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2005年5月18日 (水)

『途上国のグローバリゼーション』

先週の木曜日からちょっとカゼをひいていたので、しばらく間があいてしまった。それからも休講することなく何とか授業ができたことは幸いだったが、授業だけで手一杯だった。ようやく本調子に戻ってきたので、研究日記を再開することにしよう。

さて、ここしばらくは、研究日記をつけたり、博士論文の続きを書くことはできなかったが、大学の行き帰りに本を読むことはできた。最近読み始めたのは、大野健一氏の『途上国のグローバリゼーション』(東洋経済新報社、2000年)である。

この本と出会ったのは、実はフトしたことだった。迂闊にも、この本のことを私は知らなかったのだが、今月の初めにフト立ち寄った本屋さん(啓文堂書店)で何気なく本を眺めていたら、この本が目に飛び込んできたのである。手に取ってみると、私にとって非常に重要な本だということがわかったので、早速購入したというわけである。

この著者・大野健一氏には、この本の姉妹編に当たる前著『市場移行戦略』(有斐閣、1996年)というのもあるということを知った。幸い、勤務先の大学図書館に所蔵されていたので、これも早速借り出して、こちらから先に読み始めた。そしてそれを読み終えたので、今は、『途上国のグローバリゼーション』の方を読み進めている最中である。

大変興味深かったのは、この著者がかつてIMFエコノミストとして働いていたにもかかわらず、帰国して日本で教鞭をとるようになってから、わが国の開発経済学に触れることによって、氏の言葉によると「新鮮で強烈な知的体験」を得、新古典派パラダイム(のもっとも単純なタイプ)にのっとった性急な「市場移行戦略」を批判する立場に転向し、それとは異なった新たな「市場移行戦略」を構築しようとしていることである。

IMF
や世銀などの国際機関の主導する市場化戦略が新古典派パラダイムにもとづいた性急なものであることについては知っているつもりだったし、以前に私の読んだ本としては、例のスティグリッツのIMF批判(邦訳『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、2002年)や、また、よりスケールの大きなものとしては、もちろん私の師・木村雅昭・京都大学教授の大著『「大転換」の歴史社会学-経済・国家・文明システム-』(ミネルヴァ書房、2002年)があったのであるが、今回、大野健一氏の著書に出会うことによって、改めて、昨今の市場原理導入の試みがいかに当該諸国の歴史を無視したきわめて性急なものであるかということを知ることができたことは、しかも実際にIMFで働いていた人物からの声として聞くことができたことは、たいへん大きな収穫であった。

さて、ここで私にとって大問題となるのが、昨今の新古典派パラダイムによる市場移行戦略とハイエクの議論との関係である。

J
・グレイは、ハイエクをもこの新古典派パラダイムによる市場移行戦略そのものの中に入れて、辛辣に批判していたのであるが(邦訳『グローバリズムという妄想』日本経済新聞社、1999年)、はたして本当に、ハイエクをそのように解釈してよいのだろうか? それはむしろ、ハイエクを単純に理解したものであって、われわれはもっと丹念にハイエクを読み、そのメッセージを正しく受け取るべきなのではなかろうか? そのように私には思われて仕方がないのである。

それでは一体お前はハイエクをどう解釈するのか――ということが当然問われることになるだろう。詳しくは今執筆中の博士論文に譲るほかないが、昨今の驚異的なグローバル化とそれがもたらしているきわめて不安定な国際情勢との関連でハイエクの議論をどう受け止めるべきか――ということについては、荒削りになるかもしれないが、次回以降、この『研究日記』で書き綴ってみたいと思う。

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