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2005年8月 7日 (日)

ハイエクと村上泰亮(1):その相違について

わたくしの当面の課題となっていた「ハイエクと村上泰亮との比較」をこのほど一段落させることができたので、試論的にここで掲載することにしよう。


村上の開発主義とハイエクのちがいを一言で表現するとすれば、それは、技術革新が創造型から応用型に変わり、予測可能性が大きくなった段階において、政府の果たすべき積極的な役割を認めるか否か、という点にあると言えるだろう。

『反古典の政治経済学』(中央公論社、1992年)の下巻において展開されている村上の開発主義の重要な柱は、重点産業の指定などを内容とする産業政策であるが、ハイエクには、技術革新が創造型であろうと応用型であろうと、政府に村上流の重点産業の指定等の役割を積極的に認める議論は存在しない。ハイエクの何よりの関心は、社会に分散してしか存在しない知識を有効利用し、常に新たな知識が出現してくる可能性を開いておくために、万人に自由を認めようとすることだからである。ハイエク的観点からするならば、政府による重点産業の指定は、将来の新たな可能性の扉を閉ざす恐れを伴うものなのである。ハイエクはその著『自由の条件』の序言において、その著作の意図は「将来の発展の扉が閉ざされること――それは国家がある発展を単独でコントロールするときには決まって起こるのであるが――を防ぐことである」と述べている(『ハイエク全集5 自由の条件』春秋社、5頁。ただし訳は改めた)。

ところが、村上に言わせれば、技術革新が創造型から応用型に変わったがゆえに需要拡大についての予測可能性が大きくなり、しかもそれが成長期の産業に特有な費用逓減状況(すなわち収穫逓増状況)にある場合、産業政策は過当競争を防ぎ、適度な競争を維持するために必要不可欠なものとなる。

というのも、予測可能性が大きくなるとともに費用逓減状況にある場合、生産すればするほど利益が増大することが確実になるため、政府による介入がない場合、当該産業に属する各企業の生産拡大行動には歯止めが効かなくなり、熾烈なシェア拡大競争が展開されることになるからである。その場合、各企業は他社を締め出そうとして価格ダンピングを相互に応酬させることになるだろう。その結果は、価格引き下げ競争による共倒れか、熾烈な競争を耐え抜いた企業による寡占あるいは独占である。そこに発生する企業破産と失業の発生は深刻な社会問題を生み出すだろう。そのような寡占あるいは独占が出来上がってしまうと、新規企業の参入も、既存の寡占・独占企業によるダンピングによって妨げられてしまうことになるのである。

村上に言わせれば、このような事態を防ぐためには、政府がある種の介入・指導を行なって、独占や寡占の発生を予防し、いわば「多占」の状況を維持しなければならない。そういう意味で、村上の言う産業政策は、短期的には統制政策に見えるかもしれないが、長期的にはむしろ競争維持政策なのである。

その産業政策のエッセンスは、重点産業の指定、産業別の指示的計画、技術進歩の促進、そしてダンピングによる破滅的な競争を防ぐための価格カルテルの公認である。この価格カルテルを守りさえするならば、外国企業の参入を排除する必要はない。外国産業を締め出す保護主義政策は、外国企業が価格カルテルを守らない場合の次善の策にすぎない。村上によれば、「戦後日本では、目標指定された産業への新規参入の規制が行政的指導の形でかなりの程度行なわれた(とくに外国企業の参入は法的に厳しく規制された)。この規制は閉鎖的グループを作り出す。政策当局が企業を説得し指導する上では便利だろうが、理論的には意味がない」のである(『反古典の政治経済学』下巻96頁)。

いずれにせよ、村上の開発主義のエッセンスは、このような産業政策によって有望産業の順調な成長を国を挙げて実行することである。ところが、「理性の限界」「人間の無知」を強調するハイエク的観点からするならば、政府による有望産業の予測・指定が必ずしも適切なものとなる保証はないであろう。実際、有望産業の予測の難しさについては、村上も開発主義に伴う困難の一つとして挙げている。しかしながら、村上に言わせれば、第二次世界大戦後の世界では、有望産業の予測は比較的容易だった。そのような場合、政府による重点産業の指定は、競争を破滅的・自殺的なものとしないためにも必要不可欠だったのである。

