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2006年8月31日 (木)

NHKラジオの英会話をUSENで聴いています(2)

本欄8月25日の記事で、NHKラジオ英会話をUSENで聴き始めたことを書いたときに、「英会話上級(講師:遠山顕氏)はテキストなしでも90%ぐらい分かる」と書いたが、今日、それを少し訂正しなければならないことが分かった。というのも、今週に入ってからの理解度は、80%ぐらいになったからである。

もちろん、「90%」というのもウソではなかった。その時には確かにそうだったのである。だが今週に入って、理解度は80%ぐらいになった。その原因は、素材が変わっていたからである。

90%のときは、ニュース仕立ての内容だった。ところが、今週は日常会話でよくあるシーンを想定した内容だった。その途端に、理解できる度合いが80%に落ちたのである。

同じ日常会話でも、難易度の少し落ちる「英会話入門」だと95~100%分かるのだが、「英会話上級」の日常会話となると、理解度が80%に落ちるのであった。

ここから分かることは、私の英語力に少々偏りがあることだ。難しく思える時事英語だと却ってよく分かることが多いのだが--といっても、そのニュースの分野にもよるが--それよりも内容的には易しいはずの日常会話だと、むしろ分からないことが増えてしまう。つまり日常的な英語の方が、却って私には訓練不足なのである。

実は、このことを自覚したのは今回が初めてではない。かなり以前に、本欄で同じことを書いている。それは、昨年11月26日の記事においてであった。そのときに私は「日常語からやり直す決意」を表明していたはずだった。

だが、それ以来も依然として、実際に私が触れる英語には圧倒的に時事英語や学術論文の英語が多かったため、日常語になると却って分からないことが増えるという状況が今でも続いているのであった。

とはいえ、一足飛びにこの欠点を解消できるわけではないだろう。コツコツと積み重ねていくしかあるまい。もしかすると、私の英語力におけるこのような状況は、これからもまだ続くかもしれない。しかし、自覚していれば、徐々にではあれ、日常語の分野でも力を伸ばしていこうと思えることだろう。これからも焦らず、着実に継続していこうと思う。「継続は力なり」なのだから…。

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2006年8月30日 (水)

出版予定の時期が確定

本欄8月8日の記事で脱稿したことを書いておいたが、このほど、出版社の方との話がまとまり、来年3月の刊行予定で出版作業を具体的に進めていくことになった。うれしい限りである。

どの出版社からの刊行になるかは、出版作業の最終段階になってから明らかにさせていただくことにするが、その編集者の方は、私がまだ駆け出しの頃からハイエク研究者としての将来性を見込んで下さり、「原稿ができ次第、すぐご連絡を」と声をかけ続けて下さっていたのである。

あれからもうどれぐらいになるだろうか。その編集者の方と初めてお会いしてからどれぐらいの年月がたったのか、よく思い出せないのだが、たしか、まだ私が大学院生の頃だったような気がする。だとすると、もうあれから、少なくとも10年近くの年月は経っていることになる。

その途上においては、本当に私がハイエク研究者の一人として“モノになる”かどうかについて、よく分からないと思われた時期もきっとあったに相違ないと思う。それでもずっと待ち続けていて下さったことに、深甚の感謝を捧げずにはいられない。

こうして振り返ってみると、つくづく、人との出会い、そのご縁というのは本当に大切だと思う。これからもその出会い・ご縁を大切にして、報恩感謝の気持ちで研究生活を続けていきたい。

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2006年8月25日 (金)

NHKラジオの英会話をUSENで聴いています

最近、久しぶりにNHKラジオの英会話をまた聴くようになった。しかし、それを聴いているのはラジオでではない。USENで聴いているのである。

USENというのは、おそらくは昔の「有線放送」が現代的に衣替えしたものだと思うのだが、実は“有線”ではない。衛星放送を専用のチューナーで受信して聴くようになっている。そのUSENの番組の中に、NHKラジオの英語講座もすべて含まれているのである。一日中、繰り返して放送されているので、いつでも好きなときに聴くことができる。

そもそも私がUSEN放送を聴くようになったのは、本当にひょんなことからだった。あれは去年の4月に、TSUTAYAに行ったときに(何の用事で行ったのかは今ではもうスッカリ忘れてしまったのだが)、その出入り口付近でクジ引きを提供している若い青年に声をかけられたのである。

そこで立ち止まらずに帰宅するという選択肢もあったのだが、なぜかそのときは不思議に気を惹かれたので、そのクジを引いてみることにした。引いてみると、一本目はハズレだったが、もう一回引けるというので、また引いてみると、二本目で「当たり」がでて、それがUSENの専用受信チューナーだったのである。今思うと、あれはUSENのキャンペーン活動の一環だったのだろうと思うが、その当たりによって、専用の受信チューナーが無料でプレゼントされることになった。

