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2006年5月 5日 (金)

排出権取引は地球環境を救えるか?

先日(4月30日)の午後9時より、NHKスペシャル「同時3点ドキュメント:煙と金と沈む島」をテレビで見た。「煙」は経済発展=豊かな生活を遮二無二追い求めて石炭を掘り続ける中国の重慶の炭鉱を意味し、「金」は京都議定書で温室効果ガスの排出権取引が認められたことにいち早く着目して排出権の国際取引を活発に展開し、大きな利益をあげているアメリカの一企業を、そして「沈む島」とは地球温暖化による海面上昇のため国土が海に沈もうとしている国ツバルを指している。この番組は、その三つを同時並行させて描くことにより、地球温暖化が刻々と進行していることをうかがわせる深刻なドキュメンタリーであった。

この番組でスポットを当てられていたトピックの一つは「温室効果ガスの排出権取引」である。番組全体の内容をここで紹介することは差し控えさせていただくが、私がこの番組を見ながら考えさせられたことは、「排出権取引は地球環境を救えるか?」ということであった。

○排出権取引とは?
ここで確認のため、「排出権取引」とは何であるかを、できるだけ私なりに簡潔に述べておくと、これは要するに「個々の企業や国の排出量削減目標の達成の度合いは色々であるとしても、それらのプラスマイナスを世界全体で足しあげれば、世界全体で言えば排出量削減目標が達成される」という状態を、市場原理を通じて、実現しようとするものである。

より具体的に言えば、次の通りである。

企業Aは、企業努力により、その排出量削減目標をさらに下回る削減を達成できる能力をもっているとする。つまり、企業Aは、現在は削減目標ピッタリの排出量であるが、それをさらに減らそうと思えば減らせる状況にあるというわけである。

他方、企業Bは、その企業自身の排出量削減目標の達成が難しい状況にあるとする。

この場合、企業Bは企業Aから排出権を買えばよい。言い換えれば、企業Aは企業Bに排出権を売るのである。

すなわち、企業Aは自分のことだけを考えれば、自分自身の削減目標は達成できているわけだから、さらにそれ以上削減努力を続ける必要はなく、一定量の排出をする権利をもっているわけだが、削減に苦しむ企業Bにその排出できる権利を売り渡して、排出権売却の代金を企業Bから受け取るのと引き換えに、企業Bのために、さらなる削減義務を企業Aが企業Bの代わりに背負ってやるのである。

そうして、企業Aと企業Bの排出量削減をトータルで考えれば、削減目標が達成できている、という状態になるだろう、というわけである。

○排出権取引は地球環境を救えるか?:その意義と限界
たしかに、この「排出権取引」という仕組み・手段は、人間の利潤動機をうまく取り込んだ、なかなかうまいやり方だと思う。というのも、温室効果ガスの削減という21世紀の人類に課せられた最大の課題の一つとも言える問題の解決を目指すに当たって、必ずしも純粋に崇高な動機をもっていなくとも、「排出権の売却によって得られる利益」を目指す利潤動機がうまく刺激されれば、たとえ削減目標の達成に苦しむ企業があろうとも、それを別の企業がカバーすることにより、地球全体として温室効果ガスの削減が可能となるかもしれないからである。

しかしながら、私には、この排出権取引が必ずしも地球環境を救える万能薬とは思えない。上記のNHKスペシャルで「金」を象徴していた、アメリカの排出権取引企業の社長は「資本主義経済こそが地球環境を救うのです」と述べていたが、必ずしも資本主義経済という仕組みそれ自体が万能というわけではないと思われるのである。というのも、利潤動機が温室効果ガス排出量の削減の方向へと常に導かれるとは限らず、むしろ逆に短期的に豊かになることを目指して経済発展をがむしゃらに追い求めることで、むしろ排出量の増大へと向かうことも大いにありうることだからだ。

