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2005年7月15日 (金)

国際テロとグローバリゼーションをめぐって(3・完)

ハーバード大学のケネディ・スクールでテロリズムを教えているJessica Sternの著書 Terror in the Name of God: Why Religious Militants Kill HarperCollins Publishers, 2003)――この連載(1)の第4段落ですでに一度引用させていただいているが――によると、テロリストのリーダーたちは若者に次のように教えているという:

IMF、世界銀行、そして国連は、伝統的な諸価値を絶滅させるという目的で、資本主義と世俗的な諸観念をわれわれに押し付けている(p. 283

しかしながら、彼らの怒りや苛立ちは、近代化あるいは産業化そのものに向けられているのではない。むしろ、西洋的な文化は拒否しつつも、欧米諸国と同様に自分たちも産業化し、国際的な地位において欧米諸国と肩を並べたいにもかかわらず、それがかなわないことへの苛立ちに他ならない。実際、Jessica Sternも正しく指摘しているように、彼らは他方でインターネットなどの現代技術を旺盛に活用しているのである(ibid.)。

池内恵著『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書、2002年)によると、現在のアラブの苦境の源泉は、19676月、第3次中東戦争においてエジプト・シリア・ヨルダン軍が六日間でイスラエル軍に撃破され、パレスチナの土地全域がイスラエルの支配下に入ったこと(「六日間戦争」)にさかのぼる。これを機に、それまでのアラブ世界で知識人を方向付けていた、ナセルの「アラブ民族社会主義」がその思想的生命を失い、社会思想の分極化が始まった。一方で急進的なマルクス主義へと向かう流れが生じ(日本赤軍もこの系列に属していた)、他方で宗教信仰への回帰現象、「イスラーム主義」の潮流が生まれてきた。前者の人民闘争による世界革命の目論見が潰えていく中で、後者のイスラーム主義が主流となり、それが過激化したのが、現在のイスラーム原理主義だというのである(同書第1部「アラブの苦境」を参照)。

この池内氏の議論から汲み取れるのは、イスラエルとその背後に控えるアメリカ(と欧米世界)に対するアラブ世界のきわめて屈折した、アンビヴァレントな感情である。イスラム原理主義者が信仰への回帰をかたくなに求めるのは、彼らが近代化あるいは産業化にまったく背を向ける純然たる復古主義者だからではない。彼らが拒否するのは西洋的な近代化・産業化だけである。実際、911を起こしたテロリストたちは、欧米に留学経験のあるアラブ社会のエリートであったことは、周知の通りであろう。彼らは上昇意欲に目覚めた知識人なのである。にもかかわらず、彼らにとって、世界の現状は彼らの上昇意欲を満足させるものとは到底思えない。自国の統治体制や、統治の中身はどうであれ石油の確保のために中東諸国の政治的安定のみを求める欧米諸国が、彼らの上昇意欲を妨げる不当な勢力に映っているのである。

だとするならば、そのような現状の中で、衰えゆく覇権を何とか維持するために後発国・途上国に対して強引に国際統合・市場開放を求めるアメリカの現在のやり方は、やはり、どうみても国際的な不安定要因とならざるをえないだろう。自国中心主義的な、首尾一貫しない二重基準は、国際的なテロリストたちにとって、攻撃の対象とするのに格好の大義名分を与えてしまうのである。

アメリカをはじめとした先進諸国の途上国に対する自由貿易交渉や金融自由化交渉において、先進国政府の背景に存在しているのは、先進国内の産業界・金融界の利害である。

現在のようにグローバリゼーションが進む以前であれば、そのような諸利害は現在ほどには後進国・途上国に大きな影響を及ぼすことはなかったであろう。それは基本的には国内政治の場での分配をめぐる争いにとどまることができた。冷戦時代に東西の緊張が高まっていたときには、国内政治での諸利益集団の要求を政府が対外政策にストレートに反映させることは、西側陣営の結束を乱さないという観点から、慎重に避けられていたからである。

