私は、文章を書くにあたっては、いま思うと、かなり「構えていた」ように思う。要するに意気込みすぎていたのだ。「力んでいた」と言ってもいい。

それが災いして、現在執筆中の博士論文も、正直言うと、なかなか筆が進まなかった(あるいは「キーボード打ち」が進まなかったと言うべきか?)

ところが、この『研究日記』で文章を書くときには、気楽に書いている。そうすると不思議にも、スラスラスラッ――と書けていくのだ。

とはいえ、もちろん、ブログ上に公開するのであるから、推敲はする。公開するのは、ワープロソフトのWordで下書きをし、何度か読み直して、「これでよし!」と思ってからのことだ。

しかしながら、その下書きの文章を書く手が、格段にスムーズになったのである。ほどよい気楽さが、かえって幸いしたのだろうと思う。

書き始める前から、書こうとする内容について、あれこれと細部にわたって完璧に構想が立ってから書くのではない。もちろん、アウトラインとしては構想を立てているが、いざ書き始めるときには、書こうとする内容が、“漠然と”思い浮かんでいるだけだ。

ところが、書き進めていくうちに、不思議や不思議、書きたいことが芋づる式に、スルスル、ズルズルと出てくるのである。

そうしてひととおり書いてしまった後で読み直してみると、もちろん修正・加筆を要する箇所も出てくる。しかし全体としては、意外にも、結構ちゃんと書けているのである…!

この体験が何よりもありがたいのは、これが博士論文の執筆にも大いにプラスに働きつつあることだ。最初から変に取り越し苦労することなく、「とにかく書き始めてみよう!」と、ほどよく気楽な気持ちで、キーボードに向かうことができるようになってきたのである。

これは本当に、思わぬ収穫であった。この調子で、この『研究日記』も、それからもちろん博士論文も、勇気を持って、大いに喜んで書き進めていこうと思う。

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2005年5月 9日 (月)

石油問題を考える(6・完)-ハイエクの現代的解釈の試み

前々回に引用したものだが、結論を述べるにあたり、ハイエクの次の文章をもう一度引用させていただきたい:

現代の複雑な文明は、個人の多様な活動の上にこそ成り立っているのだが、そこでの個人は、自分には理解できない原因や性質に基づく諸変化に対して、自分自身を調整させていかなければならないのである。例えば、どうして自分の所得や資産が増減させられなければならないのか、どうして自分が一つの職業から他の職業へと転業しなければならないのか、欲しいものを手に入れるためにどうして自分だけこんなに苦労しなければならないのか、といったような事柄は、あまりにも多くの環境的な諸条件に規定されているので、どんな頭脳であっても単独では決して把握することができない。悪くすれば、被害を蒙っている人々は、何か明白で、直接的で、しかも避けようと思えば避けられる原因に、責任があると責めることに陥りやすい。ところが、変化を本当に決定しているのは、そのような諸原因よりもはるかに複雑な相互関係なのであって、しかもそれがどういった関係であるかは、どうやっても人々の目には隠され続けていくのである(西山千明訳『隷属への道』春秋社、1992年[原著1944年]278-279頁)。

石油という化石燃料が地中深く眠っていたことは、石油産業の人たちにとって、まさに“天恵”(あるいは“地恵”?)と思えるような幸運、すなわち「都合のよい偶然」だっただろう。彼らはそれを思う存分活用してきたわけである。

しかし、どういうわけか、その化石燃料は無限には存在しない。しかもこれ以上石油を燃やしつづけることは、地球環境にとって破滅的なことなのかもしれないのである。このことは、石油産業の人たちにとって、今度は「都合の悪い偶然」と映っているにちがいない。

ハイエクがわれわれに残したメッセージは、「都合のよい偶然」であろうと、「都合の悪い偶然」であろうと、上記のハイエクからの引用文にあるように、「自分には理解できない原因や性質に基づく諸変化に対して、自分自身を調整させていかなければならない」というものであった。経済的な場での利己心の自由な発揮には、このような厳しい条件がつけられていたのである。石油産業の人たちには、はたして、このようなハイエクのメッセージに従う覚悟があるだろうか? 私は、あってほしいと願うのだが…。

