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2006年2月26日 (日)

ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ(2)

現在の資本主義が“ターボ資本主義”と呼ばれるほどにその構造変化のペースを加速させ、“一億総中流化”と呼ばれてきたわが国においてさえ経済格差をもたらすようになっている現在、いわゆる“構造改革”が政治的に推し進められていく中でわが国に生じつつある社会は、構造改革路線が目指しているであろう社会像、すなわち「地道な勤労精神にみちた健全な中産階級社会」であるとは、残念ながらどうも言い切れないようである。

むしろそこに生じつつあるのは、勝者と敗者とが両極分解した社会であり、経済的格差のみならず、「努力すれば報われる」という希望の面でも両極分解した社会、すなわち“希望格差社会”ではないかと思われるのである(*)。

(*)山田昌弘『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房、2004年)

そこにおける敗者――いわゆる“負け組”――は、一攫千金を手にした勝者たちを羨望の眼差しで眺めながら、いつかは自分もそうなれるという非現実的な夢を抱きつつ、その実、地に足の着いた将来の展望や確たる人生設計を持てないまま刹那的にしか生きていけない人たちである。山田昌弘氏によると、現代日本のいわゆるパラサイト・シングルやフリーターたちは決して夢を全く持っていないわけではないのだが、その「夢」はそれに向かって着実に努力していくための目標では決してなく、むしろ努力しても報われないという現実の自分の状況を忘れさせるための夢想でしかないのである(前掲書、217~218頁)。

このことはもちろん、現代日本において、長期的な視点に立って真面目にコツコツと努力するタイプの人々が全く消失したということを意味するものではない。現代日本にもそのようなタイプの人々はまだ数多くいるに違いない。

しかしながら、そのようなタイプに属するのは、山田昌弘氏によると、主に旧来型の職に従事してきた四〇代以上の世代の人々、すなわち高度成長期の大量生産・大量消費時代において安定した雇用と持続的な昇進が期待できる職業に就いてきた人々であって、グローバル化やIT化が進み、モノよりもサービスが優勢になり、単純労働者の間で雇用が流動化・不安定化しつつある現代にあって、その影響を真っ先に受けている若者の間では、真面目に努力していくという行動様式が薄れつつあるのである(同前、100~128頁)。

もっとも山田氏は、このような問題点を主に「負け組」に属する若者たちの間に求めている。他方で氏は「〔近代社会に入って〕宗教意識が薄れると、金持ちの享楽的、自己中心的傾向に歯止めがかからなくなる。これが、日本のバブル経済期に起こったことである」とも述べているものの(同前195頁)、氏の分析の焦点は--その書物のサブタイトルに表れているように--やはり圧倒的に「負け組」における問題点に置かれている。

しかしながら筆者は、他方の「勝ち組」の間でも、手っ取り早く一攫千金を手に入れようとする行動様式が見受けられるという意味で、「長期的な視野のもとで真面目に努力していく」タイプが若者たちの間で消失しつつあるのではないか、という懸念を拭い去ることができない。

すなわち、この希望格差社会でもてはやされている“勝ち組”は、ライブドア事件や、それを期に改めて問題視されるようになった、青少年の間での金融教育のありさまなどに象徴されるように、実体経済の世界の中で地道に顧客のニーズに応えていく勤労の倫理を兼ね備えた人物ではなく、むしろ実体経済から遊離したマネーゲームに狂奔し、着実な努力によるよりもラッキーな偶然によって一攫千金を手にし、その物質的豊かさをあからさまに謳歌するという、倫理的にいかがわしいタイプの人物と言うべきだと思われるのである。

その“勝ち組”の間にも見られる行動様式の問題点をよく言い表しているのが、「アフルエンザ」(=アフルエンス+インフルエンザ)すなわち「消費伝染病」という言葉であると筆者には思われる。そこで次回は、この「アフルエンザ」について述べることにしたい。

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