しかしながら、その冷戦が終わることで却って、かつての西側陣営諸国の間で経済摩擦が深刻化しつつある現代(EU憲法の批准手続きが頓挫したのも農業補助金の扱いをめぐっての英仏の対立ゆえであった)、先進国内の産業界・金融界は、かつてのように自己の属する利益集団・圧力団体の要求実現を自国の政府に迫ることはもはや許されないであろう。各国政府が国内政治上の諸要求を対外政策に反映させることを避ける必要性を感じなくなったため、このグローバル化の進んだ現代において、その悪影響が先進国の対外政策を通じて地球大の規模で世界各国に及んでしまうからである。

市場競争の論理から逃避して政治に頼るという行動様式は、ハイエクの最も嫌うところであった。

だとするならば、現代の先進国に要求されることは、たとえ厳しいものに思えようとも、ハイエクのメッセージに改めて耳を傾けることではないだろうか。さもなければ、かつて自由市場経済が「資本主義」と呼ばれ、所詮は資本家階級の利害を労働者階級に対して押し付けるためのものに過ぎないとされていたの同じように、現代のグローバル経済も、「北」の豊かな国々の利害を「南」の貧しい国々の犠牲のもとに追及するためのものにすぎないという不公平感が、善と悪の戦いという終末論的な信仰と結びついたテロリズム――かつてのマルクス主義も要するに一種の終末論的信仰であった――という怒りの刃となって、われわれ先進国に向けられ続けるだろうと思われるのである。

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コメント

この連載の第二回「国際テロとグローバリゼーションをめぐって(2)」について、そのコメント欄で「アメリカの不実をなぞるだけ」という批判をいただいたので、誤解を招かないようにここで付け加えさせていただきたい。

筆者の議論の根底にあるのは、「ハイエクが唱えていたことは、市場競争が自国に有利に働こうがそうでなかろうが、市場競争のルールに厳格に従い、政治的手段に訴えることなく、市場競争のゲームにおいてフェア・プレーに徹することであった」とこの連載(2)でも書いたように、ハイエクの主張である。

そのハイエクの主著『自由の条件』(春秋社刊)[The Constitution of Liberty, 1960]冒頭には、次のように書かれていた:

アメリカに成長しつつある未知の文明のために

私の議論の主旨も、このハイエクの言葉と同様のものであることを、ここで改めて強調しておきたいと思う。私はアメリカがハイエク的精神にのっとった成長を続けていくことを切に期待するものである。

投稿: 山中 | 2005年7月15日 (金) 08時57分

何度か閲覧しています。このブログをこちらのブログで紹介したいのですが、よろしいでしょうか?

以前にも記した通り、南北問題に関わる専門家や活動家が余りにもグローバル化と自由経済に批判的な事態に疑問を感じていました。(2)で取り上げられたギルピンの理論は、私の大学院時代によく馴染んだトピックです。

私自身はかつて環境や開発に関わるNGOの関係者と付き合いがありました。しかし、彼らの余りの左傾ぶりに不審の念をいだいたものです。この点については、こちらのブログにリンクしたホームページの自己紹介で述べています。

そうしたことから、ハイエク思想による南北問題のアプローチを新鮮に感じます。このブログは、もっと多くの人が閲覧して欲しいと思っています。

投稿: 舎 亜歴 | 2005年7月16日 (土) 12時30分

舎さん、たびたびのコメントをいただき、誠にありがとうございます。

あなたさまのブログだけではなく、今日はじめてホームページも拝見いたしました。LSEに留学されていたのですね。

LSEでは、どなたが指導教官でしたか?あなたが留学されていた頃には、もうアンソニー・ギデンズが学長でしたか?もうジョン・グレイはオックスフォードからLSEに移っていたのでしょうか?

