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2006年2月28日 (火)

衆院予算委で格差社会を審議

「ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ」と題した記事を本欄に連載中であるが、前回書いた「希望格差社会」に関して、興味深い記事に接したので、今日はその記事についての覚書を書いておきたいと思う。

NEWS@nifty掲載の読売新聞ニュース速報によると、2月28日の衆院予算委員会で「構造改革と地方経済」に関する集中審議を行い、そこで格差社会について議論されたという。

リンク: @nifty:NEWS@nifty:「格差は悪いとは限らない」首相、改革路線を堅持(読売新聞).

それによると、小泉首相は、構造改革に伴う格差の広がりに批判が出ていることについて、「どの国にも、どの時代にも、ある程度の格差はある。格差は悪いとは限らない」と述べて改革路線を堅持する考えを強調するとともに、「格差ととらえるのではなく、互いの違いを学び合い、競争して良い点を伸ばしていく競争が必要ではないか」と述べ、規制緩和などにより民間の活力を高める必要性を指摘したという。

また、「勝ち組、負け組が固定化されてはいけない。一度、敗れても、また勝てるチャンスを提供することが必要だ」と語った同時に(同記事は、この首相の言葉を、「再就職向けの職業訓練の充実や起業支援などを進める考えを示した」と見ている)、その一方で、「どうしても自分だけではやっていけない人に対し、国としてどのような支援の手を差し伸べられるかが重要だ」と語り、社会的弱者に配慮する考えも示したという。

ここには「格差社会」としか述べられていないが、「勝ち組、負け組が固定化されてはいけない。一度敗れても、また勝てるチャンスを提供することが必要だ」と首相が語ったところをみると、これはおそらく「“希望”格差社会」を念頭に置いたものだったとも考えられるだろう。もしもそうだとすると、この首相の姿勢自体は、一定の評価に値すると思われる。というのも、それはただ単に、市場競争に人々を放り込んでおいて、あとは知らない、という姿勢ではないからである。

ただ問題は、勝ち組・負け組の固定化を実際にいかにして防ぐかであろう。私自身、それではいかにして若者たちに就業支援していくべきなのか、まだ具体的な考えをもてているわけではないが、勁草書房から、フリーターやニートなどの若者にかんするものとして、独立行政法人 労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子氏の編集による次の二冊の興味深い書物が出ていることを今日知ったので、いずれまた読んで勉強しようと思っている:

『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月15日発行

『キャリア教育と就業支援:フリーター・ニート対策の国際比較』勁草書房、2006年2月15日発行

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2006年2月26日 (日)

ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ(2)

現在の資本主義が“ターボ資本主義”と呼ばれるほどにその構造変化のペースを加速させ、“一億総中流化”と呼ばれてきたわが国においてさえ経済格差をもたらすようになっている現在、いわゆる“構造改革”が政治的に推し進められていく中でわが国に生じつつある社会は、構造改革路線が目指しているであろう社会像、すなわち「地道な勤労精神にみちた健全な中産階級社会」であるとは、残念ながらどうも言い切れないようである。

むしろそこに生じつつあるのは、勝者と敗者とが両極分解した社会であり、経済的格差のみならず、「努力すれば報われる」という希望の面でも両極分解した社会、すなわち“希望格差社会”ではないかと思われるのである(*)。

(*)山田昌弘『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房、2004年)

そこにおける敗者――いわゆる“負け組”――は、一攫千金を手にした勝者たちを羨望の眼差しで眺めながら、いつかは自分もそうなれるという非現実的な夢を抱きつつ、その実、地に足の着いた将来の展望や確たる人生設計を持てないまま刹那的にしか生きていけない人たちである。山田昌弘氏によると、現代日本のいわゆるパラサイト・シングルやフリーターたちは決して夢を全く持っていないわけではないのだが、その「夢」はそれに向かって着実に努力していくための目標では決してなく、むしろ努力しても報われないという現実の自分の状況を忘れさせるための夢想でしかないのである(前掲書、217~218頁)。

このことはもちろん、現代日本において、長期的な視点に立って真面目にコツコツと努力するタイプの人々が全く消失したということを意味するものではない。現代日本にもそのようなタイプの人々はまだ数多くいるに違いない。

しかしながら、そのようなタイプに属するのは、山田昌弘氏によると、主に旧来型の職に従事してきた四〇代以上の世代の人々、すなわち高度成長期の大量生産・大量消費時代において安定した雇用と持続的な昇進が期待できる職業に就いてきた人々であって、グローバル化やIT化が進み、モノよりもサービスが優勢になり、単純労働者の間で雇用が流動化・不安定化しつつある現代にあって、その影響を真っ先に受けている若者の間では、真面目に努力していくという行動様式が薄れつつあるのである(同前、100~128頁)。

