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2006年6月29日 (木)

歯医者さんに通っています

昨日の夕方、仕事を終えてから、歯医者さんに行った。今月に入ってからこれで3回目である。

なぜ歯医者さんに行きだしたのかというと、今月の初めだったろうか、冷たいものや熱いものを飲んだときに、右の上下の奥歯に、しみるような痛みが少し走るのを覚えたからである。悪化させてしまうと当然、仕事にも普段の生活にも大いに支障をきたすのは目に見えているから、こういうのは早めに治療しておくに越したことはないと思い、さっそく診てもらうことにしたというわけである。

歯医者さんに行くのは、かなり久しぶりのことだった。一番最後に行ったのは、確か7年ほど前に親知らずを抜きに行ったときである。その前に虫歯の治療をしに行ったとなると、おそらく小学生以来のこと、いや、もしかしたら中学生のときだったろうか…。いずれにしても、いつのことだったか、もうすっかり忘れてしまったぐらい、ずいぶん以前のことである。その虫歯の治療のときに、上下左右、四箇所すべての奥歯に詰め物をしたが、幸いなことに、歯そのものは一本も抜かずに済み、それ以降は歯のことで悩むことなく、これまで過ごしてきたのである。

しかし、今回診てもらうと、長年の間に少しずつ虫歯が進行していたらしい。詰め物を取ってみると、結構深いところまで虫歯が食い込んでいた。もしもあのまま放っておいたら、どうなっていたことか……と思うと、つくづく早めに診ておいてもらってよかったと思う。

昨日、念のため、まだ痛みを感じていない左上の奥歯も診て下さったが、そこでもひそかに虫歯が進行していた…! なので、それも昨日治療してもらった。痛みを感じていないのに虫歯が静かに進行していた、というわけである。早めに治してもらって本当によかった。

ところで、久しぶりに歯医者さんに行ってみて驚いたのは、その雰囲気が私の歯医者さんのイメージとはずいぶん異なっていたことである。今回私が通っているのは、橿原市内の「リリーデンタルクリニック」という、なかなかオシャレな名前の歯科医院である。まずはその名前の響きに新鮮さを覚えた。というのも、私のこれまでのイメージでは、歯医者といえば、院長の名字をとって「○○歯科」となっているのが普通だったからである。

しかも、その「リリーデンタルクリニック」のスタッフは、院長先生も含めて、すべて女性だけで占められており、そのせいか、とても穏やかでやわらかい雰囲気が、そこはかとなく醸し出されているのである。また院内ではイージーリスニングミュージックとでも言うのだろうか、心地よいBGMが流されている(おそらく有線放送ではないかと思う)。

わたしがその歯医者さんを知ったのは、実は妻が以前から「あそこはいいよ」と言っていたからだった。というのも、そこは小さな子供連れでも行けるように、子どもが遊べる小さなスペースも用意されているからである。こうしたところにも、女性らしい細やかな気配りが感じられる。

治療の方もそうで、分かりやすく説明しながら、優しく治療を進めて下さる。昔の歯医者さんといえばもっぱら「怖い…」というのが定番だったが、どうも今はそうではないようだ。

もうひとつ驚いたのは、“歯間ブラシ”なるものの存在である。といっても、実はうちの妻が毎晩、その歯間ブラシも使って念入りに歯を磨いているのを毎日見て知ってはいたのだが、実を言うと私自身はその様子を自分には関係ないことのように、ただ眺めていただけだった。ところが、その歯間ブラシを使うことが、普段の歯の手入れとしては、そして歯ぐきの手入れとしても、とても大切なのだそうである。そこには歯科衛生士の方もおられて、適切な歯ブラシの選び方などについても、丁寧に歯磨きの指導をして下さった。私が昔に歯医者さんに行ったときには、悪いところの治療を受けただけで、予防のための指導を受けた記憶がないから、その点でも、最近の歯医者さんは進歩したと見える。

さらに、私はこれまで歯医者さんというのは、歯が悪くなったときにだけ行くものだと思い込んでいたのだが、どうもそうではないらしい。というのも、歯ぐきのためには、つまり歯槽膿漏の予防のためには、ひと月に一回は歯医者さんに通って、“歯石”というものを取り除いてもらうことが大切だからだというのである。実はこのことも既に妻から聞いてはいたのだが、それもやはり他人事のように聞いていた。いやはや、妻には謝っておかねばなるまい…。

いずれにせよ、今回、早めに歯医者さんに行ってつくづくよかったと思う。いつまでも、できるだけ健康な歯を保って、教育にも研究にも末永く活躍していきたいからだ。

読者の皆さんも、どうか歯は大切にして下さい。食後には歯を磨きましょう! 特に寝る前には必ず歯を磨くことが大切とのことでした(虫歯菌は寝ている間に最も活発に活躍するそうです…!)

追記:ついでながら、ここで学生諸君のために、英語のレッスンを一つ。学生諸君は、「病院」と聞くと、その英語は"hospital"だと思われるかもしれないが、英語でhospitalというと、大きな総合病院のことだ。「○○医院」というように、街中にある小さな診療所・医院のことを、英語では"clinic"と言う。だから、私のいま通っている歯医者さんも、リリーデンタル“クリニック”となっているわけである。ちなみに“リリー(lily)”は百合(ユリ)の花を、“デンタル(dental)”は「歯の、歯科の」という意味である--ひと口英語レッスンでした。

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2006年6月28日 (水)

豪のツバルへの対応:是か非か?

昨日の総合演習(教職)の授業では、テキスト『ツバル:地球温暖化に沈む国』の第8章に書いてある、オーストラリアのツバルへの対応の是非について、私が司会役となって、議論形式で授業を行ない、受講者全員(18名中、今回の出席者17名)に(少なくとも一度は)発言をしてもらったが、なかなか興味深い授業となった。

確認のため、オーストラリアの対応について簡単に振り返っておくと、オーストラリア自由党のハワード政権は、海面下に没しつつある国土を捨てて移住の決断をしたツバルからの受け入れ要請を断った。その理由は、大きく分けて、次の二つであった。(1)そもそもハワード政権は、移民の受け入れに対して厳しい姿勢をとっていること。(2)またハワード政権は地球温暖化問題に対しても消極的な姿勢をとっていること--この二つである。

このオーストラリアのツバルに対する姿勢について、受講者諸君に是非を問うてみたところ、私の予想に反して、是とする学生も少なくなかった。それに対して、非とする学生からいくつかの反論が提示され、それに対して是とする学生から再反論も出されたので、なかなか活発な議論となった。

是とする学生諸君の挙げた根拠の中で最も多かったのは、「移民の受け入れには多くの困難が伴うから」というものであった。それに対して、非とする学生諸君の挙げた根拠の最たるものは、「(受け入れ側の大変さ以上に)移住を決断したツバルの人々は困難な状況に置かれているのだから、やはり受け入れるべきだ」というものであった。

それに対して、私が両者にコメントしたことは、次の通りであった:

是とする学生諸君に対して…その場合、それでは一体、ツバルの人々への処遇をどうすべきかについて、さらに深く考える必要があるでしょう。

非とする学生諸君に対して…とはいえ、やはり受け入れには困難が伴うことも事実ですから、それでは一体、その困難をどうすれば克服すればよいのかについて、考察を深めておくべきでしょう。

このように双方にコメントを加えるにとどめ、私自身の意見はあえて述べなかった。というのも、この授業でのねらいは、私自身の見解を受講者諸君に押し付けることではなく、この議論をきっかけにして諸君自身の力でさらに深く考えていく契機としてほしい、ということだったからである。

ところが、その授業終了後、三人の学生が私のところにやって来て、「先生のご意見を聞かせて下さい…!」と懇願してきたのである。

そのため、その三人の学生には私の見解を伝えたが、そうなると他の受講者諸君にも私の意見に触れる機会を与えておく必要があると思ったので、本欄にそれを簡潔に書いておきたいと思う。

私自身の意見は、オーストラリアの対応を非とするものである。すなわち、オーストラリアはツバルの人々を自国に受け入れるべきである、というのが私の意見である。というのも、科学的にまだ厳密には決着がついていないとはいえ、やはりIPCCのレポートが結論付けたとおり、地球温暖化による海面上昇の原因は人間の側にあると推定すべきであり(この点については本欄5月22日の記事「CO2の増大は地球温暖化と無関係?」を参照)、そうなるとオーストラリアにもツバルの窮状に対する責任は大いにあるから、たとえ困難でも、やはり受け入れるべきだと思うからである。

この場合、非とする学生諸君に対して私自身がコメントしたように、「それでは一体、受け入れに伴う問題をどう解決していくべきか」について一定の解答を持ち合わせていなければならないのだが、実をいうと、私にはまだ、そのための解答が得られていない。実は私自身も現在、考察中なのである。というわけで、上記のコメントは、実は私自身に対するものでもあったことを、ここで正直に告白しておかねばならない。

授業の最後に述べたように、すでに日本にも70万人を越える外国人労働者がすでに存在している。したがって、わが国においても、移民問題はこれから避けて通れない重要課題となるだろう。ましてや、環境難民がツバル以外にも発生してしまった場合--もちろんその発生を防ぐことが最も重要なのだが--、日本は紛れもなく地球温暖化問題における加害者の一員だから、たとえ困難を伴うとしても、やはり環境難民は受け入れなければならないだろうと思う。その場合の問題は、その困難をどうやって克服すべきかである。

しかしながら、困難だからといって、受け入れを拒否すべきではないだろうとも思う。というのも、このグローバル化の時代にあって、もはや自国のみの利害に終始することは決して許されないと思われるからである。

最後に、学生諸君の意見の中で、「オーストラリアが地球温暖化に消極的なのは、致し方ない面もある。というのも、豊かな生活との両立がまだ難しい場合、やはり豊かな生活を維持したいと思うのは無理のないことだから」という意見も出た。この場合の論点は、次の二つである:

①「豊かな生活」とは何か? 現在の先進諸国での物質的な豊かさは、本当の意味で幸福な生活だと言えるだろうか?

