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2005年10月10日 (月)

ハイエクの全体主義批判をめぐって(2):M・フリードマンとの類似性

今回は、現在執筆中の博士論文に付した脚注より、ハイエクの全体主義批判と類似したM・フリードマン(シカゴ学派の領袖)の議論を書いた部分を掲載する:

このような〔経済統制に全体主義の根因を求めようとするハイエクの議論に見られる〕経済決定論による全体主義批判は、シカゴ学派の領袖M・フリードマンにも言えることであった。フリードマンは、シカゴ大学出版部から出された『隷従への道』五十周年記念版に寄せた序文の中で、「この本は真の古典となった。最広義においての政治であれ、少なくとも党派的な意味での政治であれ、およそ政治に真摯な関心を抱く者であれば全ての者にとって必須の読み物である。その中心的なメッセージは時代を超越しており、多岐にわたる具体的諸状況に適用可能なのである」と述べていたし(RS [Fiftieth Anniversary Edition with a new introduction by Milton Friedman], p. ix)、またその主著のひとつ『選択の自由』(一九八〇年)のプロローグにおいても、当時のアメリカ政府の肥大化現象を指摘した後で次のように述べていた。「フリードリッヒ・ハイエクが、その深遠で影響力が大きい著書のタイトルにしたように、われわれは『隷従への道』を速度を速めながらころげ落ちていくことになるのか。それともいまこそ政府に対して厳しい制限を設け、われわれがそれぞれもっている目的を達成するため、自由な個人相互間における自発的な協力にいっそう大きく依存をしていくようにするのか。このどちらかの道を選ぶという「選択の自由」を、依然として持っているのだ」(西山千明訳、日経ビジネス人文庫、二〇〇二年〔原著一九八〇年〕、四六-四七頁)。それに加えて、政府による市場介入の行き着く先を「全体主義」と呼んでいる点においても、フリードマンはハイエクとまったく同じだったのである(同、四八頁)。

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