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2005年11月26日 (土)

私の英語はまだ赤ん坊:日常語からやり直す決意

私は2年前からECCに英語を習いに行っている。研究の仕事に必要となるからだ。昨年は英会話クラスだったが、今年は時事英語クラスをとっている。通っているのは毎週木曜日の夜である。

一昨日は、今年度2回目のカウンセリングの日だった。自分の現在の英語力を振り返り、これからの課題を明らかにするのである。今回のカウンセリングで相談したのは、英語を「話す」ことについてであった。おかげで、自分の英語力の現状について、冷静に見つめ直すいい機会となった。

英語のレッスンに通い、また普段からできるだけニュース英語などに触れるようにしているおかげで、リスニング力については、このまま続けていけば着実に伸びていく手応えは感じ始めていた(完全に聞き取るにはまだまだであるが…)。

しかしながら、依然として、ディスカッションで自分の言いたいことが、私の日本語と同じレベルで言うことができない。今の私の英語力では、微妙なニュアンスを英語で伝えることができないのである。

私のこれまでの英語体験は、圧倒的に「英語→日本語」であった。それも「読むこと」にかんするそれである。最近は「聞くこと」の方にも徐々に慣れてきたが、「読むこと」にせよ「聞くこと」にせよ、あくまでもそれは英語の“インプット”である。

しかし、それだけではいよいよ飽き足らなくなってきた。今度は「日本語→英語」、すなわち英語の“アウトプット”をしたくてたまらなくなってきたのである。あるいは、「日本語でまず考えてから、それを英語で言う」のではなく、むしろ思い浮かんだ内容を、日本語を介さずにダイレクトに英語で表現したくなってきた、という方が正確かもしれない。

そういう観点から自分の足元を見つめなおしたとき、自分の身の回りにある身近なものを英語でどう言い表せばいいのか-それが分からないものがたくさん、実にたくさんあふれていることに、今さらながら気がついた。いわば、まだ言葉を覚えていない“赤ん坊”のような気分になったのである。

以前に買って本棚に置いておいた『話すための英語:日常会話編』(井上一馬著、PHP新書、1999年)を手にとって改めて読んでみると、その上巻まえがきには、次のように書いてあった:

日本で行われている英語の試験は、大学受験を筆頭に今でもまだ論説文を中心にした長文読解に重点が置かれているため、〔中略〕日常会話とかなりかけ離れた抽象的な言葉や難解な文章をまず勉強しなければならなかったから〔話せるようになることが至難の業だったの〕です。〔原文改行〕しかしながら、それをやってしまうと、土台ができないうちからその上に家を建ててしまうようなもので、いつまでも英語力がフラフラと安定しないものになってしまいます。頭でっかちになってしまうのです。(10頁)

まさにこれまでの私の英語力は「頭でっかち」だったのであり、土台のシッカリしないフラフラのものだったのである。中級程度から上級・最上級へと伸びていけなかったのも当然であった。

「私の英語はまだ赤ん坊」-今さらながらこう自覚できたことで、かえって非常にスッキリした気分になった。それなら、ちょうど我が家の2歳になった娘が今ちょうど言葉を覚え始めたように、私もいわば、英語の世界に生まれて今まさに言葉を覚えようとしている赤ん坊のように、日常語から覚えていけばよいのである。そうすることで、もっともっと英語が好きになれるに違いない。

そのような訳で、いわば“英語の赤ん坊”のような気分で、日常語からやり直す決意をした次第である。

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2005年11月24日 (木)

第3章の脚注作業:3分の2終了

今朝の作業で、博士論文第3章の第2節までの脚注作業を終えることができた。この章は3つの節で構成されているから、あともう一息だ。

とはいえ、まだこの章については、以前にも本欄で述べたように、「補論を書き加える」というなかなか大きな作業が残っている。

それを考えると、第3章の脚注作業を終えられるのは、今月中ということになるだろうか。

何とか年内に作業をすべて終えたいと思っている。頑張るべし!