②“経済と環境”の両立は本当に不可能なのだろうか?

この二点についても、残りの授業で、議論のテーマとして取り上げたいと思っているので、楽しみにしておいていただきたい。

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2006年6月27日 (火)

チャンクでつなげていく英会話:『英語感覚が身につく実践的指導』を読む

本欄の6月20日の記事で、NHK教育テレビの「新感覚 キーワードで英会話」を担当されている田中茂範教授(慶應大学)の編集された『Eゲイト英和辞典』のことについて触れたが、今日は、同じく田中教授(と佐藤芳明氏・阿部一氏の三氏の共著)の『英語感覚が身につく実践的指導:コアとチャンクの活用法』(大修館書店、2006年6月刊)について、書くことにしよう。

この本を手に入れたのはつい最近だが、この本にも大変参考になることが書かれてあった。そのうち単語のコア・イメージを知りそれを身に付けていくことの重要性については、『Eゲイト英和辞典』と共通するので、今日は「チャンクの活用法」について、これまで漠然と感じつつあったことが本書に明確に書かれてあったことを、読者の皆さんにお伝えしておきたいと思う。

私がこれまで漠然と感じつつあったが、それがまさに明確に書かれていたこととは一体何であったのかというと、それは、会話の場合、「何かを話そうとした場合、完全な文がいきなり浮かんでくることはなく、むしろ表現断片が呼び起こされ、それに新たな表現断片を先行断片に連鎖化させることで、言いたいことを表現する」(『英語感覚が身につく実践的指導』p. 187)ということである。この表現断片のことを、本書では「表現チャンク」あるいは単に「チャンク(chunk)」と呼び、それが別のチャンクを呼び起こすという連鎖反応のことを「チャンキング(chunking)」と呼んでいる(p. 187)。

つまり、現実の会話においては、論理的に完結した文章がはじめから完成された形で述べられるのではなく、言い直し、ためらい、言い換え、繰り返しなどといった試行錯誤がされていきながら、ある表現断片(チャンク)が、連鎖反応的に次のチャンクを呼び起こし、そのチャンクの連鎖によって、結果としてある文章が編成されていくというのである(pp. 185-189)。

実際、インタビューにおける会話の聞き取り練習をしようとすると、きれいな文章がよどみなくながれていくというのではなく、まさに言い直し、ためらい、言い換え、繰り返しなどといった試行錯誤がされていきながら、会話が次々と展開されていく。したがって、その教材で文字化された英文を読むと、文の最初と最後で必ずしも首尾一貫していない場合が多い。たしかに、全体としてはおおまかな意味が共通しているのだが、それが書き言葉におけるように最初から完成された文章として語られているのではないのである。

このことは、英会話の上達に向けて、非常に大切なことを意味している。それは、「即興で、英文を話す、つまり、意味を編成するとはどういう営みであるかが分かるはずである。それは、文を作るという認知的負荷を下げることにもつながり、気楽に英語を話すことの弾みになる」(p. 205)ということである。

この「気楽に英語を話すことの弾み」となるもう一つのこととして本書で挙げられているのは、「単語が足りないという思い(幻想)を捨てる」ということである。つまり、「もちろん、必要に応じて単語の駒数は増やしていく必要はあるが、とにかく持ち駒を有効利用することが肝心である」というのである(p. 243)。

たとえば、本書では「花を生ける」という表現を英語にしようとする場合が挙げられているが、その場合、arrangeが思い浮かばなければ、put flowers in a vaseでもよい、というわけである。そこにelegantlyを加えれば、より一層、本来言いたいことに近づく。いずれにせよ、こうした状況でputを使うことができる、ということが重要なのである(p. 243)。

この「単語が足りないという思いを捨て、持ち駒で勝負する」ということに加えて、会話の途中で、相手から、自分のわからない単語を引き出すということもできる。本書で挙げられているのは、たとえば、I'm looking for...と言って「栓抜き」に相当する言葉が思い浮かばないとする。その場合、I don't know how to say it.とか、What do you call it? などのように、「単語がわからないんだけど、どう言うんだっけ?」と相手に聞くのである。それでもダメなら、I want to drink this.などと状況説明をするなどして、要するにあきらめないで意図を伝えるのである。そうすれば、相手から的確な表現(a bottle opener)を得ることができることもある、というのである(pp. 245-246)。それでもどうしても埒が明かない場合は、well, forget it, well anyway,などといって話題を放棄して、別の話題に行くこともできるという(p. 246)。

いずれにせよ、実際に英語で会話をしようとする場合、文を最初から完璧に組み立てて完成させた上で言わなければいけないとか、単語が足りないという思いから躊躇するのではなく、文を作るという思いを捨ててチャンクでつなげ、持ち駒の単語を使い切る、という姿勢で積極的に会話にチャレンジすべし、ということなのである。

このことは、私が以前から漠然と感じていたことではあったが、それが今回、本書で明確に力強く説かれているのに触れて、非常に意を強くした。もちろん正しい文章を作れることは大事だし、単語を増やすこともきわめて大切である。しかしそのことにとらわれすぎて、英会話に躊躇してしまうのも、大変もったいないことだろうし、それでは上達もできないだろう。とにかく練習を実際にしていかなければ、上達できないからである。

そのようなわけで、もちろん一方では正しい英文法を身につけたり、単語を増やしていく努力は継続していきつつ、躊躇することなく、手持ちの単語とチャンクでつなげていくこととで、思い切って英会話を実践していきたいと改めて決意した次第である。

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2006年6月25日 (日)

日本サッカーの未来

ここのところ硬い話題ばかりが続いていたので、今日は、やわらかい話題で書こうと思う。それは、日本代表の敗退が決まった今回のワールドカップサッカーのことである。

学生諸君の中には、もしかすると、「日本のサッカーはダメだ…」という思いに打ちひしがれた人も多かったかもしれない。それが、ひいては、いつの間にか日本人全体に対する劣等感に、そして日本人の1人である自分自身への劣等感へと知らず知らずのうちにつながってしまっているかもしれない。

しかし、もしもそうだとしたら、ちょっと待ってほしい。「そんなに結果を焦る必要はないでしょう。もっと長い目で、日本サッカーの成長を見守ってあげましょうよ」と私は言いたいのである。

よく考えてみよう。今回、日本の出場は3回目である。日本のサッカーの歴史は、たとえば今年3月のWBCで優勝した野球に比べて、まだまだ浅い。日本サッカーの成長は、まだまだこれからだと思うのだ。その成長プロセスの一環だったと思えばよいのである。

また、今回の結果を受けて、接触プレーなどのときの、日本サッカー選手の身体の弱さ、体格の不充分さが指摘されているが、私自身は、日本人だからといって、必ずしも小柄で線の細い選手しか出てこないとは思わない。というのも、日本の伝統的な競技である柔道や相撲において、日本は既に頑強な選手を多々輩出してきているからだ。

そういう意味では、これからの日本サッカー選手は、身体の強さをもっと鍛えるために、日本のお家芸たる柔道や相撲からたくさんのことを学べるだろうと思うのである。そうして、大柄で屈強な選手も出てくれば、たとえばその選手がポスト役として最前線で身体を張り、くさびのボールをもらって相手をひきつけているうちに、その横を小柄で敏捷な選手がすばやくボールをもらってゴールする、といったプレーも可能となるだろう。

その意味では、現在の日本サッカー代表チームは、一部の選手を除いて、ほぼ全員が小柄で敏捷なタイプに偏りすぎていたのかもしれない。つまり、選手のタイプに多様性が欠けていたのである。柔道や相撲などからも学びつつ、大柄で頑強な選手がもっと多く出てくれば、日本の現在のよさである器用ですばやいパス回しの技術がもっともっと生かされることにもなるだろう。

要するに、今回の結果だけで、日本サッカーを見限ることはないと思うのである。もっと長い目で、日本サッカーの成長ぶりを見守っていこうではないか。日本の個性を生かした世界レベルのサッカーを実現していくことは、年月のかかることかもしれないが、きっときっと、可能なのだから…。

だから今回の結果にガックリきた学生諸君も(私もその1人である。やはりあの結果には非常にガッカリした)、そんなに気落ちせずに、気を取り直して、日本サッカーの成長をこれからも見守り続ける気持ちになってほしい。そして、そういう気長な成長を、自分自身に対しても期待して、地道に一歩一歩、喜んで、努力を重ねていってほしいのである。

山中 優

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2006年6月24日 (土)

苦手意識から脱却しよう!:政治学概論(名張)は入門レベルです

政治学概論(名張)の受講者諸君へ

前々回の記事で、「困難と見え、努力を要することにこそ、やり甲斐がある」と述べた。とはいえ、それぞれの成長段階というものはあるから、たとえば小学生にいきなり「この専門的な英書を読破せよ」などという課題を与えることは、はなはだ不適切ということになるだろう。小学生には小学生向けの、中学生には中学生向けの、高校生には高校生向けの、大学生には大学生向けの、適切なレベル設定を行なうことは、教員として細心の注意を払って慎重に行なわなければならない事柄である。

しかし、政治学概論(名張)に関して言うならば、そこで設定されているレベルは、実は、高校を出たばかりの大学1年生を想定した「入門レベル」なのである。

以前に授業中にも一度話したことがあるが、注目してもらいたいのは、テキストの書名と、テキスト表紙の左下に表示されているマークの色である。

テキストの書名をもう一度よく見てみよう--そこには『はじめて出会う政治学』と書いてあるはずだ。つまりこのテキストは、「まえがき」のiiiページ冒頭に書かれてあるように、「どのような話題から始めれば、高校を出たばかりの学生たちを政治学の講義に引きこめるのだろうか」という問題意識のもとに、内容をわかりやすくするために大変苦心を重ねて書かれた書物なのである。

