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2006年5月30日 (火)

NHKスペシャル『気候大異変』(1)

本欄の前回記事の末尾で、今年の2月に放映されたNHKスペシャル『気候大異変』を録画したDVDビデオについて、申し出てもらえれば研究室でいつでもお見せする用意があることを述べておいた。

ところが、政治学概論(名張)の5月26日(金)の授業で提出された聴講券の裏面に、ある1人の学生からこんな声が寄せられたのである:

「『気候大異変』のビデオをぜひ見たいのですが、時間の都合がつかずに見られなくて残念です(泣)」

そこで、本欄での現在の連載、すなわち「環境税を考える」と題した記事の連載を続ける前に、この『気候大異変』で放映された内容の要点を、読者の皆さんに、とくに学生諸君を想定して、お伝えしていこうと思う。というのも、環境税の必要性の有無について真剣に考えていくためには、その大前提として、地球温暖化がいかに深刻な気候変動をもたらしうるかについて、一定の知識を持っておくことが必要不可欠だからである。

この番組の内容をすべてここで書くわけにはいかないし、申し出てもらえればいつでも研究室で上映する用意があることにも変わりはないが、そのために私の研究室を訪れる時間をとりにくい学生諸君のために、ここにその要点を書いていくことにしたい。

なお、このビデオは「総合演習」の授業ではすでに上映したものであるが、総合演習の学生諸君には、この記事を、そのときに見たビデオの内容の備忘録として利用してもらえるのではないかと思う。この映像を見たときの衝撃は諸君に今でも焼きついていることとは思うが、その内容がどういうものだったのか、冷静に頭に残しておくことも大切だからである。

○地球温暖化=気候変動
以前にも書いたが、地球温暖化とは、たんに「地球が少し暖かくなるだけ」といった軽い出来事を意味するのではない。それは、地球の平均気温が上昇することによってさまざまな気候変動が起こり、私たちの生活に実に深刻な影響を与えるかもしれないことを意味しているのである。

その深刻な危機的影響のひとつとして心配されているのが、ハリケーンや台風といった熱帯低気圧の巨大化である。しかも、その兆候はすでに現れ始めているのではないか、と考えられるのである。

○温暖化による熱帯低気圧巨大化の恐れ:ハリケーン・カトリーナが語るもの
昨年8月、超巨大ハリケーン・カトリーナがアメリカ南部ルイジアナ州に上陸したことは、学生諸君もご存知のことと思う。死者は1400人以上、被害総額は最大15兆円。米政府の発表によると、この被害総額は、同時多発テロの10倍という米国災害史上最悪の被害であった。

ところがその発生前、北大西洋の海面温度がいつもの年より1度高かったというのである。海面温度が上昇すると、それだけ水蒸気の量が増えるから、熱帯低気圧の勢力が増大することになる。

それでは、この海面温度の上昇は、地球温暖化によるものだったのだろうか?

アメリカ大気研究センターのケビン・トレンバース博士がNHKのインタビューに答えていたところによると、海面温度上昇の0.5度分はおそらく地球温暖化によるものだという。このことは「地球温暖化が進めば、今後暴風雨がより一層強度を増していくことを意味する」のである。

○これまでの気象常識の通用しない時代へ:発生するはずのない海域で熱帯低気圧が発生
このような気候変動は、たんにこれまでもハリケーンや台風といった熱帯低気圧がこれまでお馴染みの海域で発生する場合に、その規模が巨大化する恐れがあることのみを意味するのではない。もしかすると、このまま大気中のCO2の増大がとどまらず、地球温暖化が進んでいけば、これまでの気象常識の通用しない異常事態が発生するかもしれないことをも意味しているのである。

ブラジル南部サンタカタリナ州で2004年夏の終わり、これまで観測されたことのないハリケーン級の熱帯低気圧が発生した。およそ40,000棟が全壊あるいは半壊したという。このようなハリケーン級の低気圧はこれまで南米沖では観測されたことがなく、名前すらなかった。というのも、その発生地点は熱帯ではなかったからである。それは赤道から南下して3000kmの“温帯”地域だった…! この“温帯”であるはずの海域で発生した“熱帯”低気圧による死者・行方不明者は11人、負傷者は500人以上だったという。

それでは一体、このまま温暖化が進んでいけば、今後の地球でどのような気候変動が起こることになるのだろうか? その予測のために開発されたのが、“地球シミュレータ”である。

○日本の地球シミュレータ:その驚くべき計算・予測能力
この地球シミュレータが開発されたのは、実は日本の国家プロジェクトとしてである。横浜市の海洋研究開発機構に、この地球シミュレータが設置されている。そこにある体育館のような建物が一つのスーパーコンピュータである。そのなかに5120台の大型コンピュータがつなげられており、通常のパソコンだと14時間もかかる複雑な計算をたった1秒でこなすという、世界でもトップクラスの計算能力を持っている。この地球シミュレータによって、今後100年間の気候を予測できるのではないかと期待されているという。つまり、今後予想される大気中のCO2の濃度を入力すると、未来の地球の姿が分かるのである。

この地球シミュレータは、本当に今後100年の地球の気候を予測できるのだろうか?

実は、その予測能力を示した出来事が、上述の温帯であるはずの南米沖で発生した熱帯低気圧であった。というのも、その発生のおよそ1年前、仮想地球の計算が開始されたとき、その仮想地球のブラジル沖の温帯の海域で、発生するはずのない熱帯低気圧が現れていたからである。

最初、この地球シミュレータの計算結果を見たとき、研究者たちはこの計算結果に頭を悩ませていた。計算間違いではないかとさえ思ったというのである。ところが、その1年後に、その熱帯低気圧が現実に発生した。つまり、この地球シミュレータによって、観測史上初の出来事がその1年前にすでに予知されていた可能性があるのである。それは、この地球シミュレータの計算・予測能力の高さを証明する出来事であった。

それではこの地球シミュレータによって、今後100年間の地球ではどのような気候変動が起こると予測されているのだろうか? このことについては、次回に述べることにしよう。

≪続く≫

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2006年5月25日 (木)

環境税を考える(3)

○なぜ地球温暖化は新たな環境問題なのか?:政府規制の限界
・従来の環境汚染:産業公害
産業公害による環境汚染は、たしかにかつての日本において深刻な被害をもたらした。「水俣病」「イタイイタイ病」「四日市ゼンソク」といった言葉は、学生諸君も一度は耳にしたことがあるだろう。これらの公害は、有害化学物質による水や大気の汚染によって引き起こされた環境汚染である(石弘光『環境税とは何か』2ページ)。

この産業公害はたしかに現在でも完全には解消されていないから、依然として重要な問題であり続けているが、後述するように、地球温暖化とは違って、環境税という新たな手法を用いなくとも、政府による直接規制で対応できるものなのである。このことを、筆者の幼少時代に馴染み深かった大気汚染の1つ「光化学スモッグ」を例にとって、説明してみよう。

・産業公害の一例:「光化学スモッグ」とその対策としての政府規制
筆者は大阪府堺市で生まれ育ち、19歳のときまで在住していたが、私が小学生のとき、学校でしばしば「光化学スモッグ」注意報・警報が出ていたことを今でもよく覚えている。これが発生すると、目がチカチカしたり、のどが痛んだり、頭痛を引き起こしたりして人体に悪影響を及ぼすのである。その注意報や警報が出たときには外ではあまり遊ばないように、外に出るときには必ず帽子をかぶるようにしなければならなかった。幸いなことに、私自身は光化学スモッグによる人体への悪影響を感じたことはなかったが、光化学スモッグの注意報や警報の発令を示す旗が校内に掲げられているのを見るたびに、子供心に何かこう、うす気味悪く感じたものである。

私は昭和44年(1969)2月生まれだから、私が小学生だったのは昭和50年4月~56年3月(1975.4~1981.3)である。試みに環境省のホームページで光化学スモッグ関連の法令・告示・通達を調べてみたら、大気汚染防止の基本法である「大気汚染防止法」が昭和43年6月10日に公布されていたのに加えて、「光化学スモツグの発生防止等に関する暫定措置について」と題された通達が、当時の環境庁大気保全局長から各都道府県知事あてに、昭和47年6月1日に公布されているから、私が小学生の頃には、大気汚染防止法を踏まえたこの種の通達を受けて、防止対策のためのさまざまな規制措置がすでに採られていたことだろうと思う。

この光化学スモッグはもう過去のことかと思っていたら、同じく環境省のホームページに、なんと、つい最近の2006/05/12の日付で、「揮発性有機化合物について:光化学スモッグのないくらし」と題されたパンフレットが発行されていた。それによると、過去、昭和40年代にも光化学スモッグが問題となり、国はその原因物質たる窒素酸化物や硫黄酸化物の排出規制を行なってきたが、近年「光化学オキシダントの注意報・警報発令日」が再び増加傾向にあるため、今年の4月1日から、揮発性有機化合物(VOC)の排出規制が新たに開始されたのだというのである。

揮発性有機化合物(VOC)とは、ガソリンや、塗料・接着剤・インク等に溶剤として含まれるもので、蒸発しやすく(蒸発しやすい性質のことを“揮発性”という)、大気中で気体となる有機化合物の総称で、これが自動車や工場からの排気ガスに含まれる窒素化合物と、太陽からの強い紫外線を受けて化学反応を起こし、「光化学オキシダント」という物質をつくり出す。この光化学オキシダントの濃度が高くなって白いもやがかかったようになる現象が「光化学スモッグ」に他ならない。

つまり、国はこれまで、光化学スモッグ対策として、窒素酸化物や硫黄酸化物の排出規制を行なってきたが、今回新たに、この窒素酸化物と化学反応を起こすことで光化学オキシダントを生み出す原因物質たるVOCを、新たな排出規制の対象に加えたというわけである。

環境省のパンフレットによると、このVOCは工場や工事現場などから大気中へ年間約150万トン、それ以外に自動車などから数十万トンも排出されているというから、これもまた、うす気味悪い話である。

このように、光化学スモッグひとつを取り出してみても、大気汚染という産業公害は現在でも大きな問題となっており、そのための対策としての政府規制が依然として重要であり続けていることは確かである。

・地球温暖化の特徴:産業公害との異質性
しかしながら、地球温暖化は、以上のような産業公害とは根本的に性格を異にした、まったく新たな環境問題なのである。この根本的な違いを、石氏は以下の三点にまとめている:

(1)地球温暖化を引き起こす原因物質は、直ちに人体に影響を与えるものではない。地球環境全体にじわじわ悪影響を及ぼすもので、直接の被害者は子や孫の将来世代である。

(2)主たる要因であるCO2排出は、人間のあらゆる活動に伴って発生するものであり、特定の産業活動から生じる物質の排出によるものではない。

(3)時間を経て空間的に拡大するので、現世代の間に危機意識は生まれにくい。かくして人々は冷淡で、その対策のため国民的支持は得にくい状況になる。

つまり、従来型の産業公害は、現在でも重要な問題であるとはいえ、地域や発生源が特定されているため、政府による直接規制で十分対応が可能である。ところが、地球温暖化は、化石燃料をエネルギー源とする限り、人間のあらゆる活動に伴って引き起こされるため、規制的手段だけではとうてい対応不可能なのである。
(石弘光『環境税とは何か』18-19ページ)

そもそも政府による直接規制が有効に働くためには、実際に取り締まりを行なわなければならない。しかし、石氏も指摘しているように、自転車の違法駐輪や自動車の違法駐車、車のスピード違反、それに未成年による飲酒や喫煙などのように、ほとんど無視されている規制も数多いのである(『環境税とは何か』42ページ)。このことからも分かるように、規制が実を挙げるための取り締まりは、取り締まりの対象たる違法行為があまりにも広範にわたって行なわれている場合、一般的に言っても、現実にはなかなか難しい側面がある。

ましてや、地球温暖化の原因たるCO2の排出は、化石燃料に依存している限り、人間のあらゆる活動に伴うものであるから、政府による直接規制では対応しきれないのである。

こうして、地球温暖化を食い止めるための新たな環境対策として、環境税が浮上してくることになるのである。それでは一体、環境税は、どのようなメカニズムによって、地球温暖化防止の実を挙げることが期待されるのであろうか? この点については、次回に述べることにしよう。

なお、環境税が浮上する以前に従来から行なわれてきた環境対策としては、今回取り上げた政府規制の他に、民間による自主的取組があるが、それについても次回以降に取り上げることにしたい。

☆追伸☆~『気候大異変』のビデオを希望者にお見せします~

ところで、本欄で地球温暖化を「最も深刻な環境問題」であることを当然の前提としているが、学生諸君の中には、「少し暑くなるぐらいで、別にどうってことないんじゃないの…」と思っている諸君も少なくないかもしれない。

しかし、『気候大異変』と題されたテレビ番組(NHKスペシャル)を見てもらえれば、その深刻さが実感してもらえるにちがいない。というのも、地球温暖化とは単に「地球が暖かくなる」ということではなく、それによって引き起こされる地球規模での“気候変動”(Climate Change)に他ならないからである。

このテレビ番組を録画しておいたものを、実は教職課程の総合演習の受講者諸君にはすでに授業中に上映してある。50分の番組が全2回シリーズで放映されたものだったから、授業でも2回に分けて上映したが、その反響たるや、大変大きいものであった。そのおかげで、最初は反応の鈍かった受講者諸君も、いまや地球温暖化問題を真剣に考える大人に成長しつつあり、大変頼もしい限りである。

政治学概論の受講者の諸君には、残念ながら時間の制約上、このビデオを授業で上映できずにいる。これからも授業での上映は難しいだろう。

なので、政治学概論の受講者の中で、この『気候大異変』のビデオを見てみたいという人がいれば、授業の終わりにでも、ぜひ私に直接申し出ていただきたい。授業中に教室で上映することはできないが、山中研究室を個別に訪問してもらえれば、録画したDVDを、研究室のパソコンでよろこんで上映させていただく次第である。また、総合演習の受講者諸君でも、もう一度見てみたいとか、当日欠席してしまったので見られなかった、という学生諸君からの希望も大いに歓迎したい。

もちろん、これは授業の一環としてお見せするものであるから、学生諸君には無料で見てもらうのであり、したがって、著作権侵害には当たらないことを申し添えておく。

≪続く≫

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2006年5月23日 (火)

環境税を考える(2)

本欄の昨日の記事でのポイントを改めて簡潔に述べるならば、それは次のとおりであった:

大気中のCO2の増大と地球温暖化という2つの現象の間には因果関係があることが推定されるべきである。あまりにもそのメカニズムが複雑であるために、その因果関係を科学的な意味で完璧に証明できていないからといって、「大気中のCO2の増大と地球温暖化という2つの現象は無関係である」と速断してしまってはならない。むしろ、取り返しのつかない大惨事が起こる前に、直ちに未然の防止策に本格的に取り組むべきである。つまり、地球温暖化のような“複雑系”の問題に関しては、科学的証明よりも予防原則が優先すべきなのである。

今日から環境税について取り上げていくに際しては、このポイントを大前提としておかなければならない。というのも、環境税とは、環境問題が従来の産業公害とはきわめて異質な地球温暖化問題へと変化していく中で必要だと言われるようになった、新たな環境対策だからである。

ところが、この環境税に対して、経済界は強硬に反対し続けている。それは一体なぜなのであろうか? その反対は果たして妥当といえるものなのだろうか?

本欄の「環境税を考える」の連載では、このことについて、考察を加えていくことにしたい。

なお、環境税について本欄で取り上げるにあたって依拠した文献は、石 弘光(いしひろみつ)著『環境税とは何か』(岩波新書、1999年)である。今から7年前の書物だが、環境税について学ぶに当たって、今でも充分通用する豊かな内容を備えた良書であると思う。実際、石氏はわが国における税制問題の第一人者のひとりであり、環境税の問題についても、政府税制調査会委員の一人として積極的に取り組んでいる研究者(一橋大学名誉教授)である。

本欄では、この石氏の書物に大幅に依拠しつつ、ハイエク研究者の一人としての筆者の視点も加えつつ、環境税について考えていくことにしたい。

○環境税とは?:その予備的な確認
まず環境税とはそもそも何であろうか? これについて理解を深めてもらうためには、本欄での連載全体を通じて、多くの説明をしていく必要があるが、本格的に論じるに先立って、まずは予備的に、簡単に確認しておくことにしよう。

環境税とは、その最も狭い意味では、「CO2排出量の抑制を目標に、化石燃料が排出する炭素含有量に賦課する炭素税」のことを指している。しかし、もっと広い意味では、「地球温暖化防止に限らず、およそ環境に負荷を与える財・サービス全般を課税の対象」とする税制一般のことも指すことになる〔以上については、『環境税とは何か』iiページを参照〕。

石氏の書物では、この広い意味での環境税が一般的に取り上げられているが、本欄では環境問題の中でも地球温暖化問題にその対象を限定したいので、ここで“環境税”という場合は、その最も狭い意味たる“炭素税”を指すものとして用いることにしたい。

さて、環境税=炭素税の具体例としてここで簡単な例を出すとすれば、ガソリンや灯油など、石油からくる燃料が挙げられるだろう。石油はその成分として炭素(化学記号はC)を含む化石燃料であり、それを燃やすと酸素(化学記号はO)と結合して、CO2という代表的な温室効果ガスとなって大気中に排出され、地球温暖化が進むことになる。

今は厳密な議論を避け、とりあえず具体的なイメージを学生諸君に持ってもらうために、話を思い切り単純化しておくと、要するに、環境税がガソリンや灯油にかけられると、それだけガソリン・灯油の値段が上がることになる。値段が上がれば、消費者はその使用を控えようとするだろう。そうすると、それだけガソリンや灯油の使用が抑制されることになるから、その結果、CO2の排出が抑制されることになるのである。

つまり、

ガソリン・灯油に環境税
 ↓
ガソリン・灯油の値段が上がる
 ↓
ガソリン・灯油の使用が控えられる
 ↓
CO2の排出が抑えられる

--というわけである。

とはいっても、これは非常に単純化された図式であって、現実にこうなるためには、さらに厳密な条件が必要とされるが、説明の便宜上、今の段階ではこの単純な図式だけにとどめておこう。

○新たな環境対策としての環境税
さて、この環境税=炭素税は、従来からすでに行なわれてきている環境対策とは異なった、新たな環境対策である。従来から実施されてきた環境対策というのは、次の2つである:

・政府による直接規制
・民間による自主的な取組み

この2つはもちろん、これからも当然なされなければならない重要な環境対策である。そして経済界の立場は、環境税を導入することなく、これからもこの従来からの対策で対応していくべきだ、というものである。

ところが石氏によると、環境問題が従来の産業公害とは質を異にした“地球温暖化問題”へと変化を遂げてしまったために、この従来からの対策だけでは不充分だと言われるようになってきたのである。そういう中で唱えられるようになってきたのが、環境税に他ならない〔『環境税とは何か』ii~iiiページ〕。

ところで、そもそも地球温暖化がなぜ、数ある環境問題の中で最も深刻なものと言えるのであろうか? 今回はこれぐらいにして、次回に説明することにしよう。

≪続く≫

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2006年5月22日 (月)

CO2の増大は地球温暖化と無関係?