しかしながら、村上も認めているように、産業政策の真の難しさは、むしろ重点産業指定の解除にある。技術革新が一段落し、製品への需要拡大が減速すれば、費用逓減状況が終了する。そうなったとき、産業政策には存在理由がなくなる。ところが、いったん成立した産業と政府の関係は、それを成り立たせた前提条件が消滅した後にも、いわば腐れ縁となって存続し、産業政策がたんなる保護政策へと成り下がってしまう危険性が存在するのである。

ところが、このような惰性的産官関係は、ハイエク的な自由主義の統治スタイルからは発生の余地がない。村上によれば、開発主義のアキレス腱は、重点産業の指定を時宜を得た形でいわば「日没」させることができるかどうかにあるが、ハイエク的な政治経済システムは、重点産業の指定といった産官関係の形成をそもそも認めないのであるから、そのような心配とは全く無縁なのである。

このような簡明さを誇るハイエク的な政治経済システムが実施可能となるためには、しかしながら、ナショナリズムからの脱却という条件が必要となるだろう。というのも、国際的に考えた場合、実際には各国のナショナリズムが依然として強く、国力の基礎としての経済力増強を目指した激しい経済競争が繰り広げられているという現状を考えると、開発主義は、後進国にとっても先進国にとっても、必要不可欠なものとなるからである。国際的な経済競争が熾烈に行なわれている場合、他国の後塵を拝することなく、有望産業における経済成長の可能性を無駄なく追求するためには、開発主義的な産業政策によって、国を挙げて産業化を意識的に目指す努力がどうしても必要となるのである。

また、とくに後進国が「追いつき」型の近代化・産業化を急速に行なおうとする場合、その急激な社会変動に伴う経済的・社会的な摩擦も看過できないから、それを緩和するための分配平等化政策(とくに農民に対する平等化政策)も不可欠になるだろう。すなわち、重点産業と非重点産業との間で必然的に発生する格差が社会的不満を生まないよう、政府が分配平等化政策を行なうことが必要となるのである。というのも、そもそも産業政策は重点産業と非重点産業との間の格差を公認し、結果としてそれを拡大するシステムであり、いわば近代部門と伝統部門という二重経済を生み出すものであるがゆえに、それが放置されれば、政治的統合に重大な亀裂が生じる恐れがあるからである。

村上によれば、その場合の分配平等化政策としては、新古典派的な、生産と切り離した形での再分配政策というよりは、価格や生産量に関連づけて行なわれる再分配の方が、むしろ好ましい。というのも、生産と切り離した形での所得追加は、賃金の維持・増加とは異なって、労働意欲を却って阻害することが大いに考えられるからである。それに対して、旧産業で働く人々の賃金を価格支持などの手段で維持する場合には、資源配分の面で非効率性が生じることは避けられないが、他方で、旧産業で働く人々の労働意欲は保存されることになるだろう。このように生産と関連づけて行なわれる分配平等化政策は、いつ「日没」させるかという点で大きな困難を抱えることにはなるが、急激な社会変動についていけない旧産業の人々の労働意欲の低下・生き甲斐の喪失という問題を回避し、産業化の達成に不可欠な政治的統合の維持のためには、どうしても必要とされるのである。このような分配平等化政策は、ハイエク的観点からは出てこないであろう。

また、第二次大戦後の大量生産・大量消費型の経済にとって、このような分配平等化政策は、高度大衆消費のための需要構造の創出という面においても、好ましい効果を発揮したのである。もしも社会が一部の大富豪と大多数の貧民とに分かれていたら、たとえば自動車需要はほんの一部の金持ちだけを対象とした高級車だけに限られていたことだろう。広範な分配平等化政策によって一般大衆にも購買力が生じたからこそ、一般大衆を対象とした大量生産・大量消費の産業が可能となったのである。

以上のような理由から、後進国にとっては、産業化のためにも、またそれに伴う急激な社会変動から生じる経済的・社会的摩擦の緩和のためにも、さらには高度大衆消費の需要構造の創出のためにも、政府の介入を認めない自由主義ではなく、産業政策と分配平等化政策とを柱とした政府の積極的介入を認める開発主義こそが、唯一可能な現実的選択肢とならざるを得ないと思われる。同様のことは、先進国にもある程度当てはまることだろう。というのも、先進国と言えども、他の先進国との熾烈な経済競争や、後進国からの激しい追い上げからの圧力を受けているからである。


ハイエクと村上の議論には、以上のような看過し得ない相違点があったが、筆者の見るところ、両者は意外にも重要な点で互いに共通してもいた。そこで、次回は両者の共通点について論じることにしよう。

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