もっとも山田氏は、このような問題点を主に「負け組」に属する若者たちの間に求めている。他方で氏は「〔近代社会に入って〕宗教意識が薄れると、金持ちの享楽的、自己中心的傾向に歯止めがかからなくなる。これが、日本のバブル経済期に起こったことである」とも述べているものの(同前195頁)、氏の分析の焦点は--その書物のサブタイトルに表れているように--やはり圧倒的に「負け組」における問題点に置かれている。

しかしながら筆者は、他方の「勝ち組」の間でも、手っ取り早く一攫千金を手に入れようとする行動様式が見受けられるという意味で、「長期的な視野のもとで真面目に努力していく」タイプが若者たちの間で消失しつつあるのではないか、という懸念を拭い去ることができない。

すなわち、この希望格差社会でもてはやされている“勝ち組”は、ライブドア事件や、それを期に改めて問題視されるようになった、青少年の間での金融教育のありさまなどに象徴されるように、実体経済の世界の中で地道に顧客のニーズに応えていく勤労の倫理を兼ね備えた人物ではなく、むしろ実体経済から遊離したマネーゲームに狂奔し、着実な努力によるよりもラッキーな偶然によって一攫千金を手にし、その物質的豊かさをあからさまに謳歌するという、倫理的にいかがわしいタイプの人物と言うべきだと思われるのである。

その“勝ち組”の間にも見られる行動様式の問題点をよく言い表しているのが、「アフルエンザ」(=アフルエンス+インフルエンザ)すなわち「消費伝染病」という言葉であると筆者には思われる。そこで次回は、この「アフルエンザ」について述べることにしたい。

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2006年2月24日 (金)

ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ(1)

今回からしばらくは、現代日本社会を読み解くキーワードを標題に掲げた三つの言葉に求めつつ、わが国が市場原理にどう向き合っていくべきかについて、筆者なりの考察を書き綴ってみようと思う。今回は一つ目のキーワード、“ターボ資本主義”についてである。

“ターボ資本主義”とは、米ワシントンの戦略国際問題研究センター上級研究員のエドワード・ルトワク氏が次の書物で用いている言葉である:

エドワード・ルトワク、山岡洋一訳『ターボ資本主義――市場経済の光と闇』(TBSブリタニカ、一九九九年 [原著一九九八年] )

この“ターボ資本主義”について私の見解を述べるのは後に回して、今回はこの言葉を用いたルトワク氏の議論の要約のみにとどめたいと思う。

この書の中でルトワク氏は、構造変化のペースを加速化させた資本主義のことを「ターボ・チャージされた資本主義」(turbo-charged capitalism)あるいはもっと端的に「ターボ資本主義」と呼び、それがもたらす生産性の向上と、その代償としてもたらされる社会の混乱とを詳しく描写している。

ルトワク氏によると、(1)生産性の高さ、(2)創造的破壊、(3)急激な構造変化による混乱、この三つの点で資本主義は昔も今も変わっていないが、現代の資本主義の新しさは、その構造変化のペースが加速した点だけである。しかし、若干のペース加速だけで、状況が一変したといえる状態になったという。(同書、78-79頁)。

氏は、このペース加速をもたらした要因として、第一に世界各国での政府の市場からの撤退、第二にグローバル化、第三に伝統から契約へ(すなわち昔からの慣習に基づく取引関係が崩れ、取引ごとに交渉され、純粋に需要と供給に基づく商業ベースの契約関係にとって代わられたこと)、第四にコンピュータの導入による生産性の飛躍的向上、この四つの要因を挙げている(79-93頁)。

このような諸要因による構造変化のペースの加速化によって、世界各地の進取の気性に富む人たちには機会が与えられると同時に、それについていけない人たちは挫折の憂き目にあっているのである(93-99頁)。本書の原題は、Turbo-Capitalism: Winners and Losers in the Global Economy,すなわちその副題は「グローバル経済における勝者と敗者」であるが、まさにこのターボ資本主義の下で、勝者と敗者とがはっきりと分かれていく傾向が生じているわけである。

言うまでもなくこのターボ資本主義はアメリカ発のものであるが、ここで興味深いのは、ルトワク氏が、現在世界各国でターボ資本主義によって引き起こされている混乱がアメリカ型の資本主義の導入自体によるものだとはしていないことである。むしろ、氏はその混乱の原因をアメリカ型資本主義の導入の“中途半端さ”に求めているのである。氏は次のように述べている:

皮肉なことに、ターボ資本主義に対するもっとも強い反発は、アメリカの流儀を無批判に受け入れたからではなく、アメリカの流儀のとり入れ方が不十分なことの危険性から生じているのだろう。世界各国はターボ資本主義を輸入しているが、アメリカでその圧倒的な力を抑える要因と、ターボ資本主義の厳しさと極端な不平等をほとんどのアメリカ人が受け入れる理由になっている要因は輸入していない(30頁)。

氏によると、アメリカでは一方で人々を勝者と敗者とに容赦なく両極分解させる市場競争の論理を徹底させているとともに、他方ではその両極分解という結果を人々に納得させ、勝者を過度に傲慢にさせないと同時に敗者を従順にさせるための要因が二つあるという。それは次の二つである:

①ごく普通の庶民が、極端に貧乏であっても、「損害賠償請求」という建前のもと、裁判で自分の利益を追求することができること。

②カルヴァン主義の価値観が根強い影響を与えていること。

①について、氏は「傲慢で貪欲な弁護士にも良い面がある」と述べ、アメリカの法律制度あるいは法文化について詳しく論じている(30-45頁)。

私にとってより興味深い点は、②のカルヴァン主義の影響力である。ルトワク氏によると、アメリカでのカルヴァン主義は次の三つの規則をもっている:

1.高所得者向け:勤労によって得た富は神によって救いを予定されていることを示す。金持ちになりたいという欲求は非難されるべきものではない。富の蓄積はその努力と禁欲の結果として賞賛に値するものである。ただし、その蓄積した富は浪費されてはならず、社会的に意義ある活動のために寄付すべきものである。それは子孫に遺してはならない。

2.大多数の勤労者向け:敗者になったのは、運が悪かったからでも不公正のためでもなく、神の恩寵を受けられなかったからである。したがって、敗者は社会制度を責めるのではなく、むしろ神の恩寵を受けるに値しない罪人である自分を責めるべきである。

3.敗者の中でもカルヴァン主義を信じない人たち向け:第二の規則を受け入れず、罪の意識にも苛まれないが、教育水準が低くて合法的な方法で恨みを表明できない人たちは、刑務所に隔離されるべきである。

この三つの規則からなるカルヴァン主義がアメリカでは大きな影響力を発揮しているため、勝者は自分の富を正当化されていると同時にそれを浪費せず、大多数の敗者はその敗者としての境遇を従順に受け入れており、従順ではない敗者は刑務所に送り込まれる。このような氏のいわゆる“カルヴァン主義体制”が根付いているため、アメリカではターボ資本主義が反社会的な勢力を生み出すことなく浸透しているのである(46-60頁)。

ところが氏によると、

ターボ資本主義に移行しようとしている国の多くでは、勝者は富をあまりにもあからさまに楽しんでおり、子孫に富を残そうとしており、教会以外にはほとんど寄付しようとしていない。敗者の側は、罪の意識にさいなまれず、勝者への恨みつらみをつのらせている。そして、勝者も敗者も、法を破る敗者をきびしく処罰すべきだとする確固とした倫理感をもっていない(60頁)。

したがって、氏に言わせれば、中途半端な真似は危険である。われわれのとるべき道は「活力を求めるのか、安定を望むのか」の二者択一である。すなわち「経済」と「社会」のいずれを優先させるのかをはっきりとさせなければならないのである(同書第13章)。

以上のようなルトワク氏の議論からするならば、わが国もアメリカ型資本主義の「中途半端な真似」の部類に入ることになるだろう。実際、氏は「日本語版への序文」で、同様の二者択一を日本の読者に対して迫っているのである(同書4頁)。

そして、本書の原題の副題にあったように、わが国でもまさに「勝者」と「敗者」、すなわち最近の言葉で言えば“勝ち組”と“負け組”との間での二極分解が起こっている。そこに生じつつあるのが、家族社会学・感情社会学を専門とする山田昌弘氏の言う“希望格差社会”なのである。これについては次回論じることにしたい。。

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2006年2月22日 (水)

近況報告:論文結論完成

本欄1月18日の記事で「結論補強の必要あり:また時事問題を取り上げます」と予告しておきながら、ずいぶん日数が経ってしまった。

実を言うとその間に、ルーティンワークの合間を縫って、例の博士論文の結論部分の執筆に取り組んでいたのだが、それがこのほど出来上がったのである。

1月18日の記事を書いた時点では、このブログに先に試論的に書いてみてから、それを博士論文の結論部分の執筆に生かそうと思っていたのだが、結局、順序が逆になり、論文の方が先に出来上がってしまった。