環境税について考える文章を連載するための準備を現在進めている最中であるが、そんな矢先、今日の『産経新聞』の「正論」欄に、地球環境問題について考えるにあたって、大前提としてまず押さえておかなければならない論点が取り上げられていたので、環境税についての連載を続ける前に、本欄でもその点についてコメントを加えておくことにしたい。

本日5月22日付けの『産経新聞』正論欄に文章を寄せておられたのは、総合研究大学院大学教授の池内了(いけうちさとる)氏であったが、氏によると、「地球温暖化は大気中の二酸化炭素量とは関係ない」という本が出回っているというのである。

私はそのような論調の本が出回っているという現象を迂闊にも知らなかったので非常に驚いたが、「地球温暖化は二酸化炭素量の増大とは無関係」という論を立てる場合の論拠については、私もすでに知ってはいた。ただ、そのような議論を立てた本が出回り、それを信用して「地球環境問題は、環境学者たちが自分の分野に金を引き出すための陰謀だ」と考える人々までいる、という氏の指摘には大変驚かされたのである。

しかし、氏が適切に論じておられるように、このような議論には、あとで取り返しのつかない致命的な結果を地球環境におよぼしかねない危険性が孕まれているのである。氏の議論の詳細については本日の産経新聞正論欄を読んでいただくとして(図書館でも読めます)、ここでは氏の議論の要点を簡潔にまとめつつ、私なりのコメントを加えておくことにしよう。

池内了氏も論じておられるように、「地球温暖化は大気中の二酸化炭素量とは無関係」という議論の根拠とされているのは、“二酸化炭素の増大”⇒“地球温暖化”という関係が≪因果関係≫といえるかどうか、厳密には科学的に証明されていない、ということである。

というのも、地球環境問題のような現象は、単純なものではなくて、非常に多くの諸要因が複雑に絡まりあった現象、すなわち“複雑系”と呼ばれる現象だからである。この“複雑系”の場合、直接の原因をハッキリと特定することは大変難しい。したがって、地球温暖化による気候変動の問題の場合も、地球温暖化という結果が、産業化による二酸化炭素量の人為的な急増という原因によってもたらされたと科学的に断定することは必ずしもできない、ということになる。たしかに、地球の長い歴史の中には温暖化した時期が何度もあったが、たしかにそれは必ずしも大気中の二酸化炭素の量が増大したからではなかった。したがって、大気中の二酸化炭素が増大したからといって、それを直ちに地球温暖化の直接原因と安易に断定することはできない。

しかしここでの真の問題は、致命的な結果が起こるかもしれない場合に、それを未然に防ぐことこそが必要なのではないか、ということなのである。

実際、産業革命以来、大気中の二酸化炭素量が急激に増大していることは紛れもない事実であり、また、地球が近年徐々に温暖化しつつあることも厳然たる事実である。この場合、“二酸化炭素の増大”と“地球温暖化”という2つの現象の間に、因果関係があるという証明はできていないとしても、それと同時に因果関係がないという証明もできていないのである。

その場合、“二酸化炭素の増大”と“地球温暖化”という2つの現象が、厳密な意味では≪因果関係≫にあるとは言えなくとも、もしも本当は因果関係にあったにもかかわらず厳密には証明できていないだけだったとしたら、それを見過ごした結果、取り返しのつかない致命的な気候変動が地球全体に起こるかもしれないのである。

だとするならば、起こるかもしれないことを想定して、それを未然に防ぐ対策を講じておく方が賢明だというべきであろう。対策を怠って致命的な結果をもたらす危険性を残しておくよりも、そんなことにならないうちに未然に対策を講じておくことこそが、大惨事をもたらさないための唯一の方法だからである。

その意味で、池内了氏が「予防原則が科学的証明に優先すべき」と論じておられることは、きわめて妥当なことだと思う。

それにしても、「二酸化炭素量の増大と地球温暖化は無関係」という議論が出回ったり、環境税に対して経済界から強硬な反対が唱えられたりするのは、一体どうしてなのだろうか?私はそこに、≪地球環境保全と経済活動とが両立不可能≫という観念が横たわっているように思われてならない。

しかし本当にそうだろうか? 地球環境保全と両立不可能なのは、化石燃料に依拠した経済活動なのではないか? 否、そもそも地球環境保全と経済活動とは、“両立”させるべき、もともとは別個のものなのだろうか? むしろ地球環境を保全しない経済活動は、自分で自分の体を食べるようなものなのであって、両者はそもそも本来一つのコインの裏表と捉えるべきではないのか?

地球環境問題、とくに地球温暖化問題においては、経済界のみならず、家庭で生活している一般消費者も、その豊かなライフスタイルゆえに二酸化炭素を過度に排出している“加害者”でもある。したがって、化石燃料に執着したライフスタイルから経済界も一般消費者も本気で脱却しない限り、解決不可能な問題なのである。

地球温暖化による気候変動という致命的な大惨事を未然に防ぐという機運を盛り上げるためには、地球環境保全と表裏一体となった、新たな経済活動の可能性を切り開き、≪地球環境保全と経済活動とが両立不可能≫という観念を解消させることこそが必要不可欠であろう。さもなければ、“二酸化炭素の増大”と“地球温暖化”という2つの現象が厳密な意味では≪因果関係≫にあるとは言えないことを幸いとした、地球環境に破壊的な経済活動(これは自殺的である可能性が非常に高いのであるが)が止まることはないだろうと思われるのである。

山中 優

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2006年5月19日 (金)

環境税を考える(1)

政治学概論(名張・伊勢)および総合演習(名張・教職)の学生諸君へ

本日の政治学概論(名張)の授業で、テキスト『新版 はじめて出会う政治学』の第3章「大企業と政治」の説明をしたときに、必ずしも大企業(財界・経済団体)だけが日本の政治を動かしているわけではなく、様々な団体の間での綱引きの中で現実の政策が決まっていくのであり、その結果、経済団体の望まない政策を政府が実行することもあることを述べ、その実例の一つとして、テキスト42-44頁に載っている「公害規制」を挙げた。

そして、それに関連する時事的な話題についてのコメントとして、環境税の問題について簡単に言及した。

この環境税の問題は、政治学概論(伊勢)で言うならば、テキスト『新版 現代政治学』第10章の4「地球環境破壊と持続可能な開発」に密接に関わるトピックである。

また、『ツバル』(春秋社)をテキストとする総合演習(名張・教職)にも、大いに関係のあるトピックである。

そこで、授業に関係する専門的・時事的な話題として、このブログでもこれからしばらく取り上げていきたいと思う。

今回のところは差し当たって、学生諸君への予告程度にとどめておくが、最後に、環境税に関する有用な入門的解説として、環境省のウェッブサイト上に「環境税について気軽に知るコーナー」があることを案内しておこう。ぜひご参照願いたい。

山中 優

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急速な自由化がテロ撲滅への道か?:米国大統領2006年一般教書演説を読んで

私の通っているECCの時事英語クラスで、昨日、今年の1月31日に行われたブッシュ米大統領の一般教書演説の一部を抜粋したものが、教材として取り上げられた。その教材とは、『CNN ENGLISH EXPRESS』(朝日出版社、2006年4月号)pp. 83-89に掲載されていたものである。

以前から気になっていたものの、一般教書演説がなされた当時にはそれに触れる余裕がなかったのだが、昨日ちょうど教材として触れる機会に恵まれたので、大変遅ればせながら、これを機にホワイトハウスのウェッブサイトにアクセスしてその全文を入手し、ECCに通う電車の中で通読した。

読んでみて私の目に止まったのは、中東に自由民主主義を拡大していくという理想を引き続き強力に推し進めることで、米国は世界のリーダーでありつづけるという強い決意を示した部分である。その部分を読んだとき、私は「ちょっと待てよ…」という思いを抱くことを禁じえなかった。

とはいえ、私は反米的な立場に立っているわけではない。わが国の第二次大戦後の発展は日米同盟なくしてはありえなかっただろうし、これからも日米関係は重要なものであり続けるだろう。戦後において、米国が寛大にも市場を日本製品に対して開いていなければ、今の日本の繁栄はありえなかった。その意味で、私は日本がこれからも米国と良好な関係を保っていくべきであると思っている。その意味で、ブッシュ大統領がこの一般教書演説で孤立主義への回帰を戒めたことは、評価されてよいだろうと思う。

だが、その上で、やはり「ブッシュさん、ちょっと待って下さいよ…」という思いを禁じえなかった。というのも、この一般教書演説においても相変わらず、「圧政による自由の欠如こそがテロの温床であり、自由民主主義の強力な拡大こそがテロを撲滅する唯一の道である」という立場を鮮明にしていたからである。

本欄の昨年7月24日の記事(「ロンドンのテロをめぐって:宗教テロは“自由からの逃走”か?」)でも触れたが、昨年7月20日のInternational Herald Tribune紙に掲載された、コラムニストのRoger Cohen氏の論説によると、昨今の宗教テロは必ずしも圧政下に置かれるがゆえの絶望の産物ではない。昨年7月にロンドンで自爆テロを起こしたアラブ系青年ハシブ・フサインも、2001年9月11日に世界貿易センターの北側のビルにAmerican Airline Flight 11を突っ込ませたモハメド・アタも、決して自由と豊かさを知らない青年ではなかった。むしろ、彼らはイギリスのリーズや、ドイツのハンブルグで、欧米的な自由を享受して過ごしていたのである。

本欄の昨年7月26日に「宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(1)」「同(2)」を掲載したが、そこでも論じておいたように、むしろ途上国に対してあまりにも拙速に国際統合・自由化を迫ったことが、かえって昨今の宗教テロを呼び起こしている可能性が高いと思われるのである。

だとするならば、たしかにテロリズムという手段が到底許されるものではないとはいえ、テロリストたちを敵呼ばわりし、彼らの原理主義的な主張の背後に横たわる反米的な姿勢を徒らに刺激するだけでは、かえって米国にとっても逆効果となるのではなかろうか? むしろ、本稿の昨年8月8日の記事でも論じておいたように、先進国としては自由市場の論理に首尾一貫して従いつつ、途上国にはむしろ開発主義を採用する余地を寛大に認め、雁行的な国際的経済発展を可能にすることこそが、テロリズムを沈静化させ、米国の国益に適う道だと思うのである。

しかもその「経済発展」は、21世紀の今日、もはや石油をはじめとした化石燃料に依存しつづけるものではありえないだろう。むしろ、これからの米国が進むべき道は、そしてその米国と今後も同盟関係を保っていくべきわが国が歩んでいくべき道は、限りある化石燃料の奪い合いに自らを巻き込ませる道ではなく、むしろ、太陽光や風力等の自然エネルギーの開発に邁進し、経済発展を渇望する途上国にもその技術を気前よく供与することで地球温暖化=気候変動の進行を食い止め、持続可能な経済発展を地球規模で達成していける道を、日米そしてEUが手を取り合って、切り開いていくことでなければならないだろう。

この意味で、京都議定書から離脱している米国ブッシュ大統領その人自身が、今年の一般教書演説で「アメリカは石油中毒である」と認め、一方で石炭や原子力にも言及しつつも、他方ではクリーンな自然エネルギー活用のための技術開発にもハッキリと言及していたことは、大いに評価されてしかるべきことだと思われるのである。

米国が自由民主主義の普遍性を信じるあまりにその拡大に盲信することなく、本来は原理主義的ではないはずのアラブ・イスラム的な価値も認めつつ、共存共栄の道を世界が歩んでいく上で必要な役割を発揮していくことを、心から願うものである。

山中 優

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2006年5月18日 (木)

道路公団民営化をめぐって(5)

私は、この事例のうちに、「官の論理」の「民の論理」への侵食を看取せざるを得ない。

とはいえ、私は決して、官の論理の必要性それ自体を否定するものではない。むしろ民の論理だけですべてがうまくいくとは限らないというべきだろう。しかし、NHKスペシャルで伝えられた内容から、私は「民営化の名の下に、政治の論理がかえって陰湿な形で働いている」という気がしてならないのである。私はこのことを、舞鶴若狭道と中部横断道の事例のうちに強く感じざるを得なかった。

○舞鶴若狭道の場合
たしかに、舞鶴若狭道(福井県)の場合、「原子力発電所がある」というのは、採算性とはまた別の重要な特殊事情であろう。もっとも原発に関しては、石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料に代わるエネルギー源として、太陽光や風力などの自然エネルギーではなく、原子力を大々的に活用することが果たして正しいのかどうか、というまた別の根本問題があるが、ここではその点についてはひとまず措くことにしよう。

いまここで私が問題としたいのは、たとえ原発という特殊事情によって採算性を度外視してでも高速道路を建設すべきだとしても、それでは一体なぜ、舞鶴若狭道の建設が、新直轄方式ではなく、民営化された新会社の手によって、なされなければならないのだろうか?--ということである。原発の活用というのは国策として推進されているものであり、まさに官の論理によるものなのであるから、それに伴う高速道路の建設も、官の手によって、すなわちこの場合は新直轄方式によって、建設されるべきなのではなかっただろうか?

