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2005年7月26日 (火)

宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(2)

思ったよりもずっと早く筆がはかどったので、この連載の第二回の記事も今日掲載することにしよう。

さて、

まず(1)政治・経済的側面についてであるが、この点について、著者Stern氏自身は次のように述べている:

We demand that other countries open their markets to our goods, even as we maintain protections on ours, applying textile quotas, for example, against countries like Pakistan, whose citizens are increasingly vulnerable to the notion that Al-Qaeda is more interested in their well-being than is the United States. (Stern, Terror in the name of God, pp. 294-295)

われわれ〔アメリカ人〕は他の国々にわれわれ〔アメリカ〕の財に対してその国の市場を開放するよう求めているが、それはたとえばパキスタンのような国に対して、織物の輸入割当を適用し、われわれ〔アメリカ〕の市場に対する保護を維持しているときでさえ、そうなのである。そのパキスタンの市民たちは、アルカイダの方がアメリカよりもパキスタン人の福祉に強い関心を持っているという考えにますます動かされるようになっている(山中訳)。

ここで思い出されるのが、宮田律『現代イスラムの潮流』(集英社新書、2001620日第1刷発行)の議論である。9・11より前の出版だが、この本における次のような記述は、現在の中東諸国の政治経済情勢にも基本的に当てはまるだろう:

イスラム世界では社会主義や資本主義が導入されたが、その社会・経済矛盾を救済するような手立てにならなかった。特に一九八〇年代には、世界銀行やIMF(国際通貨基金)の勧告によって、市場経済原理をとり入れたが、国営企業の民営化や通貨の切り下げなどの措置は、かえって失業やインフレを助長することになる。(宮田律『現代イスラムの潮流』80頁)

イスラム政治運動を支持する青年層が卒業した大学の学部を見ると、神学部というよりも法学や経済、工学など一般的な学部が多い。このことからもイスラム政治運動が雇用機会を得られない青年層の不満を吸収していることが分かる。イスラム世界を訪ねてみると、若者の数が特に多いという印象をもつが、若者が街で日中何もしないでぶらぶらしている姿は、失業問題が深刻になっていることを明らかに印象付けるものだ。(同書82頁)

本欄76日付の記事で紹介したように、現代アメリカの経済学者スティグリッツ氏は、現代のグローバリゼーション最大の問題点をそれが「世界政府のない世界統括」であることに求めている。たとえばスティグリッツ氏は次のように述べている:

そこにあるのは「世界政府のない世界統括」とでも言うべきシステムである。少数の機関-世界銀行、IMFWTO-と少数の人間-特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当省-が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている。(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、2002年、43-44頁)

もしも、1980年代の中東諸国における市場経済原理の導入が、スティグリッツ氏の糾弾するような形でのものだったとすれば、イスラム原理主義の過激派テロリストたちが憤るのも無理はないと言えるだろう。たとえその結果彼らの採用するテロという手段は決して許されるものではないとしても、である。

さらに問題を深刻にしているのは、アラブ諸国の国民が自国政府による社会的セイフティ・ネットを保障されていず、教育・福祉といった機能が、急進的なものも含めたイスラム組織によって提供されているという事実である。

宮田律氏の前掲書にもう一度耳を傾けてみよう:

イスラム世界では、一九八〇年代以降、政府は教育や社会福祉にあまり熱心ではなくなっていった。これは、中東イスラム諸国における経済の構造改革の開始と時を同じくするものだった。世界銀行やIMFなど国際的援助機関が政府補助金を削減するよう勧告したことによって、教育や福祉事業から政府が次第に後退し、代わってイスラム組織による草の根レベルでの運動がそれらの事業に着手していった。〔中略〕たとえばエジプトでは、暴力をも用いる急進的なグループを含めてイスラム組織が人々に援助の手をさし伸べ、教育・福祉事業を通じて次第にエジプト社会に根を張っていく(同書104頁)。

ハマスのリーダーの一人だったイスマイル・アブ・シャナブも、ハマスの成功のうち最も重要な要素は、その社会福祉活動であると述べていたという。(Stern, Terror in the name of God, p. 41

こうしてみると、現在世界各地で頻発している宗教テロの多くは、要するに地球大での自由放任主義に対する反撃とみなさなければならないと思われる。たとえグローバリゼーションが正しく進めば世界中の利益になるだろうということが言えるからといって、現在のあまりに性急かつ強引なグローバリゼーションは、途上国の反発を誘発するだけだろう。大野健一氏がその著『途上国のグローバリゼーション』(東洋経済新報社、2000年)13頁で述べているように、「工業化して久しい先進国とまだ一次産品しか輸出できない途上国が同じ土俵の上で輸出競争をすれば、後者が負けるのは当たり前である」。にもかかわらず、米国をはじめとした先進国が、工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示すとすれば、バグワティ氏の言うようにたとえ途上国自身も先進国からの輸入品に高い保護関税をかけているとしても、途上国が先進国に対して不公平感を抱き、また世銀やIMFWTOによって進められるグローバリゼーションに「新たな植民地システム」のにおいを嗅ぎ取ったとしても、無理はないと思われるのである。繰り返しになるが、たとえその結果、彼らの採用するテロという手段が絶対に許されないものだとしても。