「このブログは、もっと多くの人が閲覧して欲しいと思っています」とのこと、恐縮に存じます。

私自身の国際政治の立場は、ホッブズ的観点に基づくリアリズムというよりも、(リアリズムの立場を真摯に受け止めつつも)やはりハイエクを研究しているものとしては、リベラリズムすなわち自由貿易主義の可能性を追求していきたいという立場なので、あなたのご期待にどこまで添うことができるか分かりませんし、また、私のブログにも以前に書いておりますように、博士論文を書いている最中で、単著はまだ出していない未熟な研究者なので、気が引けますが、何かの参考になるようでしたら、どうぞご紹介下さいませ。

私自身の立場はもちろん、マルクス主義ではありませんが、かつてハイエクが社会主義の隆盛を自由主義の刷新を迫る深刻な事態として真摯に受け止めていたように、現在のグローバリゼーションが反資本主義の立場からの批判・非難を浴びているという事態を自由主義の反省を迫るものとして真剣に受け止めるべきだと考えています。

その意味で、私の研究上の問題意識は、ハイエク的観点を社会主義なき21世紀のグローバル時代に如何に生かすべきか-というところにあります。

それと同時に、ハイエクの持つ限界(と私には思われる点)については、一定の批判的考察を行なうことにもなろうかと存じます。

それを博士論文に結晶化させるべく、奮闘中のプロセスをありのままに書き綴っているに過ぎないのがこの『研究日記』です。

そんなものでもよろしければ、どうぞご紹介下さいませ。

山中 拝

投稿: 山中 | 2005年7月16日 (土) 22時36分

こちらで書いた紹介文をTBします。至らぬところも多いとは思いますが、少しでも「研究日記」が閲覧されれば幸いです。

私の指導教官ですが、ギデンズとグレイは違う学部なので関係はありませんでした。私がいたのは国際関係学部で、指導教官はゴータム・センでした。故スーザン・ストレンジの直弟子です。

今後も更新を楽しみにしています。

敬具

投稿: 舎 亜歴 | 2005年7月19日 (火) 23時22分

スーザン・ストレンジの直弟子が指導教官だったのですね。恥ずかしながら、ゴータム・センという名は初めて知りました。国際政治経済学という分野がストレンジによって先鞭を付けられて以来、どのように発展しているのかについては、私もいずれは勉強しなければと思っています。

TBをありがとうございました。

山中拝

投稿: 山中 | 2005年7月20日 (水) 06時20分

ご挨拶が遅くなりましたが、2度目のTBを付けさせてもらいました。

長くなってしまったうえに、思いつきで恐縮ですが。。。

最初、「農業補助金の扱いをめぐって頓挫した」というなら、EU憲法ではなく中期財政計画の策定では?と思ったのですが、そもそも「かつての西側陣営諸国の間で経済摩擦が深刻化しつつある現代」とは、80年代前半と比較してもそうでしょうか?
そもそも旧東側が無くなることで経済摩擦が激化したでしょうか?「西側陣営の結束を乱さないという観点から、慎重に避けられていた」というのは、不勉強のせいか記憶にありません。冷戦前後でも政治的な優先順位では大差ないような気がします。

さらに、「グローバリゼーションが進む以前」でも、「先進国内の産業界・金融界の利害」は、それこそ20世紀を通じて「国内政治の場での分配をめぐる争いにとどまること」なく、国際政治の場での問題ではなかったのでしょうか?
ただし、「グローバル化の進んだ現代」においては、その争いは、武力行使(覇権)ではなく、市場ルールの不均一・不公平な適用を正当化することできる権力を巡る争いに変化していったと認識しています。

「先進国内の利益集団・圧力団体の要求実現」→「自国の政府」→「対外政策への反映」→「世界各国に及ぶ」という状況下で、市場の歪みを是正するためには、国際政治における所得再配分機能の強化に頼るという行動様式が有効である。

と思うのですけど。。。


それから「善と悪の戦いという終末論的な信仰」というのは、イスラム教やマルクス主義に言えることでしょうか?
キリスト教保守派なら、なんとなく感覚的には理解できるのですが、実は3つとも理論は知らないのです。
それじゃ「市場原理至上主義」というのも、モデルの適用限界を無視するという点で言えば、信仰かな?と思ったりもします。

投稿: soliton_xyz | 2005年7月22日 (金) 23時32分

soliton_xyz様、TBとコメントを誠にありがとうございます。

あなたさまのブログも何度か拝見させていただいております。途上国問題があなたのご関心だと拝察いたしましたが、正しい理解でしょうか?