にもかかわらず、原発という特殊事情を考慮しての採算性を度外視した舞鶴若狭道の建設が、官の手によってではなく、民の手で行なわれるべしとされたのは、「官の論理の濫用による民の論理の歪曲」、あるいは「官による民への侵食」だと思われてならない。

民にできることはあくまでも採算性に基づいた経済活動なのであって、それを越えて、原発という特殊事情によって高速道路の建設がなされるべきなのだとすれば、それはあくまでも官の論理に基づくのだから、その実施も官が引き受けなければならなかったはずなのである。それを民営化された新会社に押し付けたというのは、財政赤字を理由とした「官の責任放棄、民への責任転嫁」としか私には思えない。

実際、福井県知事は、新会社の手による建設という福井県としての希望を、新会社自体に行って近藤会長に直接伝えたのみならず、総勢23人もの陳情団を引き連れて国土交通省の副大臣室を訪ね、舞鶴若狭道の(新直轄ではなく)“新会社による”建設の実現を、(新会社にではなく)“国土交通省副大臣に”お願いしに行く様子を、NHKスペシャルは伝えていたのである。

○中部横断道の場合
また、中部横断道(山梨県)の場合、採算性を度外視した建設について新直轄方式を併用するという結論自体は正しかったとはいえ、少しでも山梨県側の費用負担が少なくなるように、新会社の負担を大きくしようとした山梨県の行動にも、私は官の側の一種の責任放棄、民への責任転嫁を感じざるを得ない。

というのも、この場合、新会社の採算性に基づいた自主的な経営判断をまずは尊重し、その結果新会社によっては建設できない路線を引き受けるものとして補助的な役割を担うはずの“新直轄方式”が、いつの間にか、県の苦しい財政事情を原因とした、建設費用負担の民への押し付けのための道具として使われてしまったからである。

○結論
私は、高速道路の建設という一種の公益事業の場合、官と民とがともにそれぞれの役割を果たす必要があること自体は、現実問題としては仕方ないのかもしれないと思わないことはない。

しかしながら、その場合、採算性に基づいた建設という民の論理を越えて、採算性以外の要素をも考慮した建設もやむなしという結論を出したとするならば(この結論自体、異論の余地はあるだろうが)、その場合はあくまでも官の手によって、官がどこまでも責任を持って建設すべきだったと思うのである。

道路公団民営化に際して、民営化の論理の貫徹を抑えてまで、新直轄方式という官の論理の余地を政治的判断として残しておいた以上、採算性の低い路線の建設は、県の財政事情という要因をねじ込んで民に押し付けるのではなく、あくまでも赤字覚悟の上で官の財政負担によって行なうべきであっただろう。そして、そこまでして地元に高速道路を建設すべきかについて、それぞれの地方議会で議論して決めればよい問題のはずだったのである。

山中 優

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2006年5月17日 (水)

道路公団民営化をめぐって(4)

○国の果たした役割:とくに中部横断道の場合
この場合、福井県も山梨県も、実は国に、すなわち国土交通省に陳情していた。つまり国の力を頼りにしていたのである。福井県と山梨県は、国を通じて、新会社に対して間接的に圧力をかけたというわけである。

それにしても、なぜこのようなことが可能だったのだろうか? ここでは、新直轄方式のみならず、もう一つの仕組みが大きな威力を発揮していた。それは、新会社の経営判断のみで新会社の手による建設が決まるのではなく、新会社の自主的な判断を尊重しつつ、最終的には新会社と国とが“協議の上で”、新会社がどの路線を建設するかを決定する、という仕組みである。

この仕組みのもと、国は中日本高速道路株式会社に対して、中部横断道のどの区間を新直轄で建設するかについて、新会社の原案ではなく、山梨県の譲歩案を国の案として、新会社に対して提示してきたのである。

そこで新会社はどうしたか? 国の案(=山梨県の譲歩案)を蹴って、あくまでも新会社の原案を貫き通すことも不可能ではなかった。しかし、そうなると【①富沢-②南部-③六郷-④増穂】がつながらなくなってしまうことになる。

つまり、
新会社の原案 :      ②南部-③六郷-④増穂 を新直轄で

          (①富沢-②南部は新会社)

山梨県の譲歩案:①富沢-②南部-③六郷       を新直轄で

であったが、新会社が自らの原案を貫き通せば、③六郷-④増穂の区間は、新会社も山梨県・国も建設しない、つまり誰も建設しないことになる。

そうなると【①富沢-②南部-③六郷-④増穂】が全部はつながらなくなってしまうため、利用者の大幅減が考えられるから、新会社の採算見込みが大幅に悪化することになる。そうすると、新会社が道路公団から引き継いだ巨額の借金の返済計画も大幅に狂ってくるから、それだけは新会社としては避けたかったのである。そこで、結局、中日本高速道路株式会社としては、国の案=山梨県の譲歩案を呑まざるを得なかった、と近藤氏はNHKのインタビューに対して答えていた。

○中日本管轄内の未開通高速道路建設についての結論
以上要するに、第二東名、舞鶴若狭道、それに中部横断道の3つの路線について出された結論は、以下の通りであった:

第二東名は新会社が建設(←採算性が高いため)
舞鶴若狭道も新会社が建設(←採算性は低いが、原発という特殊事情を考慮)
中部横断道は、国の案=山梨県の譲歩案で新直轄を併用

これについて、われわれはどう考えるべきでなのであろうか?

《続く》

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2006年5月16日 (火)

道路公団民営化をめぐって(3)

NHKスペシャルで取り上げられていた「中日本高速道路株式会社」の場合、建設すべきかどうかが問題となっていたのは、第二東名、舞鶴若狭道、それに中部横断道の3つの路線である。

○第二東名
そのうち、第二東名は採算性が最も高く、総合評価もAランクとされ、新会社の手で建設すべきことで新会社経営陣の意見はすんなりと一致した。

ところが、後の2つ(舞鶴若狭道と中部横断道)は、双方ともに採算性の評価が最低のeランク、総合評価も最低のCランクとされたため、新会社の手で建設することは困難だったのである。

○舞鶴若狭道
この2つのうち、舞鶴若狭道(福井県)については、しかしながら結局、原子力発電所があるという特殊事情が考慮され、新会社の手ですべて建設されることが決められた。舞鶴若狭道は50kmが未開通、その建設費用は2300億円であり、この未開通区間の料金収入だけで建設費用を賄うことはきわめて難しいとされていたが、その沿線に原子力発電所があり、防災上、高速道路は不可欠との理由から、採算性を度外視して新会社が建設すべきとされたのであった。

○中部横断道
また、中部横断道(山梨県)について攻防が繰り広げられたのは、新会社と新直轄方式とを併用するとして、それでは一体、どの路線を新直轄方式で建設するかをめぐってであった。

素直に考えるならば、新会社が採算性の低さを理由に建設できないとした路線を、そのまま新直轄方式で引き受ければよいということになる。しかし、実際はそう単純に事は運ばなかった。というのも、山梨県の財政事情が大変厳しいため、山梨県としては自らの費用負担がなるべく少なくなるようにしたかったからである。

もっと具体的に説明しよう。問題となったのは、【①富沢-②南部-③六郷-④増穂】の路線である〔①~④の番号は説明の便宜上、山中が加えた〕。

中日本高速道路株式会社の案では、①富沢-②南部は新会社が建設するが、②南部-③六郷-④増穂は新直轄方式で建設してもらいたいというものだった。

ところが、山梨県の原案では、②南部-③六郷間のみを新直轄でというものだった。新会社の案だと山梨県の原案よりも100億円、山梨県の負担が増えることになる。山梨県としてはそれは何としても避けたかった。

そこで、山梨県は自らの原案では②南部-③六郷間のみだったのを、①富沢-②南部をも新直轄に加え、新会社の原案よりも新直轄の路線を3km短くすることによって、山梨県の原案よりも40億円の負担増は引き受ける。その代わりに、残りの③六郷-④増穂は新会社の手で建設させたいと山梨県は考えたのである。

つまり、

山梨県の原案 :      ②南部-③六郷       を新直轄で

新会社の原案 :      ②南部-③六郷-④増穂 を新直轄で

⇒山梨原案よりも100億円の負担増

山梨県の譲歩案:①富沢-②南部-③六郷       を新直轄で

⇒山梨原案よりも40億円のみ負担増

--というわけである。結局、新会社はこの山梨県の譲歩案を呑まざるを得なくなったとNHKスペシャルは伝えている。

《続く》

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2006年5月15日 (月)

アクセスカウンターを追加しました

大変遅まきながら、本ブログのアクセスカウンターを設置しました。本日よりカウントし始めますので、これまでどれだけのアクセス件数があったのかは全く不明ですが、ともあれ、今日からアクセス件数がカウントされることになります。みなさんのアクセスをお待ちしています。

山中 優

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道路公団民営化をめぐって(2)

政治学概論(名張・伊勢)の学生諸君へ

5月12日の記事に引き続いて、NHKスペシャルの内容をもとに、昨年10月1日に道路公団が民営化された後、半年の間に繰り広げられた、未開通の高速道路の建設をめぐる攻防について、ここに書いていくことにしよう。この「道路公団民営化をめぐって」のシリーズは、今回が(2)であるが、(5)まで続く予定であることを予め伝えておく。