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2005年11月19日 (土)

ハイエク文化的進化論を論じた第3章:脚注作成の大きなヤマ

今日は早朝に引き続き、午前中にも時間が取れたので、引き続き脚注作業をおこなっているが、つくづく、第3章は“大きなヤマ”だなぁ…という思いがする。

というのも、この第3章は、ハイエクの文化的進化論を論じた章だからだ。このトピックは、ハイエク研究の世界で、激しい論争の的になってきたのである。したがって、注においても、これまで以上に、精密さを期さねばならない。

ただ、幸いにも昨年(2004年)に、これまでのハイエク研究の流れを集大成させた、画期的な研究書が出た。それが、本日朝の本欄記事でも言及した、コルドウェルのHayek's Challengeである。

ちなみにこのコルドウェルは、米ノース・カロライナ大経済学教授で、現在刊行中の英語版ハイエク著作集の編集責任者を務めている研究者である。

このコルドウェルの書物に、これまでのハイエク文化的進化論の諸批判が、非常に手際よくまとめられているので、それを踏まえることができるのである。

この書物は2004年に出た。筆者は自分のハイエク研究を博士論文にまとめるための統一的な視点を得るのに苦労してきたため、これまで非常にモタモタしてきたが、その間にこのコルドウェルの書物が出たということは、幸いであったというべきであろう。というのも、これからのハイエク研究は、この書物に多かれ少なかれ言及することなくしてはありえないと思われるからだ。

とはいえ、このコルドウェルは経済学者のハイエク研究者であるから、やはり、政府によらない市場秩序の自生的出現を説いたハイエクの文化的進化論に、最終的には肯定的な立場をとっている。

しかしながら、筆者は政治学・政治思想の立場からのハイエク研究であるから、そこには自ずから視点・立場の違いが生じている。それは、ハイエクにおける政治権力の問題をめぐっての違いである。筆者はやはり、ハイエクが他方で政治権力の必要性を認めざるを得なかったことに、あくまでもこだわりたいのである。

いずれにせよ、ハイエクの文化的進化論を論じた第3章は、脚注作成の上でも一つの大きなヤマである。いわば“精神的な体力”とでも言いたいようなものが要求される、まさに“正念場”である。頑張るべし!!

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博士論文:11月19日現在の枚数

現在、第3章の脚注作成に入っているが、今朝、いま現在の字数を計算してみたら、以下の通りであった(Wordでファイル(F)→プロパティ(I)と操作すれば即座に字数が出てくるから大変便利である):

はじめに 約12,000字
第1章  約11,000字
第2章  約40,000字(以上脚注あり)
第3章  約29,000字
第4章  約23,000字
おわりに 約10,000字

計    約125,000字 = 400字詰原稿用紙約312枚(11月19日現在)

9/15の本文完了段階では約285枚だった。脚注を半分終えたところで、約30枚増えたことになるから、単純に計算すると、このペースで行けば、脚注を全部つければ60枚増えることになる。

そうすると、285+60=おおよそ350枚となり、本欄9月15日の記事で予想したとおりになるというわけだ。そういう意味では順調といえそうである。

だが、この350枚という数字が、博士論文として十分な枚数といえるかどうかは、よく分からない…。

当然まず第一に問われるのは質=中身だろうが、量の問題もやはり大いに気になるところである。

とはいえ、枚数は、さらにもう少し増えそうである。というのも、第3章で論じたハイエクの文化的進化論について、それに対してこれまでなされてきた実に様々な批判に関しては、「補論」という形で、第3章末尾に、本文として、新たに付け加える必要性を感じ始めたからだ。

もしもそれを加えるとしたら、もう少し枚数は増えるだろう。後半の脚注も加えて、それで400枚近くにまで行ってくれるとよいと思うのだが、あまり補論が冗長になってもいけないだろう。はたしてどうなることか…?

まぁ、あれこれ取り越し苦労するよりも、とにかくやってみるほかあるまい。前進あるのみ!!

ちなみにこの「補論」の執筆に際しては、次の書物を踏まえるつもりである:

Bruce Caldwell, Hayek's Challenge: An Intellectual Biography of F. A. Hayek (Chicago UP, 2004) pp. 352-361.