実を言うと、私がTSUTAYAに行くことはめったにない。DVDやCDを借りるという習慣が、私にはないからだ。だからあのときに限ってなぜ行ったのか、今思い出そうとしてもどうしても思い出せないのだが、何らかの理由で行ったときに限って、そうやってクジに当たったのだから、面白いものである。

とはいえ、実際にUSEN放送を聴くためには、受信契約を結ばなければならない。その受信料がひと月約6,000円弱である。USENとしては、チューナーを無料でプレゼントしてでも、受信契約者を増やしたいという営業戦略だったのだろう。だとすると、あのクジの当たる確率がどこまで低いものだったのかも、もしかすると定かではないのかもしれない。

ともあれ、私としてはクジに当たったという幸運に舞い上がることなく、冷静に説明を聞いて判断したのだが、それでも受信契約を結ぶことを決めた理由は、その番組表のなかに、英語放送も多く含まれていたからである。アメリカの公共ラジオ局NPRや、イギリスのBBCラジオ放送が聴ける。NHKラジオの英語講座もすべて含まれていたことは上述したとおりである。もちろん、音楽関係の番組が圧倒的なのだが、その音楽もポップスなどだけではなく、クラシック関係もなかなか充実していたし、子供向けの音楽番組もあった。その番組表に惹かれたので、妻ともよく相談した上で、受信を決めたのである。

これまでは私のUSEN利用としては、もっぱら英語ニュースを聴くことだったが、そのすべてを理解できるわけではない。だから、それだけを聴いていると、時には、そのすべてを理解できないことがちょっとしたストレスになることもあるのである。

そこで、「聴いて分かる」という面白さを味わうために、最近では、NHKラジオ講座の放送も聴くようになったのである。主に聴いているのは、「英会話入門」(講師:高本裕迅氏)と「英会話上級」(講師:遠山顕氏)である。テキストなしで聴いても、前者は95%~100%、後者も90%ぐらいは分かるので、聴いていてフラストレーションがたまることなく楽しむことができるのは、やっぱりうれしい。

もう一つうれしいのは、以前に(おそらく2,3年前に)NHK講座を聴いていたときよりも、リスニング力がかなり上がっていたことだ。「英会話上級」に出てくるナチュラルスピードの英語ニュース仕立てのものも、初めて、しかもテキストなしで聞いてみても、その大半を理解できる自分を発見したときはとてもうれしかった。それは、少しずつでも、ECCにも通いながら、コツコツ練習を積み重ねてきた成果だと思う。

それでもやはり、初めて聞く単語や聞き慣れない表現も少しは出てくるので、テキストも買うことにした。現在発売中なのはすでに9月号なので、8月放送分の残りはテキストなしで聞き続けることになるが、9月からはテキストも持って聴くことにしようと思う。番組の内容以外にもおもしろい情報が載せられているのもなかなか興味深い。

そんなわけで、最近ではUSEN放送でNHKラジオの英会話を再び聴き始めた次第である。

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2006年8月22日 (火)

10階まで階段を使ってみました

今日は名古屋に出張だった。ある説明会に出席するためだったのだが、その会場がビルの10階だった。実はその10階までの行き来を、エレベータではなくて階段を使ってみたのである。

最初にその会場に着いたときにはエレベータを利用したのだが、お昼休みになると、昼食に出かけるために1階に降りようとする人々でエレベータが大変混雑していた。なので、「それならいっそのこと、階段で降りてみるか…」と思ったのである。そして、その勢いで、昼食後、会場の10階に戻るときにも、階段を上ってみた。説明会を終えて、1階に降りるときも、また階段を使ったのである。

このように「階段を使ってみるか…」と自然に思えたのは、エレベータやエスカレータではなく、普段から階段を使うようにしているおかげだったと思う。通勤時の駅でもそうだが、大学の研究室のある4階への行き来も、階段を使うようにしている。

今日の10階への行き来では、その4階を過ぎたあたりから、上るときには足に負荷を感じるようになり、ちょっと太腿に張りを覚えはしたが、そんなに抵抗なく階段を使えたことが嬉しかったのである。

欲を言えば、もう少し足腰に力強さを感じられるよう、さらに鍛えられればという気もするのだが、ちょっとしたことであれ、普段の生活の中で階段を使うようにしているだけでも、エレベータやエスカレータだけに頼っているよりもずっと、足腰のためのよい運動になっていることと思う。

これからも、ちょっとしたことではあるが、階段を使うようにしたいと思う。そして、その自然な延長で、さらに足腰を鍛えるのによい運動になることも、少しずつ始めていこうかなぁ…と思ったのであった。というのも、そうやって体力をつけていくことが、教育にも研究にも必ずプラスになるはずだからである。

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2006年8月18日 (金)

愛媛・西条の“打ちぬき水”

お盆休みを妻の生まれ故郷の愛媛県西条市で過ごし、夜行フェリーで今朝自宅に帰ってきた。妻の実父や実兄、それに妻の友人とのゆったりとした時間を過ごせて、妻も私もリフレッシュできた。幸い、来月で3歳になる娘も楽しんでくれたようである。