私の拝見した限りでは、あなた様のプロフィール欄が見つかりませんでした(たんなる見落としでしたらごめんなさい)。

もしも私の見落としではないとしましたら、ハンドルネームを使って気軽に意見交換できるのがブログのいいところなのかもしれませんが、これからもお互いに責任ある発言を交換し続けることができればと思いますので、もしよろしければ、あなたさまご自身の簡単な自己紹介をしていただけませんか?

さて、

>>、「農業補助金の扱いをめぐって頓挫した」というなら、EU憲法ではなく中期財政計画の策定では?と思ったのですが、

言葉を端折りすぎていましたね。失礼いたしました。

たしかに仰るとおり、直接的にはEU中期予算の策定をめぐっての話ですが、そこに象徴されている、英仏間の経済・社会政策上の基本姿勢のちがい-競争社会重視=「自由型」の英と労働者保護重視=「社会型」の仏というちがい-がEU統合を困難にしている、というのが私の主旨でした。言葉足らずで大変失礼いたしました。ご指摘に感謝申し上げます。

>>そもそも「かつての西側陣営諸国の間で経済摩擦が深刻化しつつある現代」とは、80年代前半と比較してもそうでしょうか?そもそも旧東側が無くなることで経済摩擦が激化したでしょうか?

冷戦の終結と経済摩擦の激化との関係の問題ですが、たしかに冷戦中にも西側諸国の間で経済摩擦の問題がくすぶっていたでしょうし、たとえば日米経済摩擦は半導体をめぐって、すでに1980年代に問題となりましたよね。冷戦期においても、細かく見ていけば、たとえば日米間の経済摩擦が高まった時期もあれば、緩和された時期もあったと言えると思います。

ただ、長期的・全体的に見るならば、冷戦中のアメリカは対外経済にかかわる政治(ロー・ポリティックス)よりも、軍事面での安全保障にかかわる政治(ハイ・ポリティックス)を重視し、西側陣営に対して安全保障では厳しい姿勢を見せながらも、経済問題ではどちらかといえば妥協的で寛大な姿勢を見せてきた-ということは言えるのではないでしょうか?

たとえ日米経済摩擦が起こっても、冷戦終結以前のアメリカは、日本がアメリカ製品輸入の「努力目標」をかかげれば、それで矛先を収めていました。

それに対して、冷戦終結後の1990年代の日米経済摩擦では、クリントン政権は「結果重視」という表現で、一定量の輸入量の実現を日本に迫るまでになりました。

なお、日米経済摩擦をめぐる以上の議論は、北山俊哉・真渕勝・久米郁男著『新版 はじめて出会う政治学』(有斐閣、2003年)第11章「経済交渉」に基づかせていただいております。

いずれにしても、そういう意味で、冷戦終結以後、経済摩擦が「激化した」とは言わないまでも、摩擦が「長期化・深刻化」しつつあるということは言えると思います。そういう趣旨で、私は本欄で「深刻化しつつある」という表現を使いました。それは、冷戦が終わると同時に経済摩擦が「急激に悪化した」という意味ではなく、冷戦以後、徐々に深刻になりつつある、という意味です。

>>「グローバリゼーションが進む以前」でも、「先進国内の産業界・金融界の利害」は、それこそ20世紀を通じて「国内政治の場での分配をめぐる争いにとどまること」なく、国際政治の場での問題ではなかったのでしょうか?

