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2005年9月27日 (火)

脚注作業開始

脚注を作成する作業を開始し、まずは「はじめに」に必要な脚注を付すことができた。意外に早く進んだので、われながら驚いている。

それには二つほど理由があったように思う。一つは、やはり「案ずるより産むが易し」とはよく言ったもので、やり始めれば意外とスムーズに進んでいったということ。もう一つは、以前に書き溜めた諸論文の脚注を利用できたということ。特に、文献情報はそのまま「コピー&貼り付け」でOKだから、便利なものである。パソコンの便利さに今更ながら驚くとともに、これまで少しずつでも論文を書き溜めてきた積み重ねを思い、少し感慨深くなった。

しかし、まだ「はじめに」の脚注作業が終わったばかりである。引き続いて、第1章以降の作業を続けなければならない。

とはいえ、「はじめに」の脚注作業を終えて、ホッとしたことがある。それは、脚注を付けていくと、それだけで字数がグッと増すことだ。博士論文を書いてきて、いつも少し心配していたのが「字数が足りなくなりはしないか」ということだったが、本文だけでも、極力冗長にならないように書いたにもかかわらず、300枚を超えることができた(冗長な単なる字数稼ぎは論文としては却って逆効果である)。これに加えて脚注を全て作成し終われば、結構な分量になってくれることだろう。

授業開始まであと1週間をきったが、授業準備を進めつつ、脚注作業もコツコツと進めていきたい。

追伸:「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、お彼岸を過ぎると途端に朝晩がめっきり涼しくなった。彼岸花が一斉に咲いているのが大変印象的である。そこで、このブログのデザインも、ちょっと秋らしくしてみた。都会暮らしの私ではあるが、季節感は少しでも大切に保ち続けたいものだと思っている。

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2005年9月23日 (金)

博士論文目次変更分(9月23日現在):次は脚注

本欄9月15日に、現在執筆中の博士論文目次を掲載したが、その後、第四章と「おわりに」の部分を変更した。9月15日現在「おわりに」にしていたところを第四章に組み込み、あらたに「おわりに」を書き加えた。変更部分の目次は次のとおりである(変更したところのみ掲げる):

第四章 自生的秩序と政治権力――その現代的含意

(一、は変更なし)

二、現代的含意――二十一世紀の国際政治経済システムにとってのハイエクの意味

IMF・世銀の新古典派的な市場移行戦略――そのハイエクとの異質性

途上国を襲う急激な国際統合の波――その危険性

途上国にとってのハイエクの意味とは?――開発主義の問題

ハイエクと村上泰亮――その相違点

(a)産業政策をめぐって

(b)分配平等化政策をめぐって

(c)まとめ

ハイエクと村上泰亮――その共通点

(a)創造型の技術革新の必要性

(b)国際的な雁行形態の経済成長

残された問題

おわりに――市場原理復権の理想と現実

市場原理復権の理想――利益誘導型政治の抑制

市場原理復権の現実――バブル経済・貧富の格差・国家の退場

(a)バブル経済――非生産的な投機行動

(b)貧富の格差――産業構造の根本的変革の中で

(c)国家の退場――グローバル時代における政府の苦境

結 論

これまで本文の執筆・推敲に取り組んできたが、これでもう、本文については今度こそ一段落ついたような気がする。

これまでは、心のうちから促されるままに本文を書き、推敲を重ね、加筆・修正してきたが、不思議なことに、「もう本文はこれでいい」という感じが、内から湧き起こってくるのである。「さぁ、次は脚注だ」という気に自然となってきた。

これで本文執筆という「創造性が要求される仕事」は一段落した。あとは、創造性というよりは、「実務的な緻密さ」が要求される脚注である。

新学期の授業開始を約1週間後に控えているが、授業準備もぼちぼちと進めつつ、博士論文の脚注作成に全力で取り組んで行きたい。いよいよラストスパートである。

脚注作りには、本文執筆時とはまた別の忍耐が要求される。「時間がかかりそうだなぁ…」という気もしていたが、「なぁに、やりだせば、意外とあっという間さ!」という気もしてくる。

脚注作成は面倒のようにも思えるが、本文での議論の根拠・出典を示すところだから、学術論文にとっては大変大切な部分である。それに、脚注をつけていくと、これまで本文だけでいわば「裸」だった論文に、重要な衣装が着せられ、学術論文らしく引き締まった姿になっていくから、面白いものである。

さぁ、あともう一息である。やるしかない!