たしかにハイエクはかつて、一方では市場経済の論理に忠実に、石油問題に直接関係する議論としては、楽観的な見解を表明していた。しかしながら他方で、より一般的な論点として、彼は市場の規律の厳しさについてもよく心得ており、人間がその厳しさから逃避して政治力に頼ろうとしがちである――という現状を憂慮してもいた。

ハイエク研究者の一人として、昨今の石油価格の高騰という情勢に接したとき、ハイエクの議論のこのような複合的な性格に、改めて思いをめぐらせた次第である。

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2005年5月 8日 (日)

石油問題を考える(5)-ハイエクの現代的解釈の試み

石油問題に関して、わが国の監督官庁の見解や如何に…と思い、ためしに経済産業省のウェブサイトを訪れてみたところ、平成17428日発表の「石油代替エネルギーの供給目標改定について」と題された報道発表が掲載されていた:

http://www.meti.go.jp/press/20050428012/050428oil.pdf

これを見て、いくつかの点で、大変驚かされた。

まず第一に、2010年度の石油代替エネルギーの合計が1次エネルギー供給に占める割合は、55.6%に過ぎなかったことである。すなわち、エネルギー供給の44.4%は、依然として石油に頼るということである。

第二に、その石油代替エネルギーの内訳として、圧倒的に高い割合を占めていたのは、石炭、原子力、そして天然ガスであったということである。2010年度の石油代替エネルギー供給目標全体を100とした場合、そのうち石炭32.1%、原子力27.6%、天然ガス25.7%だから、これら三つを合わせると、それだけで石油代替エネルギー全体の85.4%もの割合を占めることになる。言うまでもなく、石炭と天然ガスは、石油と並んで、温室効果ガスの原因となる化石燃料である。

第三に、上記の二点に伴って、風力や太陽光などのクリーンエネルギーの占める割合が極端に低かったということである。地熱は石油代替エネルギー全体の0.3%にすぎない。太陽光、風力、バイオマス等にいたっては、「その他の石油代替エネルギー」として一括されてしまっており、その割合は石油代替エネルギー全体の7.6%にすぎなかった。エネルギー供給全体の中で石油代替エネルギーの割合が55.6%だったから、「その他の石油代替エネルギー」の、エネルギー全体に占める割合は、55.6%のさらに7.6%、すなわち4.2%、たったのそれだけである…。

2010年度といえば、今から5年後のことにすぎないから…」と考える向きもあるかもしれない。しかしながら、たしか京都議定書で定められたわが国の削減目標は、「2008年~2012年までの間に温室効果ガスを1990年と比較して6%削減する」というものだから、2010年といえば、その目標年までたったの年である。

この報道発表によると、この「石油代替エネルギーの供給目標改定」は、今年の4月末から5月上旬ごろに閣議決定される予定の「京都議定書目標達成計画」の基礎となっているそうであるから、この程度でも京都議定書の削減目標には十分だと考えられているのかもしれないが、素人の私などは、素朴に「本当に大丈夫なのか?」と訝ってしまうのである。

とはいえ、今回の「改定」は平成14322日以来のものであり、そのときの目標に比べれば、石油代替エネルギーのエネルギー全体に占める割合は、55.0%→55.6%と微増(したがって石油の割合は45.0%→44.4%と微減)しており、また「その他の石油代替エネルギー」(すなわちクリーンエネルギー)の石油代替エネルギー全体に占める割合は、6.0%→7.6%と少しは増加しているから、そういう点は評価すべきなのかもしれない。

しかしながら、この「その他の石油代替エネルギー」に関して、同報道発表に付された「参考資料」のなかでは、次のようにも書かれていた:

(1)この目標は民間の最大限の理解と努力、政府の重点的かつ計画的な政策の遂行及び官民の協力の一層の強化を前提としたものであり、環境の保全に留意しつつこれを達成するものとする。〔後略〕

これを読むと、「民間の“最大限の”理解と努力」「政府の“重点的かつ計画的な”政策の遂行」による目標で、この程度にすぎないのか……?――という思いも禁じえない。そもそも「民間の最大限の“理解”」とは何を意味するのだろう? 民間の“誰の”理解なのだろう……??