さて、その愛媛の西条と言えば、水に大変恵まれたところである。市内のそこかしこに“打ちぬき水”が湧いており、いつでも自由に無料で飲んだり、汲んで持ち帰ったりできるのである。

Img_3446 その湧いている場所は、たとえばこの写真のような感じで、市内の道路脇に、おおげさな感じの全くない形で設置されている。この写真の真ん中下あたりに写っている青いものはコップである。鎖でつながれているが、このコップを使って、いつでも自由にこの水を飲むことができるのである。

湧いている水は透明で美しい。この写真のように、こんこんと湧いてくるのである。Img_3448 妻によると、多いのはその場で飲むというよりは、自宅からペットボトルなどの容器を持参して、汲んで持ち帰るというパターンである。中には、軽トラックの後部にタンクを積んできて、大量に汲んで持ち帰る人もいるのだという(こういう人はきっと居酒屋か料理店を営む人ではないかというのが、妻の推測である)。

実際に飲んでみると、これが大変おいしい。夏なのに程よく冷たく、飲んだ後、非常にスッキリとした爽快感が味わえる。これはとても水道水では経験できないものだ。

なぜ西条ではこんなふうにおいしい水が湧くのかというと、それは石鎚山(いしづちさん)という山のおかげである。うっかりして、その石鎚山の写真を撮ってくるのを忘れてしまったが、西条市の観光情報によると、「標高1982メートルで四国の屋根であり、西日本最高峰」である。この山から流れてくる地下水が、西条の“打ちぬき水”なのである。

妻の話によると、この山はそれ自体が信仰の対象となっている“霊峰”である。したがって、そこの木々は開発の手から免れている。つまり、石鎚山の豊かな森が、そしてこの地方に適度に降る雨が、西条のおいしい水を豊かにもたらしてくれているのである。このように、愛媛・西条のおいしい水が、石鎚山という山と雨の恵みによってもたらされていることを思うと、自然のありがたさに感謝せずにはいられない。

ところで、世界の水資源の状況に目を転じてみると、決して楽観視できるものではない。今日ここで世界の水事情について詳しく述べることはしないが、レスター・ブラウン著『プランB:エコ・エコノミーをめざして』(ワールドウォッチジャパン、2003年)によると、20世紀後半に強力なポンプによる過剰揚水が世界各地で見られるようになったため、地下水位が低下している(13頁)。したがって、このままのペースで揚水しつづけるならば、世界は深刻な水不足に悩まされるようになるかもしれないのである。もちろんそこには、森林伐採や地球温暖化による降水量の激変なども大いに関係してくる。

先日は北方領土の海域で、カニという食糧資源をめぐる日本とロシアの対立が表面化したばかりだが、これからの時代は、エネルギー資源、食糧資源、それに水資源といった“資源”の問題が、大きくクローズアップされることになるだろう。そのときに赤裸々な資源争奪戦に巻き込まれないよう、他から奪う必要のない資源確保体制を、日本としては早急に構築しておく必要があると思われるのである。

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2006年8月12日 (土)

お盆休みを迎えて

ニュースによると今日がお盆休みの帰省ラッシュのピークとのことだが、私も明日、妻の実家の愛媛県西条市に向けて、妻と娘を連れて帰る予定である。

私自身は実母が私たちと一緒に住んでおり、実の親と離れて暮らしているわけではないから、私にとっての夏の帰省は妻のためのものとなる(山中家の墓参と兄弟姉妹の集まりは、少し時期を早めて、先月末に行なった)。もちろん、私としても、伊藤家(妻の旧姓)の方々と会えることはとてもうれしいことである。

その帰省の前に博士論文と事典項目執筆の仕事を一段落させることができたことは、お盆休みを迎えるにあたって、非常によかったと思う。

お盆となるとやはり、亡くなった父や祖父母、それにご先祖のことに自然と思いを馳せるようになる。普段の生活では、こんなふうにゆったりとした気持ちでそのような思いを持てることはあまりないから、そういう意味で、この夏の一番暑い時期に休めることは、健康の面でもさることながら、心の休息・充電の面でも、大変ありがたいことだと思う。

少し考えてみるとすぐに分かることだが、私が今こうしてここに生きているのは、やはり父母が私をこの世に生んでくれたおかげである。幼少期の私を育ててくれたという恩があるのはもちろんだが、そのように何かをしてくれたということ以外に、そもそもここにこうして人生を生きる機縁を与えてくれたということが、父母から受けた最大の恩だと思う。

その父母がこの世に生まれてくる機縁を与えてくれたのが、祖父母だ。その祖父母がこの世に生まれてくる機縁を与えてくれたのは曾祖父母である。その曾祖父母に……と考えていくと、命のつながりの神秘さを感ぜずにはいられない。