追記:今日は私たち夫婦の3回目の結婚記念日であった。9月8日に2歳となった娘を連れて、ささやかながら、サンマルクというレストランで昼食をとった。結婚して丸三年がたったわけだ。改めて、私にとってかけがえのない妻であり、子である、ということをヒシヒシと感じた。この大切な家族のためにも、仕事に邁進せねばならない。明るく楽しく進んでいこう!!

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2005年9月22日 (木)

議員になる動機とは?

昨日、自民党の新人議員83人が初登院したようだが、本日付の産経新聞の産経抄に、その自民党新人議員の一人--無派閥の小泉チルドレンと呼ばれる議員たちの一人--の様子が書かれていた。それによると、その新人議員は南関東ブロックの比例名簿35位で当選し、大喜びだという。彼は、「タナボタとは私のためにある」「早く料亭に行きたい」と屈託がなく、当選につい興奮して、議員歳費が2500万円、議員宿舎3LDK、グリーン車乗り放題の議員特権を暴露して幹事長から怒られた、というのである。

この記事を読んで私が思い出したのは、プラトンの議論である。プラトンは対話篇『国家』において、支配者の地位について、「支配とは強者の利益のためである」というトラシュマコスの説に対して、ソクラテスをして次のように反論させている:

すぐれた人たちが支配者の地位につくことを承知するのは、金のためでも名誉のためでもないのだ。なぜなら、支配者の仕事のために報酬をあからさまに要求することによって、金で雇われた者と呼ばれることも、役職を利用してひそかにみずからの手を汚すことによって盗人となることも、ともに彼らの欲するところではないからね。さりとてまた、名誉のためでもない。彼らは、名誉を愛し求めるような人間ではないのだから。〔中略〕もしすぐれた人物たちだけからなるような国家ができたとしたら、おそらくは、ちょうど現在、支配者の地位につくことが競争の的になっているのと同じ仕方で、支配の任務から免れることが競争の的になることだろう。そして、そのときこそ、真の支配者とはまさしく、自分の利益ではなく被支配者の利益を考えるものであるということが、はっきりとわかるだろう。(プラトン『国家』(上)岩波文庫、75-76頁。下線は山中が加えた)

「支配の任務から免れることが競争の的になる」というプラトンの言葉は、身近な例で言うと、たとえば学校で学級委員長や生徒会長を選ぶときのことを考えれば、よく分かるだろう。その場合、もちろん、自らすすんで立候補する生徒が皆無と言うわけではない。むしろ、積極的に立候補する生徒がいてくれる方が望ましいだろう。しかし、その場合の立候補の動機は、けっしてその役職に伴う「特権」ではなく、むしろ学校のために尽くしたいという公徳心からであるはずである。

したがって、国会議員への立候補においても、むしろ学級委員長に立候補するときのような、一種の謙遜とためらいを覚えた上で、なおかつそれでも公のために立たざるをえなくなったのだ-という動機が要求されるはずである。

上記のプラトンの言葉は、非民主主義者・哲人王政治論者プラトンだからこそだと考えられるかもしれない。それでは今度はハイエクの例を出そう。このたびの「小泉チルドレン」たちは、構造改革に賛成の立場で立候補し当選したのだから、市場自由主義のチャンピオン・ハイエクの次の言葉に少しは耳を傾けておいた方がよいだろう:

国民は、自分たちの特定利益に実際もっとも奉仕しそうな人々を選ぶ場合と、不偏に正義を維持すると期待できる人々を選ぶ場合とでは、おそらくまったく異なる人々を選ぶだろう。第一の任務〔特定利益に奉仕する任務〕に役立つには、第二の任務〔不偏の正義を維持する任務〕において最重要性をもつ誠実、思慮分別、および判断力とはまったく異なる特性が要求される。(『ハイエク全集第十巻 自由人の政治的秩序-法と立法と自由Ⅲ-』春秋社、158頁。下線は山中が加えた)