しかも、同じその「参考資料」には、上記の(1)の文章につづけて、(2)では次のような但し書も付けられていた:

(2)この〔その他の石油代替エネルギーの供給に関する〕目標は、エネルギーの需要および石油の供給の長期見通し、石油代替エネルギーの開発の状況その他の事情の変動のため、必要があるときは、これを改定するものとする。(〔 〕内は山中による補足)

この(2)の文章によれば、上方修正の可能性もあるが、下方修正の可能性もあるということだ……。

いずれにせよ、この報道発表からは、「石油(プラス石炭・天然ガスの化石燃料)への依存体質」から“本気で”脱却し、クリーンエネルギーへの転換を“強力に”推し進めようという姿勢は、どう見ても窺えない――と私には思われるのである。

だとすると、わが国の石油産業は、「石油の枯渇」あるいは少なくとも「石油採掘量のピーク」が間近かもしれないという状況変化に、(たとえばクリーンエネルギーへの)事業転換などによってすばやく適応しようとするのではなく、あくまでもこれまでの既得権益に固執し、従来どおりのやり方で利益を上げ続けていこうという算段なのかもしれない…。

あるいは、地球温暖化と海面上昇との因果関係が科学的にはまだ完全に証明されていないことを理由に、これからもどんどん採掘できる限り採掘していく一方で、それと同時に他方では、政治力を行使して石油依存体質を温存させつつ、採掘量が減ってくれば、跳ね上がる価格をよいことに暴利をむさぼるつもりなのか……??

経済産業省発表のある一つの資料を見ただけで、このような悲観的なシナリオに想像をめぐらせるのは、もちろん早計、あるいは考えすぎというものかもしれない。杞憂に終わってくれる方が私としてはありがたいぐらいである。

しかし、ここで私が心配するのは、石油産業がその利己心に駆られるあまり、市場経済の論理に従うのを拒否し、むしろ政治力に頼ろうとすることだ。このことは、ハイエク的観点からも大いにありうることではなかろうか――これが私の言いたいことなのである。

「結論を述べる」と前回予告しておきながら、経済産業省の報道発表の分析に予想以上の字数を費やしてしまったので、今回はここでいったん筆をおき、結論は次回に述べさせていただくことにしよう。

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2005年5月 7日 (土)

石油問題を考える(4)-ハイエクの現代的解釈の試み

「利己心の経済的な発揮」には、実は単なる利己心の発揮にとどまらない、ある条件が要求されている。それは、「たとえ自らの期待が裏切られようとも、その苦い結果は甘受すべし」という条件である。

市場競争に参入するのは自由であり、そこで利己心に促されて利潤を追求するのは全く自由であるが、その結果、自らの期待が裏切られて、新規事業がうまくいかなかったり、あるいはまた、状況の変化によって既存の事業がもはや従来のようにはうまくいかなくなったというような場合、その苦い結果をあくまでも素直に受け止めることが要求されているのである。

それに対して、「利己心の政治的な発揮」は、そのような市場競争の厳しさや不確実性に耐えることから逃れて、自分の経済的地位を政治的に保障してもらおうとすることであり、ハイエクはそのような行動様式については厳しく批判した、というわけである。

ハイエクによれば、市場秩序は、しばしば「資本主義」という言葉によって言い表されてきたが、ハイエクに言わせれば、それは市場秩序の本質を正確に表現するものではない。「資本主義」という言葉は、もっぱら資本家の赤裸々な階級利益を特権的に実現させるシステムを示唆する言葉であるが、むしろそれは、本来、経営者を苦しめ、各経営者が逃れようとする規律を企業に押しつけるシステムを意味しなければならない(『ハイエク全集8 ルールと秩序』春秋社、1987年[原著1973年]82ページ)。市場競争が自分に有利に働くときにはその結果を喜んで受け入れるが、逆に自分に不利に働く場合にはそれを拒否して、政治的に保障を求めるというのは、要するにわがままではないか、というわけである。

ただし、誤解を避けるために急いで付け加えるならば、ハイエクは社会保障を全く認めない自由放任主義者だったわけではない。誰もそれ以下に落ちる心配のない必要最低限の生活レベルを、国民すべてに一律に保障すること(公的扶助)は彼も認めていたのである。彼が頑として認めなかったのは、個別の利益集団を依怙贔屓して、最低限のレベルを超えた既得権益を保障することであった。