また、このテキストは「有斐閣アルマ」というシリーズのなかの一冊であり、このシリーズには4段階のレベル設定がされているが、この『はじめて出会う政治学』の場合は、その一番初歩のレベルに設定されていることを示す、赤色のマークがついているのである(表紙の見返し部分で各自確かめられたい)。

したがって、決して、諸君が思っているほどには、本当はそんなに難解な内容ではないのである。

にもかかわらず、諸君の中で「難しい…」と感じている人がいるとすれば、やはりそこには一種の苦手意識が働いてしまっているからではないかと思われる。その奥には、いつのまにか諸君の心のうちに巣食ってしまっている何らかの“劣等感”のようなものが横たわっているのかもしれない。その苦手意識、劣等感が、諸君のうちに潜む巨大なる潜在能力にフタをしてしまっているのである。

政治学概論(名張)の設定レベルは、客観的に言って、大学で学ぶ政治学における最も初歩的なものである。したがって、決して、今の諸君の成長段階に不相応なまでに高度・難解なものではないのである。

したがって、諸君が試験勉強に取り組むにあたっては、「決して今の自分には太刀打ちできないような不相応なレベル設定はされていない、むしろ努力すれば必ず到達できるような、ちょうど良いレベル設定が為されているのだ」ということに安心して、喜んで意欲的に試験勉強に取り組んでもらいたいと思う。

山中 優

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2006年6月23日 (金)

「単位を下さい」という言葉

大学の教員をしていると、時々、「単位を下さい」と言われることがある。あるいはまた、試験結果が公表された後に、「単位をありがとうございます」と言われることもある(つい最近にも、こういう声がある1枚の聴講券の裏面に書かれていた)。

学生諸君から時々発せられるこうした言葉は、決して悪意から出たものではなく、きわめて素朴かつ率直な気持ちから来るものであろう。

しかし、その表現は、実は非常に的外れな言葉づかいである。というのも、教員が行なっていることは、決して単位を“あげる”ことではないからである。

たしかにわれわれ教員も、時々、言葉の綾で「このままでは、君には単位をあげられないよ」などといった表現をしてしまうこともある。しかしながら、厳密に言うならば、これは誤った表現である。

というのも、教員が行なうこと、また行なうべきことは、単位を“あげる”ことではなく、“認定する”こと、すなわち、ある客観的な採点基準を事前に設けておいた上で、その基準に学生諸君の答案が達しているかどうかを、主観を交えず、あくまでも客観的に判定することだからである。

人情としては、ついつい「単位を下さい」と言ってしまいたくなる気持ちは、分からないではない。しかし、もしもある学生の答案がしかるべきレベルに達していないにもかかわらず、それを大目に見て単位を“あげる”とするならば、それは公平な客観的評価ではなく、単なるエコヒイキなのである。

これを学生諸君の立場から言い換えるならば、諸君にとって、単位は教員から“もらう”ものではない。そうではなく、諸君の実力によって“かちとる”ものなのである。

たとえば、もしもスポーツの世界で、自分の実力が不足しているにもかかわらず、試合相手に対して「勝たせて下さい」などと懇願することは、非常に情けないことだろう。ましてや、仮に試合に勝った場合に、「勝たせてくれてありがとうございます」などと口走ってしまったならば、その試合相手は「何という屈辱…!」と怒り出すにちがいない。もしもそう言われてその試合相手が怒り出すのではなく、逆にニヤッと笑ったとするならば、それはとりもなおさず八百長試合、すなわちインチキだったということになるのである。

従って、学生諸君が行なうべきことは、単位を下さいと懇願することではない。そうではなく、むしろ必要なレベルに達するよう、努力・精進することのみである。また、その努力の結果、単位が認定された場合に諸君の発するべきは、教員に対する「単位をありがとうございます」という言葉ではなく、むしろ自分自身に対する「よくやった!」という自己賛嘆の言葉なのである。それは自分の実力によってかちとったものに他ならないからである。

そのようなわけで、学生諸君には、「単位を下さい」「単位をありがとうございます」などという言葉づかいは、一切やめていただきたい。そうではなく、ただひたすら、自分の実力の向上のために、自分の潜在能力を徹底的に信じて努力・精進し、単位が認定された暁には、そのことに大いに自信と誇りを持ってもらいたいと、教員の一人として心から念願する次第である。

それとともに、私自身、教員としては、決して「単位をあげる」などという言葉づかいをしてはならないと、改めて決意するものである。

山中 優

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2006年6月21日 (水)

授業関連の時事問題記事を中断します:試験勉強に全力を!

学生の皆さんへ(特に政治学概論の受講者諸君へ)

本欄の5月8日の記事で、受講者からの要望にお応えして、「時事的・専門的な話題はここで取り上げます」とお約束し、それ以来、主に道路公団民営化問題と地球温暖化問題を取り上げてきた。

まだまだ授業に関連する時事的な話題は尽きないが、このあたりでいったん、本欄で授業関連の時事的な話題を取り上げることは中断しようと思う。

というのも、学生諸君には、約1ヵ月後に控えた学期末試験のための準備に、今のうちから全力を注いでほしいからである。

私の授業の場合は、試験問題を事前に公表し、その解答のためのヒントもお伝えするなどして、単位認定に必要なレベルに達してもらうための事前の導きを惜しみなく行なっているが、それは、穴埋めや選択式ではなく、記述式・論述式の出題を行なっているからである。

最近では入試問題でも選択式(大学入試センター試験におけるような)が主流となりつつある現在、ある一定のまとまった文章を書くことに慣れていない学生諸君も少なくないだろうと思う。そのような場合、私の授業の試験は「難しい…」という印象を持たれることも多いかもしれない。

しかし、それでもあえて、記述式・論述式の出題を行なうのは、その方が、必ず “身につく” からである。

もちろん、努力は必要である。およそ何らかの新しいことを身につけようとする際に、努力を必要としないものはない。しかし、だからこそ、それが興味深い作業となるのである。

たしかに、努力を必要としない簡単なことの方が、しんどくなくてありがたい、と思われるかもしれない。しかし、それなら、今の諸君にとってきわめて簡単なこと、たとえば「1+1=2」という計算作業は、たしかに何の努力も要らないとはいえ、それが果たして楽しい作業といえるだろうか?決してそうではあるまい。むしろ、きわめて退屈なものであるはずだ。

あるいはなぜ諸君は、たとえば現在ドイツで行なわれているワールドカップサッカーに熱中するのだろうか?それは、猛烈な練習を経て、最高度の技を競おうとするサッカー選手たちのプレイに感動するからではないか?

あのナショナルチームの選手たちにとって、ワールドカップでのプレイは、非常に過酷なことであるに違いない。にもかかららず、彼らがあれほどまでに全力を注ぐのは、困難な、多大な努力を要することこそ、全力を傾ける価値のある素晴らしい営みだからではないだろうか?彼らが今さら小中高生を相手に試合をしてみたところで、たしかに高校生を相手に練習試合を行なう場合は調整の意味合いがあるとはいえ、決して彼らにとって最高に面白いことではないだろう。

サッカーにあまり興味のない人は、バレーボールやバスケットボール、野球など、ご自分の好きなスポーツに置き換えて考えてもらえばよい。またスポーツでなくても、ピアノなどの音楽でもよい。要するに、何かやり甲斐のあることを考えてもらえばよいのである。

いずれにせよ、諸君には、努力を要する一見困難なことだからこそ、一生懸命に取り組む価値のある、やり甲斐のあることなのだ、という事実に目覚め、大いに奮起して試験勉強に臨んでもらいたい。諸君の中には、自分でもまだ気づいていない、莫大なる潜在能力が埋まっているのだから…。それを信じて、全力を注いでもらいたいのである。

受講生諸君の奮起を大いに期待するものである。

山中 優

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2006年6月20日 (火)

新たに英和辞典を購入

つい最近、新たに英和辞典を1冊購入した。新しく英和辞典を買うのは、ずいぶん久しぶりである。

新しく買ったのは、もちろん、英和辞典を持っていなかったからではない。書物形式のものも、電子辞書も、すでに持っていた。にもかかわらず、今回、新たに英和辞典を買ったのは、それがある新しい考え方のもとに編まれた、新しいタイプの英和辞典だったからである。

それは、田中茂範ほか編『Eゲイト英和辞典』(2003年、ベネッセコーポレーション)という辞典である。この辞典の面白いところは、基本語や多義語の中核的な意味(すなわちコア)の解説に重点を置いているということである。すなわち、そのコアイメージをイラストで図解して、視覚的に分かりやすく解説しているということである。

たとえば、short という単語を取り上げてみよう。私たちはこの語を「短い」と覚えてこなかっただろうか? しかし、この辞典によると、この「短い」という訳語は、short という英単語のコアを正しく捉えていない。それが証拠に、「短い」と覚えていると、次の英文の意味が分からないことになる:

We need eighty dollars, but we're still five dollars short.(80ドル必要なのだが、まだ5ドル……さて読者のみなさんは--とくに学生諸君に聞いてみたいのだが--どう訳すと思いますか? ちなみにこの例文は『Eゲイト英和辞典』p. 1518に掲載されている)

この最後のところを「5ドル短い」と訳してしまうと、わけが分からなくなるだろう。それでは一体、これはどう訳すべきなのだろうか?

実は、これは「5ドル足りない」という意味になる。どうしてこういう意味で short が使われるのだろうか?