そして、ハイエクが市場秩序を保持する役割を期待していたのは、前者の「特定利益に奉仕する任務」につく人々にではなく、むしろ後者の「不偏の正義を維持する任務」につく人々だったのである。(詳しくはハイエク前掲書を読まれたい)

だとするならば、構造改革を推進するという動機で国会議員になったのであれば、少なくとも、このハイエク的精神を少しは見習う姿勢が要求されるだろう。

たしかに、現在の衆議院の制度は、ハイエクの提唱した議会制改革論とはあまりにも異なっている。というのも、ハイエクは公徳心あふれる人々が、党派にとらわれることなく、純粋に公正中立の立場で、市場秩序と法の支配を維持する任務に就けるよう、45歳から60歳までという、最大15年間の任期を保障し、いわば裁判官にも似た地位保障を立法議会の議員たちに付与することを提案しているからである。

それに対して、4年という短い任期の場合、しかも民衆を代表するエリートとしてというよりは、むしろ民衆の利害を代弁することが期待されている衆議院の場合には、国会議員という立場が、公への奉仕のためというよりは、まさに「報酬を得るための仕事」と化すことも、ある程度はやむを得ないのかもしれない。

それにしても、構造改革の推進という政治課題が、社会全体の利益あるいは国益のため(さらには真の意味での公正な自由貿易体制の維持という国際的な利益のため)というよりは、職業としての国会議員の地位を得るための単なる口実として利用されたのだとするならば、本末転倒も甚だしいであろう。そのような動機で構造改革を唱え、国会議員としての地位を得たのだとするならば、かつてのトラシュマコスのように、「構造改革とは“強者の利益”の別名なり」という抗議の声が湧き起こってくるに違いない。

構造改革の成否を占う試金石は、それが単に公務員の特権をうらやむが故の破壊のみに終わるか(したがって単なる金儲け主義の蔓延という結果に終わるか)、それともいかなる特権からも無縁な公正なシステムとして市場秩序を形成・維持できるか、このどちらの結果に至るかということであろう。

その意味で、国会議員の先生方の任務は大変重いはずである。

当選を喜ぶ気持ちは、まぁ多少は無理もないのかもしれないが、もうそろそろ、そのような浮かれた気持ちから一刻も早く目を醒まして、重大な覚悟で任務に臨んでもらいたいものである。

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2005年9月21日 (水)

気になる言葉遣い:勝ち組と負け組?

最近、気になる言葉遣いがある。それは、「勝ち組」「負け組」という言葉遣いだ。

今日の産経新聞朝刊社会面に、マルチ商法の被害に会う学生が急増していることを伝える記事が載っていたが、それによると、「学生起業で勝ち組に」といった誘い文句で、学生たちが就職難や将来への不安につけこまれる傾向にあるという。

この勝ち組・負け組という言葉を、最近よく目にするようになった。私は@niftyの会員であるが、その@niftyHPトップページのトピックス欄にも、「あなたも恋の勝ち組になれる、転機はいつやってくる?」などという文句が謳われている…。

私が心配しているのは、何でもかんでもこのように「勝ち組と負け組」というように色分けしてしまう昨今の社会風潮が、もしかすると、構造改革による市場原理の浸透が「赤裸々な弱肉強食の社会の到来」と人々に受け止められていることによるのかもしれない、ということだ。

同紙はまた次のようにも伝えている:

学生が“カモ”にされる背景には、マルチ商法に関する知識が乏しいことに加え、就職難や、リストラ、倒産など、サラリーマン生活に対し学生が不安を抱いていることが挙げられる。

だとするならば、市場競争の荒波に彼らを何の手助けもなく放り出すことは、却って市場原理への反発を呼び起こすことになるだろう。

このような社会風潮をどのように考えればよいかについて、まだ一定の結論に達したわけではないが、ハイエク研究者としては、このような社会風潮をただ座視しておくわけにはいかないだろう。真剣に考えていかなければならないと思う次第である。

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2005年9月19日 (月)

郵政民営化について:若干のコメント

9月11日の衆院選が自民党の大勝に終わり、郵政民営化が確実な情勢になった。それに伴って、郵政民営化をめぐって過熱する一方だった政争や報道合戦も、少し落ち着きを取り戻したようである。