私は、この排出権取引の意義と限界を、上記にあげたNHKスペシャルで取り上げられていた中国の重慶の炭鉱に見る思いがした。

この番組で取り上げられていたのは、日本の三井物産が排出量削減目標の達成に苦しむ中、排出量を急激に増大させている重慶の炭鉱に目をつけ、石炭採掘に伴うメタンガス(二酸化炭素よりもさらに温室効果が大きいとされる気体)の削減に必要な技術を提供する見返りとして、その炭鉱から排出権を買い取ろうとして重慶の炭鉱と交渉している場面であった。

紆余曲折の末、結局、両者は排出権の売買契約の締結に成功する。すなわち、重慶の炭鉱はメタンガスの削減義務を負うことを承諾するに至ったのである。

私は一方で、三井物産の功績を高く評価したいと思う。現在の中国における経済発展への意欲は並々ならぬものがあり、化石燃料を渇望して中国政府がアフリカや中南米に資源外交を旺盛に展開していることは、最近よく報道されている通りである。その中国の一つの炭鉱に、とにもかくにもメタンガスの削減義務を負うことを排出権取引によって承諾させるという仕事は、並大抵のことではなかったはずである。その意味で、三井物産の努力を私は高く評価したいと思う。

しかしながら他方で、そこには排出権取引が前提としている利潤動機だけでは越えがたい大きな障害が厳として横たわっていることも痛感せざるを得なかった。

というのも、今回の排出権売買契約が石炭採掘量の削減につながることを心配する炭鉱員に対して、「いや、採掘量の減少にはつながらない。われわれは今回の排出権売却によって得られた利益を石炭採掘の増大に回し、これからもバンバン採掘して、ガンガン稼ぐぞ!!」という主旨の答えを、その重慶の炭鉱の幹部が行なっていたからである…。

排出権取引は、たしかに一方で利潤動機をうまく誘導して、排出量削減へと向かわせる効果を発揮できるだろう。しかしながら他方で、現在の中国のように遮二無二経済発展を目指して化石燃料をバンバン使おうと真っ赤に燃えているような場合、「豊かになりたい!」という赤裸々な利潤動機が化石燃料の濫用に向かおうとするのに歯止めをかけるのは、排出権取引という仕組みだけではきわめて難しいと思われるのである。

すなわち、「排出権取引」というのはあくまでも手段なのであって、その手段を人間がいかなる心で活用するかが問題なのである。

たしかに排出権取引という仕組みは、利潤動機をうまく誘導できる場合もあるかもしれない。しかしながら、排出権の売却によって利潤を得ようと思うならば、その見返りとして温室効果ガスの削減義務を新たに負わねばならない。つまり、削減努力を新たに背負わねばならないのである。

しかしながら、利潤のことだけを考えるならば、そんなシンドイことまでしなくとも、目先の利益だけを考えるならば、化石燃料をバンバン使って経済発展した方が早道だ、ということになるだろう。現に重慶の炭鉱で働く人々の「オレ達も豊かになりたい…!!」という燃える思いには並々ならぬものがあり、その赤裸々な思いは、削減義務を背負い続けるという洗練された方向へではなく、むしろきわめて素朴な方向へ、すなわち石炭増産へと遮二無二向かっているのである。

したがって、「排出権取引」という仕組みがその本来の目的を達するためには、それを活用する人間の側での心の開拓が、すなわち利潤を第一とせず、結果として利潤が副次的に得られることになるとはいえ、その前に「地球環境のために」という崇高な動機をまず第一にできるような心の豊かさがなければならないのである。さもなければ、「排出権取引」は地球環境を救うことはできないだろう--このように筆者には思われてならない。

○京都議定書だけでは不充分
もう一つ痛感したことは、京都議定書だけでは不充分であり、さらなる国際的な共通枠組が必要不可欠だということである。

周知のように、京都議定書は途上国に削減義務を課していないがゆえに、とくにBRICsと呼ばれるブラジル、ロシア、インド、中国といった、現在経済発展を旺盛に追求している発展途上国の温室効果ガス排出量の急増が、先進諸国の排出量と並んで、重大な問題となっている。