『Eゲイト英和辞典』によると、short のコアは、「短い」ではない。そうではなくて、「(平均値・基準値・期待値に)届かない」というのが、この単語のコアである。そこから、「(長さや時間が)短い」という意味も出てくれば、「(数値・期間などが)不足の」という意味も出てくることになる。

この short のようなきわめて基本的な単語であればあるほど、その意味は(恐ろしいほどに)たくさんある。ためしに、go や come や run といった動詞を調べてみると、本当にたくさんの意味が辞書には載っているはずである。それをただ機械的に暗記しようとしても、到底覚えることはできないし、仮に覚えることができたとしても、その暗記作業は苦痛以外の何ものでもないだろう。

ところが、このコアさえしっかりと理解しておけば、そこから意味がいろいろな方向に派生していくことが、ひとつひとつ納得できる。そうすれば、機械的に無理に暗記しようとしなくても、自然と頭に入っていくことになるのである。

私がこの辞典のことを知ったのは、実はNHK教育テレビのある英語番組を見たことがキッカケである。それは「新感覚 キーワードで英会話」という番組である。

この番組は、take, give, get など、英語初級者でも知っている基本的で重要な単語を、目で見てイメージで理解できるように作られた、10分間の番組である。火~金の夜11:00~11:10の放送だ。私の場合は予約録画しているが、毎月出されるテキスト(定価350円)を読むだけでもいいだろう。基本単語を改めて基礎から身につけなおすのには絶好の講座だと思う。

このNHKテレビ講座の講師をされているのが田中茂範氏(慶應大学教授)であり、その田中氏の編集されている辞典が、上記の『Eゲイト英和辞典』(本体価格3100円)だったというわけである。

この英和辞典とNHK講座で、基本単語を改めて、正しいコアイメージを理解しながら身につけていくことを楽しんでいる今日この頃である。

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2006年6月18日 (日)

環境破壊に強いられた市場移行:ツバルの場合

6月3日の本欄で、地球温暖化問題を、ハイエク研究から出発している私自身の今後の研究課題の一つとして意識していることを述べておいたが、今日はまた別の観点から、この点について書いておきたい。それは、≪環境破壊に強いられた市場移行≫というケースが、環境難民の発生に伴って起こってくるかもしれない、ということである。

この≪環境破壊に強いられた市場移行≫の先駆的な例となっていると考えられるのが、ツバルである。

神保哲生『ツバル:地球温暖化に沈む国』(春秋社、2004年)の第6章「崩壊」と題された文章によると、南太平洋に浮かぶ島ツバルでは、年々徐々に(しかし着実に)進んでいる海岸浸食に加えて、海面上昇に起因すると考えられる内からの浸水、すなわち地面の下から海水が吹き出てくることによる塩害のために、農業や淡水資源にも深刻な影響が及んでいるという。著者であるジャーナリストの神保氏のレポートが優れているのは、この海岸浸食や内からの浸水によって、単にツバルの国土が物理的に海に没してしまう危険性を指摘するのみならず(もちろんこれは極めて深刻な問題なのだが)、物理的に沈んでしまうに至るまでに、その過程において、どのような経済的・社会的・文化的影響がツバルの人々に及んでいるかを的確に分析し、それを克明に描いている点である。

この経済的・社会的・文化的影響のうち、ここでは経済的な影響についてのみ述べておくと、これまで自給自足経済に慣れ親しんできたツバルの人々は、その経済基盤だった農業が塩害によって成り立たなくなってきたことにより、市場経済・貨幣経済への移行を余儀なくされている。これまで自分の生活に必要なものを自分たちだけでまかなってきた人々が、急速に、分業による市場経済・貨幣経済へと放り込まれつつあるのである。分業による市場経済・貨幣経済に適応するためには、何か一つの技能に特化し、それに習熟した上で、顧客の獲得・維持において同業者との競争に耐えられるだけの用意ができていなければならないが、それにはどうしても時間がかかるから、急激にこの過程が進行してしまうと、貧富の格差や失業問題など、大きな社会問題が発生してしまうことになる。

実際、神保氏の上記の書物によると、このことがすでにツバルでは深刻な問題となり始めていて、貧富の格差や失業問題が生じつつあるという。この問題が進行すると、治安の悪化や犯罪の増加につながってしまうおそれがあることは、容易に想像がつくであろう(『ツバル』179-181ページ)。

もしも、ツバルを襲っている海岸浸食や内からの浸水が純然たる自然現象だったとするならば、このような適応を迫られるのは仕方ないと現地の人々も納得せざるをえなかっただろう。しかし、ここでの問題は、ツバルで海岸浸食や内からの浸水をもたらしている海面上昇が--ちなみにここで問題となる海面上昇は科学的に問題となる“平均潮位”ではなく、現実に日々起こっている“最大潮位”の上昇である--先進国によるCO2の大量排出というきわめて人為的な要因による可能性が高いということである。

この場合、現在グローバル化の進行に伴って、適応のための猶予を与えられることなく急激に市場経済化・国際統合を迫られている途上国においてさまざまな摩擦・軋轢が生じているのと同じことが、これからは、地球温暖化=気候変動による生活環境の破壊によってそれまでの経済基盤を失った途上国の人々が環境難民として他国に移住しようとする場合にも、生じていくことになるだろうと思われるのである。

たしかに「内からの浸水」というのは、ツバル特有の現象かもしれない。というのも、これはツバルの島が環礁といって、珊瑚礁が隆起し、その上に砂が堆積したものだからである(神保哲生『ツバル』126ページ)。つまり、いわばスポンジのようにツバルの地盤は穴がたくさん空いているため、海面上昇によって海水が地面の下から染み出してくるのである。このような現象が、世界各地で例外なく起こるとは考えにくいであろう。

しかし、地球温暖化に伴う気候変動は、何も「内からの浸水」だけではない。たとえば台風・ハリケーン・サイクロンの巨大化、それによる高潮も大いに考えられる危険である。しかもこの影響を真っ先にまともに受けるのは、それに備えて堤防や避難所を築くだけの財政的余裕のない貧しい途上国なのである。そのような脆弱な国々に住む人々がその生活基盤を環境破壊によって奪われ、環境難民となって他国に移住を余儀なくされるとき、そしてその環境難民の人々がこれまで自給自足の経済に慣れ親しんできていた場合、そのような人々が急激に市場経済・貨幣経済への移行を強いられるならば、分業システムの下で貨幣所得を確保できるだけの技能を身につけていない人々が置かれることになる生活状況は、非常に苦しいものとなるであろう。

すなわち、現在、グローバル化の進行に伴って起こっている「市場経済への急激な適応を強いられるなかで生じる軋轢・摩擦」という問題が、今後は地球温暖化=気候変動による環境破壊に伴って生じてくることも、大いに考えられるのである。

したがって、われわれが地球環境問題について考え、その解決に取り組もうとする場合、環境難民の発生に伴うであろうさまざまな軋轢を見通した上で、その発生を未然に防ぐための環境保全に全力を挙げるべきであろう。もしもそれが間に合わずに環境難民が発生してしまった場合には、その原因を作ってしまった先進諸国がその環境難民を受け入れるだけの制度上の整備を本気で行なっていく必要があると思われるのである。

山中 優

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2006年6月13日 (火)

環境税を考える(6)

前回の記事から少し間があいてしまった。もっと早く、この連載「環境税を考える」の結論部分を仕上げるつもりだったのだが、いざ書き進めようとしてみると、まだまだ私には詰めなければならない点が多々残されていることに気がついたため、作業が滞ってしまっていたのである。

私の研究対象であるハイエクの議論をこの問題にどう応用すべきかについて、私の頭の中にラフ・プランは徐々に浮かびつつあるが、まだそれはちゃんとした形にはなっていない。そのためには、まだまだやるべきことがたくさんありそうである。そしてまた、構想が固まっていざ書き進めていけば、それはかなりの分量になりそうなのである。

したがって、今回ここに書くことは、当初私が思っていたよりも不充分な点がまだまだ多く残された暫定的なものとなるが、ハイエクの現代的応用の一例としてこの記事をさらに書き進めていくことはひとまず断念し、環境税をめぐる問題一般について、今の私の念頭にある大まかな考えを述べておくことで、とりあえずのひと区切りとしたい。

前回の記事で、化石燃料の価格弾力性の低さを理由とした、環境税・炭素税への経済団体の反対論について言及した。石油をはじめとした化石燃料は必要度があまりにも高いために、炭素税が代替エネルギーへの転換という効果を発揮するためには、税率をかなり高く設定しなければならないが、そうすればそれは日本経済に大きな打撃を与えるおそれがある、というのである。

私は一方で、たとえ実際に税率を相当高く設定しなければ炭素税はその効果を発揮しないとしても、われわれとしてはその高税率を真摯に受け止め、代替エネルギー、それも風力、太陽光などのクリーンな自然エネルギーへの転換を強力に推し進めていくべきだと思う。というのも、現在の経済システムでは、開発に伴って自然環境に加えられる負荷が正しく価格に換算されていないが、本来ならば、その負荷も価格に組み入れられるべきだと思うからである。もしも炭素税によって価格が高くなるとしても、それは本来ならもともと組み入れられるべきコストが正しく反映されていないのを、是正する措置に過ぎないのである。

しかしながら、他方で、豊かな生活を実現しそれを維持していくためには、自然環境に負荷を与え、地球規模での気候変動を招く恐れのある化石燃料型の経済システムしかないという観念を前提とするならば、上記の経済団体の反対論が出てくるのも無理はないとも思う。地球温暖化=気候変動の恐れが大いに懸念されるとはいえ、またその兆候と思われる現象はすでに現れ始めているとはいえ、本格的な気候変動が起こるのはまだまだ先のこととするならば、やはり目先の豊かさをできる限り追い求めたいと考えたくなるだろう。