もちろん、先進国内の産業界・金融界の利害は、現在のようにグローバリゼーションが進む以前においても、国際政治上の問題の一つでしたが、冷戦期には、長期的に見ると、どちらかといえばハイ・ポリティックスがロー・ポリティックスより優先されていたために、西側陣営内部での経済対立を前面に押し出すことには一定の抑制がかけられていたと思いますが、いかがでしょうか?

>>「先進国内の利益集団・圧力団体の要求実現」→「自国の政府」→「対外政策への反映」→「世界各国に及ぶ」という状況下で、市場の歪みを是正するためには、国際政治における所得再配分機能の強化に頼るという行動様式が有効である。

>>と思うのですけど。。。

これは、グンナー・ミュルダールの『福祉国家を超えて』の議論ですか?

>>「善と悪の戦いという終末論的な信仰」というのは、イスラム教やマルクス主義に言えることでしょうか?

はい、言えると思います。

>>「市場原理至上主義」というのも、モデルの適用限界を無視するという点で言えば、信仰かな?と思ったりもします。

たしかにそういう面はあると思います。

投稿: 山中 | 2005年7月23日 (土) 19時13分

恐縮です。丁寧なコメントをありがとうございました。

プロフィールは、今のところ公開していません。ただし非公開にすると決めた訳じゃありませんので、今後、実名等を公開することも意識しつつ、無責任なことは書かないように心がけているつもりですが、それだけの話です。実際、無責任になってなければ幸いですが、そうでなければご指摘頂けると嬉しいです。
残念ながら特に途上国問題に関心があるというわけでもなく、もちろん専門の研究者でも、この分野を仕事にしているプロでもありません。単なるド素人だとお考え下さい。

確かに、お話のとおり、「長期的・全体的に見るなら」、アメリカは、安全保障に関しては概して「妥協的で寛大な姿勢を見せてきた」とは言えないかもしれないですね。
そういう比較で言うと、現在の対テロ戦争の同盟国とそうでない国との間で対応に差が見受けられるように、経済や民主化等々のその他の分野では、同盟諸国間でアメリカが「妥協的で寛大な姿勢を見せてきた」ということはあるだろうと思いました。

ただ、そうすると、冷戦の終結は、安全保障上の脅威となる相手が変わっただけとも考えられますが、それは、ご説の通り「自国中心主義的な、首尾一貫しない二重基準は、国際的なテロリストたちにとって、攻撃の対象とするのに格好の大義名分を与えてしまう」という意味で、その対応を巡って先進諸国間で「経済摩擦が深刻化」する、という流れはあるのかと思いました。

「善と悪の戦いという終末論的な信仰」ですが、ユダヤ教やキリスト教のヨハネの黙示録のハルマゲドンのイメージを連想したので、イスラム教には対応するものがなかったように思ったのと、同様にマルクス主義では「善と悪の戦い」と言うのかどうか私は知らないのですが、「自由主義の反省を迫るものとして真剣に受け止めるべきだ」というコメントからすれば、批判・非難の中身を一括して非論理的に棄却する感じがして、ご説の結びにしては多少の違和感を覚えたということです。
「信仰かな?」と言ったのもその流れですが、こうしたことは、当然ながらご承知のうえでしたよね。言わずもがなだったかと、反省しております。

それから、最後に、自分の書いたものとグンナー・ミュルダールとの関連について云々するほどの素養はありませんので、ご勘弁ください。論を続けることができないことをお詫びします。

投稿: soliton_xyz | 2005年7月25日 (月) 19時40分

>>「善と悪の戦いという終末論的な信仰」ですが、ユダヤ教やキリスト教のヨハネの黙示録のハルマゲドンのイメージを連想したので、イスラム教には対応するものがなかったように思ったのと、同様にマルクス主義では「善と悪の戦い」と言うのかどうか私は知らないのですが

