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2005年10月 9日 (日)

ハイエクの全体主義批判をめぐって(1)

授業(とその準備)の合間を縫って、博士論文の脚注作成作業をつづけているが、その脚注では単に本文の論述の出典を示すのみならず、いくつかの脚注では補足的に少しまとまった形で補論を展開させてもいる。その脚注での補論は、主に『隷従への道』におけるハイエクの全体主義批判(の一面性)をめぐってのものである。

そこで、この『研究日記』にもそれらの議論を掲載してみたいと思う。

今回はまず、本文で論じている、ハイエクの全体主義批判の一面性を指摘した箇所を掲載することにしよう(ただし、論文では脚注を付している箇所は、ここでは( )内に挿入してあるが、補論的な脚注はここでは省いてある):

全体主義の出現に関するハイエクの議論は、しかしながら、S・トーメイによれば、実際のヒトラーの「第三帝国」やレーニン・スターリンのソ連、さらには戦後の福祉国家の現実を説明するものとしては、いささか正確性を欠いている(Simon Tormey, Making sense of tyranny: Interpretations of totalitarianism (Manchester UP, 1995))。ヒトラーの第三帝国における経済の計画化の度合いは、ハイエクの議論がわれわれに与える印象とは異なって、かなり限定的かつ断片的なものであり、軍事力の構築に関わる分野を除けば、決して徹底したものではなかった(ibid., pp. 17-24.)。またソ連にしても、その独裁支配が中央計画経済に由来するとは言えないだろう。ソ連では計画経済が確立されるよりもはるか以前に、すでに確固たる全体主義的イデオロギーを基盤とした一党独裁制が敷かれていたからである(ibid., pp. 26-31,35.)。さらに、戦後の福祉国家の現実に目を移してみても、それは決して思想の自由を許さない全体主義支配などではなく、たとえ政府権力は肥大化していったとしても、依然として寛容な自由民主主義体制でありつづけた(ibid., pp. 33-35.)。トーメイに言わせれば、要するにハイエクの議論の難点は、経済統制が全体主義的なイデオロギー支配のもとでのみ作用しうると想定していたことにあったのである(ibid., p. 31.)。

たしかに、いったん成立した全体主義権力が、その結果として経済全体をその統制下におこうとするとき、ハイエクが正しくも描写したような、おぞましい隷従の状態が出現するであろう。彼は、かの有名なトロツキーの言葉――「昔の命題である『働かざる者は食うべからず』は、いまや新しい命題である『服従せざる者は食うべからず』によって、取って代られてしまった」――を肯定的に引用し、唯一の雇用主が国家のみである場合には、国家に反対することはとりもなおさず死を意味することになるということを説得的に論じている(The Road to Serfdom〔以下RSと略記〕, Ch. 9. “Security and Freedom”. 西山千明訳『隷属への道』第九章「保障と自由」)。「競争経済の最後の手段は差し押さえだが、計画経済の最後の制裁は絞首台だ」(W・レプケ)というわけである(W. Roepke, Die Gesellshaftskrisis der Gegenwart (Zurich, 1942), p. 172. Cited in RS, p. 139, n. 4. 西山訳一六二頁)。

しかしながら、具体的な史実に照らし合わせてみるとき、全体主義体制の原因をもっぱら経済の計画化に求めようとするハイエクの議論が、必ずしも現実の歴史を説明するものではないことが分かるだろう。たとえば、「第三帝国」における全体主義的独裁党の政治支配は、利潤動機を大幅に取り込んだナチの経済体制と両立していた(勝田吉太郎『勝田吉太郎著作集第三巻 知識人と社会主義』ミネルヴァ書房、一九九二年、一六四頁)。また、ソ連において、ボルシェヴィキの党独占、一枚岩化、全体主義化が始動することになった一九二一年は、レーニンがネップ(新経済政策)への後退を決定し、国民経済の計画化が最小限にせばめられた年でもあった。さらに、スターリン時代における一九三六-三八年の大粛清は、最初の五カ年計画がすでに終了し、強制的な農業集団化も断行されたあとになって、はじめて発生していたのである(同、一四六一四七頁)。以上の例から明らかなように、全体主義的なイデオロギー支配やその結果としての悲惨な虐殺事件は、全面的な計画経済化とは独立に発生していた。また、戦後の福祉国家における経済への広範な政府介入が全体主義的イデオロギーを必要としなかったことはいまさら言うまでもあるまい。だとすれば、全体主義体制が出現する原因をもっぱら統制経済のうちに求めようとしたハイエクの議論が一面的なものであることは否定できないだろう。