筆者はこれまで、過熱した雰囲気の中で誤解されることを恐れて、あえてこの問題について発言を控えていた。また、ここ数週間は博士論文の執筆に専念してきたことも、発言を控えてきた理由である。だが、ハイエク研究者としては、やはり何らかのコメントを出さずに済ませるわけにもいかないだろう。そこで、以下、若干のコメントを筆者なりに加えておくことにしたい。

私は郵政民営化について、「官から民へ」という方向性自体は正しいものだと思っている。というのも、この研究日記の8月8日欄に書いたように、途上国ならともかく、すでに先進国の一員となったわが国の場合には、これ以上、門戸開放を先延ばしにすることはできないと思われるからである。国会に実際に出された法案の詳細について綿密に吟味する用意は今の私にはないが、基本的な方向性としては、いまやわが国は外国市場からの保護にこれ以上甘んじるわけにはいかないだろうと思う。

したがって、国会での論議に望まれるのは、賛成か反対か、という単純なものではなく、どのように民営化していくかについて、対案も提出された上で、地道に議論を積み重ねていくことだろう。その意味で、ついに対案を出せずに終わった衆院解散前の民主党が今回大幅に議席を減らすことになったのも、無理はなかったと思われる。

しかしながら、他方で私は、一種の小泉ブーム再来の中で、あまりにも拙速に郵政民営化が進められることにも、一抹の懸念を覚えている。私が特に今後の混乱要因となりうるものとして懸念しているのは、郵政三事業のうち、郵貯と簡保であるが、私がそれを懸念するのは、それらが金融に関するものだからである。

本欄7月6日の記事で書いたように、自由貿易論者でありグローバリゼーション擁護論者のバグワティ氏でさえ、金融市場の場合には性急な自由化は慎むべきであり、適切な規制が必要不可欠であることを力説していた。また、かつて1980年代にわが国で行なわれた「分割民営化」によって出現してきたのは、生産的で健全な民間活力の解放というよりは、一攫千金を狙った株式取引の過熱であり、異常なまでの土地転がしであった。要するに、“バブル経済”だったのである。

それはハイエクの唱える市場秩序とは似て非なるものであった。というのも、ハイエクは市場秩序を担う人間像について、かつて次のように述べていたからである:

かれらは、分別ある人を尊敬し、また、たくさん消費できたらという欲望によってよりも、類似の目的を追求する仲間から成功したと思われたいという願望によって導かれ、資本を蓄積して、家族と仕事の将来に注意を払う善良な農夫や供給者を尊敬する、という気風をもった。(ハイエク全集第十巻、春秋社、228頁)

すなわち、ハイエクはあくまでも地道な経営努力を行なう企業家を想定していたのであって、あまりにも赤裸々な金銭欲に動かされるままに一攫千金を追い求める投機経済を奨励していたわけでは決してなかったのである。

そのような訳で、筆者は郵政民営化について、「官から民へ」という基本的な方向性は、すでに先進国となったわが国については不可避の指針とならなければならないが、とくに郵貯と簡保という金融分野の民営化・自由化については、拙速に行なわれるべきではなく、むしろ適切な規制の仕組みを慎重に整えた上で、行なわれるべきだと考えるものである。さもなければ、1997年のアジア金融危機のような事態が、今度はわが国を震源地として起こらないとも限らないと思われるからである。

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2005年9月15日 (木)

博士論文 タイトルと目次(9月15日現在)

論文のタイトルと目次を以下に掲げさせていただこう。目次には小見出しも含まれている。これらはいずれも9月15日現在のものである:

タイトル
F・A・ハイエクの政治思想:人間の無知・自由の規律・反市場的な自然感情


目次
はじめに――本稿の目的

二十一世紀にハイエクを論じる理由

ハイエク研究の世界における本稿の位置

(a)近年のハイエク研究の潮流①――自由主義擁護の思想体系として

(b)近年のハイエク研究の潮流②――自生的秩序論と議会制改革論の関係について

(c)本稿の立場

第一章 全体主義批判――〝市場さもなくば隷従〟

ハイエクの政治信条――西洋文明の精髄としての個人主義

ハイエクの全体主義批判――社会主義こそが全体主義の根源

その全体主義批判の一面性――経済統制が全体主義の原因?

