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2005年7月27日 (水)

開発主義の視点を導入する試みを始めます

昨日7月26日付の記事「宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(2)」で、私は次のように書いた:

米国をはじめとした先進国が、工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示すとすれば、バグワティ氏の言うようにたとえ途上国自身も先進国からの輸入品に高い保護関税をかけているとしても、途上国が先進国に対して不公平感を抱き、また世銀やIMFWTOによって進められるグローバリゼーションに「新たな植民地システム」のにおいを嗅ぎ取ったとしても、無理はないと思われるのである。繰り返しになるが、たとえその結果、彼らの採用するテロという手段が絶対に許されないものだとしても。

この文章のポイントは、先進国が途上国に対して保護関税を敷いていることを批判している点にあるが、それと同時に、途上国も先進国に対して保護関税を敷いているという事実も私は認めている。

だとすれば、ここでもしも自由貿易原則を単純・一律に適用するとすれば、先進国が保護関税を撤廃するとともに、途上国もそうすべし、ということになるだろう。

しかしながら、実を言うと、先進国の場合と途上国の場合、あるいは先発国の場合と後発国の場合とでは、分けて議論すべきだろうと私は思っている。

その場合に決定的に重要になるのは、“開発主義”の視点である。

言うまでもなく、この“開発主義”という概念は、わが国の経験を踏まえつつ故・村上泰亮氏が『反古典の政治経済学』(上下全二巻、中央公論社、1992年)において理論化したものであり、昨今の性急かつ強引な国際統合・グローバリゼーションを考える上でも必読の文献だと思われる。

筆者にとって非常に重大な問題は、ハイエクの政治経済学を研究対象としている筆者が、村上の開発主義の政治経済学による問題提起をどのように受け止めるべきか、ということである(以下では、故人については敬称をつけないという慣例にならって、たんに村上と呼ぶことにする)。

このことはずいぶん以前から気になっていたことなので、ハマスのリーダーの一人シャナブという人物から出たグローバリゼーション批判の二つの側面-(1)政治・経済的側面と(2)文化・倫理的側面-のうち、昨日7月26日より始めた連載「宗教テロとグローバリゼーション」において(2)文化・倫理的側面についての議論に入る前に、(1)政治・経済的側面との関連で、しばらくはこの開発主義の問題を考えていきたいと思う。

ここでいくつかの点について、予備的な覚書として、注意すべき点をいくつかあげておこう:

①まず注意すべきは、“開発主義”は、私有財産制に基づく市場競争を原則とするものであり、断じて計画経済ではないということである。政府介入そのものには企業の成長動機を強める力はなく、むしろ開発主義における政府の役割は、過当競争の抑制、あるいは適度な競争の維持にこそあるということを、村上は明言している。

②また、この開発主義の根幹となる産業政策において、補助金、輸入制限、関税などの保護主義的措置は、その中核部分ではなく、時と処によっては有効となる二次的手段に過ぎない。

③さらに、開発主義は、当該国が明らかにその後発性を脱した段階に達したときには、政府による重点産業分野の指定を解除し、惰性的な産官共生関係を断ち切ることが要請されている。

(以上の点については、『反古典の政治経済学』下巻87-102頁を参照)

以上のような点において、開発主義は案外、ハイエク的な自由市場原理とそんなには違わないと言えるのである。

とはいえ、後発国が産業化を目指して離陸しようとする段階において、政府がいかなる役割を果たすべきか、またその段階で必要な再分配政策とは何か-という点において、ハイエクと村上とでは決定的に主張を異にしていることも確かである。

そこで、この機会に村上の開発主義の議論を改めて読み直し、ハイエクとの比較をこの『研究日記』で試みてみたいと思う。

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2005年7月26日 (火)

宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(2)

思ったよりもずっと早く筆がはかどったので、この連載の第二回の記事も今日掲載することにしよう。

さて、

まず(1)政治・経済的側面についてであるが、この点について、著者Stern氏自身は次のように述べている:

We demand that other countries open their markets to our goods, even as we maintain protections on ours, applying textile quotas, for example, against countries like Pakistan, whose citizens are increasingly vulnerable to the notion that Al-Qaeda is more interested in their well-being than is the United States. (Stern, Terror in the name of God, pp. 294-295)

われわれ〔アメリカ人〕は他の国々にわれわれ〔アメリカ〕の財に対してその国の市場を開放するよう求めているが、それはたとえばパキスタンのような国に対して、織物の輸入割当を適用し、われわれ〔アメリカ〕の市場に対する保護を維持しているときでさえ、そうなのである。そのパキスタンの市民たちは、アルカイダの方がアメリカよりもパキスタン人の福祉に強い関心を持っているという考えにますます動かされるようになっている(山中訳)。

ここで思い出されるのが、宮田律『現代イスラムの潮流』(集英社新書、2001620日第1刷発行)の議論である。9・11より前の出版だが、この本における次のような記述は、現在の中東諸国の政治経済情勢にも基本的に当てはまるだろう:

イスラム世界では社会主義や資本主義が導入されたが、その社会・経済矛盾を救済するような手立てにならなかった。特に一九八〇年代には、世界銀行やIMF(国際通貨基金)の勧告によって、市場経済原理をとり入れたが、国営企業の民営化や通貨の切り下げなどの措置は、かえって失業やインフレを助長することになる。(宮田律『現代イスラムの潮流』80頁)

イスラム政治運動を支持する青年層が卒業した大学の学部を見ると、神学部というよりも法学や経済、工学など一般的な学部が多い。このことからもイスラム政治運動が雇用機会を得られない青年層の不満を吸収していることが分かる。イスラム世界を訪ねてみると、若者の数が特に多いという印象をもつが、若者が街で日中何もしないでぶらぶらしている姿は、失業問題が深刻になっていることを明らかに印象付けるものだ。(同書82頁)

本欄76日付の記事で紹介したように、現代アメリカの経済学者スティグリッツ氏は、現代のグローバリゼーション最大の問題点をそれが「世界政府のない世界統括」であることに求めている。たとえばスティグリッツ氏は次のように述べている:

そこにあるのは「世界政府のない世界統括」とでも言うべきシステムである。少数の機関-世界銀行、IMFWTO-と少数の人間-特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当省-が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている。(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、2002年、43-44頁)

もしも、1980年代の中東諸国における市場経済原理の導入が、スティグリッツ氏の糾弾するような形でのものだったとすれば、イスラム原理主義の過激派テロリストたちが憤るのも無理はないと言えるだろう。たとえその結果彼らの採用するテロという手段は決して許されるものではないとしても、である。

さらに問題を深刻にしているのは、アラブ諸国の国民が自国政府による社会的セイフティ・ネットを保障されていず、教育・福祉といった機能が、急進的なものも含めたイスラム組織によって提供されているという事実である。

宮田律氏の前掲書にもう一度耳を傾けてみよう:

イスラム世界では、一九八〇年代以降、政府は教育や社会福祉にあまり熱心ではなくなっていった。これは、中東イスラム諸国における経済の構造改革の開始と時を同じくするものだった。世界銀行やIMFなど国際的援助機関が政府補助金を削減するよう勧告したことによって、教育や福祉事業から政府が次第に後退し、代わってイスラム組織による草の根レベルでの運動がそれらの事業に着手していった。〔中略〕たとえばエジプトでは、暴力をも用いる急進的なグループを含めてイスラム組織が人々に援助の手をさし伸べ、教育・福祉事業を通じて次第にエジプト社会に根を張っていく(同書104頁)。

ハマスのリーダーの一人だったイスマイル・アブ・シャナブも、ハマスの成功のうち最も重要な要素は、その社会福祉活動であると述べていたという。(Stern, Terror in the name of God, p. 41

こうしてみると、現在世界各地で頻発している宗教テロの多くは、要するに地球大での自由放任主義に対する反撃とみなさなければならないと思われる。たとえグローバリゼーションが正しく進めば世界中の利益になるだろうということが言えるからといって、現在のあまりに性急かつ強引なグローバリゼーションは、途上国の反発を誘発するだけだろう。大野健一氏がその著『途上国のグローバリゼーション』(東洋経済新報社、2000年)13頁で述べているように、「工業化して久しい先進国とまだ一次産品しか輸出できない途上国が同じ土俵の上で輸出競争をすれば、後者が負けるのは当たり前である」。にもかかわらず、米国をはじめとした先進国が、工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示すとすれば、バグワティ氏の言うようにたとえ途上国自身も先進国からの輸入品に高い保護関税をかけているとしても、途上国が先進国に対して不公平感を抱き、また世銀やIMFWTOによって進められるグローバリゼーションに「新たな植民地システム」のにおいを嗅ぎ取ったとしても、無理はないと思われるのである。繰り返しになるが、たとえその結果、彼らの採用するテロという手段が絶対に許されないものだとしても。

ここで筆者のハイエク研究に関連させて論ずるならば、市場競争に臨むに当たって、たとえば「先進国が工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示す」というようなダブル・スタンダードは、ハイエクの最も嫌うところであった。また、それと同時にハイエクは、たとえ二十世紀の福祉国家が行なったような広範な再分配政策は否定したとはいえ、国民全員に一定の必要最低限の社会的セイフティ・ネットを保障することの必要性を、明確に主張していた。この点に関して、筆者にとって大変重要と思われるのは、ハイエクの次の一節である:

すべての人に対するある最低所得の保障、あるいは、誰も、自分自身を扶養できないときでさえ、それ以下に落ちなくてもよい、ある種の最低水準の保障は、単に、万人共通の危険に対する完全に合法的な保護であるだけでなく、また、個人には、自分の生まれ出た特定の小集団の成員に対して、特別な請求をする権利がもはやない、偉大な社会〔the Great Society:市場社会のことをハイエクはアダム・スミスの用語を借りてこう呼んだ-山中〕のなすべき必要な事柄であるように思われる。大多数の人を誘って、こうした小集団の成員であることによって従来与えられてきた相対的な保障を放棄させようとする体系は、おそらくすぐに、大きな不満と激しい反対をひき起こすであろう。すなわち、かつてその恩恵を享受してきた人々が、それによって、自分自身の落ち度でもないのに、生計の資を得てきたかれらの資格を奪われ、逃げ道がなくなっていることに気づくからである。(『ハイエク全集10 法と立法と自由  自由人の政治的秩序』春秋社、1988年[原著1979年]83頁。ただしsecurityの訳が「保証」となっているのは「保障」と改めた)

ここに引用した文章は翻訳調でやや読みにくいという印象は否めないだろうが、要するにハイエクがここで言っていることは、近代化・市場化にともなう急激な社会変動により、従来の農村における地縁・血縁関係から切り離され都市に出てきた人々に対して、最低限の生活保障を行なうことは、政府の果たすべき重要な仕事だ、ということなのである。

しかも、ハイエクは、上記の文章に付した注で、次のような事実にも読者の注意を促していた:

いわゆる自由放任の絶頂期でさえヨーロッパのあらゆる先進国においては貧者を扶養するための規定があった(同書、237頁)。

だとすると、そのような最低生活の保障の意志も能力も欠いている途上国に対して、適応の猶予も与えないままに国際統合を迫るのは、あまりに危険なことではないだろうか?

大野健一氏の『市場移行戦略:新経済体制の創造と日本の知的支援』(有斐閣、1996年)17-18頁でも論じられているように、IMFや世銀の「市場移行戦略」の特徴の一つは、市場信奉と政府不信であった。しかし、IMFや世銀、WTO、それに先進国は、次の大野氏の言葉にもっと耳を傾けるべきなのではなかろうか?:

グローバル市場経済に背を向けた開発戦略は必ず破綻する。むしろ私は後発国に、前向きに国際システムに組み込まれよと言いたいのである。だが同時に、産業・制度・政策の準備なしに飛び込むことは無謀である。国際統合はその社会の主体性と連続性を失わないような形で進行しなければならない。この逃れえない緊張のなかで、それぞれの国が自ら選んだ統合の道を試行錯誤を繰り返しながら進んでいくのが最も健全な姿であろう。そしてそのような道を可能にするような国際環境を構築することは、先進国や国際機関の責任である(『途上国のグローバリゼーション』東洋経済新報社、2000年、33-34頁)

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宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(1)

今日は本来なら、勤務先の大学で三つの学期末試験の試験監督をする予定だったが(私の担当科目の政治学概論を含む)、台風7号の接近に伴って、あさっての木曜日に順延され、今日は休日となった。水害などの被害が出ないことを祈るほかないが、いずれにせよ、思わぬ形でまとまった時間ができたので、以前から少しずつ読み進めていた次の本を、午前中にゆっくり読むことができた:

Jessica Stern, Terror in the Name of God: Why Religious Militants Kill ( HarperCollins Publishers, 2003)

本欄7月15日の記事でも紹介したように、著者はハーバード大学のケネディ・スクールで教えているテロリズム研究者で、本書は、宗教的信念に基づいたテロリストたちを実際に訪ねて(!)インタビューすることによって、「なぜ宗教戦士は人を殺すのか」という問いを探求した、全部で400ページにわたる浩瀚な書物である。

この本を全部読み通したわけではない。読めたページ数はまだまだ不十分であり、あわせて計90ページほどにすぎないが、残りのページについてはまた少しずつ読み進めていくとして、それでも私の研究関心に直接かかわる点、すなわちグローバリゼーションと関わる点については、ある程度その要点をつかめたように思う。私が読んだ計90ページのなかには、この書の結論部分に当たる章(ch.10 Conclusion / Policy Recommendation, pp. 281-296)も含まれてるから、この書物の要点をある程度つかめたと言っても、許されると思う。そこで、今日からしばらくは、この書物の中から、イスラム原理主義のテロリストによるグローバリゼーション批判をわれわれはどう受け止めるべきか?-という点について、ここで試しに論じてみたい。