ここに、ハイエクの文化的進化論への批判が、5つのタイプに分類されて、手際よく整理されて論じられているので、これを踏まえつつ、議論するつもりである。

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2005年11月11日 (金)

自己の潜在能力を信頼しよう!:“ストレングス視点”の自己への適用の提案

学生諸君へ

諸君は、ソーシャルワークにおける“ストレングス視点”というのをご存知だろうか?

ストレングスとは strength のことで、「強さ」という意味だ。

最近のソーシャルワークでは、援助者が援助を必要とする利用者を欠点のある不完全な人として見下すのではなく、むしろ利用者には未活用の潜在能力(=強さ)があると考えてそれを尊重し、それを引き出すことを目指すようになったというのである。

山縣文治・岡田忠克編『よくわかる社会福祉 第3版』(ミネルヴァ書房、2005年)101頁には、次のように書かれている:

ストレングス視点は、ソーシャルワーカーが利用者の潜在的な力を信頼することで、利用者自身が自らの力を信頼できるように支援していく見方です。

私もこれは正しい方向だと思う。というのも、援助を必要とする利用者を不必要なまでに依存的な状態にとどめておくことは、援助者にとっても、利用者自身にとっても、不幸なことだと思われるからである。それよりも、利用者の自立をできるだけ促し、自己実現を図れるように導くことの方が、援助者・利用者双方にとって、はるかに喜ばしいことだろう。

そこで、私がここで諸君に提案したいのは、

-この“ストレングス視点”を諸君自身にも適用してみてはどうか?

ということなのである。

他人との比較という意味ではない。そうではなく、他人の天分も尊重しつつ、自分独自の天分を誇りに思うという姿勢をもてばよいのである。

つまり、ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指すということだ。

自分も他のみんなも、それぞれ自分だけのオンリーワンを、潜在能力として、自分独自のストレングスとして、自分のうちに宿しているのだ、という考え方である。

将来、社会福祉の世界で働きたいと思っている諸君についてはもちろんのことであるが、そうではなくむしろ一般企業を考えている諸君にも、このことを提案したい。というのも、せっかく社会福祉学部にいるからこそ、知ることの出来たことなのだから。それを生かさない手はないだろうと思うのである。

それとも諸君は、自分のオンリーワンとしての潜在能力を疑うか?

それも諸君の自由だろう。しかし、それでは本当に喜びのある人生は送れないだろう。

人はなぜ、オリンピックを見て感動するか? なぜスポーツを見て歓喜するか? なぜ美しい演奏に聞き惚れるか? それはことごとく、さまざまな困難を克服して最高の技を競う姿に、最高の美を発揮しようとする姿に、感動するからではないか?

ならば諸君も、自分に出来ることからでいいから、自分に手の届きそうな、自分にあった高さのハードルからでいいから、それを克服できる「自分だけのオンリーワンとしての潜在能力」を信じて、歓喜勇躍して、努力してみてはどうだろうか? そういう自分に感動してみてはどうだろうか?

何もすぐに結果が出ないからといって、焦りなげく必要はない。偉大な能力というのは、一朝一夕には表現しきれないものだ。カイワレ大根なら数日で生えるかもしれないが、たくましくそびえたつ大木は、樹齢何百年とかかってあの雄姿を現わしているのだ。

諸君の能力が今すぐ結果として現れないのは、その奥に偉大な能力が宿っている証拠なのだ、と考えればよいのである。

自己を信頼しよう! 自己に宿る偉大なる潜在能力を信頼しよう! そしてそれを表現すべく、今日から一歩一歩、喜んで努力していこう! そこから諸君の生きがいある人生が開けてくるに違いない。

私は若き諸君の大いなる未来を心から祝福するものである。

なお、「真の自己成長を遂げたい」という諸君には、次の本をお勧めする:

G・レナード著『達人のサイエンス-真の自己成長のために』(日本教文社)

↓ 出版社のホームページでの紹介はこちら

http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN4-531-08078-5.html

山中 優

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とんだ失敗:テキストの第2版と第3版

今日の社会福祉基礎演習の授業では、とんだ失敗をしてしまった。テキストの食い違いが判明したのである。

この授業のテキストは山縣文治・岡田忠克編『よくわかる社会福祉』(ミネルヴァ書房)なのだが、今日はそのⅦ-1,2,3の社会保障のところを解説していた。ところが、どうも学生諸君とのやりとりがかみ合わない。