○新直轄方式:平等を重んずる民主主義の論理の一例として
採算性のみを考えれば民営化された新会社の手によっては建設できるはずのない路線も、結局は建設されることが決まったのは、高速道路の建設が純粋に民の手によって行なわれるのではなく、官の手によっても建設できる余地が制度上残されたからであった。その仕組みとは、“新直轄方式”である。

この“新直轄方式”とは、国と地方自治体とが税金を使って高速道路を建設する方式である。つまり、道路公団が分割民営化されたといっても、それはすべてが民間の手によって採算性をもとに建設すべきか否かを判断するのではなく、たとえ採算性の低い地方の路線であっても、地元の要望に応え、地域格差をなくすという政治的判断から、官の手によって建設できる道がまだ残されていたのである。

つまりこの場合、平等という共通善(の1つ)を実現するためならば政治権力を積極的に使ってもよい、という民主主義の論理が働いたのである。この民主主義の論理については、名張のテキスト『新版 はじめて出会う政治学』でいえばpp. 31-32において国鉄の例に即して説明がされており、伊勢のテキスト『新版 現代政治学』ではpp. 40-41において抽象的に民主主義の論理が説明されているので、参照されたい。

いずれにせよ、民の論理(すなわち経済的自由を重視し政治権力を警戒する考え方)のみならず、官の論理(すなわち政治的・社会的平等を重視し政治権力の積極的行使を求める考え方)が、道路公団民営化後も、高速道路の建設をめぐって依然として根強く働いていた、というわけである。

しかし、話はここで終わらない。すなわち、新会社と新直轄方式との併用による“全線建設”が決まった、というだけで話は終わらないのである。というのも、両者をどのように併用するか、すなわち、どの路線を、新会社と新直轄方式とのどちらが建設を請け負うのかをめぐって、国・地方自治体と新会社との間で、激しい攻防が繰り広げられていたからである。

《続く》

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2006年5月13日 (土)

DVD上映奮闘記

昨日2時間目の総合演習では、本欄の5月5日以降、3回にわたって取り上げたNHKスペシャル「同時3点ドキュメント:煙と金と沈む島」をDVDに録画したものを上映した。この総合演習では、教職課程を選択している学生たちを対象に、神保哲夫『ツバル:地球温暖化に沈む国』(春秋社、2004年)をテキストとして、地球温暖化問題を考える授業を行なっているからだ。

その録画DVDを見た感想を書いてもらったところ、学生諸君がみな真剣に見て考えてくれていたようなので、教師として大変嬉しかった。

その受講学生諸君からどのような感想が寄せられたかについてはまた別の機会に紹介させていただくとして、今日ここで書いておきたいのは、昨日そのDVDの上映に成功するにいたるまでの奮闘記(あるいは失敗談)である。というのも、昨日ようやく授業でDVDを上映することに成功したのだが、これまでずっと、それができずにいたからである。

失敗①:昨年4月の失敗
事の発端は1年前の4月、おなじ総合演習の新学期最初の授業で、また別の番組を録画したもの(NHK-BSで放映されていた「地球大異変」)を上映しようとしたときに始まる。

それに先立つ3月に、それまで使用していた古いブラウン管テレビがいよいよ故障して使えなくなってきていたため、家電量販店で大画面液晶テレビと一緒に、HDD/DVD録画再生機〔以下、HDD/DVDと略記〕を、夏のボーナス時一括払いで思い切って購入したばかりであった。それまで授業でビデオを上映するときにはVHSで対応していたのだが、この際思い切って、DVDに切り替えようと決断したのである。

そうして張り切ってDVDを上映しようとしたのだが、そのときには全くうまくいかなかった。授業前にテスト上映してみたところ、全く機械が作動しなかったのである。テッキリうまくいくものと深く考えずに多寡を括っていた私は、非常に面喰ってしまった。そのときには急遽、授業内容を変更して何とか乗り切ったのだが、DVDを上映できなかったことは大きなショックだったのである。

「何が原因だったのだろう…」と考えているときに思い出したのが、HDD/DVDの規格の違いについての報道であった。あまり正確には覚えていないが、要するに規格が統一されていないために、メーカーが違えば映せない場合もある、ということだったと思う。

私が購入していたのは東芝製であったが、あとで確認したところ、大学に配備されていたのはパイオニア製であった。つまりメーカーが違っていたのである。「あぁ、それでか…。それじゃあ、せっかく買ったけど、授業ではDVDは使えないな…」と諦めてしまい、その後の授業ではもっぱらVHSで対応したのであった。

しかし、それは私にとっては大きな手間だった。というのも、我が家のVHSは、HDD/DVDを取り付けるときに、再生専用としてのみ使うようにしていたからである。したがって、授業で上映したいときには、まずはいったんHDD/DVDに録画しておき、それをVHSにダビングするという二度手間をとる必要があった。

もちろん、番組の放映されている最中に、HDD/DVDとVHSとに同時に録画することは可能だったが、VHSはかさばるから、数を必要最小限にしておきたかった。そこでいったんHDD/DVDに録画しておき、番組を一通り見た後、授業で使えると判断したもののみを改めてVHSにダビングしていたのである。よい授業のためには労力を惜しむつもりはなかったから、昨年はその手間をかけてきたが、やはり省ける手間は省きたい、というのも事実であった。

失敗②:今週火曜日の失敗
そこで、今週の火曜日の総合演習(この授業は、火曜日と金曜日の週二回である)に、DVDの上映に再チャレンジしてみた。こんどはDVD-Rではなくて、DVD-RAMにしてやってみたのである。しかし、結果は全く同じで、機械が全く作動しなかった。それに加えて、念のためにVHSにもダビングしてあったものすら、あろうことか、このときにはうまく上映できなかったのである…! なぜか画像が途切れ途切れになってしまった。このときにVHSすらうまくいかなかった原因はまだ不明だが、もしかすると、HDD/DVDからダビングするときに重ね録りしたVHSを使ったために、信号の読み取りに不具合を生じたのかもしれない。

転機:「ファイナライズされてましたか?」
さすがに「あぁ、やっぱりメーカーが違うとダメなのかな…」と諦めかけた。だがそのときに、学務課職員の山村さんという方から、こんなアドバイスをいただいたのである。それは、

「先生、“ファイナライズ”されてましたか?」

--というアドバイスであった。

“ファイナライズ”--非常に恥ずかしいことに、私はその機能のことを全く知らなかった。ところが帰宅してから取扱説明書の目次をよくよく見てみたところ、たしかに「編集」という章のなかに、「ファイナライズするには」という項目があるではないか!

そこで早速その説明の通りにやってみると、市販の映画DVDのように再生専用のDVDに仕上げることができたのである。おそらくファイナライズというのはこの場合、「このHDD/DVDで録画するのはこれで終わり!あとは再生専用です。どうぞどのDVDプレーヤーでも再生して楽しんで下さい!」という意味だろうと思った。実際、自宅のパソコンで映してみたところ、パソコンでも見事に映るのである!

失敗③、のち大成功:昨日の授業
そこで喜び勇んで、昨日の授業前にテストしてみたところ、今度はちゃんと作動する。DVD最初のメニューがちゃんと映るのである。設備担当の職員の方と「今度こそ大丈夫ですね」と喜んでいたら、今度は、いざ始まった後の調子がおかしい。というのも、ときどき画像にモザイクみたいなもの(設備担当の方はそれを“ノイズ”と表現されていたが)が入り、スムーズに映像が進んでいかないのである。やはり、メーカーの違いによる相性の問題があるのだろうか…?

またもやダメか…と一瞬思ったが、何としても学生諸君に見せたい映像である。そこで私は「それじゃあ、ノートパソコンの画面で見せることにします。幸い少人数の授業ですから〔履修登録者18名〕、パソコンでも大丈夫でしょう」と設備担当の方に言い残して、私はいったん研究室に戻り、研究室のノートパソコンを急いで持ち出して、教室に戻ってきた。

すると驚いたことに、設備担当の方が、教室の入り口前で待っていて下さるではないか! しかも、なにやら機械がそばに置いてある。よく見てみると、それはポータブルのプロジェクターであった。パソコンをつないで、プロジェクターで映し出しましょう--というわけである。

そこで大急ぎでセットし、映し出してみたところ……映る映る、今度こそ見事に映し出せるのである! こうしてようやく、DVDの授業での上映に成功したのであった。

昨年以来何度も失敗を重ねてきたが、やっと成功できたことを大変嬉しく思う。教職課程の学生の皆さん、皆さんが将来教師として映像を用いる際には、この私の失敗談を参考にして下さいね(笑)

最後に、“ファイナライズ”のことを教えて下さった学務課職員の山村さんと、昨年来ずっと、DVDのテスト上映のたびに私にお付き合い下さり、昨日にはプロジェクターまでわざわざご用意くださった設備担当の職員の方々に、この場を借りて深甚の感謝を捧げます。本当にありがとうございました!