さきほど「排出権取引とは」という小見出しの下に私が出した例は、排出権を売却する企業Aがすでに削減目標をクリアしていることを前提としていた。

ところが、先ほどのNHKスペシャルでの重慶の炭鉱の例は、削減義務がそもそも国際的に課せられていない中で、容赦なく温室効果ガスをドンドン排出している状況であった。すなわち、三井物産が達成できたことは、京都議定書の目標、すなわち1990年の排出量を基準として、2012年までに先進国全体でそこから5%削減するという目標の実現へ向けての前進ではなく、実際には排出量が1990年以降も地球全体で増大する一方の情勢下において、重慶の炭鉱からさらに排出されるという状況の悪化にささやかな歯止めを一時的にかけられた、ということにすぎないのである。

したがって、京都議定書からさらに前進した地球全体での取り組みがなされない限り、地球温暖化による気候変動の危険性は、回避できなくなるだろうと思われる。

○まとめ
地球温暖化=気候変動の問題の解決に向けては、排出権取引といった市場原理の活用も、環境税といった政治的規制も、ともに必要不可欠となるだろうが、排出権取引であろうが環境税であろうが、さらには根本的な解決策としての化石燃料からの脱却=クリーンな自然エネルギーの本格的な活用へと向かうためには、ディープ・エコロジーといったような、真に地球環境を愛する心の涵養がなされない限り、制度的な仕組みを整えるだけでは不充分に終わるだろうと思われてならない。どのような手段をとるにせよ、それを善用するか悪用するかは、ひとえに人間の心にかかっているからである。

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コメント

合掌 ありがとうございます
お久しぶり。京都のG3こと、橘です。なかなか鋭い視点でエントリーされており感心しています。これからもよろしくおつき合いください。
相・栄合同全国大会でアル・ゴア元副大統領が環境問題に取り組んでいると谷口雅宣先生が紹介されていました。やっと、An Inconvenient Truth(不都合な真実=地球温暖化)というサイトに出合いました。
「こどもの日」にちなんで、未来に、美しい地球を残さんがためにG3も、今、できることに取り組んでいこうと決意を新たにしています。再合掌

投稿: G3:橘 正弘 | 2006年5月 5日 (金) 21時26分

橘さん

大変ご無沙汰いたしております。コメントを誠にありがとうございました。

アル・ゴア元米国副大統領の環境問題への姿勢については、ジョン・デ・グラーフ他『消費伝染病「アフルエンザ」:なぜそんなに「物」を買うのか』(日本教文社、2004年)のpp. 8-9に次のような興味深い記述があります。

つまり、1992年、まだ上院議員だったころ、彼〔アル・ゴア〕は『地球の掟-文明と環境のバランスを求めて』(邦訳、ダイアモンド社)という本を書き、アメリカ人はモノ中毒になってしまったと指摘していました。それにもかかわらず、大統領候補の討論会では彼は一転して、「アメリカ経済の規模を10年間で30パーセント拡大する」と公約していた、というのです。

映画「不都合な真実」で主演をつとめていることからすると、アル・ゴア氏は、いまや自らの環境問題についての信念に立ち返ったのだと思いますが、その彼でさえ、大統領選挙戦の最中には、環境問題の解決のためにアメリカ人に対して「モノ中毒から脱却しよう!」と真正面から訴えることができなかったという事実は、政治の難しさをよく表しているのだろうと思います。彼はいま政治の表舞台から退いているからこそ、真正面から環境問題に取り組めているとも言えると思うのですが、いかがでしょうか?

とはいえ、民主政治では結局は国民の総意が反映されるはずなのですから、政治家が当選しようと思えば環境問題の解決に本気で取り組む姿勢を見せなければならない、というふうに国民一人一人の意識が向上することが最も大事なことなのではないかと思います。

投稿: 山中 | 2006年5月 5日 (金) 22時34分

はじめまして。雅宣先生のブログからきました。
山中様が例示をつかいながらNHKスペシャルを再現しようとしているのが、よくわかりました。ありがとうございます。

資本主義と環境問題について折り合いのつかぬ事を実感されたのですね。私もあの番組をみて資本主義の世界の広さを感じました。
資本主義制度を基本にするアメリカの一部の人は排出権という権利を売買し利益を目指すあまり、ツバルの水没さえ「環境問題への関心」の目安にすぎないものになっている事実に愕然としました。
あの社長が「ツバル。。。もう手遅れでしょうね。」と軽く言い放ったのが印象的でした。悔しかったです。