いずれにせよ、「自分に有利なときはそれを受け入れるが、不利なときには受け入れない」というわがままをハイエクは頑として認めなかった。それを認めてしまったら、市場という経済ゲームが成り立たなくなるからである。それはたとえて言うなら、野球で「投手の投げた球がストライク三つになれば、打者は三振でアウト」というルールを、自分が投手のときには受け入れるが、打者のときには受け入れない、という態度に相当するのであって、それではゲームが成り立たなくなるということは、明々白々であろう。

こうしてみると、「利己心の発揮」といっても、経済的なそれについては、たんなる利己心の働き以上のものが要求されていたことになる。問題は、「利己的な人間」に、そのような市場競争の規律を受け入れさせることができるか?-ということである。

私の見るところ、ハイエクの苦悩は、まさにこの点にあった。一方で人間の利己心をうまく誘引することを目指しながら、他方でその利己的な個人に市場の規律を受け入れさせなければならなかった。しかも、ハイエクは、それと同時に、市場競争というものが非常に厳しいものであり、利潤の獲得を目指して市場に参加する個人を、失業や倒産という憂き目に合わせることが少なくないということも、率直に認めていた。しかもその場合、努力が報われるとは必ずしも決まっていないのであって、単なる運・不運といった理解を超えた複雑な諸事情も、市場競争の勝ち負けを大いに左右する、というのである。

この点について、彼は次のように述べていた:

現代の複雑な文明は、個人の多様な活動の上にこそ成り立っているのだが、そこでの個人は、自分には理解できない原因や性質に基づく諸変化に対して、自分自身を調整させていかなければならないのである。例えば、どうして自分の所得や資産が増減させられなければならないのか、どうして自分が一つの職業から他の職業へと転業しなければならないのか、欲しいものを手に入れるためにどうして自分だけこんなに苦労しなければならないのか、といったような事柄は、あまりにも多くの環境的な諸条件に規定されているので、どんな頭脳であっても単独では決して把握することができない。悪くすれば、被害を蒙っている人々は、何か明白で、直接的で、しかも避けようと思えば避けられる原因に、責任があると責めることに陥りやすい。ところが、変化を本当に決定しているのは、そのような諸原因よりもはるかに複雑な相互関係なのであって、しかもそれがどういった関係であるかは、どうやっても人々の目には隠され続けていくのである(西山千明訳『隷属への道』春秋社、1992年[原著1944年]278-279頁)。

こうしてみると、ハイエクは、市場競争に参加する「利己的な個人」に、実は非常に厳しい要求をしていたことになるだろう。たとえ不可知の複雑な理由によって自らの努力が裏切られようとも、あくまでもルールを守ってその苦い結果を甘受し、状況の複雑な変化に適応する努力を怠ることなかれ-という要求を、彼は「利己的な個人」に課していたのである。

ハイエクは、この厳しい市場の規律を人々に受け入れさせるために大いに心を砕き、さまざまな議論を展開した。その成否如何をめぐる詳細な議論については、現在執筆中の博士論文に譲るしかないが、要するに、彼の主張の要点は、「結果の如何を問わず無条件にルールを守るべし」ということにあったと思われる。たとえば、次のような文章がそれをよく表現しているだろう:

自由とは代償なしには手に入れられないものであり、われわれの自由を保持するためには、深刻な物質的犠牲にも耐える心構えが個々人に要求されるという事実にはっきりと目を向け、これを率直に学び直すことが不可欠である(『隷属への道』、171ページ)。

すべての道徳的原理と同様、個人的自由はそれ自体一つの価値として、すなわち個々の場合の結果が有益であるか否かにかかわらず、尊敬されなければならない原理として承認されるべきことを要求する。〔中略〕このような根本的な規則は、物質的利益に対しても妥協の余地がないとするほど根本的な理念として――あるいは当面の非常時には、一時的に破棄されなければならないとしても、あらゆる恒久的な取り決めの基礎となるべき理念として――頑強に守られるのでない場合には、自由はきっと漸次的な侵害によって破壊されることになるであろう(気賀健三・古賀勝次郎訳『ハイエク全集5 自由の条件Ⅰ 自由の価値』春秋社、1986[原著1960] 101ページ)

しかしながら、「利己的な個人」は、はたしてこの厳しい要求を受け入れ、政治的な保障に頼ることなく、市場経済における自由の厳しさに耐えることができるだろうか?