おかしいな…と思ったら、なんと、テキストの版が違っていたのである。

学生諸君が持っていたのはテキストの第3版で、今年の4月に出たものだったのだが、私の方は、昨年度に引き続いて同じテキストを使っていた関係で、昨年3月に出た第2版を、今年度も同様に使っていたのであった。どおりで、かみ合わなかったわけである。

それにしても、にもかかわらず、これまではずっとかみ合ってきた。そっちの方がむしろ不思議だったというべきかもしれない。おそらく、これまでの頁では、改訂が(少なくとも大幅には)されていなかったのだろう。

それがここにきて、大きく改訂されているところにさしかかったために、今日になってはじめて食い違いが判明した、というわけである。

実を言うと、同じ失敗を昨年度にもしていた。というのも、一昨年度のうちにテキストを検討している段階で第1版を見本として手に入れており、それを持って昨年度の授業に臨んだ。ところが、その間に第2版が新たに出ていたのに気づいていなかったために、食い違いが生じてしまったのである。たしか、昨年度は春学期のうちにそれが判明していたと思う。

今年度はこれまでスムーズに進んでいたので、まさか学生諸君のものと私のものとが、今年もまた版を異にしていたとは、夢にも思っていなかった。いやはや、まったく恥ずかしい限りである。

というわけで、教訓の一首をば…:

テキストは版みて使おう確かめて 同じテキスト私もみんなも

何か交通標語みたいですね。シツレイ シマシタ(笑)。

それにしても、このように、こまめに改版がなされているということは、編者の意識が高いということなのだろう。それとも、分担執筆者の方から、改訂の申し出があったということだろうか。いずれにせよ、社会福祉の分野は、変化の激しい転換期に置かれているということなのかもしれない(それだけに、改版時に編者のまえがきが新たに加えられていると、なおありがたいのだが…)。

いずれにせよ、状況・制度の変化に合わせて版が改められているのはよいことだ。これからは、この最新版を使って授業をしていきますので、受講者諸君、これからもよろしくお願いします。

山中 優

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2005年11月 8日 (火)

「どうせできない」という考えを捨てよう!

学生諸君へ

授業をしていて、多少なりとも真面目さに欠ける受講態度をみせる学生に接することは、そして、いい加減のところでお茶を濁しておこうとする学生に出会うことは、大変つらいことだ。

そんな学生に共通していることがひとつある。それは、「どうせ自分にはできない」という考えを、心のどこかに抱いていることである。

もしもそのような考えをもっていたとしたら、「真面目に頑張ろう」とはとても思えないのも無理はない。なぜなら、「やっても仕方がない」ということになるからだ。

しかし、本当に諸君は「どうせやってもできない」のだろうか?もしかすると、それはいい加減なところで自分の潜在能力を自分で勝手に見くびっているだけではないだろうか?

なぜ「どうせできない」のだろうか? どうして「どうせ自分は馬鹿だから」「自分はこれこれが苦手(なのでできない)」ということになるのだろうか?

もしも「どうせ自分は…」という考えを持った場合、それは諸君が無意識のうちに諸君の親を恨んでいることになる。なぜなら、親は諸君を生んだ存在だからだ。自分が何かをできないのは「親がこんな自分に生んだからだ!」-ということになるのである。

しかし、もしもそんな考えをもっていたとしたら、きっと諸君は、今度は自分が親になったときに、自分の子供から同じような恨み言(うらみごと)を向けられることになるに違いない。そうして、そんなふうに子供から思われる親のつらさを、身にしみて味わうことになるのだ。

また、親をそのように恨む場合、それはまた、その親の親をも憎んでいることになる。諸君の親を生んだのは、そのまた親だからだ。そうすると、それは自分の先祖代々を憎むことになる。そうして、そんな家柄に生まれた自分が、つくづくいやになるのである。