しかし、それは長期的な観点からするならば、生活の基盤中の基盤たる地球環境そのものに取り返しのつかない打撃を与えるものとなるおそれがあるがゆえに、結局は豊かな生活どころではなくなってしまう。そのことは、環境税の導入に反対する経済団体も重々承知していることだろう。さもなければ、自主的取組の重要性すら強調していなかったはずだからである。

したがって、まさに喫緊の課題となっているのは、自然環境を犠牲にしなければ経済はうまく立ち行かない、という観念を改め、自然環境保護と生活の豊かさとが両立するような新たな経済システムをいかにして実現していくか、ということなのである。

筆者がその大きな可能性を感じるものとして入手してあるのは、ポール・ホーケンほか著『自然資本の経済:「成長の限界」を突破する新産業革命』(日本経済新聞社、2001年)である。まだこの書物を精読していないので、今の私にはまだこの点について本格的に論ずる用意ができていないのであるが、筆者の考えでは、この本で説かれているような、自然と経済の両立の道が確立されていかない限り、いくら炭素税が導入され、化石燃料の使用を抑制しようとしても、その代わりとなるエネルギー使用の道が開かれていない限り、結局はこれまでどおりの化石燃料型の経済に立ち戻ってしまうだろうと思うのである。

最後に、もともとこの環境税についてここで書き始めたキッカケに立ち戻るならば、政治学概論(名張)のテキスト『新版 はじめて出会う政治学』(有斐閣)第3章「大企業と政治」に書かれていたように、政治の世界で必ずしも大企業や経済団体だけが影響力を及ぼしているわけではない。かつて公害規制や製造物責任法が導入されたことからも分かるように、経済団体に不利な政策が実現されることもあるのである。したがって、一般消費者の環境保全意識が向上し、環境税の実施を本気で求めていくならば、たとえ豊富な政治資金を持っていなくとも、実現は可能であろう。

しかしながら他方で、同テキストの第1章「組織された集団」で説かれていたように、業界・政治家(族議員)・官僚で構成される“鉄の三角同盟”が一般消費者よりも旺盛に政治活動を展開しており、その意気込みにおいて一般消費者は劣りがちであることも事実である。数においては圧倒的に勝っているにもかかわらず、今の自分自身に関わる切実な問題とは実感しにくいがゆえに、また自分が立ち上がらなくても他人が自分の代わりにやってくれれば、自分もその恩恵を受けることができると考えがちであるがゆえに(フリー・ライダー)、一般消費者はたんなる傍観者、政治的無関心に陥りやすいのである。活発に環境保全活動を展開しているNGO、NPOの団体に属している人々も少なくはないだろうが、それが一般消費者すべてに及んでいるわけでもないだろう。

したがって、一般消費者よりも政治的に活発な業界あるいは財界の声の方がやはり、絶対的にとは言わないまでも非常に大きな影響力を持つ現状にあっては、しかも公害問題のようにその被害が今すぐ明らかにならない地球温暖化=気候変動の問題にあっては、さらには公害問題のように加害者が企業のみにとどまるのではなく、CO2の排出という点からすれば一般消費者もまさに同時に加害者でもあるのであってみれば、豊かな生活のためには化石燃料に頼るしかない、という観念が根本的に変革されない限り、すなわち環境税によって化石燃料の使用が抑制されることが経済にとって不利であるという観念が根本的に改められない限り、環境税の導入も、その導入を契機とした地球温暖化問題の解決もおぼつかないだろう。まさに、化石燃料から脱却した新たな経済システムを可能とする思想のパラダイム転換が必要不可欠なのである。

山中 優

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2006年6月 7日 (水)

環境税を考える(5)

○経済団体の反対の論拠:価格弾力性の低さと日本経済へのマイナスの影響、自主的取組の強調

・化石燃料の価格弾力性の低さ

この連載(4)の末尾で予告的に述べておいたように、経済団体が環境税に対して反対する場合、常にその論拠として挙げられるのは、専門的な用語を使うと、“価格弾力性”の問題である。もしも化石燃料の価格弾力性が低い場合、CO2排出の抑制効果は、環境税について、それほど期待できないかもしれないのである。

この点について、石弘光氏は、次のように説明している:

時折、エネルギー消費に対して炭素税の抑制効果は小さく、よほど高税率にしないと有効でないとの批判もある。確かに石油で代表される化石燃料は必要度が高く、代替性が低いので、その価格が上昇しても短期的には消費はそれほど低下を示さない。つまり短期の価格弾力性は低いかもしれない。
〔『環境税とは何か』岩波新書、118ページ〕

一般的に言って、あるモノ・サービスの価格が下がるとそのモノ・サービスへの需要は増加し、逆に価格が上がるとその需要は減少する。つまり、値段が下がればそれを買いたがる人が増え、逆に値段が上がればそれを買いたがる人は減る、というわけである。

ところがこの≪価格下降→需要増加、価格上昇→需要減少≫という関係の働き方は、モノ・サービスによって異なってくる。たとえば「閉店・売り尽くしセール!」と銘打って非常に安価な値段で売られている商品でも、その商品がもうすっかり古びたものであれば、≪価格下降→需要増加≫という関係はそうカンタンには働かないかもしれない。その場合、よほど値段を下げなければ買いたがる人は出てこないかもしれないのである。

また例えば、逆に非常に人気のある(あるいは非常に必要度の高い)商品の場合、少々値段が上がっても、それを買いたがる人はそうカンタンには減らないかもしれない。つまり≪価格上昇→需要減少≫という関係がなかなか出てこないかもしれないのである。そのような場合は、値段をよほど上げなければ、買いたがる人は減らないだろう。

この≪価格下降→需要増加、価格上昇→需要減少≫という関係の働く度合い、すなわち≪価格の変化に応じた需要の変化の度合い≫のことを、経済学の専門用語で“価格弾力性”といい、この関係がなかなか働かないモノやサービスのことを「価格弾力性が低い」と表現する。

そして石油などの化石燃料の場合、人々の現在の生活があまりにもそれに依存しており、必要度の非常に高いものであるから、たとえ炭素税をかけてその価格を上昇させても、なかなか人々はそれを買い控えようとはしないだろう。そうすると、化石燃料の使用抑制効果を発揮させるためには、炭素税をよほど高率にしなければならないだろう。つまり化石燃料の価格をよほど高いものにしなければならない--というわけである。

・日本経済へのマイナス影響

しかしそうなると、経済団体によれば、次のようなことが懸念されることになる:

「日本だけで環境税等の経済的手法を導入しても、単にコストを上乗せしただけという結果になって、CO2の排出抑制には、期待した効果が上がらないのではないか」(経団連)

「CO2排出量に対する課税は、コスト、収益性、国際競争力に重大な影響を与えて、企業の経営基盤そのものを揺るがし、ひいては日本全体の経済の雇用問題ということにも影響を与えてくるのではないかと考える」(経団連)

「わが国は、既に省エネルギーが相当に進んでおり、インセンティヴで効果を期待する場合には、税・課徴金のレベルは相当高いものとならざるを得ず、産業や国民生活にとって甚大な影響がでる恐れがある」(経済同友会)
〔『環境税とは何か』194ページ〕

・自主的取組の強調

石氏によれば、この場合の経済団体の本音は、地球温暖化対策について、「これ以上対策を取る必要はないとは考えていない。さらにより努力していくべきである。しかし、それには税・課徴金という手法よりは、今までのような自主的・積極的な努力、ボランタリーが望ましい」(経団連)という点にあるのである〔『環境税とは何か』194ページ〕。

・自主的取組の限界:非協力的な企業の存在と家庭での自主的取組の不充分さ

しかしながら、石氏に言わせれば、この自主的取組には限界がある。たしかに地球温暖化対策に対して非常に意識の高い企業も多く存在している。しかしながら、他方で、意識が低く非協力的な企業も依然としてかなり存在している。また、産業部門のみならず、民生(家庭)および運輸部門からの排出量も相当なものであり、後者の部門の排出量はむしろ増加傾向にあるが、家計のCO2排出量削減にも自主的取組のみに期待するというのでは、石氏に言わせれば、政策論議としていかにも責任逃れなのである〔『環境税とは何か』55ページ〕。

○化石燃料型の経済からの脱却への躊躇
私も石氏の言うとおりだと思う。それにしても一体なぜ、経済団体はここまで炭素税に対して強硬に反対するのだろうか? それはおそらく、石油をはじめとした化石燃料型の経済システムがあまりにも広範かつ根深く定着してしまったがために、そこから脱却することに伴う経済的変化を恐れるメンタリティが経済界に強力に働いているからだと思われる。上記で引用した経済団体の見解にそのメンタリティが非常によく表現されていると言えるだろう。

この点に関して、われわれはどのように考えるべきなのであろうか? すでにかなりの回数を重ねてきた「環境税を考える」の連載であるが、次回をもって現段階での筆者の結論を述べ、ひとまずこの連載に一段落をつけたいと思っている。

≪続く≫

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2006年6月 6日 (火)

NHKスペシャル『気候大異変』(4・完)

NHKスペシャル『気候大異変』で伝えられた気候変動の内容としてこれまで本欄で書いてきたものを、ここでひとまずまとめておくと、それは次の通りである:

○熱帯低気圧の巨大化のおそれ、さらには温帯でも発生?
○気候の極端化:南部で降雨量増加による氾濫やがけ崩れ、北部では乾燥化。豪雨の頻度は北部でも増加。
○熱帯雨林の砂漠化、および世界各地での乾燥化による食糧不足
○デング熱などの熱帯地方特有の感染症が温帯地方にも拡大
○熱波による死亡の危険

今回は、『気候大異変』で伝えられた気候変動の内容の最後として、「海岸浸食による環境難民の大量発生の危険性」について、読者の皆さんにお伝えしたい。

○海岸浸食による環境難民の大量発生
温暖化による環境の激変によって、2億6千万人もの人々が住みかを追われる危険があるというシミュレーションがある。いわゆる“環境難民”の発生である。

こうした環境難民第1号として南太平洋に浮かぶ島ツバルの人々が挙げられることは総合演習の受講者諸君にはすでにお馴染みのことであるが、このような環境難民の発生が懸念されているのは、ツバル、キリバス、モルジブなど、南太平洋に浮かぶ島々だけではない。北極地方でも、まさに今、それが深刻な問題となっているのである。北極海の夏の氷は年々縮小している。地球シミュレータによると、2070年には消滅してしまうおそれがあるという。

NHKスペシャルで取り上げられていたのは、米国アラスカ州の北極海沿岸に浮かぶシシュマレフ島である。長さ5kmほどの細長い島で、人口はおよそ600人、その島民のほとんどは、イヌピアックと呼ばれる先住民族である。

このシシュマレフ島でここ数年、浸食によって海岸線が後退し、島民が次々と家を追われている。ここ10年の間で、海岸線がおよそ60mも後退したところもある。場所によっては、一晩で38mも浸食が進んだところもあったという…!