次回は、以上の考察を昨今の石油問題に当てはめつつ、私の結論を述べることにしよう。

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2005年5月 6日 (金)

石油問題を考える(3)-ハイエクの現代的解釈の試み

「代替資源の開発が進むだろう」という経済学的な答えの根底にあるのは、「市場経済システムによる人間の利己心の活用」である。すなわち、石油以外の新規エネルギー分野の成長が見込まれるならば、その新規分野の成長は、必ずしも利他心によらなくとも、利潤動機に促された利己的な個々人の手によって達成されるだろう-という考え方である。

たとえば、かつてアダム・スミスは18世紀に著した『国富論』という有名な本の中で、次のように書いていた:

個人の私的な利己心は、おのずとかれらを動かして、通例、その社会にとってもっとも有利な投資に自分の資本を振り向けさせるようにする(大河内一男監訳『国富論Ⅱ』中公文庫、409ページ)。

生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる(同書、120ページ)。

このアダム・スミスを受けて、ハイエクは1945年に次のように論じていた:

スミスとかれの同時代人たちが唱道した個人主義の主たる功績は、その体制のもとでは悪い人間が最小の害悪しかなしえないことにある、と言ってもおそらく言い過ぎではないであろう。〔中略〕個人主義の偉大な著者たちの主たる関心は実際、人間がかれ自身の選択によって、そしてかれの日常的行動を決定する諸動機から、他のすべての人びとの必要にできるだけ多く貢献するように誘引されるような、一揃いの制度を見つけることであった。そして偉大な著者たちは、私有財産制度が従来理解されていた程度をはるかに超えてそのような誘因をまさしく与えることを発見した(田中真晴/田中秀夫編訳『市場・知識・自由-自由主義の経済思想-』ミネルヴァ書房、1986年、13-14ページ)。

ただし、正確性を期するために、ここで急いで付け加えなければならないのは、ハイエクにせよスミスにせよ、「人間すべてが必ず利己的である」とまでは主張していなかったことである。ここではハイエクについてだけ述べておくと、彼が強調していたことは、利己的であれ利他的であれ、すべての個々人が自分の関心に従って行動できる自由の重要性であって、慈善的な動機であっても、その利他的な個人にとってはそれは「自分の」関心であり、個人主義者・自由主義者は、ある個人がそのような利他的な動機を持つことを決して妨げはしない、ということであった(『市場・知識・自由』14-17ページ)。

とはいえ、他方で、ハイエクやスミスは、「すべての人間が利他的である」とは到底考えていなかったのであって、むしろ、現実の人間は往々にして利己的であることが多いという醒めた認識から出発していたことには変わりない。そして、彼らの問題関心が、この利己心が利己心のままで同時に社会全体の公共の利益にもそれが役立つように、いかにして利己心をうまく誘引するか-という点にあったことも間違いないところであるから、以下の考察においては、人間の利己心の扱いに論点を絞りたいと思う。

要するにハイエクやスミスの議論の大きな特徴は、市場経済こそが利己心を社会全体の公共の利益増進のためにうまく誘引できる制度だ、という主張にこそあった。上記の引用文は、その特徴をよく表した文章だといえるだろう。

ところが、ここで想起すべきは、一方で彼らが、うまく誘引されさえするならば、人間の利己心が「市場経済において」大いにその利己性を発揮することの重要性を強調しながらも、他方では、この利己心が「政治の場面で」その利己性を発揮することを厳しく排斥していた、ということである。

ハイエクが利己心の「政治的な」表れとしての現代民主主義を厳しく批判した書物は、前回「石油問題を考える(2)」で挙げておいた『ハイエク全集10 自由人の政治的秩序』であったが、ここではスミスの文章を引用しておこう。かれは、次のような文章も書いていた:

同業者仲間は、楽しみや気晴しのために集まったときでも、会話はきまって、社会公共にたいする陰謀、すなわち値段を釣り上げるためのある種の方策の話になるのがおちである。〔中略〕たとえ法律は、同業者がときどき集会を開くことを防ぐことができないにしても、こうした集会を奨励し助長するようなことは絶対にすべきではなく、ましてこのような集会を必要なものにすべきではない(『国富論Ⅱ』中公文庫、214-215ページ)。

