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2005年8月 7日 (日)

主体的に読むこと

昨日8月6日付の本欄で、「ノートをとること」について書いたが、実をいうと、村上の議論を一からノートに整理する作業は中断した。なぜなら、昨日までの私が村上の議論にあまりにも巻き込まれそうになっていることに気付いたからである。

昨日の本欄に書いた「要約ノートの重要性」はもちろん変わらないが、昨日までの私は、自分が何故村上の議論を読む必要を感じていたかを忘れて、非常に内容豊かな村上の議論に圧倒されそうになっていたように思う。しかし、研究していく上で非常に大切なのは、主体性を失わないということなのだ。

もちろんそれは、独善的になるということではない。そうなってしまえば、それこそ研究者としては終わりである。他者の議論には謙虚に耳を傾けなければならない。本を読む場合には、その本において著者が何を言わんとしているか、客観的につかむ努力を怠ってはならないのである。その際に要約ノートを作ることは非常に有用である。

しかし、昨日は幸いなことに、自分の主体性・視点を取り戻してからは、ノートを改めて作らなくとも、線を引きながら読んでいく過程の中で、村上の議論の主旨を、自分にとって必要なかぎりでではあるが、すでに客観的につかんでいることに気がついたのだ。したがって、改めてノートを作成する必要はなかったというわけである。

私が村上の議論を非常に気にしていたのは、とどのつまりは、「21世紀を生きる日本人として、ハイエクのメッセージをどのように受け止めるべきか」ということを考えるためであった。というのも、村上の開発主義の議論は、他ならぬわが国の経験を踏まえて打ち出されたものだからである。それは、今日のグローバリゼーションの中で後進国の置かれている立場を考える場合にも必須の議論だと思われる。

しかも村上の議論の非常に重要な点は、もはや後進国の段階を脱したわが国に対して、開発主義からの脱却を説いている点である。私はその村上の慧眼に脱帽せざるを得ない。

そのようなわけで、村上の議論に敬服しつつも、私なりの視点から、「21世紀を生きる日本人として、ハイエクのメッセージをどのように受け止めるべきか」という問題について、下書きの文章を現在まとめつつあるので、それがまとまり次第、この『研究日記』に掲載しようと思う。

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