山中 優

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2006年5月12日 (金)

道路公団民営化をめぐって(1)

政治学概論(名張・伊勢)の学生諸君へ

本欄の5月8日の記事で「専門的・時事的な話題を取り上げます」と宣言しておいたので、その約束を守ることにしよう。

最初のトピックとして選んだのは、「道路公団民営化」についてである。これは、政治学概論(名張)ではテキスト『新版 はじめて出会う政治学』第2章で取り上げられているトピックである。政治学概論(伊勢)のテキスト『新版 現代政治学』では直接に取り上げられてはいないが、内容的には第2章の中の「自由民主主義のゆらぎ」の具体例の一つと言える。名張でも伊勢でも授業はテキストの第2章に入っているから、この「道路公団民営化」は、双方の学生諸君に対して、テキストに関係する専門的・時事的な話題として、参考のために最初に取り上げるにふさわしいトピックの1つだと思う。

この「道路公団民営化」について、われわれにとって実にタイミングのよかったことに、4月26日に「 “全線建設”はこうして決まった~道路公団民営化・半年の攻防~」と題されたNHKスペシャルが放映されたばかりなのである。これをDVDに録画しておき、じっくりと見たが、こういうドキュメンタリー〔documentary:フィクションではなく、実際の記録に基づいて作ったもの〕を作らせると、やはりNHKは上手いものだとつくづく思う。その番組の内容を踏まえつつ、「道路公団民営化」についてここに書いてみることにしよう。

日本道路公団は、昨年10月1日に、地域別に分割民営化された。その結果生まれたのは、「東日本高速道路」「中日本高速道路」「西日本高速道路」--この三つの株式会社である。

そのうちNHKスペシャルで取り上げられていたのは、名古屋に本拠を置く「中日本高速道路株式会社」であった。その会長に就任したのは、道路公団最後の総裁だった近藤剛氏である。近藤氏は大手商社出身で、その後参議院議員へと転じていたが、2003年、小泉内閣による構造改革の目玉の一つとして道路公団民営化を目指すことが謳われる中で、公団の総裁に指名された人物である。その最後の総裁だった近藤氏が分割民営化後に会長に就任したのが「中日本高速道路株式会社」だったのである。

それにしても、なぜ日本道路公団は分割民営化されることになったのだろうか? それはあまりにもその累積債務、もっと簡単に言えば、要するに赤字金額が膨れ上がってしまったからである。

諸君はわが国の道路公団がいったいどれほどの赤字を積み重ねてきたと思うだろうか?--実はその額は、なんと40兆円である。40兆円……それがどれだけの札束の量になるのか、私にもまったく見当がつかないのだが、試しに0を並べて書いてみると、¥40,000,000,000,000となる。いずれにせよ、莫大な金額の借金を日本道路公団は蓄積してきたというわけである。

それでは一体、なぜ日本道路公団は、これほどまでの借金を残すことになってしまったのだろうか?

それは、経営努力をしなくても何とか商売ができるという気の緩み(すなわちモラルハザード)が起こってしまったからである。

道路公団時代には、高速道路の建設は国が決定し、その国の命令によって公団が行なっていた。したがって、たとえ料金収入によって賄いきれない赤字が出ても、いざというときには国がお金を出してくれるから、民間企業のように倒産する心配はなかったのである。

ちなみに道路公団の場合、郵便貯金や公的年金資金が、「財政投融資」として、高速道路の建設に当てられてきた。小泉首相の掲げる構造改革で、道路公団のみならず郵政公社も民営化の対象とされたのは、高速道路の(経済効率性の観点からすれば)無駄な建設と、郵便貯金の運用のされ方とが、実はつながっていたからである。

そこでそのような経営上の気の緩みをなくし、無駄を省いて借金を返済していくために、日本道路公団は分割民営化され、民間企業として、自助努力で経営しなければならないことになったのである。

昨年10月に民営化された後、各高速道路会社が早速決めなければならなかったのは、道路公団時代に整備計画としてすでに建設が決められていた路線のうち、実際にはまだ建設されていない高速道路について、どれを作り、どれを作らないかであった。

民間会社としての経営の論理を素直に貫けば、当然、現実には建設できない路線も出てくる。実際、NHKスペシャルによると、「中日本高速道路」の近藤会長は、昨年12月に、「(中日本…の管轄区域の路線のうち)すべての未着工道路を建設することはできない。優先順位を決めて、建設できるものだけを建設していく」という方針を打ち出していたのである。

ところが、最終的には、未着工の路線について今年の2月7日に決定されたのは、NHKスペシャルのタイトルにもあるように、“全線建設”--すなわち民間の論理だけからすれば到底採算の合わないはずの路線も、実際に建設に踏み切ることだったのである。

いったいどうしてこのようなことになったのだろうか? 実はこの“全線建設”は、分割民営化された3社だけがすべてを引き受けるわけではない。日本道路公団が民営化されたとはいえ、そこには従来どおり国と地方自治体とが税金を投入して、「民の論理」ではなく「官の論理」で政治的に建設できる余地が制度上残されていたのである。それは一体どのような仕組みなのであろうか?

今日はこの辺までにして、続きはまた次回に回すことにしよう。

山中 優

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2006年5月 9日 (火)

排出権取引は地球環境を救えるか?(3)

今日も引き続いて、排出権ビジネスについて考察をめぐらせてみたい。

私の結論は、「排出権ビジネスはたしかに必要なことだが、それは次善の策にすぎない」ということである。

一方で、ビジネスだからこそできることもあるだろう。ナット・ソース社はアメリカの企業であるが、言うまでもなく、ブッシュ政権下のアメリカは、世界最大の排出国であるにもかかわらず、「まず途上国が排出削減義務を受け入れるべきである」と主張して京都議定書への参加を拒否し続けているのである。このことは、もはや旧聞に属する事柄だろう。

ところが、そのアメリカにあるナット・ソース社は、「国の政策とビジネスとは別問題である」として、排出権ビジネスを大変活発に展開しているのである。この場合、必ずしも国の政治の論理に従うとは限らない経済の論理が、アメリカ政治の現状において、地球温暖化防止にとってプラスに働いているというわけである。

しかしながら、他方で、ナ社のような排出権ビジネス企業にとって、ビジネスチャンスという観点だけから考えて最もよいこととは、排出権の価格が上昇し、高く売れることである。しかし、「排出権の価格が上昇する」とは、一体どういうことだろうか?

一般的に、モノやサービスの値段が上がるのは、需要が供給を上回る場合である。もっと簡単に言うならば、あるモノやサービスを欲しがる人の数がそれを提供しようとする人の数を上回るならば、そのモノやサービスの値段は上昇することになる。

これを排出権に当てはめてみるならば、排出権の値段が上がるのは、排出権を買いたい人の数が、それを売りたいという人の数を上回った場合である、ということになる。

それでは、「排出権を買いたい人が増える」というのは、いったい何を意味しているのだろうか?

それはとりもなおさず、「京都議定書によって課せられた排出量削減目標の達成に苦しむ人の数が増えている」ということだ。

すなわち、排出権の需要が増大して排出権ビジネスが活気を帯びるということは、たしかに排出権ビジネスを手がける企業にとっては非常に喜ばしいことかもしれない。しかしながら、排出量を効果的に削減して地球温暖化を食い止めるという観点からすると、それはあまり喜ばしいことではないのである。

たしかに、削減目標の達成に苦しむ人が増えているという状況が実際に生じてしまっているとするならば、それによってさらに温暖化状況が悪化するのを食い止める(あるいは少なくともその悪化の速度を遅らせる)ためには、排出権取引は有効な手段たりうるだろう。

しかしながら、以上の考察から分かるように、「削減目標の達成に苦しむ人が増えている」という状況は、たしかに排出権ビジネスにとっては大変喜ばしいことであったとしても、それが温暖化をめぐる状況を好転させるというもっと積極的な目的にとっても非常によいことになるとは、必ずしも限らないのである。

もちろん、逆にもしも排出権を売りたいという企業やそれ以外の民間団体が、「温室効果ガスの削減に貢献したい」という動機から数多く登場するならば、それは大変素晴らしいことである。現にCarbonfund.org(炭素基金)というアメリカの非営利団体は、排出削減活動を行なっている団体や企業に資金を回すために、1トン当たりのCO2を5.5ドルで販売しているという。

ちなみに、私がこの炭素基金というアメリカの非営利団体の存在を知ったのは、『小閑雑感』と題されたブログの「温暖化防止は、これから」と題された記事によってであった。このブログは生長の家副総裁という立場にある谷口雅宣氏によるものであり、その生長の家という団体は現在、その宗教活動の現代的展開として、積極的に環境保全活動に取り組んでいるとのことである。

いずれにせよ、この炭素基金--そういえば、これもあの京都議定書から脱退しているアメリカにある団体である--のようなNPOの活動によって、削減努力を行なう企業や団体に資金提供できるチャンスがわれわれ個人にも開かれているということは、大変素晴らしいことだと思う。

だが、その一方で、「排出権を喜んで売りましょう」と名乗り出てくる団体が、必ずしも温暖化防止には熱心でない場合もある。その「団体」とは、実は中国のことである。というのも、例のNHKスペシャル「煙と金と沈む島」(4月30日放映)で、中国政府の高官がNHKの取材に対して「われわれは排出権の輸出大国になります」と言っており、現にいま世界中が排出権取引の相手として中国に大いに注目しているからである。

しかし、なぜ中国が排出権の輸出大国になれるのかといえば、それは中国が京都議定書の排出削減義務を負わず--京都議定書は途上国には削減義務を課していない--、温室効果ガスをバンバン排出しているからこそなのである。

しかも、中国が排出権の輸出大国になろうとしている動機は、温暖化防止のためとは必ずしも言えないようである。というのも、京都議定書では排出権売却によって得た利益をその途上国がどういう目的で使うべきかは、何も規定していないからである。

したがって、もしもその排出権売却利益が、化石燃料型の経済発展につぎ込まれるようなことにでもなれば--それは大いに考えられることだ--排出権売却による削減効果は、ほどなく無に帰することになってしまうのである。

こうして考えていくならば、やはり排出権取引という仕組みだけでは、地球温暖化による気候変動の脅威を効果的に防ぐことは難しいということが分かるだろう。そもそも、この「排出権取引」というのは、「削減目標が達成できない国や企業がありうる」という、それ自体は決して好ましくない事態を前提として、それに対処しようとする仕組みなのだから、考えてみれば、それが次善の策にとどまることは当たり前のことだったのである。

だとするならば、今の状況下でわれわれに必要なことは、やはり京都議定書からさらに踏み込んだ国際的な共同歩調を、それもアメリカも途上諸国をも巻き込んだ共同歩調を、政治的に強力に推し進めていくことであろう。市場におけるビジネスの論理による自生的な過程も一定の役割を果たせはするだろう。しかし、それのみに任せているだけでは、たとえ前進する場合であっても、その前進は緩慢なものでしかないに違いない。おそらく、今はそんなに悠長に構えている場合ではないはずなのである。

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2006年5月 8日 (月)

専門的・時事的な話題はここで取り上げます

政治学概論の学生のみなさんへ

本欄は『山中優の研究・教育日記』という題のブログであるが、昨年度の授業期間が終わって以来、もっぱら『研究日記』となっていた。新年度の授業開始以来、『教育日記』としても再開するつもりであったが、何かとバタバタしてしまい、更新ができないままでいた。しかし、大型連休も明け、新年度の授業も軌道に乗ってきたので、『教育日記』としても更新を再開したいと思う。

私の担当授業の一つは「政治学概論」である。名張学舎でのそれは主に1年生対象、伊勢学舎でのそれは主として3年生対象の授業である。

政治学概論(名張)で大型連休前に行なったアンケートでは、一方で「基本的なポイントをできるだけ丁寧にゆっくり教えてほしい」という要望が出ていたが、他方では「もっと専門的なことや、時事的な話題についても取り上げてほしい」という要望も出ていた。