〝市場さもなくば隷従〟――そのもう一つの意味

第二章 自由論――義務論と帰結主義の間で

一、社会主義批判――〝人間の無知〟と〝自由の規律〟

社会主義批判の背景――ハイエクの反形而上学

ハイエクの標的――サン=シモン主義

サン=シモン主義批判(一)――自由の実現をめぐって

ハイエクの認識論と科学観――単純現象と複雑現象

自由の存在理由――〝人間の無知〟

サン=シモン主義批判(二)――繁栄の実現をめぐって

〝自由の規律〟――自己の運命に対する責任

二、義務論的自由論――Ch・クカサスのハイエク解釈

ハイエクにおけるカント的な義務論

正義感覚――暗黙的な行為ルール

市場秩序の本質――その〝盲目性〟ゆえの公平性

積極的自由論者ハイエク――〝高次の自己実現〟としての自由

Ch・クカサスのハイエク評価

三、帰結主義的自由論――R・クレイのハイエク解釈

カント的義務論の装いをまとった帰結主義

ハイエクの帰結主義的自由論

R・クレイのハイエク評価

帰結主義者ハイエク

四、義務論と帰結主義の併用――ハイエクの二つの顔

ハイエクの自由論――義務論と帰結主義の併用

なぜハイエクは義務論的要素を払拭できなかったのか?

力点の変遷――「帰結主義的な義務論」から「義務論的な帰結主義」へ

ハイエクの二つの顔――〝楽観主義者ハイエク〟から〝悲観主義者ハイエク〟へ

第三章 文化的進化論と議会制改革論――市場秩序を脅かす反市場的な自然感情

一、ハイエクの文化的進化論――方法論的個人主義から集団淘汰論へ

秩序の二つの種類――「つくられた秩序」と「成長した秩序」

進化論的合理主義――自由・繁栄・平和を達成する〝拡大された秩序〟

ハイエクの進化論への異論――V・ヴァンバーグのハイエク批判

方法論的個人主義から集団淘汰論へ

二、〝意図せざる結果〟の意味転換――個人の自由から〝タブーの奸智〟へ

集団淘汰論の前提――「無知の承認に基づく自由擁護論」再説

ルールの遵守動機と実際の機能との峻別

非合理的な宗教の果たす機能――〝意図せざる出現〟の促進

個人の自由から〝タブーの奸智〟へ

社会理論家ハイエクと自由主義者ハイエク

三、議会制改革論――〝意図せざる結果〟後の市場秩序

文化的進化論と議会制改革論――この両者は矛盾するか?

正義感覚――その真正の担い手としてのエリート

ハイエク的エリートのアンビヴァレンス――努力に対する報酬をめぐって

第四章 自生的秩序と政治権力――その現代的含意

一、目的独立的な自生的秩序――その政治権力との関係

コスモスとタクシス――自生的秩序の本質としての目的独立性

コスモスを生み出すルールの自生的起源

成長したルールはなぜ立法による修正を必要とするか

目的依存的な権力の否定と目的独立的な権力の肯定――貨幣発行自由化論と議会制改革論

政府による必要最低限の保障――開かれた社会に不可欠なものとして

二、現代的含意――グローバル資本主義の見直しを迫るものとして

IMF・世銀の新古典派的な市場移行戦略――そのハイエクとの異質性

途上国を襲う急激な国際統合の波――その危険性

おわりに――現代の国際政治経済システムにおけるハイエクの意味

ハイエクと開発主義――その相違点

(a)産業政策をめぐって

(b)分配平等化政策をめぐって

(c)まとめ

ハイエクと開発主義――その共通点

(a)創造型の技術革新の必要性

(b)国際的な雁行形態の経済成長

(c)わが国のとるべき道

結論――残された問題

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本文執筆完了

しばらく投稿が滞ってしまったが、その間、例によって博士論文の執筆に取り組んでいた。

たぶんであるが、一応、本文は執筆し終わった。枚数を計算してみると、400字詰め原稿用紙にして、約285枚程度であった。

これから注作成の作業に入るが、注を付け終われば、たぶん、350枚程度にはなると思う。

10月からの大学での授業開始が近づいている。その準備もしなければならない。頑張るべし!

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