環境問題を世界で考える中に「信仰心」のようなまじめなものがベースになってもらいたいものです。レジ袋削減など、まさに一人一人の誠意のみの世界です。環境問題とは国は変わっても一人一人が「足元から平和を」求める世界だと思います。

資本主義であれ共産主義であれ、GNPなどの経済指標に「宗教団体の活動」のような「愛」や「夢」を基本にした生産活動がどれだけフィードバックしているかは考える必要があるようです。なにがいいたいかというとその国の物質的豊かさに「心」が加えられ見直される必要があると思うのです。

中国の重慶の労働者たちの、求めるものは物質的欲望であり、車を買うという見栄や便利さです。ただ、昔の日本も同様の産めや増やせやの時期があって、公害問題があって今のグローバルな意識に基づいた環境問題への自覚につながっているのです。どの国も同じような失敗をしてほしくはないです。

中国の重慶の炭鉱における生産量イコール豊かさとか、自国の幸せイコール国民の豊かな生活、とするならばこれは昭和30年代から40年代の日本であり、公害問題が中国の悩みとして現れるのは間違いありません。中国のことを心配し協力してあげるなら、「地球意識を踏まえた環境問題」を金以外のレベルでつたえてあげたいです。それが信仰心や愛とともにお伝えできればいいのですが。


「世界がひとつ」となったり、「地球全体の環境」を考える上で、みんなが協力しあえる、わかりやすいテーマや指標をこしらえてあげるのもひとつの工夫かもしれません。

何か具体的で世界中がわかりやすいものは、もしかしたら「愛」のような「仏心」のような本気の信念に基づいたものかもしれません。マザーテレサなど実際に世界をまたいで「愛」をつないでいます。世界規模、地球規模で考えるために「信仰」はあるのかもしれません。

今もツバルは苦しんでいます。あのツバルのみんなにも「キリスト教」が伝わり、みんなで祈っていましたよね。「祈り」は世界を救います。中国の重慶の人たちはツバルを知らない。世界中のひとが
本当にツバルを映像で見たらどう思うのかと思います。


投稿: 尾崎伸行 | 2006年5月 6日 (土) 06時43分

尾崎さん

コメントを誠にありがとうございました。

> 私もあの番組をみて資本主義の世界の広さを感じました

はい、たしかに資本主義経済には、「しょせん利己心の体系にすぎないじゃないか…!」と簡単に斥けることの出来ないだけの、なかなかの説得力があります。

とはいえ、やはり限界があることも事実です。その限界について、本文に試みに書いてみたというわけです。

尾崎さんのおっしゃるとおり、究極的には、よい意味での宗教心によってしか根本的な解決はなされないと私も思いますし、そこにこそ現代的な宗教活動の極めて大きな意義があるのだと思います。

しかし、世の中にはそのような宗教的なメッセージをいきなりストレートに言われても、そんなものは全く受け付けない人たちもたくさんいます。現に私が身を置いている学者の世界は、まさにそういう世界です。

ですから、仕事を離れた私人としてならともかく、学者の一人としての立場から私の出来ることといえば、そして実際にやろうとしていることは、いきなり宗教的な信念をあからさまに発することではありません。そんなことをしてみても一向に相手にされない世界ですから…。

そうではなくて、たとえば資本主義経済の背後に存在する思想・哲学を正面から受け止めつつ、その意義は正当に評価しつつも、あくまでも内在的に批判することでその限界を明らかにしつつ、「この限界を克服するためには何が必要なのでしょうね…」というふうに、その先のことについては暗示するにとどめ、あとは各自の沈思黙考に委ねる、ということだけなんです。

一見迂遠な作業ですが、めげることなく粘り強く取り組んでいき、私の天分に適うやり方で世界平和に少しでも貢献していきたいと思っています。

投稿: 山中 | 2006年5月 6日 (土) 11時45分

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