もしもこの世を生きることが苦しみと感じられているなら、その機縁を与えた父母や先祖をありがたくは思えないことだろう。しかし、もしもこの人生を喜びと感じることができれば、逆に父母や先祖に感謝できるようになるに違いない。

この人生を喜びと感じるか苦しみと感じるかは、その人それぞれの人生観によるのだろう。しかし少なくとも私は、せっかく生きるのなら、やはりそれを喜びと感じていたい。そして、その喜びの人生を生きる機縁を与えてくれた父母や先祖に、やはり感謝の思いを捧げたいのである。

そのようなわけで、このお盆休みは、父母や先祖のご恩に思いを馳せ、これからの人生も喜びをもって生きていきたい、という思いに改めてなれるような時間にしたいと思っている。

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2006年8月11日 (金)

事典項目執筆ほぼ完了

昨日に着手した『イギリス哲学・思想事典』の執筆作業が、今日ほぼ完了した。まさかこんなに早く進むとは思ってもいなかったので、我ながら大変驚いている。

だが、よく考えてみると、これは当然の結果であるとも言えるかもしれない。というのも、その前に博士論文の執筆を終えていたが、今回の事典項目の執筆作業は、まさにその延長線上にあったからである。

昨日も書いたように、制限字数は4,800字だが、内容の濃い文章を書こうとするならば、4,800字分だけの力では足りない。むしろ、その4,800字の文章の背後に、もっと分厚い知識があって、それをギュッと凝縮させたものであることが分かる文章でなければ、密度の濃い文章にならないのである。

ところが幸い、この項目執筆に先立って、およそ原稿用紙400枚分=160,000字にわたる論文の原稿を仕上げていたので、その中から今回の仕事に関係する内容を踏まえた上で、それを凝縮させて書くことができた。

したがって、今回の作業に直接に着手したのは昨日だったが、もっと深い意味では、もうすでに、博士論文の執筆に取り掛かった昨年初めから、今回の項目執筆作業にも事実上取り組んでいたと言えるのである。

そういう意味で、今回、この事典の項目執筆の仕事をいただいたことは(依頼を受けたのは今年の4月だった)、私にとって実に時宜にかなったものであった。大いに感謝したい。

もちろん、念には念を入れて、推敲を明日もつづけたいと思うが、今月末までという締切を確実に守れるメドが立ったことで、ひとまず安心できたことをありがたく思っている。

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2006年8月10日 (木)

次の仕事に着手:案ずるより生むがやすし

今日は次の仕事に着手した。『イギリス哲学・思想事典』の“自生的秩序”の項目の執筆である。

この『事典』は日本イギリス哲学会の創立30周年記念事業として企画されたもので、学会の総力を結集して刊行される。出版は研究社であるが、その研究社の創業100周年の記念事業でもあるのである。そのような事業に加わるに値する者の一人として選ばれたことは大変光栄だったので、喜んで引き受けさせていただいた。

しかし、実を言うと、少しだけ「難しそうだな…」という一抹の不安がないわけではなかった。事典のなかの一項目を執筆するというのは初めてのことだからである。

制限字数は、私の場合、4,800字以内厳守である。この限られた字数を守って、しかも書くべきことを的確に分かりやすく書かねばならない。これは案外難しいことである。というのも、“自生的秩序”というのは、ハイエクがそのおよそ40年あまりにわたる研究生活のなかで結実させた壮大な思想体系の、まさに中心概念であり、語るべきことはいくらでもあるからだ。

しかし今回は、厳格な字数制限があるから、その語るべきことのなかから、さらにトピックを厳選して、基本的な点を正確にかつ分かりやすく読者に伝える必要があるのである。

そして原稿の締切は、今月末日まで(これまた厳守)である。もうすでに8月だから、暢気に構えているわけにはいかない。

そのように真面目に考えていけばいくほど、「これはなかなか難しいぞ…」と思えてくるのであった。

しかし、こんな風に取り越し苦労ばかりしていても始まらない。とにかく引き受けた以上、やるしかない。これまで積み重ねてきた自分の研究蓄積を信じて、やるしかないのである。

それに、いざやり始めていると、これまでの経験からしても、案外スムーズに行くものだ。「案ずるより生むがやすし」と言うではないか--こう思い直して、いい意味で楽な気持ちになって、とにかく着手してみたのである。

するとどうだろう、本当にスラスラと筆が進んで行った(より正確には、キーボードを打つ指が進んで行ったというべきだろうが)。まだ荒削りなところも少なからずあるだろうが、意外や意外、必要な字数のほとんどを、今日一気に書けてしまったのである。

また明日以降に読み直して、磨き上げていく必要はもちろんあるだろうが、とにかく、やり始める前からあれこれ考えすぎるよりも、とにかく着手してみることの大切さを、今日改めて実感した。まさに「案ずるより生むがやすし」だったのである。

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2006年8月 9日 (水)

整理整頓の大切さ

今日は、ちょっとした用事が一つあった以外は、自宅で休養することにした。大きな一仕事を昨日終えて、さすがにホッとしていたからである。

そんなわけで今日はゆっくりと過ごしたのだが、その時間を利用して、今日は自分の部屋のちょっとした整理整頓をすることにした。少しばかり雑然としていたからである。特に以前から気になっていたのは引き出しで、もうすぐ3歳になる娘に、かなりひっちゃかめっちゃかにされていたので(鍵を紛失してしまっているのでその引き出しに鍵をかけられないのである)、その片付けをすることにしたのである。おかげで、きれいにすることができた。気分もスッキリ爽快である!