その原因の一つは、永久凍土の減少である。これまでは凍った海岸線が防波堤としての役割を果たし、海が荒れる10月にも、北極海沿岸の町を守ってきた。ところが温暖化による氷の融解で、海岸線が次々と浸食されているのである。北極海の氷は、この30年間で、10月の氷が北に500kmも後退しているという。

シシュマレフ島では、このまま浸食が進めば、あと十数年で住めなくなると考えられている。議論を重ねた結果、2009年までに移住することを決めたという。しかし、一体どこに移住すればよいというのか?--これが今、シシュマレフ島の人々にとって大問題となっている。すでに人が住んでいる町への移住が摩擦を引き起こすことが、大いに考えられるからである。

海岸の浸食や内陸部での永久凍土の融解など、温暖化の影響で被害を受けている村の数は、米国政府によると、アラスカ州全体で184箇所にのぼるという。

○環境問題=平和問題

IPCCのリポートでは、今世紀末までに海面が最大88cm上昇する可能性があると予測されている。その場合、海面上昇で水没する島や地域は世界全体に広がる。およそ130万平方キロメートル、日本のおよそ3.5倍の面積が水没してしまうのである。

そうして、米国で1,000万人、インドネシアで2,700万人、ベトナムでは3,300万人もの人々が住みかを追われることになる。こうして世界全体では2億6000万人もの人々が環境難民となってしまうおそれがあるのである。こうなってしまうと、環境難民の移動による摩擦が世界各地で起こることは容易に想像できるであろう。

すなわち、地球温暖化=気候変動による生活環境の悪化が、環境難民の大量発生を促し、その移動先で武力衝突にまで発展する可能性が大いにあるのである。

したがって、環境問題について考えることは、たんに環境問題にとどまることではない。それはまさに、世界平和を考えることでもあるのである。

○結 論
ここで改めて思い起こすべきは、地球シミュレータの計算の前提が何であったかである。

現在のCO2の濃度は370ppmであるが、100年後には、何も対策を採らずに化石燃料を使用し続ければ、960ppmにまで上がってしまう。京都議定書の目標を先進国のすべてが達成しても、860ppmとなる。さらに効率的にエネルギーを使用しながら経済成長を続ければ、CO2の濃度は700ppmとなる。

地球シミュレータの計算の前提は、このかなり控えめな700ppmというCO2濃度なのである…!

したがって、われわれは今まさに、文字通り、地球温暖化=気候変動問題の解決のために、全力を投入しなければならない時期の真っ只中にあると言わなければならない。京都議定書はたしかに大きな一歩であったが、それはほんの第一歩にすぎない。それだけでは、まだまだ全く不充分なのである。

ここまで本欄の文章に付き合ってくださった読者の皆さんは、もしかすると絶望的な気持ちに襲われているかもしれない。「もう手遅れなのではないか…」という思いである。

たしかに大変深刻な現状であることは事実である。それを知らないまま暢気に暮らしていくことは、現代のわれわれにはもう許されない。

しかしながら、このNHKスペシャルで伝えられたのは、地球シミュレータの“警告”であって、それが予測した未来像は、決して“宿命”ではない。つまり「もしこのまま何も対策を取らずに進んでいけば、100年後の地球はこうなりますよ」という警告なのである。

その100年後の地球の姿がどうなるかは、まさに今のわれわれにかかっている。だからこそ、手遅れにならないうちに、今まさに手を打つべきだという警告がされている。すでにもう手遅れになっているのであれば、警告する意味すらないだろう。まだかろうじて間に合うからこそ、警告がなされているのである。

これはまさに、私自身への自戒の念を大いにこめた文章でもある。というのも、従来の産業公害とは異なって、CO2の排出に起因する地球温暖化は、産業のみならず、家庭での生活者自身も、特に先進国に住む人々は、れっきとした加害者だからである。われわれ一人一人がライフスタイルを本気で改めなければ、この解決はおぼつかない。

また、これほど深刻な大問題であるならば、そうした一人一人の自主的な取組だけでも足りない。それのみならず、環境税といった政策も必要不可欠となる。そうでもしなければ、化石燃料からの脱却はとてもおぼつかないからである。

山中 優

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2006年6月 5日 (月)

NHKスペシャル『気候大異変』(3)

○熱帯地方の伝染病が温帯地方に拡大:デング熱

地球温暖化がもたらす気候の変化により、もうひとつ心配されるのは、熱帯地方特有の感染症が、温帯地方にも拡大することである。NHKスペシャルで取り上げられていたのは、デング熱である。

デング熱というのは、40度近い高熱が出て、体中に発疹が生じる病気だ。元デング熱患者の話によると、「死んだ方がマシというのはまさにあのことです。毎晩まるで骨を虫にかまれるような激しい痛み。だるくて身体に力が入らず、辛くてたまらなかった」という。「骨を虫でかまれるような痛み」とは一体どんな痛みなのだろう…? 私には想像がつかない(想像したくもないし、ましてや経験したくもない)が、まさに想像を絶する痛みなのだろう。

そのデング熱の感染地域が、実はもう日本のスグそばにまで広がってきているというのである。それは、台湾南部である。

このデング熱は、二度目の感染でより重いデング出血熱へと進行してしまうことが多いらしい。このデング出血熱とは、皮膚組織や消化器官などからの出血が止まらなくなる病気である。その患者の顔が(目にボカシがかけられて)画像に映し出されていたが、それはそれは、恐ろしいものだった。口から血が流れ出ている映像だったからである。

なぜ二度目の感染でこうなりやすいのか、その原因は不明で、ワクチンもまだないという。毎年熱帯地方を中心に世界でおよそ24,000人が亡くなっているのだそうだ。番組では、この二度目の感染で妻を亡くしたという男性が取材されていた。「妻は以前にもかかったことがあり、そのときには症状が軽かったんです。今回の感染でまさか命を落とすことになるとは思いもよらなかった」という。

2002年の夏、台湾南部でこのデング熱が爆発的に流行、21人が死亡した。90年代を通じて感染者数は毎年数百人程度だったのが、2002年には五千人を越えたというのである。

この大流行と関係していたのではないかと思われるのが、台湾・高雄大学の白秀華助教授によると、“冬の気温”だという。

このデング熱を媒介するのはネッタイシマカという蚊であるが、台湾では冬になると月の平均気温が20度を下回り、ネッタイシマカは消滅してきた。ところが、97年以降は冬でも20度を下回らないことが多くなり、拡大の条件が整ってきていたというのである。そして2001-2002年にかけての冬、ネッタイシマカが生息し続け、大流行を引き起こした可能性があると、白助教授はNHKの取材に対して答えていた。

台湾では必死の防除作業(薬の大量散布)により、今のところ2002年のような大流行は免れているが、このまま温暖化が続けば、台湾南部のみならずその全土に広がってしまうのではないかと台湾当局は警戒しているという。

地球シミュレータの予測によると、デング熱の危険地域に暮らす人口は、現在の25億人から2080年代には52億人となるかもしれない。100年後には、沖縄や九州など、日本にも感染地域が広がってくるかもしれないのである。気温の上昇により、デング熱だけではなく、マラリアやコレラなどの病気の感染地域が拡大する恐れが心配されている。

○熱波による死亡の危険
このような熱帯地方特有の感染症にかからずとも、温暖化により温帯地方で真夏日が増えてくると、温帯地方の人々に新たな危険がやってくる。それは、熱波による死亡の危険である。

2003年仏、普段なら北海道を思わせるような、日中の最高気温が24度の涼しい快適な夏のパリで、この年の夏には35度を越える日が10日以上も続いた。その熱波の影響で、フランスで15,000人が死亡した。欧州全体での死者は30,000人にのぼったという。

熱帯地方の人々にとっては、毎日が同じような気温であるから適応しやすいのだが、温帯地方ではあるときは20度、あるときは35度というように、気温が激しく変化するのである。そうなると人間の身体は適応できない。脱水症状を起こし、体温が急上昇、脳や心臓の細胞が破壊され、死に至る危険性が高まることになる。地球シミュレータのデータにより計算した結果、熱波による死亡者の数が増えると予想されているという。アメリカでも国を挙げて熱波対策が進められている様子が放映されていた。

このように、温暖化により、熱帯地方特有の感染症の温帯地方への拡大、そして熱波による温帯地方の人々の死亡の危険性が高まることが懸念されるのである。

≪続く≫

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2006年6月 4日 (日)

NHKスペシャル『気候大異変』(2)

NHKスペシャル『気候大異変』の内容を伝える本欄の連載(1)では、温暖化による海水温の上昇により熱帯低気圧がその勢力を巨大化させる恐れについて、またその発生地域が南米沖での温帯にまで拡大する恐れ、すなわち単にこれまでのように赤道付近で発生し温帯へと北上するのみならず、発生地域自体が温帯になる可能性も否定できないことについて、述べてきた。

そのときに書き漏らしていたが、熱帯低気圧によるものだけではなく、ただの雨でも、その降り方は極端になる恐れがあるという。日本や中国で、南部では雨量の増加により洪水が頻発する一方、逆に北部では雨量の減少による乾燥化・砂漠化が懸念されているのである。実際、中国の内モンゴル自治区のアラゼンで、現に今、かつて草原だった地域が砂漠化しつつある様子が映し出されていた。それは、これまで言われてきたように、たんに過剰な放牧によるだけでなく、温暖化が砂漠化に拍車をかけている可能性もあるという。

もう一つ注意しなければならないのは、総雨量のみならず、その雨の降り方である。バケツをひっくり返したような豪雨により、川の氾濫やがけ崩れが起こるが、100年後の豪雨の頻度は、総雨量は減少する北部でも増加するというのである…!