このようにして、「自分がどうせできない」ことを、親や先祖のせいにして、あるいはまた自分に教えてきた先生のせいにして、はたまた自分に劣等感を抱かせるキッカケを作った友人のせいにして、あげくのはてには社会全体のせいにして、要するに自分以外の何かのせいにして、自分の能力開発をいい加減なところで済ますような人生を送ることになる。努力をすることを怠る人生、ナマケル人生を送ることになるわけだ。

たしかにそれも個人の自由だろう。自分の人生をどのように送るかは最終的には自分で決めるしかないから、どのような考えを持って人生を送ろうと、それは諸君の自由である。

しかし、「どうせできない」などと自分を見限ってしまう人生を、諸君は本当に心の底から欲しているのだろうか? そんなことで、本当に生きがいのある人生を送ることができるだろうか?

諸君が自分の可能性をそのように見限ってしまう前に、ぜひとも考えてほしいことがある。それは、五体満足の諸君よりも肉体的には遥かに大きな欠陥を抱いているはずの障害者の人たちが、その障害にもかかわらず、自分の可能性を最大限発揮しようとして精一杯生きようとしている-という厳然たる事実である。

乙武さんを見よ! ホーキング博士を見よ! はたまた、パラリンピックで活躍する障害者の方々を見よ! あの人たちは、諸君よりもずっとずっと不利な肉体的条件を抱えながらも、素晴らしい活躍をしておられるではないか!!

もっと諸君の心の内にくすぶっている「内部理想」の声に耳を傾けてみよう。諸君は本当に今の自分のままで、心の底から満足しているか? 本当は、もっともっと、「できる自分」になりたいのではないか? ところが、そんなことはムリだと初めからあきらめてしまっているために、諸君の心の奥底の「内部理想」の声を、いい加減なところで押し殺してしまってはいないだろうか?

諸君はまだ20歳前後の、まだ社会に出る一歩手前の青年だから、いい加減なところで自分を見限っていても、要領よく授業の単位をもらっていれば、それでやっていけるかもしれない。

しかし、これからの諸君を待っているのは、そんなことでは済まされない、自分の能力発揮を否が応でも要求される世界なのである。諸君が大学を卒業して社会に出るということは、そういうことなのである。他ならぬ私自身もまさに、そのような社会に身をおいているのだ。それはいい加減なことが決して許されない、“真剣勝負”の世界である。

諸君はいまの自分の足りなさに、もっとくやしがってみてはどうだろうか? 諸君はきっと、できない自分を心の底から好きになれていないに違いない。本当は「もっとできる自分になりたい!」と思っているに違いないのである。

だったら、「もっとできる自分」を夢見て、それを目指して努力してみてはどうだろうか? もっともっと本当の自分を信頼してみてはどうだろうか?


もちろん、自分の天分にあった道というものはあるだろう。今の諸君がたとえばプロのバイオリニストになるなんてことは、(少なくともこの人生では)ちょっとできないにちがいない。

しかし、この世に生まれてきた自分が、この世で果たせる天分というものが、諸君でなければできない役割というものが、必ずあるに違いない。

それは必ずしも「目立つ」仕事でなくともよい。大きな役割だろうと、小さな役割だろうと、それはかまわない。どんな役割であれ、およそ善いことであれば、人のお役に立つことであれば、それを目指して自分の天分を磨いていけばよいのである。

本当の自分、まだ隠れている潜在的可能性としての自分-この「自分」を信じることに、何の損があるだろうか?

信じなければ、それでおしまいである。信じなければ、あっても発揮できない。本当は地中奥深くに素晴らしい宝鉱が隠されているのに、「どうせ掘ってもムダだ」と思って“宝の持ち腐れ”となっているのと同じことになってしまうのである。しかし、信じれば、いつか必ず、その宝鉱を掘り当てることができるのである。

諸君のうちには、賭けごとが好きな人もいるだろう。パチンコ、マージャン、競輪、競馬、等々…。スクールバスの中での学生同士の会話が聞こえてくることがよくあるが、パチンコ好きの学生はなかなか多いようである……(あるいはスロットか?)。

