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2006年5月 6日 (土)

排出権取引を論じた理由

前回、本欄に「排出権取引は地球環境を救えるか?」と題した文章を掲載した。

ところが、同じく本欄の4月24日の記事では、その末尾に「当分の間、現代的でホットなトピックについては、もちろん頭の片隅は置きつつも、いったんは一歩退き、授業(やその準備)以外の研究の時間の当て方としては、ヒューム、スミスの世界に没頭することにしたい」と書いていた。

にもかかわらず、前回「排出権取引」という現代的なトピックの一つについて論ぜずにはいられなくなったのは、それがヒューム、スミスといった18世紀のスコットランド啓蒙思想家が取り組んだ根本問題に通じる内容を持っていたからである。

その根本問題とは、「利己心あるいは利潤動機を人間が利他的な動機よりも強く持つ存在だとするならば、その利潤動機を公益に役立つように、いかにしてうまく誘導することができるか?」という問題である。

すなわち、公益のことを直接意図しない利己的な行動が、その意図せざる結果として、公益に貢献するようにいつの間にか導かれることが、いかにすれば可能なのか?-という問題である。

そしてこの問題に対する答えとして経済学者によって挙げられたのが、「市場」という社会制度を通じて、ということだったのである。

ここで私の研究対象であるハイエクの言葉を借りてみよう。ハイエクはこの点に関して次のように述べていた:

経済学者たちの主たる問題は、いかにして、人びとの行為を事実において決定するこのような限定された関心を、かれらの視圏の外側に存在する諸必要に対して、出来るだけ多く自発的に貢献するようにかれらを仕向ける有効な誘因たらしめうるかであった。経済学者たちがはじめて理解したことは、当時すでに成長していた市場が、人間がかれの理解できない複雑かつ広汎な過程に参加するように仕向けられる有効な道であること、人間が「かれの意図には入っていない目的に」貢献するように仕向けられるのは市場を通してであることであった。
(ハイエク『市場・知識・自由』ミネルヴァ書房、1986年、16-17頁)

ただし、ここでハイエクが問題にしていたのは、厳密に言えば、「人間が利己的か利他的か」という道徳的な論点ではなかった。むしろ「利己的であろうと利他的であろうと、ある個人が効果的に配慮できる人間の必要物は、社会全成員の必要物のうち殆ど問題にならない微小な部分にすぎない」ということ、すなわち「人間の視野・関心の及びうる範囲には限界がある」という認識論的な論点だったのである。

とはいえ、そのハイエクも人間が往々にして利己的であることが多い、という人間観を持っていたことも事実である。したがって、われわれとしては、ヒュームにせよ、スミスにせよ、ハイエクにせよ、要するに、次のような問題意識を持っていたと考えることが出来るだろう:

人間がもし利己的であることが多いとするならば、そして、その人間を利他的な存在にしてしまうことが難しいとするならば、その人間をいかにして利己的な存在でありながら公益にも知らず知らずのうちに貢献させるよう導くことが出来るか?

そして、前回本欄で取り上げた排出権取引という仕組みの背後にある考え方も、まさにこの問題に対する答えとして市場原理を活用すべし、というものなのである。排出権売買取引の仲介業務によって大きな利益をあげているアメリカ企業の社長が、NHKの取材に対して「資本主義経済こそが地球環境を救うのです」と発言していたその背後にも、この考え方が横たわっていたに違いない。

たしかにこの考え方には、軽々しく斥けることを許さない、なかなかの説得力がある。実際、これこそビジネスの世界で広く共有されている考え方であるに違いないのである。

したがって、ハイエク研究者の私としては、この考え方のもつ意義とその及びうる射程の限界とについて論理的・説得的に論じていく使命が、環境問題を考えていく上においても、与えられていると思われるのである。

以上が、私が前回排出権取引について試みに論じてみた理由である。あくまでも試論であるから不充分な点も含まれているかもしれない。その点については読者諸賢の批判を仰ぎたいと思っている。

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