昨今のテロとグローバリゼーションの関係について、非常に重視すべきと思えたのは、パレスチナの過激派武装組織ハマスの指導者の一人イスマイル・アブ・シャナブIsmail Abu Shanabへのインタビューにおいて、「グローバリゼーションについてどう感じているか」という著者の質問に対するシャナブの次の言葉である(ちなみに、インターネット検索で調べてみたところ、シャナブは2003年8月21日にイスラエル軍により暗殺されたようである。http://www.onweb.to/palestine/siryo/ismail-morisawa.html)。原文の次に拙訳を試みてみよう:

Globalization is just a new colonial system. It is America’s attempt to dominate the rest of the world economically rather than militarily. It will worsen the gap between rich and poor. America is trying to spread its consumer culture. These values are not good for human being. The problem with pursuing capitalism as an end in itself is that the name of the game is the dollar. In the West, money really does talk. This is bad for the human being. It leads to disaster for communities. (Stern, Terror in the Name of God, pp. 38-39)

グローバリゼーションは、新たな植民地システムにすぎない。それは残りの世界を軍事的というよりは経済的に支配しようとするアメリカの企みである。それは貧富の格差を悪化させるだろう。アメリカはその消費文化を〔世界に〕広げようとしている。これらの価値は人間にとってよいものではない。資本主義を目的それ自体として追求することにともなう問題は、そのゲームの名前がドルであるということだ。西洋では、まさにカネがものを言う。これは人間にとって悪いことだ。それは共同体にとっての災厄につながる(山中訳)。

このシャナブという人物は、コロラド大学でエンジニアリングを学んだ(ibid., p. 38)というから、エリート知識人であり、アメリカ人の生活ぶりについても身近に知っていたことと思われる。このインタヴューにおける会話も、通訳を介さずに、英語で直接交わされたものに違いない。

このシャナブという人物から出たグローバリゼーション批判の要点は、次の二点にわたってなされたものと考えることができるだろう。すなわち、(1)政治・経済的側面と(2)文化・倫理的側面である。

そこで、以下では、この二点にわたるグローバリゼーション批判について、考察を加えていこうと思う。

〔つづく〕

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2005年7月24日 (日)

文字のサイズを「普通」に戻します

これまで文字のサイズを「大」に変更して書いてきましたが、今後はそれを当初の「普通」サイズに戻します。

いったん大サイズにしたのは、普通サイズだと読みにくいと思われる読者もいるかもしれないと思ったからです。

しかし、そうすると、文字自体はたしかに読みやすくなりますが、記事全体を見渡すにはちょっと不便になると思われます、とくに文字数の多い記事になると…。

また、私の見たかぎりでは、ブログの場合の文字の大きさは、普通サイズのものが通例のようです。

そのようなわけで、これからはこの普通サイズの文字で記事を書いていこうと思います。

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ロンドンのテロをめぐって:宗教テロは“自由からの逃走”か?

本欄に721日付で「博士論文執筆再開」を書いた途端に、またもやロンドンで爆破事件が起こった。それに引き続き、昨日723日にはエジプトでテロである。「しばらく現実の動きから一歩身を引いて執筆に専念しようか…」と思っていた矢先のことだった。いやが応でも、「なぜこれほどまでに宗教テロが頻発するのか?」という問いが、またもやむくむくと湧き起こってこざるを得ない。

この『研究日記』で「国際テロとグローバリゼーションをめぐって」と題して書いたときには、昨今のテロの原因を、経済的に欧米と肩を並べたいにもかかわらずそれが叶わないことに対する苛立ちに求めた。

しかし、そのような経済的要因だけではなく、それとはまた別の要因にも目を向けなければならないのではないか-と思うようになってきた。それは、「自由という価値そのものに孕む問題性」という要因である。

私が購読している英字新聞はInternational Herald TribuneIHT)であるが(より正確には『ヘラルド朝日』と言って、朝日新聞の英語版が合わさったものだ。ちなみに日本語の新聞は産経を購読している)、私が自由という価値の問題性にも注目すべきだと思うようになったのは、720日付IHTに掲載された論説を読んでのことである。

私の目を引いたのは、ロジャー・コーエン氏(Roger Cohen)によるものであった。タイトルは A deadly idea defies any simple doctrines である。“a deadly idea というのは、自爆テロを促すイスラム原理主義のことであるが、それをうまく説明できない単純な教義として氏が指しているのは、イスラムのテロリズムの原因を〔テロを働くことになる者たちが〕抑圧や排除を受けてきたこと、すなわち自由の欠如による絶望の産物とみなし、テロをなくすための解決策をそのような国々に〔欧米的な〕自由を広げることに求めようとする考え方のことを指している。

この考え方は米ブッシュ大統領や英ブレア首相が抱いているものであるが、コーエン氏に言わせると、今回のロンドンのテロは、その考え方によってはうまく説明できない。なぜなら、今回のロンドンのテロの実行犯が住んでいたイギリスの都市リーズLeedsは、決して自由を知らない都市ではなかったからだ。また、9・11の実行犯モハマド・アタにしても、ドイツのハンブルグに10年間住んでおり、そのハンブルグも自由を知らない都市ではなかったのである。

今日(7/24)午後610分より放映されたNHKの「海外ネットワーク」を見たが、たしかに彼らは自由な生活を送っていたようである。この番組では、ロンドンのテロの実行犯となった四人の青年のうち、パキスタン系のイギリス人青年二人のリーズでの生活ぶりについて伝えていた。モハンマド・シディック・カーン(30)は、リーズの小学校で補助教員をしていたという。教えられていた小学生の一人は「いい先生だったよ」と言い、ある女性(教え子の母親だったのか、あるいは同じ学校の同僚教師あるいは事務職員だったのか、それとも近所の住民なのかは分からないが)は、「カーン先生があのテロに関わっていたなんて信じられない」とインタビュアーに答えていた。

もう一人の青年シャハサド・タンウィール(22)の親は飲食店を経営していた。看板にはSouth Leeds Fisheriesと書いてある。店内の様子を映した映像で見たところ、明らかにそれは、欧米社会によくあるファースト・フードの店構えであった。ただし、Fisheriesと書いてあるところを見ると、イスラムでタブーとされる豚肉はもちろんのこと、牛肉でも鶏肉でもなく、魚肉を出していたのだろうか。そうすることで、イスラムとしてのアイデンティティを保持しようとしていたのかもしれない。しかしながら、その店構え自体は、明らかに欧米的なファースト・フード店そのものであった。いずれにせよ、その父の店で時々親の手伝いをして働いていたというタンウィールはお客に笑顔で接し、同店で働いていた従業員の話によると、助けを求められればいつでもその手助けをしていたらしい。友人の話では、クリケット好きのごく普通の青年だったという。言うまでもなく、クリケットはまさにイギリスのスポーツである。