そのようなわけで、予告を裏切ってしまったことを心よりお詫び申し上げます。

その代わり、明日からしばらくは、その論文の結論部分を適当に分けて、本欄にしばらく連載していきたいと思う。

ただし、この結論部分自体は言うまでもなく、論文全体の一部を占めており、しかもその締め括りとなる部分であるから、それだけを取り出してそのまま掲載しても、前後関係がよく分からないことになるだろう。

したがって本欄では、それだけでも独立させて読めるよう、適宜アレンジしたものを掲載することにしたい。

その記事の内容は、現代日本社会の有様を読み解くキーワードを、次の三つに求めるものとなるだろう:

ターボ資本主義、希望格差社会、アフルエンザ(アフルエンス+インフルエンザ)

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2006年2月 1日 (水)

国際政治論:単位認定基準について

国際政治論(平成17年度秋学期伊勢学舎)受講者諸君へ

このほど、国際政治論の小テスト(計8回実施)の集計を終え、採点作業を行なった。その結果については、しかるべき時期に所定の手続きを踏んで諸君に示されることになっているから、ここではもちろん、諸君の個々の成績について言及することは出来ないが、ここでは全体に関わる単位認定基準について、述べておきたい。その要点については、すでに授業のときにも口頭で何度か説明したところだが、ここでは、それ以外の点についても補足しつつ、改めて説明しておこう。

(1)単位を認定するか否かの基準:計8回のうち4回の小テストで6割以上の正答率
優・良・可の別はともかくとして、そもそも単位を認定するかどうかの基準は、計8回行なった小テストのうち4回以上で6割以上の正答率を確保できたかどうかで判定した。

つまり、受けた小テストのすべてで6割以上を取れていなくとも、4回以上それができていれば、単位を認定したというわけである。

だから、単位を認められるかどうかという、諸君にとっての第一関門としては、そんなに厳しいハードルを設定したというわけではないことは、ご理解いただけることと思う。

(2)優・良・可の判定基準:小テスト“総回数の”平均正答率に受験回数を加味して判定
他方、「可」以上の学生諸君について、優・良・可の別を判定するに当たっては、「4回以上」ではなく、諸君が受けた小テストの“総回数”の平均正答率で判断した。

つまり、その平均正答率が7割の場合に「良」を与え、8割以上の場合に「優」を与えた、というわけである。

言い換えれば、たとえば4回は7割を超えていたとしても--つまり4回に限っては「良」に値するものであったとしても--残りの小テストの成績も加えて全体の平均を出すと結局6割となった場合は、「可」の判定を与えてある。

すなわち、(1)の第一関門では多少ゆるい基準を設定した代わりに、(2)の第二関門では、今度は逆に多少厳しい基準を設定した、というわけである。

とはいえ、もちろん(1)が優先するから、たとえ全体平均では6割を切っていても、4回だけなら6割の正答率であれば、それは依然として「可」である(ただし、一番ギリギリの「可」であることはもちろんだが)。

ただし、平均だけで考えてしまうと、8回全ての小テストを受けた学生よりも、たとえば7回、6回、5回、4回というように小テスト受験回数自体が少ない学生の方が、高い平均を出しやすくなってしまうため、そのような不公平が起こらないよう、小テストの“受験回数”も加味してある。

ちなみに、全体の平均正答率を計算してみると、57.9%であった。

ただし、これは全体を単純に足し上げた平均であって、単位認定自体は、8回のうち4回の成績だけで判定しているから、この“57.9%”という平均正答率の数字を見て、「6割弱の受講者しか単位認定されなかったのか?」と早合点しないでほしい。

欠席過多による受験無資格者を除くと、採点の対象となった学生数は結局69名であったが、そのうち「優」の学生は12名、「良」は9名、31名が「可」という結果となった。したがって合格率は、採点対象となった69名を母体とするならば、75.36%だったということになる。

(3)再試験対象者へ
今回残念ながら「不可」となった諸君のうち、卒業のかかった4年生については、制度上、再試験を受けることが認められているから、頑張ってほしい。

再試験は、授業で行なった計8回すべての小テスト問題をすべて、今度は一度に解いていただく。小テスト1回についてかけられていた時間はだいたい5分程度だったから、計8回全てを一度に出題しても、60分の解答時間が許されている再試験において、決して過剰負担とはいえないだろう。

持ち込みは一切不可とする。小テストでも一切不可としていたのだから当然である。気を引き締めてテスト勉強に励みなさい。

今回不可となった4回生諸君は、今回の勉強不足を真剣に反省して、シッカリと準備をしたうえで再試験に臨んでほしい。再試験を受験する諸君の奮起を心から期待している。

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