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2005年11月 8日 (火)

「どうせできない」という考えを捨てよう!

学生諸君へ

授業をしていて、多少なりとも真面目さに欠ける受講態度をみせる学生に接することは、そして、いい加減のところでお茶を濁しておこうとする学生に出会うことは、大変つらいことだ。

そんな学生に共通していることがひとつある。それは、「どうせ自分にはできない」という考えを、心のどこかに抱いていることである。

もしもそのような考えをもっていたとしたら、「真面目に頑張ろう」とはとても思えないのも無理はない。なぜなら、「やっても仕方がない」ということになるからだ。

しかし、本当に諸君は「どうせやってもできない」のだろうか?もしかすると、それはいい加減なところで自分の潜在能力を自分で勝手に見くびっているだけではないだろうか?

なぜ「どうせできない」のだろうか? どうして「どうせ自分は馬鹿だから」「自分はこれこれが苦手(なのでできない)」ということになるのだろうか?

もしも「どうせ自分は…」という考えを持った場合、それは諸君が無意識のうちに諸君の親を恨んでいることになる。なぜなら、親は諸君を生んだ存在だからだ。自分が何かをできないのは「親がこんな自分に生んだからだ!」-ということになるのである。

しかし、もしもそんな考えをもっていたとしたら、きっと諸君は、今度は自分が親になったときに、自分の子供から同じような恨み言(うらみごと)を向けられることになるに違いない。そうして、そんなふうに子供から思われる親のつらさを、身にしみて味わうことになるのだ。

また、親をそのように恨む場合、それはまた、その親の親をも憎んでいることになる。諸君の親を生んだのは、そのまた親だからだ。そうすると、それは自分の先祖代々を憎むことになる。そうして、そんな家柄に生まれた自分が、つくづくいやになるのである。

このようにして、「自分がどうせできない」ことを、親や先祖のせいにして、あるいはまた自分に教えてきた先生のせいにして、はたまた自分に劣等感を抱かせるキッカケを作った友人のせいにして、あげくのはてには社会全体のせいにして、要するに自分以外の何かのせいにして、自分の能力開発をいい加減なところで済ますような人生を送ることになる。努力をすることを怠る人生、ナマケル人生を送ることになるわけだ。

たしかにそれも個人の自由だろう。自分の人生をどのように送るかは最終的には自分で決めるしかないから、どのような考えを持って人生を送ろうと、それは諸君の自由である。

しかし、「どうせできない」などと自分を見限ってしまう人生を、諸君は本当に心の底から欲しているのだろうか? そんなことで、本当に生きがいのある人生を送ることができるだろうか?

諸君が自分の可能性をそのように見限ってしまう前に、ぜひとも考えてほしいことがある。それは、五体満足の諸君よりも肉体的には遥かに大きな欠陥を抱いているはずの障害者の人たちが、その障害にもかかわらず、自分の可能性を最大限発揮しようとして精一杯生きようとしている-という厳然たる事実である。

乙武さんを見よ! ホーキング博士を見よ! はたまた、パラリンピックで活躍する障害者の方々を見よ! あの人たちは、諸君よりもずっとずっと不利な肉体的条件を抱えながらも、素晴らしい活躍をしておられるではないか!!

もっと諸君の心の内にくすぶっている「内部理想」の声に耳を傾けてみよう。諸君は本当に今の自分のままで、心の底から満足しているか? 本当は、もっともっと、「できる自分」になりたいのではないか? ところが、そんなことはムリだと初めからあきらめてしまっているために、諸君の心の奥底の「内部理想」の声を、いい加減なところで押し殺してしまってはいないだろうか?

諸君はまだ20歳前後の、まだ社会に出る一歩手前の青年だから、いい加減なところで自分を見限っていても、要領よく授業の単位をもらっていれば、それでやっていけるかもしれない。

しかし、これからの諸君を待っているのは、そんなことでは済まされない、自分の能力発揮を否が応でも要求される世界なのである。諸君が大学を卒業して社会に出るということは、そういうことなのである。他ならぬ私自身もまさに、そのような社会に身をおいているのだ。それはいい加減なことが決して許されない、“真剣勝負”の世界である。

諸君はいまの自分の足りなさに、もっとくやしがってみてはどうだろうか? 諸君はきっと、できない自分を心の底から好きになれていないに違いない。本当は「もっとできる自分になりたい!」と思っているに違いないのである。

だったら、「もっとできる自分」を夢見て、それを目指して努力してみてはどうだろうか? もっともっと本当の自分を信頼してみてはどうだろうか?


もちろん、自分の天分にあった道というものはあるだろう。今の諸君がたとえばプロのバイオリニストになるなんてことは、(少なくともこの人生では)ちょっとできないにちがいない。

しかし、この世に生まれてきた自分が、この世で果たせる天分というものが、諸君でなければできない役割というものが、必ずあるに違いない。

それは必ずしも「目立つ」仕事でなくともよい。大きな役割だろうと、小さな役割だろうと、それはかまわない。どんな役割であれ、およそ善いことであれば、人のお役に立つことであれば、それを目指して自分の天分を磨いていけばよいのである。

本当の自分、まだ隠れている潜在的可能性としての自分-この「自分」を信じることに、何の損があるだろうか?

信じなければ、それでおしまいである。信じなければ、あっても発揮できない。本当は地中奥深くに素晴らしい宝鉱が隠されているのに、「どうせ掘ってもムダだ」と思って“宝の持ち腐れ”となっているのと同じことになってしまうのである。しかし、信じれば、いつか必ず、その宝鉱を掘り当てることができるのである。

諸君のうちには、賭けごとが好きな人もいるだろう。パチンコ、マージャン、競輪、競馬、等々…。スクールバスの中での学生同士の会話が聞こえてくることがよくあるが、パチンコ好きの学生はなかなか多いようである……(あるいはスロットか?)。

しかし、もしも諸君が賭け事を好むのなら、そんなチッポケなものに賭けないで、もっと大きな、もっと偉大な、自分の“潜在的可能性”に賭けてみてはどうだろうか? 諸君はもっともっと自己能力を開発して、世のため人のために役立つ人生を送ることができるはずなのである。

諸君はきっと、社会に出たときに、自分の能力を力いっぱい発揮しなければやっていけない場面に、いわゆる“正念場”に、直面するときが来るに違いない。

そんなとき、自分を信じて普段どれだけ努力していたかが問われるのである。それはまさに諸君の「真価」が問われるときである。そんなとき、「自分を信じる」=「自信」のある者こそが成功する。自信のない者が成功できるはずがない。そして本当の自信とは、普段から努力して練習している者のみが持つことができる心の財産なのである。

自分を信ぜよ! 本当の自分をもっと信ぜよ!! 現状の足りない自分を本当の自分だと思うな!! そんな自分を否定し去って、本当の自分=自分の潜在的可能性をトコトンまで信じて努力せよ!! そこから諸君の未来が開けてくるのである。

やればもっとできるはずである。そう信じて、少しずつでもいいから、今からでも遅くはないから、ぜひとも自分をもっと信じて努力してほしい--これが一人の教員としての、私の切なる願いである。

分からなければ、私にもっと食い下がってみよ! 「もう一度説明してください!」という声をあげてみよ! それでも分からなければ、授業後に私の研究室まで押しかけてきてみよ! そんな諸君の積極性を、私は心から期待するものである。

山中 優

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