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2005年12月19日 (月)

国際政治論:テキスト採用の理由&授業運営方針について

伊勢学舎での国際政治論では、ジョゼフ・S・ナイ・ジュニア『国際紛争:理論と歴史[原書第5版]』(有斐閣、2005年)を用いて授業をしているが、10月からすでに始まっている半期の授業としてはすでに終盤にさしかかろうとしているこの時期に、遅ればせながらであるが、受講生諸君に、シラバスには書き切れなかった説明を、ここで補っておきたい。

2単位の、授業回数が大変限られた講義であるにもかかわらず、300頁あまりにもわたるこのテキストを採用したのは、この講義を国際政治の世界への入り口としてもらい、単位をとった後にも、ぜひ諸君自身が自主的に国際政治について考えるときの「よすが」の一つとしてもらいたい、という理由からである。

講義でも以前に少し述べたが、一昨年度--隔年講義となったので、前回は一昨年度となる--までずっと使用してきたのは、高坂正尭『国際政治:恐怖と希望』(中公新書)と、野田宣雄『二十世紀をどう見るか』(文春新書)の2冊であった。前者は1966年に刊行されたのだが、それ以来、版を重ね続け、私の手元にあるのは、「1998年6月25日39版」である。要するに、今も売れ続けている名著である。ただ、時代が少々古いので、現代のことを補うために、後者もテキストとしていたのであった。いずれも新書ながら、名著である。

新書であるから手頃な価格で手に入れられるし、しかも名著であるという理由で、平成12年度から伊勢学舎で国際政治の講義を担当するようになって以来、(平成15年度までは毎年講義であったから)4年間ずっと、この2冊の新書をテキストとして、授業を行なってきたのであった。

ところが、単位認定はずっとレポート試験によって行なってきたのだが、明らかに互いに写し合ったと思われる答案が徐々に散見されるようになり、平成15年度にはその発生件数がもっともひどくなった。内容上の誤りのみならず、誤字までが全く同じだったのだから、見逃しようがなかったのである。

当然、毅然として厳正に対処し、そのような答案はすべて単位不認定とした。成績交付後、不認定の理由を聞きに来た学生も何人かいたようだが、事務方よりその理由説明をされると、皆おとなしく引き下がったそうだから、みな「身に覚え」があったのだろう。私の目は、不正を見逃すほどの“フシアナ”ではないのである。

それでホトホト懲りたのである。「どんな方でもどうぞ受講してください」というオープンな態度で授業をし、毎年200名を超える受講者であったが、私語の問題も徐々に深刻化してきていた。

要するに私の姿勢が「甘すぎた」わけだ。「この先生なら私語をしても、不正をしても、大丈夫では…」と思わせるようなスキを見せてしまっていたということだ。それを大変反省したのである。

そこで、今年度からは、思い切って、敷居を高くしてみた。分厚く、価格も2600円という値段のテキストを使用し、しかも学期末のレポート試験ではなく、毎回の授業で小テストを行なうようにするというように、授業運営の方針をガラッと転換し、真面目な学生に受けてもらうようにしたのである。

別に人数を減らすことを考えたわけではない。真面目でありさえすれば、大人数でも大歓迎だったのだが、結果的に、受講者数は大幅に減った。現在、出席者はだいたい70名前後である(履修登録者は100名以上であったが、出席回数の足りない学生が規定どおり受験資格を失うことはもちろんである)。

そのような訳で、テキストは大部なものであるにもかかわらず、授業回数は極めて限られているため、授業では細部にわたっては説明できない。要点のみを抽出して、それを分かりやすく整理して諸君に提示することができるだけである。そういう意味で、授業で諸君に示せるのは、本書の幹の部分(それも全部ではなくてその一部)であり、幹から豊かに繁茂している枝葉の部分については、授業ではすべて割愛せざるを得ないのが、大変残念である。

しかしながら、それは他方では、授業の明快さを確保できる、ということでもある。諸君は、この内容豊かなテキストから、授業でその骨組みにあたる部分について明快に整理された知識を身につけてもらいたい。そして、授業をすべて受け終えた後は、諸君自身の力で自立して、国際政治の世界にも関心を持って、一人の人間として考えていってほしい。

そのための入門として、この授業が諸君の役に立つものになることを切に願って、授業を行なっている次第である。

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2005年12月18日 (日)

研究会の恩恵:重要な加筆・修正の絶好の契機

昨日の土曜日に、ある研究会で研究報告をさせていただいた。それは、私の大学院時代の恩師の弟子たちで構成している「比較政治研究会」という名の研究会である。そこで、私の博士論文草稿の後半部分を報告させていただいた。

大変ありがたかったことは、そこで非常に有益なコメントをいくつもいただいたことである。そのなかでも、特に次の二点に関するものが私にとって非常に有難いものであった。そのコメントの主旨を私なりに要約すると、それは次のようなものであった:

①ハイエクのもっていた三つの顔--(1)『自由の条件』以前、(2)『自由の条件』、(3)『自由の条件』以後--について、それを無理やり統一的に理解しようとはせずに、それらは互いに異なる三つの別々の顔だったとみなせるのだから、だったら、あなたの重視するハイエクの顔--(3)のハイエク--を前面に出して、なぜあなたがハイエクのその顔を重視するのか、その理由をハッキリと述べればよい。

②ハイエクと開発主義の関係について:あなたはハイエクを「途上国が開発主義を採ることについて、ハイエクは、積極的に唱えないまでも、それを許容するだけの懐の深さを持っていたのではないか」とおっしゃったが、とてもそうは思えない。むしろ、ハイエクはやはり先進国しか見ていなかったのではないか。だとしたら、それがハイエクの途上国にとっての限界なのだから、それはあなたが「ハイエクの限界」として明確に指摘した上で、あなた自身の見解を打ち出せばよい。