ここで同業者仲間による反社会的な行為の例として挙げられているのは「値段を釣り上げる」というものだけだったが、要するに彼がここで言いたかったことは、現代政治学の言葉を使えば、「鉄の三角同盟」による既得権益擁護の政治活動の跋扈を許すなかれ、ということだったと言えるだろう。

要するに、スミスにせよハイエクにせよ、利己心をめぐる彼らの主張は、思い切って簡潔に表現してみるならば、

「利己心の経済的な発揮は大いに結構だが、政治的な発揮は許されない」

ということになるだろう(もちろん、その「経済的な発揮」においても詐欺などの違法行為は働かないという条件は要求されることになるが、この点についての細かい議論はここでは割愛させていただきたい)。

だとすると、ここでの問題は、

人間の利己心の「経済的な」発揮は大いに奨励しつつ、いかにしてその「政治的な」発揮を防ぐか

-ということになるはずである。

しかしながら、はたしてハイエクは、かつてスミスをも悩ませていたこの問題に、有効な答えを出せていたであろうか? 次回はこの点について考察を深めていきたい。

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2005年5月 5日 (木)

石油問題を考える(2)-ハイエクの現代的解釈の試み

ハイエクが石油問題に関して「代替資源の開発に期待すべし」というきわめてシンプルな答えを出していたことは前回書いたとおりである。経済学的観点に限って言えば、まさにその通りであろう。実際、石油等の化石燃料に代わる太陽光発電、風力発電、地熱発電等、もっとクリーンなエネルギー源の開発は、技術的にはすでにかなり進んでいるようである。

それでは、今後そんなに心配しなくとも、代替資源への移行がスムーズに進んでいくと考えることができるだろうか? 残念ながら、筆者にはそのようには思えない。なぜなら、20世紀最大のエネルギー産業にまで成長した巨大な石油産業が、政治的にそれを妨害し、既得権益を死守しようとすることが大いにありうるからである。


筆者はまだ石油業界をめぐる政治の有様について詳しく勉強したわけではないので、ここで断言することまではできないが、各業界が自らの既得権益を守ろうとして、政治家や官僚と結託しようとするのがよく見られる政治の姿だから、石油業界についても、それは大いにありうることだと思う。


政治学的には、業界・政治家・官僚の三者が既得権益を守るために結束を固める現象はよく知られていて、それは「鉄の三角同盟」と呼ばれている(例えば、次の政治学教科書を参照:北山俊哉ほか著『新版 はじめて出会う政治学』有斐閣、2003年、第1章)。


ここで思い出したいのが、ハイエクが一方では、石油問題に関する直接的な答えとしては、「代替資源の開発が進むはずだ」という楽観的な答えを経済学的には唱えていたと同時に、他方では、石油問題に関してではないが、より一般的に、既得権益を政治的に守ろうとする現代民主主義の有様を痛烈に批判する有名な議論を、政治学的には展開していたことである。ハイエクはそのような現代政治の有様を変革するために、思い切った議会制改革論を提唱するまでに至っていたことは、ハイエク研究の世界ではよく知られた事実である(渡部茂訳『ハイエク全集10 法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』春秋社、1988年[原著1979年]を参照)。


だとすれば、昨今の石油問題についてのハイエクの答えは、より正確には、次のようなものになったと考えられるだろう。すなわち「代替資源の開発が進むだろうし、また進むべきであるにもかかわらず、政治的にそれを不当に妨げる勢力が存在するならば、それを不可能にする政治改革を断行すべし」という答えである。


たしかに筆者も、一方ではその通りだと思う。石油産業はおそらく今後着実に、経済的には下降線をたどっていくことが確実だと考えられるにもかかわらず、そのような既得権益にしがみ続けようとすることは、あまり賢明な策とは思えないからだ。


しかしながら、他方で筆者がここで問題にしたいのは、ハイエクの経済学的処方箋(=「代替資源の開発を進めるべし」)と、政治学的処方箋(=「政治改革を断行すべし」)との間に、一種のジレンマが潜んではいなかったか、ということである。そのジレンマは、筆者の見るところ、ハイエクにおける人間の“利己心”の扱いの問題である。そこで次回は、ハイエクの思想体系における“利己心”の扱いに潜むジレンマと筆者に思われるものについて、議論してみたい。

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2005年5月 4日 (水)