彼らは地元のモスクに併設されたスポーツ・ジムで知り合ったらしい。小学校の補助教員だったカーンがそこでトレーナーとしても働いており、タンウィールともう一人のパキスタン系イギリス人の青年(18)とがそのジムに通っていて、今回の実行犯四人のうち、ジャマイカ系イギリス人の青年(19)を除いた、パキスタン系の青年三人の接点のひとつがこのジムにあったと考えられているそうだが、日々の生活が苦しく、食べ物にも困るぐらいだったとしたら、スポーツ・ジムに通うどころではなかったはずである。そのジムの利用に料金が必要だったかどうかはその番組を見るかぎりでは分からなかったが、かりに無料だったとしても、栄養不足や空腹で悩む青年だったとしたら、スポーツ・ジムで身体を鍛える気力など湧かなかったにちがいないのである。

要するに、このパキスタン系のイギリス人青年は、イギリス政府によって抑圧されてもいなければ、社会的に排除されていたわけでもない。裕福ではなかったかもしれないが、社会の底辺においやられて日々の生活に困っていたわけでもない。移民であるがゆえに政治的抑圧や社会的排除を受けるといったことはなく、ごく普通に、自由に暮らしていたのである。

だとしたら、彼らはなぜ、自爆テロを促すイスラム過激派の原理主義的な信仰から多大な影響を受けることになったのか?

ここで先ほどのコーエン氏の論説に戻ろう。氏に言わせると、今回の実行犯となった青年たちがリーズで生活を送っていたという事実は、テロを「抑圧と排除を受けたことによる絶望の産物」とする考え方とは別の結論をわれわれに示唆している。その結論とは、次のとおりである(まずは英語の原文を掲げ、その後に拙訳を試みてみよう):

perhaps it is the very onerous nature of Western freedom, with its multiplicity of choices and absence of moral absolutism, that led them to seek refuge in a fanatical faith.

おそらく、西洋的自由のまさにあのやっかいな性質が、選択の多様性と道徳的絶対論の欠如とあいまって、彼らを狂信的な信仰へと逃避させたのである。

このコーエン氏の議論を読んで私が真っ先に連想したのは、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、新版1965年[原著1941年])の議論である。この書は言うまでもなく、全体主義の原因を“自由からの逃走”に求めようとしたものであるが、この書の序文には次のような文章がある:

自由は近代人に独立と合理性を与えたが、一方個人を孤独に陥れ、そのため自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。〔中略〕全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとするすべての行為の前提である。(同書4頁)

もしもコーエン氏がこのフロムの議論を念頭に置いており、そしてそれが昨今の宗教テロリズムを理解するための重要な鍵の一つだとするならば、まさにハイエク研究者としても、これを看過するわけにはいかない。というのも、かつてハイエク自身も、このフロムの議論を念頭に置きつつ、自由と責任の不可分性について、次のように論じていたからである:

責任の否定は、通常、責任を恐れるからであり、その恐れは必然的に自由を恐れることである〔ここでハイエクは注をほどこし、その注でフロムの『自由からの逃走』の参照を読者に促している-山中〕。疑うまでもなく、自分自身の人生を築き上げる機会は、絶えることのない課題、すなわち、もしも人が自分の目的を達成しようとするならば、自分に課さなければならない訓練を意味するのであるから、多くの人々は自由を恐れるのである。(『ハイエク全集5 自由の条件  自由の価値』春秋社、1986年[原著1960年]、106頁)

もちろん、コーエン氏が本当にフロムの“自由からの逃走”という議論を念頭においていたかどうかは分からないし、このフロムの議論が本当に昨今の宗教テロを理解する鍵となるかどうかについても、私にはまだ100%の確信はないが、もしもフロムの議論がまさにそのための鍵だとするならば、私の博士論文の第5章でハイエクの現代的意味を論じようとする場合に、取り上げないわけにはいかない非常に重要なトピックになることと思う。

このまま中途半端にこの問題を脇においておくことはできないので、またしばらく、博士論文の執筆の手を止めて、原理主義による宗教テロの問題を考えるための読書に邁進することにしよう。いまさら躊躇していても始まらない。脇においておくには、あまりにも重要なトピックと私には思われてならないのである。

この問題が私のハイエク研究とどのようにつながることになるのかはまだ明白には分からない。ただ、「どうもつながるような気がする…」という直観としか言いようのないものである。しかし、かくも強く私の心を駆り立てる以上、そこには何かがあるに違いない。

現実と理論の往還運動は、相変わらず多大な労力を要する作業であるが、そこにこそ、私の研究の生命線もあるように思われる。躊躇逡巡することなく、前進あるのみである。

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2005年7月21日 (木)

博士論文の執筆再開

今朝は久しぶりに、博士論文の執筆を再開した。5月30日以来だから、実に1ヶ月半ぶりのことである。

しばらく執筆の手を休めざるを得なかったのは、ひとつは授業に忙しかったためだが、それだけではない。第3章までの本文を書き終えたところで、どうしても手を休めざるを得なかった。いよいよ山場に入ってくるので、それまでのように授業をしつつ、その合間の時間をこまめに利用するというやり方ではなく、夏休みに入ってから、じっくりと取り組みたかったからである。

ちなみに博士論文の章構成の構想は、次のとおりである〔( )内は本文の字数〕:

はじめに 21世紀にハイエクを論ずる理由(7,032)

第1章 全体主義批判-“市場さもなくば隷従”(13,035)

第2章 自由論-その二元的構造(35,532)

第3章 文化的進化論-市場秩序の“意図せざる出現”とその意味転換(22,702)

第4章 分配的正義批判と議会制改革論-ハイエク的エリートの統治術

第5章 ハイエクの現代的意味-現代のグローバリゼーションはハイエク的理念の実現か?

ついでながら、論文のタイトルを(より正確に言うとサブタイトルを)4月29日に書いたのとは少し変えて、「F・A・ハイエクの政治思想-自生的市場秩序論における政治権力の問題」とするかもしれない。まだ確定的ではないが…。

上記の各章タイトルも、まだ仮のものである。

それはともあれ、第3章までの本文の字数を合計すると、78,301字=およそ195枚(400字詰め原稿用紙)である。これに残りの二つの章の本文と、全章の注を合わせると…400枚ぐらいにはなるだろうか?(なってくれるだろうか?)