実を言うと、整理整頓にはちょっとした思い入れがある。大げさに聞こえるかもしれないが、今の私があるのは、何を隠そう、この整理整頓のおかげなのである。

小学校4年生までの私は、整理整頓をまったく知らない少年であった。ランドセルの中は教科書もノートもプリントもごっちゃになっていたし、教室の机の中には、給食で残したパンを入れたまま、硬くなってしまったのも入っていた。習字を習っていたにもかかわらず字を書くのも下手で、というより、ていねいに書こうという気になっていず、上手に書こうと思えば書けたはずなのだが、実際にはいい加減に書いていたため、宿題の日記に自分で書いた文字があとで自分でも何を書いたのか読めなかったほどであった…!そんな調子だから、もちろん、学校の成績もよくなかったのである。

私の母はいわゆる“教育ママ”ではなく、あまりうるさく「勉強しなさい、勉強しなさい」と言われた記憶はないのだが、学校の成績があまりにもよくなかったものだから、さすがに心配になったらしい。小学校5・6年のときの担任の先生に、相談しに行ったのである。

その担任の先生が、今の私がこうしてあるその基礎を作ってくださった、私の最初の恩師である。

その先生が母に与えてくださったアドバイスが、非常にユニークなものであった。学校の成績のことで相談しに行ったにもかかわらず、私が成長してから母に聞いた話によると、勉強のことは一言も言わなかったそうである。

その代わりにして下さったアドバイスが、「整理整頓の習慣を身につけさせてあげて下さい」というものだったというのである。

「子どもにさせるだけではダメです。お母さんも一緒になって、整理整頓の習慣を身につけさせてあげて下さい。そうすれば、すぐには結果は出ませんが、2・3年もすれば、必ず成績も上がりますよ」というのが、その先生のアドバイスだった。

それを受けて、母は私に整理整頓の習慣を身につけさせてくれた。そして本当に、中学校2年生の2学期から成績が伸び、トップレベルの進学校(大阪府堺市の三国丘高校)に進学することが出来たのである。

私はよく「〔血液型は〕A型ですか?」と言われることがある。私自身は血液型の性格判断をあまり気にしない方であり、そんなに信じてもいないなのだが、A型というのはキチンとした性格だとされているらしい。ところが、私の血液型は、おおざっぱと言われるO型なのである。両親ともにO型だからO型にしかならないはずであり、実際にそうである。

つまり私は、生まれつきはおおざっぱで整理整頓の出来ない子どもであり、したがってO型の性格といわれる性格に一致していたのだが、後に私はA型の性格といわれる性格を、努力して、あとで「身につけた」のである。

だから、血液型の性格診断にあまりとらわれすぎることなく、性格改善に努めた方が、積極的な生き方が出来るのではないかと私は思う。

いずれにせよ、今の私があるのは、キチンと整理整頓する習慣を身につけたことによるのである。だから私は今でも、生活の基本に立ち返るつもりで、整理整頓に努めている。

その整理整頓の大切さを教えてくれた担任の先生は、山本洋二先生といった。懐かしいままにここにそのお名前を記しておきたい。

実をいうと、小学校を卒業して以来、この山本洋二先生にはお会いできていない。今どこでどう過ごされているかも知らないままであり、まったくもって恩知らずなことだと恥じ入るばかりなのだが、このご恩に報いる道は、私の能力を生かして世の中のお役に立つことだと思い、日々の仕事に取り組んでいる次第である。

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2006年8月 8日 (火)

脱稿しました

今日、ついに脱稿した。原稿を出版社に提出したのである(電子メールにファイルを添付して提出した)。これが本当に出版に値するものだと判断されれば、いよいよ出版に向けて動き出すことになる。出版されれば、その書物を今度は博士号請求論文として、私の出身大学院へと提出することになる。

実は昨晩は気持ちが高まってなかなか寝付けなかったので、夜中の3時半頃まで、原稿の前半部分を読み直し、縦書きに組みなおしたことに伴う細かな修正作業を行なっていた。

今日はその続きの作業をしていたわけだが、その過程で気づいた箇所についてその文章表現を直したり、加えられられると思われた箇所に脚注をいくつか加えたりした。そうして、ついさきほど、脱稿に向けてのすべての作業を終えたのである。