政治学概論(伊勢)ではそのようなアンケートは特に行なわなかったが、同様の要望があることは間違いないだろう。

授業時間中には「基本的なポイント」の解説に重点を置かざるを得ないので、「もっと専門的なことや、時事的な話題についても取り上げてほしい」という要望に対しては、このブログを活用して応えていきたいと思う。

「専門的・時事的な話題」といっても、テキストから大幅に離れるわけにはいかないので、テキストの話題に関連したものに限らせていただくが、テレビや新聞からの素材集めに努力しつつ、本欄で「専門的・時事的な話題」について論じていくことにしようと思う。

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2006年5月 7日 (日)

排出権取引は地球環境を救えるか?(2)

今日は「排出権取引の意義と限界」について、再び考察を加えてみよう。ただし、ここでの考察は、ブログという場の性格上、私の成熟した考察結果を披露するというものではない。むしろブログがいい意味で気楽な場所であることを幸いとした、私の考察過程における中間報告にとどまることを、予め断っておきたい。

例のNHKスペシャル「煙と金と沈む島」のビデオを今朝もう一度見直してみた。最初に見たときには中国・重慶の炭鉱と日本の三井物産との排出権売買を巡るやりとりに目を奪われていたが、今朝もう一度見てみたときには、今度はアメリカの排出権取引会社(ナット・ソース社)のビジネス活動をどう評価すべきかについて、考察を巡らせることになった。

このナット・ソース社(以下、「ナ社」と略記する)は、このNHKスペシャルによると、排出権を売りたいという企業からそれを安く買い、排出権を求める企業に今度はそれを高く売ることで利益をあげる活動を世界規模で展開し、急成長を遂げているという。要するに排出権売買の仲介業務を営む会社だと言える。

私がこの番組でこのナ社のビジネス活動ぶりを見ていて「うーむ…」と考えさせられたのは、同社が大きなビジネスチャンスと見て色めき立った次の2つのケースである。

1つは、昨冬のヨーロッパでの大寒波である。この大寒波が排出権への需要を高め、価格が上昇するというのである。より詳しく言えば、次の通りである:

①ヨーロッパでの大寒波が暖房に使われる石炭への需要を高める(石炭は現在、石油よりも安価な資源である)。
②ところが石炭は温暖化を最も促進するといわれている資源だから、石炭を使うことは、京都議定書によって割り当てられた排出量削減目標達成の見込みを危うくする。
③そこで、石炭を使った企業は、自社に割り当てられた削減目標達成のために、排出権を買いたがるようになる。
④排出権を買いたがる企業が多くなればなるほど、ナ社が保有する排出権の値段が上がるから、ナ社としては大きなビジネスチャンスとなる。

要するに、何らかの理由で石炭への需要が増えると排出権の値段もあがる、という因果関係があるというわけである。

この「石炭の需要増→排出権の値段上昇」という因果関係が、気候の変化とは無関係の思わぬ理由から働くこともある。それが次に述べるもう1つのケースである。

そのもう1つのケースとは、サウジアラビアの石油施設が自爆テロの危険に晒されているという情報が排出権の値段を急上昇させた、というものであった。

つまり、サウジの石油施設が自爆テロに遭って深刻な打撃を受ければ、石油の供給に悪影響が及ぶため、石油の代わりに石炭への需要が上昇する結果、「石炭の需要増→排出権の値段上昇」という因果関係が働くことになるというわけである。

とはいえ、実際にはその自爆テロによる被害は最小限のものにとどまったため、ほどなく排出権の価格上昇への圧力は消滅し、さほど大きな利益をナ社はあげるには至らなかったが、その顛末を振り返った会話の中で、ナ社の社長と幹部社員とが、「もしも自爆テロによるサウジ石油施設への被害が甚大なものになっていたら、また違う展開になっていただろうな…」と語り合っていたのである(私には、彼らがそれを少々残念そうに語っていたように見えたのだが…?)。

要するにこの2つのケースはいずれも「石炭への需要増→排出権の価格上昇」という点で共通している。違うのは石炭への需要増をもたらした理由と、もたらされた結果の内容である。つまり、

第一のケース:
(理由)ヨーロッパの大寒波
→「石炭の需要増→排出権の値段上昇」
→(結果)実際に大きなビジネスチャンスへと至ることに

第二のケース:
(理由)サウジ石油施設への自爆テロの恐れ
→「石炭の需要増→排出権の値段上昇」の見込み
→(結果)しかし実際にはさほど大きなビジネスチャンスとはならず

--というわけである。

さて、この2つのケースを読者はどう思われるだろうか? 私の抱いた感想は、非常にアンビヴァレントなものであった。

一方で、まず最初に抱いてしまった素朴な感想は、「なんともまぁ…。不幸ごとをビジネスに利用するなんて、いかがわしい…」というものであった。大寒波にせよ、自爆テロにせよ、石炭への需要増をもたらした理由は、いずれも好ましくないもの、起こってほしくない出来事である。そのような不幸な出来事を大きなビジネスチャンスとして喜んで活動するのはいかがなものか…と感じたのである。

しかしながら、他方で、「チョット待てよ…」とすぐに冷静に考え直した。たとえ好ましくない出来事であったとしても、ナ社がそれを意図的に陰謀として惹き起こしたわけではない。大寒波にせよ、自爆テロにせよ、ナ社の責任とはならないところで、それらは現実に起こってしまった(あるいは起こるかもしれなかった)出来事なのだ。

現実に起こってしまったとしたならば、あるいは起こる恐れが高いとするならば、良心による崇高な動機からであろうと、利潤を求める動機からであろうと、いずれにせよ、そのような事態に対応するために排出権取引が行なわれることは、結果として非常に大切なことなのである。

もう少し説明しよう。説明の便宜上、つぎのようにな企業Y、企業Zを仮定する:

企業Y=排出量を増大させてしまった企業(すなわち排出権を買いたいという企業)
企業Z=他所での排出量増大を相殺するために自ら削減努力を引き受ける用意のある企業(すなわち排出権を売る用意のある企業)

その場合、企業Yに対して企業Zが現れて、この両者の間で排出権の売買取引が行なわれなければ、企業Yによる排出量の増大分は、どこにも吸収されることなくこの地球の大気中に残され、その結果、地球温暖化がさらに促進されてしまうのである。

だとするならば、その動機はどうであれ、何らかの理由から石炭への需要が増大してしまった場合、それに伴う温室効果ガスの排出量増大という好ましくない事態へと対処するために、排出権取引を円滑に進める仲介業務をナ社が営んでいることは、冷静に考えれば、やはり一定の評価に値する活動なのである。ナ社の社長は「地球環境を救えるのは資本主義経済だけなのです」とNHKの取材に対して答えていたが、この社長の言葉も、以上の文脈からすれば、たしかに一理あるというべきであろう。

しかし…とやはり考え込んでしまう。

ナ社の社長は「人間の良心だけでは問題は解決しません。利潤が伴わなければ、人間は動かないのです」とも言っていた。たしかに利潤は人間を動かす大きな動機だろう。現状としては、それこそが最も大きな動機なのだというべきなのかもしれない。

だが、利潤動機だけでもよいのだろうか? やはり良心も働かなければならないのではなかろうか? 良心に支えられない利潤動機だけで、はたして本当に大丈夫なのだろうか?

--こうして私は、「良心と利己心、道徳的行動の起源はどちらなのか?」というスコットランド啓蒙思想の根本問題へと導かれていくのである。

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2006年5月 6日 (土)

排出権取引を論じた理由

前回、本欄に「排出権取引は地球環境を救えるか?」と題した文章を掲載した。

ところが、同じく本欄の4月24日の記事では、その末尾に「当分の間、現代的でホットなトピックについては、もちろん頭の片隅は置きつつも、いったんは一歩退き、授業(やその準備)以外の研究の時間の当て方としては、ヒューム、スミスの世界に没頭することにしたい」と書いていた。

にもかかわらず、前回「排出権取引」という現代的なトピックの一つについて論ぜずにはいられなくなったのは、それがヒューム、スミスといった18世紀のスコットランド啓蒙思想家が取り組んだ根本問題に通じる内容を持っていたからである。

その根本問題とは、「利己心あるいは利潤動機を人間が利他的な動機よりも強く持つ存在だとするならば、その利潤動機を公益に役立つように、いかにしてうまく誘導することができるか?」という問題である。

すなわち、公益のことを直接意図しない利己的な行動が、その意図せざる結果として、公益に貢献するようにいつの間にか導かれることが、いかにすれば可能なのか?-という問題である。

そしてこの問題に対する答えとして経済学者によって挙げられたのが、「市場」という社会制度を通じて、ということだったのである。

ここで私の研究対象であるハイエクの言葉を借りてみよう。ハイエクはこの点に関して次のように述べていた:

経済学者たちの主たる問題は、いかにして、人びとの行為を事実において決定するこのような限定された関心を、かれらの視圏の外側に存在する諸必要に対して、出来るだけ多く自発的に貢献するようにかれらを仕向ける有効な誘因たらしめうるかであった。経済学者たちがはじめて理解したことは、当時すでに成長していた市場が、人間がかれの理解できない複雑かつ広汎な過程に参加するように仕向けられる有効な道であること、人間が「かれの意図には入っていない目的に」貢献するように仕向けられるのは市場を通してであることであった。
(ハイエク『市場・知識・自由』ミネルヴァ書房、1986年、16-17頁)

ただし、ここでハイエクが問題にしていたのは、厳密に言えば、「人間が利己的か利他的か」という道徳的な論点ではなかった。むしろ「利己的であろうと利他的であろうと、ある個人が効果的に配慮できる人間の必要物は、社会全成員の必要物のうち殆ど問題にならない微小な部分にすぎない」ということ、すなわち「人間の視野・関心の及びうる範囲には限界がある」という認識論的な論点だったのである。

とはいえ、そのハイエクも人間が往々にして利己的であることが多い、という人間観を持っていたことも事実である。したがって、われわれとしては、ヒュームにせよ、スミスにせよ、ハイエクにせよ、要するに、次のような問題意識を持っていたと考えることが出来るだろう:

人間がもし利己的であることが多いとするならば、そして、その人間を利他的な存在にしてしまうことが難しいとするならば、その人間をいかにして利己的な存在でありながら公益にも知らず知らずのうちに貢献させるよう導くことが出来るか?