少し心配しているのは、論文の字数がそれ相応のものになってくれるかどうか、字数が足りなくならないか、ということだ。しかし、そんなことはとにかく書いてみなければ分からないので、余計な取り越し苦労というものかもしれない。

この『研究日記』で最近、現代の世界情勢について試しに論じてみたのは、上記の第5章を意識してのことだった。

第4章では、いよいよハイエクにおける政治権力の問題を真正面から取り上げることになる。おそらくこの博士論文における最も重要な章になるだろう。

そう考えると、「はたしてうまく書けるだろうか?まだ勉強が足りないのではないか?」といった不安が頭をよぎる。

たしかに一方では、まだ文献を集める必要はある。そのために昨年度中に申請した、勤務大学内での学術振興基金の利用が、幸いにも今年度は認められているので、その基金はぜひとも活用し、文献を読まなければならない。

しかしながら、それと同時に、基本的なアイディアがすでに頭の中である程度出来上がっているのも事実である。したがって、少なくともその基本的アイディアの部分に関しては、これ以上あれこれ取り越し苦労して躊躇するよりも、思い切って書き始めてみるべきなのだ。

まだ夏休み前の大学の仕事が完全に一段落したわけではない。実はまだ今日も2コマの補講が残っているし(結局、学期中に風邪を引いて、5月下旬のことだったが、休講してしまった…)、その後には試験の実施・採点が控えている。これがなかなか労力の要る作業だ。神経を使う作業でもある。

とはいえ、もう週に8コマの授業を毎週毎週こなさなければならない、ということはなくなった。夏休みは目前である。

そんなわけで、今日からまた博士論文の執筆を再開することにした。書いてみなければ分からないが、とにかく前に進んで行こうと思う。

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2005年7月15日 (金)

国際テロとグローバリゼーションをめぐって(3・完)

ハーバード大学のケネディ・スクールでテロリズムを教えているJessica Sternの著書 Terror in the Name of God: Why Religious Militants Kill HarperCollins Publishers, 2003)――この連載(1)の第4段落ですでに一度引用させていただいているが――によると、テロリストのリーダーたちは若者に次のように教えているという:

IMF、世界銀行、そして国連は、伝統的な諸価値を絶滅させるという目的で、資本主義と世俗的な諸観念をわれわれに押し付けている(p. 283

しかしながら、彼らの怒りや苛立ちは、近代化あるいは産業化そのものに向けられているのではない。むしろ、西洋的な文化は拒否しつつも、欧米諸国と同様に自分たちも産業化し、国際的な地位において欧米諸国と肩を並べたいにもかかわらず、それがかなわないことへの苛立ちに他ならない。実際、Jessica Sternも正しく指摘しているように、彼らは他方でインターネットなどの現代技術を旺盛に活用しているのである(ibid.)。

池内恵著『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書、2002年)によると、現在のアラブの苦境の源泉は、19676月、第3次中東戦争においてエジプト・シリア・ヨルダン軍が六日間でイスラエル軍に撃破され、パレスチナの土地全域がイスラエルの支配下に入ったこと(「六日間戦争」)にさかのぼる。これを機に、それまでのアラブ世界で知識人を方向付けていた、ナセルの「アラブ民族社会主義」がその思想的生命を失い、社会思想の分極化が始まった。一方で急進的なマルクス主義へと向かう流れが生じ(日本赤軍もこの系列に属していた)、他方で宗教信仰への回帰現象、「イスラーム主義」の潮流が生まれてきた。前者の人民闘争による世界革命の目論見が潰えていく中で、後者のイスラーム主義が主流となり、それが過激化したのが、現在のイスラーム原理主義だというのである(同書第1部「アラブの苦境」を参照)。

この池内氏の議論から汲み取れるのは、イスラエルとその背後に控えるアメリカ(と欧米世界)に対するアラブ世界のきわめて屈折した、アンビヴァレントな感情である。イスラム原理主義者が信仰への回帰をかたくなに求めるのは、彼らが近代化あるいは産業化にまったく背を向ける純然たる復古主義者だからではない。彼らが拒否するのは西洋的な近代化・産業化だけである。実際、911を起こしたテロリストたちは、欧米に留学経験のあるアラブ社会のエリートであったことは、周知の通りであろう。彼らは上昇意欲に目覚めた知識人なのである。にもかかわらず、彼らにとって、世界の現状は彼らの上昇意欲を満足させるものとは到底思えない。自国の統治体制や、統治の中身はどうであれ石油の確保のために中東諸国の政治的安定のみを求める欧米諸国が、彼らの上昇意欲を妨げる不当な勢力に映っているのである。

だとするならば、そのような現状の中で、衰えゆく覇権を何とか維持するために後発国・途上国に対して強引に国際統合・市場開放を求めるアメリカの現在のやり方は、やはり、どうみても国際的な不安定要因とならざるをえないだろう。自国中心主義的な、首尾一貫しない二重基準は、国際的なテロリストたちにとって、攻撃の対象とするのに格好の大義名分を与えてしまうのである。

アメリカをはじめとした先進諸国の途上国に対する自由貿易交渉や金融自由化交渉において、先進国政府の背景に存在しているのは、先進国内の産業界・金融界の利害である。

現在のようにグローバリゼーションが進む以前であれば、そのような諸利害は現在ほどには後進国・途上国に大きな影響を及ぼすことはなかったであろう。それは基本的には国内政治の場での分配をめぐる争いにとどまることができた。冷戦時代に東西の緊張が高まっていたときには、国内政治での諸利益集団の要求を政府が対外政策にストレートに反映させることは、西側陣営の結束を乱さないという観点から、慎重に避けられていたからである。

しかしながら、その冷戦が終わることで却って、かつての西側陣営諸国の間で経済摩擦が深刻化しつつある現代(EU憲法の批准手続きが頓挫したのも農業補助金の扱いをめぐっての英仏の対立ゆえであった)、先進国内の産業界・金融界は、かつてのように自己の属する利益集団・圧力団体の要求実現を自国の政府に迫ることはもはや許されないであろう。各国政府が国内政治上の諸要求を対外政策に反映させることを避ける必要性を感じなくなったため、このグローバル化の進んだ現代において、その悪影響が先進国の対外政策を通じて地球大の規模で世界各国に及んでしまうからである。

市場競争の論理から逃避して政治に頼るという行動様式は、ハイエクの最も嫌うところであった。

だとするならば、現代の先進国に要求されることは、たとえ厳しいものに思えようとも、ハイエクのメッセージに改めて耳を傾けることではないだろうか。さもなければ、かつて自由市場経済が「資本主義」と呼ばれ、所詮は資本家階級の利害を労働者階級に対して押し付けるためのものに過ぎないとされていたの同じように、現代のグローバル経済も、「北」の豊かな国々の利害を「南」の貧しい国々の犠牲のもとに追及するためのものにすぎないという不公平感が、善と悪の戦いという終末論的な信仰と結びついたテロリズム――かつてのマルクス主義も要するに一種の終末論的信仰であった――という怒りの刃となって、われわれ先進国に向けられ続けるだろうと思われるのである。

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2005年7月14日 (木)

国際テロとグローバリゼーションをめぐって(2)

金子勝『反グローバリズム――市場改革の戦略的思考』(岩波書店、1999年)によると、「グローバリゼーションの本質は、市場が世界規模に広がってボーダレス化するといった表面的現象にあるのではない。冷戦終了後も冷戦型のイデオロギーの残像に寄りかかりながら、なおアメリカが強引に覇権国であり続けようとする『無理』が、今日のグローバリゼーションをもたらしているのである」(27頁)。