たしかに、だからといって、ハイエクの議論を単なる杞憂とみなして一蹴してしまうことはできないかもしれない。彼が戦後の自由主義諸国について憂慮していたのは、漸進的な政府権力の肥大化現象が、自主独立の精神の慢性的な風化と手を携えて進行していくことであった。ハイエクが懸念していたのは、かつてトクヴィルが、肉体を鞭打つかつての暴政と異なる〝新たな隷従〟と呼んだ事態、すなわち肉体は可愛がるが、物質的恩恵の供与によってかえって魂を骨抜きにし、人々から自主独立の精神を奪う新たな専制支配の到来だったのである。「もちろん六年間におよぶイギリスの社会主義政府は、全体主義国家に類似するようなものを何もつくり出さなかった。しかしこれをもって『隷従への道』の命題の反証であると主張する人々は、その主要な点の一つを実は見落としてしまったことになる。広範な政府支配が生み出した最も重要な変化は、心理的な変化であり、国民の性格の変化である。〔中略〕単に労働党政府のもとばかりでなく、家父長主義的な福祉国家の恩恵を享受してきたきわめて長い期間に、イギリスの国民性が変化を経たのはほとんど間違いのないことである」と、アメリカ・ペーパーバック版(一九五六年)の序言においてハイエクは述べている(RS, p. xxxix. 一谷訳xviii-xix頁。ちなみに、ハイエクはこの一九五六年版の序言で、『隷従への道』という書名が、「新たな隷従」という言葉にトクヴィルがしばしば言及していたことに示唆されたものであったと述べている。RS, p. xli. 一谷訳xxi頁)。わが国も含めた現代先進諸国の膨大な財政赤字とその背景にある政府権力の肥大化現象のありさまをつぶさに眺めるとき、かつてトクヴィルやハイエクが懸念したような事態が到来しないと速断することは、やはり慎むべきだと思われるのである。

にもかかわらず、現代政治思想の世界における全体主義論の成果を踏まえるならば、このような家父長制的な専制支配を「全体主義」と呼び表わすことは、やはりできないだろう。というのも、それらの諸成果によれば、表立って政治的に反抗しさえしなければ、ある程度の自由な生活(とくに経済的に自由な生活)を国民に許容する権威主義体制とは異なって、全体主義体制は、文字通り、心身ともに人々の心をトータルに呑み込み、その体制への献身的な自己一体化を国民に要求する、きわめて苛酷な政治支配だからである。ハイエクは、全体主義体制に見られる荒唐無稽な神話的イデオロギーを、ある一つの分配基準を社会全体に強要するために編み出されたものと看做していたが、物質的な分配のあり方をめぐる政治的な争いが、全体主義的なイデオロギー支配を前提としなくとも妥協的な解決が可能であることは、戦後の福祉国家の歴史が雄弁に物語っているだろう。要するに、全体主義支配とは、従来から存在していた単なる専制支配とはまったく異質の、二十世紀特有の新たな支配体制と看做すべきであり、経済的な要因には還元できない固有の論理を内在させたものだったのである(全体主義が二十世紀特有のすぐれて新しい支配体制である点については、木村雅昭『ユートピア以後の政治』(有斐閣、一九九三年)七九-八四頁参照)。このように考えてみると、ハイエクの「全体主義」という用語法は、全体主義支配の本質をめぐる政治思想史家の諸業績に照らし合わせるとき、正確性を欠いたものであり、専制批判としてならともかく、少なくとも全体主義批判としては、決して成功していると言うことはできないだろう。したがって、われわれは『隷従への道』の現代的意義をその全体主義批判それ自体に求めることはできないと思われる。

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コメント

はじめまして。すでに9年前のブログ記事にコメントしても果たして見てもらえるかどうかさえわかりませんが、このブログの内容と非常に関係している主にマルクス主義から現存社会主義体制の関連を研究して来た者です。
このたびまとまった内容をHP上に発表しました。この中の論文「マルクス主義の解剖学」にマルクス主義の実践がなぜスターリン主義の全体主義に至ったかという論理的な連関を示してあります。今までに全くなかったユニークな内容になっていると思いますので、よろしければいちどお訪ねください。

投稿: 甘田幸弘 | 2014年6月25日 (水) 16時44分

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