このような気候の極端化は、世界各地で起こると予想されている。

さて、今日もその『気候大異変』の内容を本欄でお伝えしていくことにしよう。番組自体は1回につき50分の放送が2回にわたって行なわれたが、本欄での連載を同じ2回に止めようとすると、一本あたりの記事が非常に長くなりそうなので、本欄ではさらに細かく分けて連載していくことにしたい。今日はその第2回目である。

○地球シミュレータの想定:CO2=700ppm、気温4.2度上昇
まず地球シミュレータでの計算の前提となっているCO2の濃度を確認しておこう。現在の濃度は370ppmであるが、何も対策を採らずに化石燃料を使用し続ければ、2100年には960ppmにまで上昇してしまう。仮に京都議定書の目標を先進国がすべて達成しても、CO2濃度は860ppmとなる。

さらに世界がエネルギーを効率的に使いながら経済成長を維持した場合、CO2濃度は700ppmとなり、その場合、気温は最悪の場合4.2度上昇する。これが地球シミュレータの計算の前提である。この場合、どのような気候変動が起こることになるのだろうか?

○温暖化による乾燥化・砂漠化→食糧不足の恐れ

・アマゾンの広大な森が2100年には砂漠になる恐れ

先述したように、世界がエネルギーを効率的に使いながら経済成長を維持した場合、気温は2100年には最大4.2度上昇すると地球シミュレータは予測しているが、その場合、温暖化により生態系にさまざまな影響を及ぼすことが心配されているのは、乾燥化である。

中でも世界の研究者が注目しているのはアマゾンの広大な熱帯雨林である。昨年8~10月、アマゾン川流域では記録的な大渇水に襲われた。幅10kmもの川が干上がってしまい、酸素不足のため魚の死体が折り重なっている映像はかなりショッキングであった。川の水位は5~10mも低くなり、漁師に打撃を与えた。地元住民は水上に家を浮かべて生活しているが、その家も川底についてしまっていた。

アマゾンの熱帯雨林の面積は日本の10倍以上もある。本来ならば大西洋から湿った空気がアマゾン上空に流れ込み、アンデス山脈にぶつかって雲ができ、雨が降る。この雨が再び蒸発して雲を作り雨を降らせるという水の循環が、豊かな熱帯雨林を育んできたのである。

ところが海水温の異常な上昇が、大西洋上で上昇気流を発生させてしまった。そうなると、その上昇気流が海上で雲を作り、陸ではなく海に雨を降らせる。そうなると、陸上には湿った空気ではなく、海上で雨を降らせて乾燥した空気が下降気流として流れ込む。水の循環は海上でのみ起こり、陸には乾燥した下降気流が流れ込み、雨が降りにくくなってしまったのである。

イギリス生態系水文学センターのピーター・コックス博士が、2100年までのアマゾン熱帯雨林のシミュレーションを行なったところ、今世紀半ばから、河口付近から上流に向かって森が次々と失われていき、砂漠へと変わってしまうという。2100年には森の3分の2が失われ、アラビア半島を上回る砂漠が広がってしまうのである。これは、伐採によらなくとも、温暖化による乾燥化の影響だけで、森が砂漠化してしまう恐れがあることを意味している。

アマゾンが砂漠化すれば、熱帯雨林によって吸収され貯蔵されていた膨大な量のCO2--それは現在世界中で排出されているCO2の8年分に相当するという--が大気中に放出されてしまう。そうなると、それが再び温暖化を促進する、それがさらに森を砂漠化し、CO2が放出…という悪循環へと陥ってしまうのである。

・スペインで昨年夏に深刻な水不足

このような乾燥化は、食糧不足をも引き起こす。

昨年夏、スペインで、都市の生活用水を農村へと回すよう求めるデモが行なわれていた。深刻な水不足が農業に大きな打撃を与えていたからである。穀物の収穫量が40%以上減ってしまったのである。その結果、スペイン政府はEUに穀物800万トンの支援を求めたという。

このスペインの乾燥化は、去年に突然起こったわけではなかった。たとえば、総貯水量8億トン、日本の霞ヶ浦とほぼ同じ大きさのエントレペーニャス貯水湖では、その貯水量が年々減少してきた。過去40年の気温が徐々に上がり、土壌の乾燥化が進んできたのである。そうしたなかで去年の降雨量は特に少なかったため、貯水量がとうとう20%を下回ってしまったという。

こうした水不足が世界の食糧生産に深刻な影響を及ぼすことが心配されている。日本でも、米の収穫量が減少してしまうだろう。というのも、稲は少々の気温の上昇なら収量は増えるが、上がりすぎると逆に減ってしまうからである。日本全体で2060年代には10%減少してしまうかもしれないという。

こうした減産が世界各地で起こり、穀物価格が20%以上も上昇すると、輸入に頼る国は大打撃を受けるだろう。とくにアフリカなどの貧しい国への影響は大きく、温暖化により飢餓人口がさらに5400万人増加するかもしれないのである。

≪続く≫

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2006年6月 3日 (土)

私の研究課題としての地球温暖化問題

ここのところ本欄では、『教育日記』として、主に学生向けに地球温暖化問題を取り上げているが、ここで少し、『研究日記』としても述懐させていただくとするならば、実をいうと、地球温暖化問題は、この地球上に住む1人の人間としての関心にとどまらず、私自身の研究課題の一つとしても、「いつか本格的に着手しなければ…」という思いをひそかに抱き続けているテーマでもある。

そのように思うようになったのは、2年前の夏、米国ソルトレークシティで開催されたモンペルラン協会の総会(General Meeting)に参加したときに、環境問題が取り上げられていたことによる。大会の統一テーマは「グローバルな文脈における古典的自由主義」(Classical Liberalism in a Global Context)というものであったが、そのセッションの一つとして、環境問題が取り上げられていたのである。

モンペルラン協会(The Mont Pelerin Society)というのは、1947年に、私の研究対象であるハイエクを中心として設立された自由主義者の国際的な団体であり、その名はその年の4月に最初の会合が持たれたスイスの地モンペルランにちなんだものである。

そのモンペルラン協会が2年に1度、開催地を変えつつ、総会を開いている。私が初めて参加したのは2000年、南米チリの首都サンチアゴで開催された総会であった。2002年にはロンドンで開かれていたようだが、私が再び参加したのは、そのさらに2年後の、2004年ソルトレークシティ大会だったというわけである。

“総会”(General Meeting)といっても、日本の学会の学術大会と同時に開催される総会のイメージとは趣がまったく異なっている。すなわち、協会運営についての総会(決算報告等)ではなく、1週間あまりの期間にわたってさまざまなセッションが設けられ、学術的な報告や議論が展開される場なのである。その意味では、“学術大会”あるいは“世界大会”といった方が、日本語としてはイメージがピッタリするだろう。世界各地から自由主義的な立場の学者たちが一堂に集まって盛大に行なわれる大会だからである。

私が大変驚いたのは、その2004年ソルトレークシティ大会で環境問題が取り上げられていたことそれ自体ではなく、むしろそこでの論調のあり方であった。具体的には、2004年8月16日の4:30-6:00PMの時間帯に、「自由主義と環境運動」および「気候変動」と題された2つの特別セッションが別々の部屋で同時に開かれており、私はその2つの部屋を前半と後半とで移動して両方とも聞こうとしたのだが、そこでの論調は、いずれのセッションにおいても、京都議定書に対して非常に批判的なものだったのである。当時の私はまだ勉強不足で、そこでの議論をすべて聞き取って理解することはできなかったが、そこでの雰囲気は“反京都キャンペーン”とでも言えるようなものであった。

その大会に参加されていた、わが国におけるハイエク研究の第一人者の嶋津格教授(千葉大学)によると、「〔反京都キャンペーンは〕ずっと前からやってるよ」とのことであった。考えてみれば、京都議定書の採択は1997年のことだから、その前後から京都議定書の是非をめぐる議論が展開されていたのは当たり前のことであるが、当時の私はまだ不勉強だったので、嶋津先生にはすでに旧聞に属することが、恥ずかしながら、私には大変な驚きだったのである。

その2004ソルトレークシティ大会では、例によって、さまざまな出版社が書籍販売のための展示コーナーを設けていたが、その中の一つにInternational Policy Networkという団体の展示コーナーがあった。見てみると、地球温暖化を扱った書籍がワンサカ置いてある。興味を持ったのでその中の2冊を買おうと思い、簡単な会話を交わしたあと「いくらですか?」と聞いてみたところ、なんと「タダです。どうぞご自由に持って行って下さい」というのである…! これも大変驚いたが、それでは遠慮なく…と思い、結局5冊の本をありがたくいただいたが、それらにザッと目を通してみると、それらはまさに反京都の論陣を張っている書籍だったのである。