金子氏に言わせれば、「すでに製造業と貿易収支という点から見れば、アメリカの経済力は中期的に衰退しており、覇権国の地位にとどまる必然性を失っている」(同書21頁)。そのような状況に追い込まれる中でアメリカが1990年代にとった対外経済政策が、金融自由化要求に他ならなかった。巨額の貿易赤字をファイナンスするためには多額の資金がアメリカに流入してこなければならない。そのためにアメリカがとっているのが高金利政策である。その高金利でアメリカに資金を呼び込みつつ、その資金の運用先を海外に見出して投資収益をあげ、膨大な対外債務を何とか支えていくためにこそ、アメリカは貿易黒字国に「市場開放」を迫って金融自由化要求を突きつけた。それがIMFや世界銀行などの国際機関を通じて新興工業国や発展途上国にも及んでいったが、それが国際的な短期資本移動をもたらし、それらの国に破滅的なバブル経済をもたらしたのである(同書21-26頁)。

このような不安定な金融自由化は、自由貿易論者の現代における代表格のバグワティ氏でさえそれを非難の対象としていたことを考えると、このアメリカの強引な金融自由化要求は、国際政治経済秩序を極めて不安定なものとしてしまっていると言って間違いないだろうと思われる。

ここで思い出されるのが、ロバート・ギルピンの「覇権理論」、すなわちアメリカがその圧倒的な軍事力・経済力によって国際公共財を提供していたことが自由貿易体制を安定的に維持してきた――という議論である。ついでながら、冷戦時代に日本が「軽武装の通商国家」を目指す吉田茂の路線を池田内閣時に定着させ、軍事的な考慮から解放される中で、ライセンス料を払いさえすればアメリカからの技術導入も寛大に許され、アメリカに集中豪雨的な輸出をしながらひたすら経済発展に邁進できたのは、冷戦期のアメリカがギルピンの言う覇権国としての役割を果たしてきたからだということは、いまさら言うまでもあるまい。

要するに、冷戦期に西側陣営で自由貿易体制が形成され、維持されてきたのは、覇権国のアメリカがその圧倒的な国力を背景に、自由貿易体制を維持するという強固な政治的意志がそこに働いていたからであった。その突出した経済力ゆえに、アメリカ市場を西側同盟諸国の輸出先として開放したとしても、アメリカ経済は依然として優位性を保ってきたのである。

ハイエクが唱えていたことは、市場競争が自国に有利に働こうがそうでなかろうが、市場競争のルールに厳格に従い、政治的手段に訴えることなく、市場競争のゲームにおいてフェア・プレーに徹することであった。

しかしながら、アメリカにせよ、その他の先進国にせよ、自由市場競争の論理に首尾一貫して従う用意は、依然できていないようである(もちろんわが国も)。さもなければ、工業製品や金融市場においては門戸開放を後進国に要求しつつ、農産物については自国の農業を保護するという二重基準を示すはずはない。このような二重基準はハイエクの最も嫌うところであった。たとえバグワティ氏が指摘するように途上国の方も高い保護関税を敷いているとはいえ、自由貿易をめぐる先進国の二重基準は決して許されるものではないだろう。

とはいえ、このことを逆に言えば、ハイエクの主張にもかかわらず、政治的な考慮というものは、首尾一貫した自由市場の論理に屈しないだけの根深さをもっているのだということなのかもしれない。

しかしながら、アメリカをはじめとした先進国のそのような態度は、途上国・後発国の怒りを買うだけであろう。それのみが昨今の国際テロの原因とはいえないにせよ(というのも、たとえば中東諸国の腐敗した不公正な国内統治体制も、自国民を絶望に追いやりテロに走らせるにあたって、大いに責任があるからである)、少なくともそれは国際テロを誘発する一つの大きな原因と言えるのではなかろうか?

〔続く〕

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2005年7月13日 (水)

国際テロとグローバリゼーションをめぐって(1)

77日にロンドンで起こった同時多発テロがまたもや世界を震撼させた。慄然たる思いを抱いたのは私だけではあるまい。

なぜ彼らはあのような手段に訴えるのか?なぜそこまで豊かな先進国を目の敵にするのか?――2001911日以来、この問いが私の頭をことあるごとに駆けめぐる。

しかし、「宗教的信念にもとづくテロリズム」は私の専門分野ではないので、この分野に下手に踏み込むわけにはいかない。気になって仕方がないのでいくつか文献を集めて読んでみるのだが、下手な寄り道を許さない、きわめて内容豊富かつ複雑な研究分野なので、私の読書はどうしても断片的にならざるを得ないのだ。研究者としては、根拠の薄い主張を無責任に行なうわけにはいかないので、この分野に関する専門的な発言は差し控えねばなるまい。

とはいえ、イスラム原理主義のテロリストたちがグローバリゼーションを「アメリカのイスラム支配のための道具」とみなしていることは間違いないであろう(cf. Jessica Stern, Terror in the Name of God: Why Religious Militants Kill, HarperCollins Publishers, 2003, pp. 40-41)。

彼らの主張がどこまで正しいかを詳細に吟味する能力は現在の筆者にはないが、現在のグローバリゼーションの有様には彼らの怨念の対象となっても仕方のない側面があることは否定できないように思う。

そして、その現在のグローバリゼーションの有様は、ハイエクの唱えていた “extended order” の概念とも異なるものである。

そこで今回は、アメリカ主導の現在のグローバリゼーションについて、筆者がこれまで読んできたことを思い起こしつつ、自分の心の中を整理するためにも、ここで表現してみたいと思う。

大野健一著『途上国のグローバリゼーション――自立的発展は可能か』(東洋経済新報社、2000年)によると、1990年代に入ると「後発国は既存の国際システムへの速やかな統合――アメリカ型の価値・制度・ルールの受容――を要求されている。通常それは、改革、自由化、対外開放、収斂、国際標準の採択といった形をとる。こうした圧力は過去にもあったが、今日ほど性急かつ包括的なものではなかった」(4頁)。この書物における大野健一氏の問題意識は、「この誘われたあるいは強制された国際統合の中で、産業も政策も制度もまだまだ未熟な国――とりわけ最貧国や体制移行国――はこの過程をうまく管理することができず、その結果、かなり無理な対応が行なわれつつあるのではなかろうか。すべての国がそうだとはいわないが、対外開放にともなうショックで困難に陥る後発国はかなりの数にのぼるのではないだろうか。自立的な経済発展と国際統合の要請をいかに両立させるかが、開発政策の最大の課題になりつつあるように思われる」というものであった(同書3頁)。

それにしても、なぜ1990年代以来、後発国はこのような性急かつ包括的な国際統合の圧力にさらされることになったのだろうか?