イスラム教がすべて終末論だというわけではないのでしょうが、終末論的要素を孕んでいることも確かなようです。この点については、池内恵『現代アラブの社会思想:終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書、2002年)を踏まえさせていただいております。もしよろしければ、どうぞお読みになってみてください。良書だと思います。

マルクス主義における終末論的要素については、野田宣雄『歴史をいかに学ぶか:ブルクハルトを現代に読む』(PHP新書、2000年)の51-53頁に「ユダヤ=キリスト教の終末論を継ぐマルクス主義」という見出しで、カール=レーヴィットの『世界史と救済史』(創文社、1964年:ただし、このレーヴィットの邦訳自体はすでに絶版のようですが)という本における議論、すなわち「マルクス主義がユダヤ=キリスト教の終末論的歴史解釈の図式を受け継いだものだ」という議論がなされていることが紹介されています。この野田氏の『歴史をいかに学ぶか』も良書だと思います。

投稿: 山中 | 2005年7月26日 (火) 11時13分

実は、池内恵氏の本は読んでいたのですが、3つの宗教の共通点ではなく、差のほうに注目していました。

ユダヤ・キリスト教のハルマゲドンに登場する悪=サタンと違って、イスラム教に出てくる偽救世主は、サタン的な点は残っているにせよ、はるかに人間的なイメージです。
すなわち、互いに争うムスリムの一派から出るとか、争うムスリムの両派にも善し悪しはないとかで、善と悪との最終戦争というよりも、善悪の区別の付きにくい混沌というべき状態かと思いました。
また、偽救世主が「偽りの繁栄」や「偽りの平和」をもたらすというのも、単純な善悪二元論ではないようで、真救世主と戦うイメージも薄いように読めましたし、異教徒との関係も、絶対悪との闘いとは読めないようです。

要するに、ヨハネの黙示録と違ってイスラム教はオカルト的なイメージを喚起する力に乏しいので、テロリストも、「善と悪の戦い」を呼びかけるというよりも、池内氏の分析の一つのパターンにあったように、コーランやハディース集の記述を、現実の状況・標的に合わせて陰謀史観的に解釈しながらストーリーを作っていく方が主流かなと思ってました。
池内氏自身は、イスラム教も「善と悪の戦い」だと書いてますが、この本を読んだ限りでは、その内容はかなり違うようです。


野田宣雄氏の本は、読んだことがありませんでした。

昨日、ざっと読んだだけですが、こういう直感的な洞察もいいですよね。嫌いじゃないほうなので興味深く読めましたが、やはり、ヘーゲル以降は神の居場所はなくなっていくというのが、オーソドックスかなとは思いました。
例えば、アインシュタインについて、ユダヤ・キリスト教的な世界観の影響が強いというのは確かだと思いますが、だからといって彼は神や聖書で世界を説明しようとしたわけではないし、彼に対する批判を宗教論的に展開する物理学者もいない。それと同じかなと思いました。

投稿: soliton_xyz | 2005年7月28日 (木) 07時05分

>>実は、池内恵氏の本は読んでいたのですが、3つの宗教の共通点ではなく、差のほうに注目していました。

そうでしたか、それは大変失礼いたしました。

>>要するに、ヨハネの黙示録と違ってイスラム教はオカルト的なイメージを喚起する力に乏しいので、テロリストも、「善と悪の戦い」を呼びかけるというよりも、池内氏の分析の一つのパターンにあったように、コーランやハディース集の記述を、現実の状況・標的に合わせて陰謀史観的に解釈しながらストーリーを作っていく方が主流かなと思ってました。

いずれまた、私も池内氏の本を読み直してみようと思います。

いずれにせよ、現在のイスラム原理主義者のなかのいわゆる過激派の人たちは、彼らなりにコーランを解釈して「善と悪との間の終末論的闘い」としてこの世を見ているという事実は残ると思います。もちろん、コーランのそのような解釈が正しい解釈かどうかはまた全く別問題ですが。

投稿: 山中 | 2005年7月29日 (金) 17時41分

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