この二点について、言われてみると、いずれもまったくその通りであり、非常にありがたい指摘であった。

そして今日、その指摘を踏まえて、論文を加筆・修正することができた。その過程で、以前から、文化的進化論に加えてもう一つの重要な加筆材料だった、ハイエクの分配的正義批判についても、勢いに乗って、今日一気に加筆することができたことは、非常に大きな進展であった。

これで、重要な加筆・修正については、一段落したように思う。これからは、本文を創造的に書き加える作業、そして脚注において補足的に論じる作業を終え、出典を示すだけの単純・地道な脚注作業に戻って、ゴールに向かって邁進するのみである。マラソンで言うと、40キロ地点にさしかかった、といったところだろうか。いずれにせよ、「創造的に論じる」という点においては、「やるだけやった!」という実感をもつことができたのであった。

それにしても、研究会でいただいたコメントは、いずれも大変有益なものばかりであった。このような場で報告させていただくことは、そしてそこで批判的・建設的なコメントをいただくことは、やはりとても大切なことであることを、改めて実感した次第である。

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2005年12月15日 (木)

思わぬ副産物:補論を脚注に変更して論文が進捗

本欄の11月19日付の記事で、ハイエクの文化的進化論をめぐる最近の理論動向については、第三章に「補論を加える」という形で書く方針を立てていたが、今日、執筆作業をしているうちに、自然と、補論ではなく、「脚注を加える」という形で、きれいに収まってしまった。

実はこの作業は、思わぬ副産物だった。というのも、今日は今週の土曜日にある研究会で研究報告をすることになっていて、それに備えて、博士論文草稿の後半部分を基に報告レジュメを作成しているうちに、自然とこの草稿自体にも、書き加えていくことができたからである。

実を言うと、最近は少し焦っていた。というのも、早朝の寒さのために論文作業が進まなかった一方で、授業の準備だけではなく、現在とみに多用になってきた、私の勤務大学の学内学会での庶務の仕事(私は庶務委員の一人である)とで手一杯になっていて、論文の執筆にまで中々手が回らなかったからだ。

脚注において出典を示すだけの単純作業がずっと続いていたのだが、「補論」を新たに書かなければ…と思った途端、早朝の寒さも手伝って、朝早くに起きられないでいたため、ずっと滞っていたのだった。

ところが今日は、木曜日で私の担当授業がないのを幸いとして--私は木曜日を「研究日」として勤務大学に申請させていただいている--久しぶりに夕方から夜にかけて、論文の仕事をした(その代わりECCの時事英語レッスンは休ませてもらったが…)。明後日に迫った研究報告のレジュメのメドをつけるために仕事を始めたのだが、その副産物として博士論文そのものの執筆も進められたことは、思わぬ収穫であった。

そもそもの段取りとしては、この「補論」を仕上げてから、悠々と研究報告レジュメを作るつもりだったのだが、それが滞っている中で、研究会の日が迫ってきたので、やむをえず段取りを入れ替えて、レジュメの作成から始めたのである。それが論文自体の進捗にもつながったので、大変うれしかった。

私がこのように喜んでいるのは、ハイエクの文化的進化論をめぐる最近の議論動向をまとめることが、大きなヤマとなっていたからである。このヤマが、今日、思わぬ副産物としていつの間にか越えられたことは、大変重要な進展であった。

とはいえ、他方では、多用な中でも、合間の時間を縫って、最近の動向を知るための文献をコツコツと消化してきたことも、今日の成果の大きな要因だったと思う。

今日は、論文に取り組む時間も、いつもの早朝ではなく夕方から夜にかけてであったという意味でも、思わぬ収穫であった。たとえ早朝の時間を利用することがよいことであっても、それだけにこだわる必要はないということなのだろう。

何はともあれ、今日はうれしい日であった。これからも頑張ろう!

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必要な早朝の寒さ対策

ここのところ、博士論文の執筆作業が滞ってしまった。その原因は、早朝に起きられなくなったからである。

厳密に言うと、目は相変わらず覚めるのだが、寒いために二階の仕事部屋に行く気になれない。実をいうと、恥ずかしながら、私は寒さが大の苦手なのである…。

「それなら、暖房を使えばいいではないか」と読者は思われるだろうが、いまその部屋にあるのは温風暖房だ。温風暖房は、言うまでもなく、空気を乾燥させ、のどによくない。のどを痛めると風邪を引きやすくなる。

それに加えて、今年は「新型インフルエンザ」も懸念されているが、その予防対策として、勤務先の大学の産業医によるアドバイスのひとつとして、「マスクの着用」や「暖房をつけたまま寝ない」ことなど、のどの乾燥を防ぐための対策が言われていた。それもあって、のどの乾燥を恐れて、温風暖房も使えないでいるのである。

今は緊急避難的に、どうしても必要なときは加湿器を同時に使っているが、これが電気の無駄遣いであることはいうまでもないだろう。そのような訳で、冬の本格的な到来によって、早朝の時間をうまく使えなくなってしまった。

しかし、幸いなことに、最近「オイルヒーター」という暖房が人気であることを妻から聞いて知った。これは温風ではなく、機械の中にあるオイルを電気で温めて、部屋全体をポカポカ暖めてくれるそうだ。空気を乾燥させないから、のどにもよいのだそうである。

「オイルヒーター」でもっともよいと評判なのは、イタリア製の「デロンギ暖房」というものらしい。すでに注文しているのだが、人気商品のため、なかなか納品されてこない。

「早く来い来い、デロンギ暖房」-これが昨今の私の心境である。

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