しかし、もしも諸君が賭け事を好むのなら、そんなチッポケなものに賭けないで、もっと大きな、もっと偉大な、自分の“潜在的可能性”に賭けてみてはどうだろうか? 諸君はもっともっと自己能力を開発して、世のため人のために役立つ人生を送ることができるはずなのである。

諸君はきっと、社会に出たときに、自分の能力を力いっぱい発揮しなければやっていけない場面に、いわゆる“正念場”に、直面するときが来るに違いない。

そんなとき、自分を信じて普段どれだけ努力していたかが問われるのである。それはまさに諸君の「真価」が問われるときである。そんなとき、「自分を信じる」=「自信」のある者こそが成功する。自信のない者が成功できるはずがない。そして本当の自信とは、普段から努力して練習している者のみが持つことができる心の財産なのである。

自分を信ぜよ! 本当の自分をもっと信ぜよ!! 現状の足りない自分を本当の自分だと思うな!! そんな自分を否定し去って、本当の自分=自分の潜在的可能性をトコトンまで信じて努力せよ!! そこから諸君の未来が開けてくるのである。

やればもっとできるはずである。そう信じて、少しずつでもいいから、今からでも遅くはないから、ぜひとも自分をもっと信じて努力してほしい--これが一人の教員としての、私の切なる願いである。

分からなければ、私にもっと食い下がってみよ! 「もう一度説明してください!」という声をあげてみよ! それでも分からなければ、授業後に私の研究室まで押しかけてきてみよ! そんな諸君の積極性を、私は心から期待するものである。

山中 優

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脚注作業続行中:第二章まで終えました

授業に取り組む毎日のかたわら、早朝の時間を利用して博士論文の脚注作業を続行中であるが、おかげで今朝、第二章までの脚注作業を終えることができた。全四章構成だから、ちょうど折り返し地点に来たわけである。

脚注を付けてみると、やはりというべきか、かなり記述が分厚くなってきた。現時点での総字数はまだ計算していないが、本文のみのときと比べて、かなり文字数は増えていることと思う。

「まだ折り返し地点か…。先はまだ長いなぁ」という思いもしないではないが、他方ではやはり、少しずつの積み重ねの力を強く感じもする。まとまった時間を待っているだけだったら、ここまで進んで来ることはできなかったはずである。

早朝にこの作業をしておくと、日中の授業に精神的に集中できるのも大変ありがたい。

ともあれ、半分まで来た。後半戦も頑張るべし!

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2005年11月 4日 (金)

英書講読:第32段落の解説

英書講読の授業に関連して、本欄11月1日に、「やさしく説明することのむずかしさ」について書いたが、その分かりやすい説明を試みてみた。

私のウェッブサイトの「第32段落の解説」に掲載しておいたので、ご覧いただきたい。

ここで、できるだけ分かりやすくなるよう、説明を試みたつもりであるが、いかがだろうか?

いずれにせよ、「やさしく説明すること」は、つくづく「難しい」と思う。

とはいえ、それは、こちらの理解がどれだけ正確かを試される場面でもある。その分、こちらの教育能力が鍛えられるというわけだ。

その意味で、英書講読の学生諸君には感謝している。これからもよろしくお願いします。

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2005年11月 1日 (火)

やさしく説明することのむずかしさ:今日の英書講読を終えて

今日(11月1日)の英書講読では、第32段落の説明に思いのほか、時間をかけてしまった。学生諸君には申し訳ないことをしたと思う。

この段落では、非常に専門的な論点について、補足を述べた段落だったが、諸君にとって必要となるより、はるかに詳細に説明しすぎたかもしれない。

教員として学生諸君に対して「してあげたい」と私が常々思っていることは、次の二つである:

①分かりやすく教えてあげたい

②たくさん教えてあげたい

この2つのバランスが大変大事なのだが、今日はこのうちの②に偏りすぎたようだ。もっと①に徹して、時間を短縮すべきだったと思う。

というわけで、今日は大変失礼いたしました。その責任を取って、後日、私のウェブサイトに、もっと分かりやすい説明を掲載します。

これに懲りずに、どうぞ次回からも出席して下さい。

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