〔続く〕

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2005年7月 6日 (水)

スティグリッツとバグワティのグローバリゼーション論(3・完)

スティグリッツ氏(ス氏)はグローバリズムを「世界にとって不幸なものにした」元凶をIMFと米国財務省に求めているが、バグワティ氏(バ氏)の方もグローバリゼーションの本当の顔とは異なる「その他の側面」として、(国境を越える人の移動と共に)「無謀な国際金融資本主義の危険性」をあげ、よく使われる“ウォール街=財務省複合体”という言い回しにバ氏は言及している。

IMFを含めるか否かの違いはあれ、両者ともに米国務省の行動を問題視し、国際金融資本の地球大での膨大な投機行動に、グローバリゼーションの負の側面を認めているのである。ス氏は言うまでもないが、バ氏でさえ、「肝心なのは最大ではなく最適の速さ」として、自由貿易体制への移行期に際して、途上国に最適ではなく最大の速さを不当に要求する“ウォール街=財務省複合体”の強大な政治的影響力とその奥に控える富裕国の圧力団体を、辛辣に批判していた(397頁)。

また、途上国が保護貿易から自由貿易へと転換する際に、たしかにバ氏はス氏ほどには失業率増大の危機について悲観的ではないものの、それと同時にバ氏は、国際競争によって打撃を受けた労働者や業界に調整支援を行なう必要性を力説している(『擁護する』355-364頁)。

それに何よりも重要なのは、両者ともに、現在のグローバリゼーションの最大の問題点をグローバル・ガヴァナンスの欠如、すなわちグローバリゼーションが世界大での粗暴な自由放任主義に成り下がっている点に求めていることである。ス氏は『正体』においてそれを「世界政府のない世界統括」と表現しているが(『正体』39-44頁)、バ氏でさえ『擁護する』の第4部のタイトルを「適切なガバナンス-よりよいグローバリゼーションのために」とし、「グローバリゼーションは放っておいて最大の効果を発揮するわけではない。〔中略〕グローバリゼーションは適切に管理してこそ、よりいっそうの効果を生むのである」と主張して、そのための方策を詳しく論じていたのである(『擁護する』339-397頁)。

このように、この二人の一流の経済学者が、多少スタンスを異にしつつも、現在のグローバリゼーションの最大の問題点を、要するにそれが世界大での粗暴な自由放任主義に陥っている点に求めていたことの意味は非常に大きいと思われる。

それはまた、ハイエクの残したメッセージを21世紀のわれわれがどのように受け止めるべきかという私自身の研究課題にも大変に大きな意味をもつだろうと思う。というのも、自生的秩序論で有名なハイエクではあるが、それは言うまでもなく、ハイエク自身も強調していたように、決して無責任な自由放任主義ではなかったからである。

そういう意味で、スティグリッツ氏とバグワティ氏という、いずれも一流の経済学者が、グローバリゼーションの本来の姿を人々にとって有益なものとしつつも、現在のグローバリゼーションの問題点について共通の認識を実は持っているということは、筆者のハイエク研究にとっても、非常に大きな意味をもつことになるだろうと思う。

ここでスティグリッツ氏とバグワティ氏のグローバリゼーション論についての(簡単な)比較を終え、そこから得られた結論――現在のグローバリゼーションは世界大での自由放任主義――を踏まえつつ、ハイエク的観点から現在のグローバリゼーションをどのように考えるべきかについて、いずれまた機会を改めて論じてみることにしたい。

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2005年7月 4日 (月)

スティグリッツとバグワティのグローバリゼーション論(2)

まず両者に共通するのが、「グローバリゼーションは本来、世界にとってよいものだ」という認識である。その点で、グローバリゼーションを本来的に悪とみなす過激な反対論とは明確に一線を画している。

両者の違いは、その基本認識を踏まえた上で、スティグリッツ氏の方が「その本来よいはずのグローバリゼーションを世界にとって不幸なものへと歪めてしまったのは誰か」という問題意識から、その犯人をIMFと米国財務省とみなして、徹底的に糾弾することに主眼を置いているのに対して、バグワティ氏の方は、「グローバリゼーションは人間の顔を持っていない」とする過激な反グローバリゼーション運動に対して、「グローバリゼーションは人間の顔を持っている」とし、グローバリゼーション本来のよさを強調しつつ、反グローバリゼーション運動がグローバリゼーションのせいだとしているさまざまな悪現象-貧困、児童労働、女性の地位低下、民主主義の危機、文化の侵食、環境の危機等-は、本来のあるべきグローバリゼーションのせいではない(要するにそれらは“濡れ衣”だというわけである)とする主張の展開に主眼を置いている-という点である。

またバグワティ氏(以下バ氏と略記)の書物の方があとに書かれたという事情から、氏の『擁護する』にはスティグリッツ氏(以下ス氏と略記)の『正体』を意識し、批判している論述の箇所が(私の見つけた範囲では)二つある。それは第一に、貿易の自由化により輸入品と競合する途上国内の産業での失業を懸念するス氏の議論に対して、バ氏は解雇された労働者が失業したとしても貿易自由化で拡大するであろう輸出セクターで新たに職を得る者もいるから、全体としての失業率は変わらないと反論している箇所であり(『擁護する』387頁)、第二に、途上国に融資を行なおうとする国際機関が融資先の途上国に対して課そうとする貸付条件(コンディショナリティ)をス氏が途上国の抵抗を許さない強制的なものとしているのに対して、バ氏の方は、被融資国たる途上国はもっとしたたかであり、そう簡単に融資主たる国際機関の言うことに従いはしないものだと論じている点である(392-396頁)。

さらに、ス氏を直接批判したものではないが、バ氏は「国際機関や富裕国が自由化の推進を謳いながら、その実、裏で自国産業の保護政策を維持していることを、偽善、ダブルスタンダードだ」とする議論に対して、「貧困国の保護関税は平均して富裕国のそれよりもずっと高い」と反論している(『擁護する』21頁)。そして、貧困国が保護貿易主義の愚をここ10年の間に悟り、経済を開放し始めたことを評価している(同354頁)。

以上のような違いが両者には存在しているのだが、しかし、ある重要な点で、この両者の論旨は一致していた。それは、地球規模での短期資本移動を厳しく批判している点である。〔続く〕

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2005年7月 3日 (日)

スティグリッツとバグワティのグローバリゼーション論(1)

以前にも書いたが、私がずっと気にしているのが、グローバリゼーションである。

現在のグローバリゼーションとは一体何なのか-グローバリゼーションについての書物はそれこそ汗牛充棟の観を呈しているが、最近私にとって大変参考になったのが、次の2冊の書物であった:

ジョゼフ・E・スティグリッツ(Joseph E. Stiglitz)『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(鈴木主税訳、徳間書店、2002年)、原著は Globalization and its DiscontentsW. W. Norton & Co. Inc., 2002)。ついでながら、このタイトルから例のフロイトのCivilization and its Discontentsを連想してしまうのは私だけだろうか…?