これでいよいよ、原稿を自分の手から離したことになる。次の研究での仕事は、イギリス哲学事典の“自生的秩序”の項目の執筆である。

あと、教育の仕事としては、担当授業科目のレポートが提出されてきているはずなので、その採点の仕事が控えている。気持ちを切り替えて、研究でも教育でも、次の仕事に気持ちよく取り組んでいこうと思う。

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2006年8月 7日 (月)

作業終了:完成

ついに今日、最終作業を終え、博士論文が完成した。分量を計算してみると、原稿用紙換算で約405枚である。爆発的な喜びはないが、やはりしみじみとした喜びが湧いてくる。

現在、提出用に縦書きに組みなおし、一枚一枚プリントアウトしながら、アルファベットや数字が横向きのままになっていないかどうかを点検している最中だが、それが終われば、いよいよ脱稿である。

思えば、この論文を書き始めてから、もう一年半ほどたった。これまでの私の人生のなかで、最も大きな仕事だったように思う。

脱稿して出版社に渡すということは、この原稿を世に問うということになるから、なかなか勇気のいることだが、いつまでも手元に置いておいても仕方がないので、思い切って読者の前にこの原稿をオープンにしたいと思う。

大きな仕事が一つ終わった。また次の仕事も控えているから(今月末締切の原稿:イギリス哲学事典の“自生的秩序”の項目の執筆)、気持ちを切り替えていく必要があるが、まずは大きな仕事を終えることが出来た喜びをしみじみと味わいたい。

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2006年8月 6日 (日)

あともう一息

例の最終点検作業がおかげで今日も順調に進み、あともう一息というところにまで漕ぎ着けた。具体的に言うと、論文草稿は序章+四章+終章の計六章と、2つの補論とからなっているのだが、最後の終章と2つの補論を残すのみとなったのである。

今日判明して大変うれしかったことは、いつのまにか分量が原稿用紙400枚に達していたことだ。本欄1月9日の記事で書いたように、その時点では「ほぼ350枚」だった。ところが、今回の最終作業の過程で自然と気づいて書き足していくうちに、(7月末に書けた2つの補論も含めて)いつの間にか念願の400枚に達していたのである。以前に補論で苦しんでいるときにはなかなかそこまで到達できなかった。今思えば「400枚」という数字に執着しすぎていたのかもしれない。ところが今回はそのことを気にせずに自然体で書き足していくうちに、いつの間にか400枚に到達していたのだから、不思議なものである(ちなみに1月9日の記事のタイトルを「博士論文草稿完成」としていたが、今考えると、まだそのときはまだ完成していなかったのである)。

今回の作業のヤマは、論文の箇所で言うと第2章と第3章、日付で言うと昨日と今日だったように思う。実際、今日第3章を終えた後、第4章は大変スムーズに進んだ。おそらく最大のヤマは越えたと思う。

それにしても、昨日今日の二日間で嬉しかったことは、ヤマを越えられたという結果もさることながら、その過程で粘り強さを大いに発揮できたことだ。たしかになかなかキツかったのだが、それと同時に、「自分はこんな風に粘り強く、こんなにも根気よさを発揮できる力があったんだ」と思うと、それが非常に嬉しかったのである。

私の愛読書の一つに『光明の生活法』(谷口雅春著、新版平成8年発行、日本教文社)という本があるが、その本のなかに次のような一節がある:

生命の本来の面目は自由自在なところにある。しかし自由が自由とわかるのは自由がただ障礙(しょうがい)を破ったときにおいてのみである。剣の名手は敵者があらわれてはじめて自分の自由を現実にすることが出来るのだ。水は平地にたたえられている時はまだその自由は潜んでいるに過ぎないのである。それが逆境の上に置かれるとき何物をも押し流す自由を得るのだ。(212~213頁)

また同書の巻頭言にはこんな一節もある:

兄弟よ、海の波が巌(いわお)にたわむれるように、困難にたわむれよう。猿が木の幹を攀(よ)じのぼるのをたのしむように困難を楽しんで攀じのぼろう。もし軽業師(かるわざし)が綱の上を渡らないで、平坦な大道を歩くだけならば誰も喝采(かっさい)する者はないであろう。梅の花は烈々たる寒風の中で開くので喜ばれるのだ。〔中略〕盤根錯節(ばんこんさくせつ)は『生命』がたわむれるための一つの運動具である。諸君はスキーを多難だと云うか。登山を不幸だと云うか。ゴルフを艱難(かんなん)だと云うか。競泳を悲惨だと云うか。如何なる苦しみも戯(たわむ)れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いて来る。

思えばこの博士論文の執筆作業は、まさに困難そのものだった。まだ感慨にふけるのは早いが、それにしてもここまでの歩みを振り返ってみるとき、上記の引用文にもあるように、まさに“困難にたわむれる”ことの喜びをしみじみと味わうことができたのである。

結果もさることながら、それを目指す努力の過程で発揮されていくさまざまな美徳(粘り強さ、根気よさ、忍耐力、明るさ、愛深さ等々)の開発、すなわち自分に宿っているはずの多様な潜在能力の開発を楽しみにして、これからも日々努力を重ねていきたいと思う。

ともあれ、論文完成まで、あともう一息だ。明日も頑張ろう!