石油問題を考える(1)-ハイエクの現代的解釈の試み

今日は少し、現実の問題について、私の専門であるハイエクの観点を意識しつつ、私なりの考察を加えてみたい。今日取り上げるその現実の問題とは、昨今にわかに価格の高騰が騒がれるようになった“石油問題”である。

いま書いている最中の博士論文で、この問題を専門的に真正面から取り上げるわけではない。いまの私の最優先課題は、ハイエクの思想体系それ自体について、現実の激しい動きからは一歩身を引いて、ジックリと綿密に考察を加えていくことだからである。

しかしながら、だからといって、現実のさまざまな問題にまったく無関心であるわけには決していかない。なぜなら、私の研究関心は、「21世紀の現代において、われわれはハイエクをどう受け止めるべきか」ということにあるからである。現実の激しい動きに目を奪われるあまりにジックリとものを考える姿勢を研究者としては失ってはならないが、だからといって、現実の動きから完全に身を引いて「象牙の塔」に安住しているわけにもいかないのである。この両者のバランスを保ち続けることは必ずしも簡単なことではないが、少なくともその努力を怠ってはならないだろう。

そんなわけで、今日は、私の研究テーマを現実問題へ応用する試みの一つとして、石油問題を取り上げてみることにしたい。

この問題に対して、かつてハイエクが直接に出した答えは、非常にシンプルである。1970年代に起こったオイルショックについて、彼はかつて、昭和51年1月に中日新聞、東京新聞、北陸中日新聞に連載された、立教大学教授・西山千明氏との対談記事(『FA・ハイエク 明日を語る 新自由主義とは何か』東京新聞出版局、1977年に再録。ただし現在は絶版)において、次のように語っていた:

原料産油国が自国産品の値段をつり上げたいと思うのは、至極当然のことです。ところが、その他の国は、不当につり上げられた価格を何がなんでものまなくてはならないと、なぜ思い込むのか…私にはさっぱりわかりません。資源保有国は、いつだって高い価格を要求できる。時によっては、その価格を実現することだってできるかもしれない。しかし、そのような状態は、そう遠くないうちに必ず崩壊します。〔中略〕どんな資源でも、その価格が意図的に突然、大幅に引き上げられると、その資源や、代替資源の開発が非常に刺激される。それがふつうです。十年もすれば供給が非常に拡大するので、価格は、引き上げ前よりも安くなってしまう。その可能性は十分あることです。ただし、私はこれをあくまで可能性としていったのであって、予測しているわけではありません。

(『新自由主義とは何か』53-55ページ。ただし、この書名にある「新自由主義」は、この場合は小さな政府・市場原理擁護のneo-liberalismのことであって、大きな政府=福祉国家擁護のnew liberalismのことではない)

ハイエクは、最後の一言を付け加えることで慎重な姿勢を保っているわけだが、上記の引用部分全体に表れた彼のスタンスそれ自体は、非常に明快だろう。要するに、「代替資源の開発が刺激されるはずだから、何も心配するには及ばない」というわけである。

もちろん、これは「まだ埋蔵量があるにもかかわらず石油産油国があえて採掘しなかった」という当時の情勢についてのコメントであって、現在のように石油がいよいよ枯渇間近かもしれない-あるいは少なくとも採掘量のピークを迎えるのが間近かもしれない-という問題についてのものではないが、ハイエクがもし今でも生きていたら、「代替資源の開発に期待せよ」と彼なら言っていたと思われる。否、いよいよ枯渇(あるいはピーク)間近だからこそ、代替資源の開発がいっそう刺激されるはずだ-という答えを、経済学的な観点から強調していただろうと思われるのである。

しかし、本当に事はそう簡単に運ぶのだろうか? また、それだけがハイエクから導き出される答えだろうか? 私の見るところ、問題はもう少し複雑だと思われる。というのも、ハイエクは、経済学的な観点のみならず、政治的な観点からの議論も他方では展開していたからである。

しかしながら、その政治的な議論は、石油問題を直接に扱ったものではなかった。したがって、われわれとしては、現代の時代状況を念頭に置きつつ、それを改めて解釈し直してみることが必要なわけである。

そこで次回は、この問題についてさらに考察を加えていき、私なりのハイエクの現代的解釈を試みてみたい。

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