そして、前回本欄で取り上げた排出権取引という仕組みの背後にある考え方も、まさにこの問題に対する答えとして市場原理を活用すべし、というものなのである。排出権売買取引の仲介業務によって大きな利益をあげているアメリカ企業の社長が、NHKの取材に対して「資本主義経済こそが地球環境を救うのです」と発言していたその背後にも、この考え方が横たわっていたに違いない。

たしかにこの考え方には、軽々しく斥けることを許さない、なかなかの説得力がある。実際、これこそビジネスの世界で広く共有されている考え方であるに違いないのである。

したがって、ハイエク研究者の私としては、この考え方のもつ意義とその及びうる射程の限界とについて論理的・説得的に論じていく使命が、環境問題を考えていく上においても、与えられていると思われるのである。

以上が、私が前回排出権取引について試みに論じてみた理由である。あくまでも試論であるから不充分な点も含まれているかもしれない。その点については読者諸賢の批判を仰ぎたいと思っている。

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2006年5月 5日 (金)

排出権取引は地球環境を救えるか?

先日(4月30日)の午後9時より、NHKスペシャル「同時3点ドキュメント:煙と金と沈む島」をテレビで見た。「煙」は経済発展=豊かな生活を遮二無二追い求めて石炭を掘り続ける中国の重慶の炭鉱を意味し、「金」は京都議定書で温室効果ガスの排出権取引が認められたことにいち早く着目して排出権の国際取引を活発に展開し、大きな利益をあげているアメリカの一企業を、そして「沈む島」とは地球温暖化による海面上昇のため国土が海に沈もうとしている国ツバルを指している。この番組は、その三つを同時並行させて描くことにより、地球温暖化が刻々と進行していることをうかがわせる深刻なドキュメンタリーであった。

この番組でスポットを当てられていたトピックの一つは「温室効果ガスの排出権取引」である。番組全体の内容をここで紹介することは差し控えさせていただくが、私がこの番組を見ながら考えさせられたことは、「排出権取引は地球環境を救えるか?」ということであった。

○排出権取引とは?
ここで確認のため、「排出権取引」とは何であるかを、できるだけ私なりに簡潔に述べておくと、これは要するに「個々の企業や国の排出量削減目標の達成の度合いは色々であるとしても、それらのプラスマイナスを世界全体で足しあげれば、世界全体で言えば排出量削減目標が達成される」という状態を、市場原理を通じて、実現しようとするものである。

より具体的に言えば、次の通りである。

企業Aは、企業努力により、その排出量削減目標をさらに下回る削減を達成できる能力をもっているとする。つまり、企業Aは、現在は削減目標ピッタリの排出量であるが、それをさらに減らそうと思えば減らせる状況にあるというわけである。

他方、企業Bは、その企業自身の排出量削減目標の達成が難しい状況にあるとする。

この場合、企業Bは企業Aから排出権を買えばよい。言い換えれば、企業Aは企業Bに排出権を売るのである。

すなわち、企業Aは自分のことだけを考えれば、自分自身の削減目標は達成できているわけだから、さらにそれ以上削減努力を続ける必要はなく、一定量の排出をする権利をもっているわけだが、削減に苦しむ企業Bにその排出できる権利を売り渡して、排出権売却の代金を企業Bから受け取るのと引き換えに、企業Bのために、さらなる削減義務を企業Aが企業Bの代わりに背負ってやるのである。

そうして、企業Aと企業Bの排出量削減をトータルで考えれば、削減目標が達成できている、という状態になるだろう、というわけである。

○排出権取引は地球環境を救えるか?:その意義と限界
たしかに、この「排出権取引」という仕組み・手段は、人間の利潤動機をうまく取り込んだ、なかなかうまいやり方だと思う。というのも、温室効果ガスの削減という21世紀の人類に課せられた最大の課題の一つとも言える問題の解決を目指すに当たって、必ずしも純粋に崇高な動機をもっていなくとも、「排出権の売却によって得られる利益」を目指す利潤動機がうまく刺激されれば、たとえ削減目標の達成に苦しむ企業があろうとも、それを別の企業がカバーすることにより、地球全体として温室効果ガスの削減が可能となるかもしれないからである。

しかしながら、私には、この排出権取引が必ずしも地球環境を救える万能薬とは思えない。上記のNHKスペシャルで「金」を象徴していた、アメリカの排出権取引企業の社長は「資本主義経済こそが地球環境を救うのです」と述べていたが、必ずしも資本主義経済という仕組みそれ自体が万能というわけではないと思われるのである。というのも、利潤動機が温室効果ガス排出量の削減の方向へと常に導かれるとは限らず、むしろ逆に短期的に豊かになることを目指して経済発展をがむしゃらに追い求めることで、むしろ排出量の増大へと向かうことも大いにありうることだからだ。

私は、この排出権取引の意義と限界を、上記にあげたNHKスペシャルで取り上げられていた中国の重慶の炭鉱に見る思いがした。

この番組で取り上げられていたのは、日本の三井物産が排出量削減目標の達成に苦しむ中、排出量を急激に増大させている重慶の炭鉱に目をつけ、石炭採掘に伴うメタンガス(二酸化炭素よりもさらに温室効果が大きいとされる気体)の削減に必要な技術を提供する見返りとして、その炭鉱から排出権を買い取ろうとして重慶の炭鉱と交渉している場面であった。

紆余曲折の末、結局、両者は排出権の売買契約の締結に成功する。すなわち、重慶の炭鉱はメタンガスの削減義務を負うことを承諾するに至ったのである。

私は一方で、三井物産の功績を高く評価したいと思う。現在の中国における経済発展への意欲は並々ならぬものがあり、化石燃料を渇望して中国政府がアフリカや中南米に資源外交を旺盛に展開していることは、最近よく報道されている通りである。その中国の一つの炭鉱に、とにもかくにもメタンガスの削減義務を負うことを排出権取引によって承諾させるという仕事は、並大抵のことではなかったはずである。その意味で、三井物産の努力を私は高く評価したいと思う。

しかしながら他方で、そこには排出権取引が前提としている利潤動機だけでは越えがたい大きな障害が厳として横たわっていることも痛感せざるを得なかった。

というのも、今回の排出権売買契約が石炭採掘量の削減につながることを心配する炭鉱員に対して、「いや、採掘量の減少にはつながらない。われわれは今回の排出権売却によって得られた利益を石炭採掘の増大に回し、これからもバンバン採掘して、ガンガン稼ぐぞ!!」という主旨の答えを、その重慶の炭鉱の幹部が行なっていたからである…。

排出権取引は、たしかに一方で利潤動機をうまく誘導して、排出量削減へと向かわせる効果を発揮できるだろう。しかしながら他方で、現在の中国のように遮二無二経済発展を目指して化石燃料をバンバン使おうと真っ赤に燃えているような場合、「豊かになりたい!」という赤裸々な利潤動機が化石燃料の濫用に向かおうとするのに歯止めをかけるのは、排出権取引という仕組みだけではきわめて難しいと思われるのである。

すなわち、「排出権取引」というのはあくまでも手段なのであって、その手段を人間がいかなる心で活用するかが問題なのである。

たしかに排出権取引という仕組みは、利潤動機をうまく誘導できる場合もあるかもしれない。しかしながら、排出権の売却によって利潤を得ようと思うならば、その見返りとして温室効果ガスの削減義務を新たに負わねばならない。つまり、削減努力を新たに背負わねばならないのである。

しかしながら、利潤のことだけを考えるならば、そんなシンドイことまでしなくとも、目先の利益だけを考えるならば、化石燃料をバンバン使って経済発展した方が早道だ、ということになるだろう。現に重慶の炭鉱で働く人々の「オレ達も豊かになりたい…!!」という燃える思いには並々ならぬものがあり、その赤裸々な思いは、削減義務を背負い続けるという洗練された方向へではなく、むしろきわめて素朴な方向へ、すなわち石炭増産へと遮二無二向かっているのである。

したがって、「排出権取引」という仕組みがその本来の目的を達するためには、それを活用する人間の側での心の開拓が、すなわち利潤を第一とせず、結果として利潤が副次的に得られることになるとはいえ、その前に「地球環境のために」という崇高な動機をまず第一にできるような心の豊かさがなければならないのである。さもなければ、「排出権取引」は地球環境を救うことはできないだろう--このように筆者には思われてならない。

○京都議定書だけでは不充分
もう一つ痛感したことは、京都議定書だけでは不充分であり、さらなる国際的な共通枠組が必要不可欠だということである。

周知のように、京都議定書は途上国に削減義務を課していないがゆえに、とくにBRICsと呼ばれるブラジル、ロシア、インド、中国といった、現在経済発展を旺盛に追求している発展途上国の温室効果ガス排出量の急増が、先進諸国の排出量と並んで、重大な問題となっている。

さきほど「排出権取引とは」という小見出しの下に私が出した例は、排出権を売却する企業Aがすでに削減目標をクリアしていることを前提としていた。

ところが、先ほどのNHKスペシャルでの重慶の炭鉱の例は、削減義務がそもそも国際的に課せられていない中で、容赦なく温室効果ガスをドンドン排出している状況であった。すなわち、三井物産が達成できたことは、京都議定書の目標、すなわち1990年の排出量を基準として、2012年までに先進国全体でそこから5%削減するという目標の実現へ向けての前進ではなく、実際には排出量が1990年以降も地球全体で増大する一方の情勢下において、重慶の炭鉱からさらに排出されるという状況の悪化にささやかな歯止めを一時的にかけられた、ということにすぎないのである。

したがって、京都議定書からさらに前進した地球全体での取り組みがなされない限り、地球温暖化による気候変動の危険性は、回避できなくなるだろうと思われる。

○まとめ
地球温暖化=気候変動の問題の解決に向けては、排出権取引といった市場原理の活用も、環境税といった政治的規制も、ともに必要不可欠となるだろうが、排出権取引であろうが環境税であろうが、さらには根本的な解決策としての化石燃料からの脱却=クリーンな自然エネルギーの本格的な活用へと向かうためには、ディープ・エコロジーといったような、真に地球環境を愛する心の涵養がなされない限り、制度的な仕組みを整えるだけでは不充分に終わるだろうと思われてならない。どのような手段をとるにせよ、それを善用するか悪用するかは、ひとえに人間の心にかかっているからである。

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