ジャグディッシュ・バグワティ(Jagdish Bhagwati)『グローバリゼーションを擁護する』(鈴木主税・桃井緑美子訳、日本経済新聞社、2005年)、原著はIn Defense of GlobalizationOxford University Press, 2004)。

この両者は、言うまでもなく、大変有名な経済学者である。念のために、上記の書物で紹介されている両者の経歴を、ここでも簡単に紹介しておこう。

スティグリッツ氏(1943年生)は現在コロンビア大学教授。英ケンブリッジ大で博士号を取得。エール、オックスフォード、プリンストン、スタンフォードといった錚々たる大学で教鞭をとる。19933月から19971月までクリントン政権の大統領経済諮問委員会に参加(95年6月からは委員長に就任)、その後1997年に世界銀行に移り、チーフエコノミスト兼上級副総裁を20001月まで務めた。2001年にはノーベル経済学賞を受賞している。『正体』は世界銀行にいた時の経験をもとに書かれたグローバリズム批判の書である。

バグワティ氏(1934年生)はインド生まれの国際経済学者。英ケンブリッジ大を最優秀の成績で卒業後、MITやオックスフォードで学ぶ。20歳代で国際貿易学者としての地位を確立した。GATT事務総長の経済政策顧問、国連のグローバリゼーション問題に関する特命顧問、WTOの外部顧問などもつとめる。「1980年よりコロンビア大学の教授となる」-ともあるから、スティグリッツ氏と同じ大学に勤めていたことになる。それ以上のことは書かれていないので、バグワティ氏が現在もそうなのか、あるいは年齢から考えてもう退職しているかは分からない。もしかすると、バグワティ氏の後任がスティグリッツ氏なのかもしれないが、調べてみないと分からない(今度調べてみます)。

さて、この2冊は、タイトルだけを見比べると、グローバリゼーションに対して全く対極の姿勢に立ったもののような印象を受けるかもしれない。たしかに、この両者の間には多少のスタンスの違いは見受けられる。

しかしながら、私の読んだところでは、この両者には意外にも共通する面が少なからず見受けられた。本のタイトルからすれば一見まったく立場を異にすると思われる書物の間に見られる共通点であるだけに、われわれはそれを重要なメッセージとして受け止めるべきだと思う。まだ全部を読みこなしたわけではないが、主張の核心と思われる点については読み取れたと思うので、それを簡潔に比較してみたいと思う。〔続く〕

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2005年7月 1日 (金)

運動不足解消宣言

以下の文章は、6月28日に学内サイトに掲載した文章である:

“運動不足解消宣言”-われながら、大上段に構えてしまった。しかしながら、このように“宣言”しようと思ったのは、やはり運動不足は解消せねば…と決心したからである。

昨日のエッセイで、「週に3日以上は運動を-というのは今の私には難題中の難題だ」と書いたばかりだった。たしかに、サッカーなどのような激しいスポーツに耐えるだけの体作りをするのは、今の私には時間的にも無理な話だし、また、そうしたいという気持ち(つまり、サッカーを自分でプレイしたいという気持ち)も、感じなくなっている。今の私は、サッカー部やフットサル部の顧問としては、今や、学生を応援する応援隊に徹している次第である。

そんな訳で、今の私はもう、中学校や高校までのような厳しい体力トレーニングをつむことは到底できないし(特に高校生の時にはかなりハードなトレーニングをしたものだったが…)、また、しようとも思っていないのである。

しかしながら、考えてみれば、何もそんなに大げさに考える必要などなかったのだ。仕事を末永く健康に続けていけるだけの体力があれば、それでよいのである。

だとすると、「ブレスローの評価点」なるものが「10点満点中5点」というのは、やはり困るなぁ…、と思い直した。

もうサッカーが出来なくても一向に構わないが、仕事を元気いっぱいに続けられないとなると、やはりそれは大変つらいことだからである。今の仕事が自分は大好きだから、それに必要充分な健康・体力は、やはりなんとしても維持したいのである。

そこで「有言実行だ!」と思い、今回の宣言となったわけだが、なにも大げさなことをしようというわけではない。週に3日は、自宅から最寄の駅(近鉄の大和八木駅)まで、徒歩約25分の距離を歩いてみようと思うだけの話である。

これまでは駅まで自転車で行っていた。それを全て徒歩に切り替えるとなると、駅前の駐輪場と月極契約している意味がなくなるから、どうしたものか…と思っていた。

しかし、よく考えてみると、別に何も「自転車か徒歩か」と完全な二者択一で考える必要はない。時には徒歩で、時には自転車で通えばよいだけの話だったのである。健康診断結果にも「週に3日以上は」と書いてあったではないか。「毎日」とは書いていなかったのである。

そんなわけで、これからは、まずは週に3日、自宅-駅の往復を徒歩で通おうと思う。その結果、体力がどんな風に回復したかについては、後日のエッセイを期待していて下さい。

-というわけで、3回続いた「健康シリーズ」は、これでひとまず一段落だ。健康を維持、否、増進しつつ、研究に勤しんでいきたいと思う次第である。

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健康診断結果に一喜一憂…

以下の文章は、6月27日に学内サイトに掲載した文章である:

6月7日の定期健康診断の結果が正式に出た。「健康診断結果のお知らせ」というタイトルである。数日前に出ていたのだが、昨日、ようやく開いて読んでみた。

6月7日のエッセイにも書いたように、“内臓環境”(とでも名付けておこう)は良好だ。血圧の最大/最小は106/60、尿には蛋白も糖も潜血も含まれていなかった。胸部X線も「異常所見なし」であった。この点では大変満足な結果である。

ところが、「指示・指導コメント」という欄には、次のように書いてあった:

「やせぎみです。好き嫌いはありませんか。体重の変動に注意しましょう」

う~む…。「やせぎみ」-これは予想通り。

「好き嫌い」?-ないつもりだけど…あぁ、そういえば「肉」は食べないなぁ(牛肉と豚肉はまず食べない。鶏肉はたまに、外食先でメニューの選択に困って仕方なく選ぶことはある)。野菜・穀類・果物が好きである。

でも、この種の「好き嫌い」は、むしろ健康にはよいと思うのだが…?

この「指示・指導コメント」欄には、次のようにも書いてあった:

「ブレスローの評価点は5点です。6点以上になるよう努力してください」

ブレスローの評価点?-説明によると、どうも10点満点の健康評価の仕方らしい。う~む、5点ね…。100点満点だとすると50点か。60点未満…うちの大学の試験だと「不可」やがな(苦笑)

つづいて、「指示・指導コメント」曰く…:

「日ごろから体を動かすことを心がけ、散歩や体操など自分にあったものを取り入れ、週に3日以上を目標に運動しましょう」

週に3日以上…!? う~む、今の私には難題中の難題だ。

要するに、“内臓環境”はよろしいが、やせぎみで運動不足-という結果である。運動不足ね…。どうこれを解消するかが、今の私の悩みである。

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