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2006年8月 5日 (土)

最終作業続行中

今日も引き続き、脚注の最終点検作業を続けている。前回の記事で「思わぬ単純ミスが予想以上にあった」というのは、たとえば細かいミスとしては、pp.179-180とすべきところを、pp.180-181というようにずらして書いてしまっていたり、pp.180-183とすべきところをpp.180-182としていたり、というものであり、この種のミスは散発的に見られる程度だったのだが、大きなものとして驚いたのは、次のようなものだった。

ハイエクの『隷従への道』という本があるが、私はこの原書を2冊持っている。どちらもシカゴ大学出版部から出されたものだが、一つは1972年の改装版で、もう一つはこの本の出版五十周年を記念して1994年に出されたものだ。いま前者を「原書A」、後者を「原書B」としておこう。

この原書Aと原書Bでは文字の組み方が異なっているので、同じ文章でも、前者と後者とでは載っているページ数が異なるのである。

ところが、今回の見直しで発見して大変驚いたのは、その『隷従への道』の参照箇所を指示した脚注で、この両者を混在させてしまっていることだった。私としては原書Bで統一させているつもりだったのだが、原書Aのページ数を指しているものも少なくなかったのである。

おそらくこれは、かつてかなり以前に原書Aを用いて書いていた論文を、今回の博士論文に部分的に組み入れたことで発生したものだ。あるときから私は原書Bの方を使うようになっており、今回もそれを踏襲しているのだが、原書Aを用いていた頃の論文を組み入れたとき、「その当時は原書Aを用いていた」という事実をスッカリ忘れてしまっていたのである。

まさかこんな間違いをしてしまっているとは夢にも思わなかったので、大変驚いたのである。つくづく、この最終点検作業を怠らないでよかったと思う。

このような思わぬ大きなミスがあったが、それ以外には、上述の細かいミスは多少あったものの、現在までのところ、おおむね、脚注で挙げている参照箇所が的確なものであることが分かり、ホッとしている。

それにしても、この最終点検作業も根気のいる作業だ。筆者の立場としてだけではなく、読者の立場に立って、一つ一つの脚注が正しく書かれているかどうか、丹念にチェックしていく。“しらみつぶし”とはまさにこのことである…。

しかし、何度も言うように、この脚注も決しておろそかには出来ない。本文での議論内容を裏付ける根拠を示す箇所であり、そういう意味では、論文の土台となる“データ”と言えるからだ。データに誤りがあっては、せっかくの論文もそれこそ“台無し”になってしまう。

登山にたとえると、今は9合目といったところだろうか。最後の最後まで気を抜けないが、根気よく一歩一歩あゆんでいき、頂上までたどり着きたいと思う。

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2006年8月 4日 (金)

博士論文最後の仕上げ作業:最後まで気を抜くべからず

ずいぶん長い期間にわたって取り組んできた博士論文が、いよいよ大詰めに入ってきた。7月31日の記事で「脚注修正作業が一段落」と書いたが、それは、引用文献の表記の仕方を根本的に変更していく作業だった。それを受けて、脚注で表記している参照箇所の指示に誤りがないかどうか、一つ一つ丹念にチェックしているのである。

実を言うと、もうこの作業はしないで、出版社に出してしまおうかとも少し考えた。しかし、「やはり最後の最後まで気を抜いてはいけない、丹念にやり通さねば…」と思い直し、この作業に今月に入ってから取り組み始めたのである。何となく、このままこの作業をやらずに済ませることは気持ちが悪いような気がして仕方がなかったからである。

そうしてやり始めてみると、意外と単純なミスが少なくなかったので驚いた。参照頁の表記に誤りが結構あることが分かったのである。それに、思わぬ副産物として、自然と書き足していくこともできている。それも、脚注にのみならず、本文の記述にも細かい補強を自然と加えることができているのである。まだこの作業の途中であるが、つくづく、この作業を飛ばしてしまわないでよかったと思う。

実を言うと、例の「補論」も、脚注にしては長すぎた記述が結構たくさんあったのを、二つにまとめて、「補論1」「補論2」という形で独立させることもすでに出来ている(これは先月下旬の作業中に出来ていたのである)。さんざん苦労してきた「補論」であるが、おかげで最後にはスムーズに出来上がった。これで、読みやすさが少しは増したと思う。

最終段階に入ってきて、気持ちがはやるのを覚えているのは事実である。実は今朝、「よぉし、今日中に仕上げてしまうぞ!」と意気込んでいたのである。しかし実際には最後まで行かなかった。この分だと、完全に仕上げるには日曜日までかかりそうである。