そのInternational Policy Networkの発行しているリーフレットや年次報告パンフレットも置いてあったので、これも頂戴したが、それによると、この団体はロンドンに本拠を置く非営利団体で、慈善的な寄付によって支えられている。「無料で配られていたのはそのためか…」と思い、非売品かとも考えたが、アマゾン書店で検索してみると、販売品としてちゃんと値段が付いて売られていたから、あのときに無料で配布していたのは、IPNがモンペルラン協会に参加する学者たちを強力な味方だと考えていたからだったのかもしれない。いずれにせよ、富裕なスポンサーに支えられていることは間違いないと思う。IPNは、貧困や環境問題の解決のためには、市場メカニズムが最も優れていると主張する団体だからである。

その書籍のひとつ、"Adapt or Die: The science, politics and economics of climate change"(Profile Books, 2003)を試しにひもといてみると、その緒言には、ロンドン大学生物地理学名誉教授のフィリップ・ストット(Philip Stott)氏の文章が載せられているが(pp. 1-3)、そこでの論調も“反京都”であった。そこでの主張は、私の読み取ったところによると、次の4つのポイントから成っている:

①地球温暖化、気候変動は、そこに人間の活動も影響を及ぼしているとはいえ、人間のコントロールの範囲を超えている。気候変動を防ぐために気候をコントロールしようなどというのは傲慢である。われわれが目指すべきは、気候のコントロールではなくて、むしろ気候変動への適応である。

②気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change: IPCC)やEUのアプローチは、われわれが気候変動に適応的でありつづけるための能力をむしろ衰えさせるものである。

③京都議定書は、16億人もの人々がエネルギーに飢えている発展途上国に対して、新たな植民地主義的なインパクトを与えるものである。

④気候変動にアプローチする最も効果的な方法は、柔軟で適応的な強い経済を維持することである。

私はまだこの議論を綿密に消化していないので、研究課題として本格的に論ずることがまだ私にはできないのであるが、もしも以上の反京都の議論が、もしもであるが、石油をはじめとした化石燃料に依存した経済成長を今後もつづけていくべしという主張を背後にしたものだとしたら、やはりそれは違うと思う。というのも、おそらく昨今の地球温暖化やそれに伴う気候変動の兆しは産業化による温室効果ガスの急増によるものであるから、細かなところまではコントロールできないとしても、大まかな傾向としては人間の活動によって気候を大まかには(よい方向にも悪い方向にも)変えることができるだろうし、また、化石燃料に頼らない豊かな生活もありうると思うからだ。

また、この“反京都”の議論の背後にあると思われるもう一つの前提は、政府権力に対する過敏なまでの警戒心、猜疑心である。これは、ソ連型の社会主義・共産主義に対して自由主義擁護の論陣を張ってきた自由主義者の多く(そのすべてではないが)に往々にして見られる論調であるが、私としては、政府権力に対する警戒心は必要だとしても、それをあまりに警戒するあまりに市場メカニズム一本槍でもいけないと思う。それは私の見るところハイエクの議論の真意でもなかったように思われて仕方ないのである。

とはいえ、まだ私には、研究者としてこの問題を本格的に論ずるだけの用意が整ってはいないが、地道に勉強を積み重ねていくことで、私の研究課題の一つとしていきたいと思っている次第である。

山中 優

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2006年6月 2日 (金)

環境税を考える(4)

前回に引き続いてNHKスペシャル『気候大異変』の内容を紹介するつもりだったが、DVDをじっくり見直す時間を作れないでいた。そうこうしているうちに、環境税についての連載記事の続きを先に書くことができたので、今日はその記事を載せておくことにしたい。

○市場メカニズムの活用としての環境税:政府規制との違い

・環境税とは:簡単なおさらい
まず環境税とは何であったかについて、この連載記事(2)で予備的に確認しておいたことを、もう一度ここで振り返っておこう。

環境税とは、広い意味では「地球温暖化防止に限らず、およそ環境に負荷を与える財・サービス全般を課税の対象」とする税制一般のことも指すが、その最も狭い意味では、「CO2排出量の抑制を目標に、化石燃料が排出する炭素含有量に賦課する炭素税」のことを指している〔『環境税とは何か』iiページ〕。本欄では環境問題の中でも地球温暖化問題にその対象を限定しているので、ここで“環境税”という場合は、その最も狭い意味たる“炭素税”を指すものとする。この環境税=炭素税がかけられる身近な対象の例として、ガソリンや灯油(要するに石油からくる燃料)が挙げられる。

・環境税と政府規制の共通点:政府による強制的な政策
さて、学生諸君は、たとえばガソリンや灯油に税金がかけられ、その値段が上がることになる、ということを聞いて、どう思うだろうか? もしかすると、消費税率が現在の5%→10%あるいは15%へと上げられるのと、似たような思いを抱くかもしれない。つまり「いやだなぁ…」という思いである。

この税金を強制的にかける主体は、当然、政府である。したがって、環境税も、もしかすると諸君の受ける漠然としたイメージとしては、政府規制と同様に、結局のところ強制的なものであるという点において、すなわち政府による強制的な政策が国民に課せられることになるという点において、何ら変わりはないではないかと思われるかもしれない。

・環境税と政府規制の違い①:間接的な強制と直接的な強制
しかしながら、環境税と政府規制との間には、たしかにどちらも政府権力による強制的な手段であるという点においては同じであるが、同じ強制的な手段であるとはいえ、その強制の仕方において、見逃してはならない非常に重要な相違がある。

政府規制、すなわち政府による直接規制は、汚染物質の排出を直接的に制限あるいは禁止しようとするものである。

ところが、環境税=炭素税の方は、石油などの化石燃料の排出を直接制限あるいは禁止するものではない。国民は炭素税のかけられる化石燃料の使用について、直接的に制限・禁止されるわけではない。

ただ、他のエネルギー源と比べて、化石燃料の値段が相対的に上がることになるから、どのエネルギー源を使用するかについて、化石燃料と非化石燃料のどちらを選択すべきかについて、再考を迫られるだけなのである。

たしかに「再考を迫られる」というのも、一種の圧力として感じられるだろうから、強制に変わりないと思われるかもしれない。

しかしながら、直接規制とは異なり、炭素税は国民に化石燃料の使用を直接的に制限あるいは禁止するものではない。言い換えれば、国民の化石燃料を使用する自由を、直接的に制限するものではないのである。依然として、化石燃料を使う自由は許されている。

ただ、その自由な使用が許される背景的な大枠としての状況に、変化が加えられるだけである。すなわち、化石燃料と非化石燃料の相対的な価格比に変化が加えられているだけであって、その新たな価格比のもとで化石燃料と非化石燃料のどちらを購入して利用するかを選択する自由は、依然として許されているのである。

・環境税と政府規制の違い②:期待される効果の違い
それでは、この両者には、排出量を削減させるという効果をどの程度発揮することが期待されるのだろうか?

たしかに地域が限定された産業公害をもたらす汚染物質の場合、政府による直接規制は一定の効果を発揮するだろう。

しかし、その場合でも、直接規制は汚染者に対して限られた動機しか与えることができない。すなわち、汚染者に対して、規制された汚染量ギリギリまでにだけ削減しようという動機しか、往々にして与えることができないのである。
〔この点については『環境税とは何か』41ページを参照〕

他方、環境税=炭素税の場合、化石燃料を使用する費用を増大させることになるだけであって、その使用を直接的に制限・禁止するわけではない。

ところが、利益を上げるために費用を削減するというのは、市場に参加する各経済主体にとって最も強い動機と言えるから、炭素税がかけられた場合、化石燃料から非化石燃料へのシフトが、直接規制の場合と比べて、規制された排出量ギリギリのラインを越えて、さらに排出量が削減されていくことが大いに考えられるのである。

この点について、『環境税とは何か』には次のように書かれている:

市場メカニズムの活用を図る経済的手段は、費用最小化を目標とする企業に、持続的に汚染量削減に対するインセンティヴを招来する〔41ページ〕。

実際のところ、一般的にいって、人間の心理として、直接に強制されると、その強制によって要求される最低限度までしかしたくない、という気になるだろう。

ところが、一定のルールは大枠として強制的に課せられるとはいえ、その大枠の中であれば自由に行動してよいと言われれば、要求された以上に自発的に頑張ろうとすることもできるのである。

そして環境税=炭素税の場合、直接規制とは異なって、化石燃料の使用を直接的に制限・禁止するものではなく、非化石燃料との相対的な価格比を上昇させるだけで、化石燃料の使用自体は制限・禁止していない。むしろ、行動が許される大枠としてのみ、そういう価格比の状況が大まかに課せられるだけなのである。

その状況の下で利潤を上げるためにどうすればよいかの選択は自由に任されているから、それはまさに、“市場メカニズムの活用”に他ならないのである。というのも、市場メカニズムとは、各経済主体に大枠としてのルールを課すだけで、その大枠の中でありさえすれば、あとは自由に行動することを許すものだからである。

このように環境税=炭素税には、経済主体の自由に任せる余地が大きいがゆえに、かえって、政府による直接規制よりも効果的に化石燃料から非化石燃料へのシフトを促す効果が期待されるのである。

・経済団体の反対の論拠:価格弾力性の問題
しかしながら、経済団体が環境税に対して反対する場合、常にその論拠として挙げられるのは、専門的な用語を使うと、“価格弾力性”の問題である。もしも化石燃料の価格弾力性が低い場合、上記の効果は、環境税について、それほど期待できないかもしれないのである。

とはいうものの、いきなり“価格弾力性”うんぬん…と言われても、学生諸君にはよく分からないかもしれないので(経済学を勉強したことがなければ、それは無理もないことである)、この点については、次回に説明させていただくことにしたい。

≪続く≫

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