ここで筆者のハイエク研究に関連させて論ずるならば、市場競争に臨むに当たって、たとえば「先進国が工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示す」というようなダブル・スタンダードは、ハイエクの最も嫌うところであった。また、それと同時にハイエクは、たとえ二十世紀の福祉国家が行なったような広範な再分配政策は否定したとはいえ、国民全員に一定の必要最低限の社会的セイフティ・ネットを保障することの必要性を、明確に主張していた。この点に関して、筆者にとって大変重要と思われるのは、ハイエクの次の一節である:

すべての人に対するある最低所得の保障、あるいは、誰も、自分自身を扶養できないときでさえ、それ以下に落ちなくてもよい、ある種の最低水準の保障は、単に、万人共通の危険に対する完全に合法的な保護であるだけでなく、また、個人には、自分の生まれ出た特定の小集団の成員に対して、特別な請求をする権利がもはやない、偉大な社会〔the Great Society:市場社会のことをハイエクはアダム・スミスの用語を借りてこう呼んだ-山中〕のなすべき必要な事柄であるように思われる。大多数の人を誘って、こうした小集団の成員であることによって従来与えられてきた相対的な保障を放棄させようとする体系は、おそらくすぐに、大きな不満と激しい反対をひき起こすであろう。すなわち、かつてその恩恵を享受してきた人々が、それによって、自分自身の落ち度でもないのに、生計の資を得てきたかれらの資格を奪われ、逃げ道がなくなっていることに気づくからである。(『ハイエク全集10 法と立法と自由  自由人の政治的秩序』春秋社、1988年[原著1979年]83頁。ただしsecurityの訳が「保証」となっているのは「保障」と改めた)

ここに引用した文章は翻訳調でやや読みにくいという印象は否めないだろうが、要するにハイエクがここで言っていることは、近代化・市場化にともなう急激な社会変動により、従来の農村における地縁・血縁関係から切り離され都市に出てきた人々に対して、最低限の生活保障を行なうことは、政府の果たすべき重要な仕事だ、ということなのである。

しかも、ハイエクは、上記の文章に付した注で、次のような事実にも読者の注意を促していた:

いわゆる自由放任の絶頂期でさえヨーロッパのあらゆる先進国においては貧者を扶養するための規定があった(同書、237頁)。

だとすると、そのような最低生活の保障の意志も能力も欠いている途上国に対して、適応の猶予も与えないままに国際統合を迫るのは、あまりに危険なことではないだろうか?

大野健一氏の『市場移行戦略:新経済体制の創造と日本の知的支援』(有斐閣、1996年)17-18頁でも論じられているように、IMFや世銀の「市場移行戦略」の特徴の一つは、市場信奉と政府不信であった。しかし、IMFや世銀、WTO、それに先進国は、次の大野氏の言葉にもっと耳を傾けるべきなのではなかろうか?:

グローバル市場経済に背を向けた開発戦略は必ず破綻する。むしろ私は後発国に、前向きに国際システムに組み込まれよと言いたいのである。だが同時に、産業・制度・政策の準備なしに飛び込むことは無謀である。国際統合はその社会の主体性と連続性を失わないような形で進行しなければならない。この逃れえない緊張のなかで、それぞれの国が自ら選んだ統合の道を試行錯誤を繰り返しながら進んでいくのが最も健全な姿であろう。そしてそのような道を可能にするような国際環境を構築することは、先進国や国際機関の責任である(『途上国のグローバリゼーション』東洋経済新報社、2000年、33-34頁)

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コメント

この「宗教テロとグローバリゼーション(2)」の冒頭に掲げたStern氏の著書からの引用文に施した山中訳の後半部分を、次のように改めさせていただきたい:

そのパキスタンのような国々の市民たちは、アルカイダの方がアメリカよりも自分たちの福祉に強い関心を持っているという考えにますます動かされるようになっている

この訳文に対応する原文は以下のとおりだった:

countries like Pakistan, whose citizens are increasingly vulnerable to the notion that Al-Qaeda is more interested in their well-being than is the United States.

関係代名詞whoseの先行詞をPakistanだけと解釈していたが、よく読んでみると、その先行詞はcountries like Pakistanだと考え直したので、訂正させていただく次第である。それに伴って、their well-beingのtheirも、パキスタン人だけではなく、パキスタンのような国々の国民のことを指すと解釈しなおしたが、訳語が煩雑になるので、「自分たちの福祉」と直させていただいた。いずれにせよ、ここに謹んで誤訳にお詫び申し上げるとともに、訂正させていただく次第である。

ついでながら、Jessica Stern氏はユダヤ系のアメリカ人女性だということだが、研究のためとはいえ、宗教テロリストたちに実際に会いに行ったという、その決断・勇気・行動力には、ただただ感服するばかりである。

彼女自身は「宗教というものは人を善くするものだ」という信念の持ち主であったが、それだけに宗教的信念に基づくテロ行為には大いに当惑させられたという。しかも、実際に会ってみると、そのテロリストたちの多くが大変強い宗教的信念の持ち主だっただけに、その当惑はなおさらのことだった(Stern, Terror in the Name of God, pp. xvii-xviii)。

私も、真の宗教は人を善くするものだと信じたい。それだけに、なぜ人は宗教的信念に基づいてテロ行為を行なうことができるのかという問題については、真摯に考えていかなければならない問題だと思っている。

投稿: 山中 | 2005年7月26日 (火) 20時07分

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