しかし、この期に及んで焦ってみても仕方ないだろう。この作業に取り組む中で学んだことは、「最後の最後まで気を抜くべからず」ということだ。ゴールテープを切るまで、一歩一歩、最後の最後まで着実に歩を進めて行きたい。

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2006年8月 2日 (水)

歯医者さんに通っています(2)

本欄の6月29日の記事に書いたように、私は現在歯医者さんに通っているが、今日も行って来た。6月中旬に通い始めて以来、これで6回目である。

最初に痛みを感じたのは右上の奥歯だったが、この際、悪いところがあれば全部治しておきたいと希望を出したところ、右下と左上の奥歯にも虫歯があったので、治療を重ねているのである。今日は左上の奥歯の治療をしてもらった。お盆前にもう一度、8月10日の午前中に行くことになっている。

それにしても治療を受けるにつれて思うのは、ぜひ読者の皆さんに歯を大切にしてほしいということだ。私の場合、あまりひどい虫歯ではなかったにもかかわらず、今日まででもう6回、月日にしておよそ2ヶ月にわたって、通い続けることになった。その1回1回の治療にもそれなりの時間がかかる。その間、口をあんぐり開けておくのは、なかなか大変である。もちろん、適宜うがいをさせてくださるから、治療中ずっと開けっ放しにする必要はないのだが、それでもしばらくの間開け続けていなければならないのである。これがもし、もっとひどい虫歯だったとすると、もっと大変だったにちがいない。

それに、今日、歯科衛生士の方に言われたことは、「歯を治したとは思わないで下さい」ということだった。

どういうことかというと、そう思って油断していると、まだ残っている歯と詰め物との“境い目”から、2次的にまた虫歯になってしまうケースが少なくないからである。顕微鏡で見ると、その“境い目”は「くぼみ」になっており、そこが虫歯菌にとってちょうどよい住家になるのだという。したがって、虫歯の部分を削って詰め物をしたところは、今後も特に注意して丁寧に磨いてやる必要があるのである。

「歯を治したとは思わないで下さい」という先ほどの歯科衛生士の方のお言葉のもう一つの意味は、「歯を治したのではなくて、実は歯を崩していっている」ということだ。当然のことながら、虫歯部分を削ってしまったら、もう元には戻らない。この世での寿命を全うした後、生まれ変わりがあるとしたら(私自身はそう信じているのだが)また新品の歯を授かるのだろうが、今生ではもう二度と元に戻らない。しかもその削った部分に詰められたところとまだ残っている歯との間の境い目は、2次的にまた虫歯になりやすい部分なのである。やはり詰め物をした歯は、もともと授かっていた自然の歯には到底かなわない、というわけだ。

今回いろいろと聞かれたのは「甘いものは食べてませんか? 甘い飲み物はいかがですか? 飴などはどうですか?」ということだ。幸い、私の場合は甘いものは飲みも食べもしない。飴も自分からなめることはない。たまに学生諸君から「先生どうですか?」といって差し出してくれるのを、その好意はうれしいから、そのときにもらっているぐらいである。

ただ、歯の健康のためという観点からすれば、気になるのは学生諸君の中で飴をなめている人が結構多いということだ。飴の場合、ジュースなどとは違って、ある一定の時間ずっとなめていることになるから、虫歯予防という観点からすると最もよくないそうである。その場合、すぐに歯を磨くのが望ましい。なめないに越したことはないが、少なくともその後すぐに歯を磨く方がよいだろう。あるいはせめて、すぐにうがいで口をゆすいでおくことだ。

私がある日の昼休みに歯を磨いていたら、それを見た学生に「先生、小学生みたいですね」と言われたことがある。「そうかい?」と言ってその場では笑って答えたが、あとで気になったのは、もしかすると、「お昼に歯磨きするのは小学生がする幼稚なこと」というイメージがあるのではないか、ということだ。

しかしそれは、もしかすると、むしろ小学生まではきちんと歯磨きしていたのに、いつの間にか、それをしなくなった、というだけのことではないか? その積み重ねがいつか虫歯となって現れるのである。いますぐに痛くなって困らなくとも、大事にしていないと、いずれ虫歯で困ることになるのである。

だから、これは特にまだ若い学生諸君に是非ともお勧めしておきたいのは、自分の歯をもっと大切にすることだ。そんなにひどくなかった今回の私の場合でさえ、これまでの歯の手入れにまだ“甘さ”があったために、歯と歯の間から静かに虫歯が進行していたのである。その結果、現在、治療に行くたびに口をあんぐりあけていなくてはならなくなっている。

どうぞ皆さん(特に学生の皆さん)、歯を大事にしてください。携帯電話だけではなしに、歯ブラシセットも携帯されてはいかがだろうか? それから、あまり飴もなめすぎない方がいいと思います。

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