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2006年9月12日 (火)

9/11の5周年の日に考える(2)

ハイエクはその著『自由の条件』(邦訳『ハイエク全集 第5巻』春秋社)の「責任と自由」と題した章で、経済的自由に伴う責任の厳しさについて、次のように述べている:

自由は、個人が選択の機会と負担との両方をもつことを意味するだけでなく、それはまた、個人が自分の行動の結果を引き受けなければならず、その結果にたいして称賛と非難とをうけいれることを意味する。自由と責任は不可分である。〔中略〕責任の否定は、通常、責任を恐れるからであり、その恐れは必然的に自由を恐れることでもある。疑うまでもなく、自分自身の人生を築きあげる機会は、絶えることのない課題、すなわち、もしも人が自分の目的を達成しようとするならば、自分に課さなければならない訓練をも意味するのであるから、多くの人々は自由を恐れるのである(邦訳105-106頁)。

つまり、自由は必ずしも甘いものではなく、むしろ自分で自分の生活を立てていくということを意味しており、その過程で起こってくる失敗についても、あくまでも自己の責任として引き受けていくことを人々に要求するものであるが故に、自由とはその実、なかなか厳しいものなのである。

そして、ハイエクは上記に引用した文章に付した注で、E・フロム『自由からの逃走』を挙げているが、このことは、昨今のテロの問題を考える上で、非常に示唆的であると思う。というのも、昨今のテロの特徴は、ロンドンでのテロがはっきりと示しているように、先進国で生まれ育ち、自由を享受していたはずのアラブ系移民2世による自爆テロが増えているということだからである。

なお、ロンドンのテロと“自由からの逃走”との間に密接な関係があるかもしれないことについては、本欄の昨年7月24日の記事をご参照願いたい。

このように自由がむしろ厳しいものであり、それに順応することは必ずしも容易ではないが故に、まだ経済的に未発達な発展途上国に経済的自由を急激に強いることは、かえって反発を招くだけであろう。

しかも、WTO(世界貿易機構)でいつも問題になるように、先進諸国でさえ、ハイエクの説く経済的自由の論理に首尾一貫して従っているわけではない。というのも、先進諸国は一方で工業製品については途上国にたいして門戸を開放するよう強く要求しているにもかかわらず、他方で、農産物については、途上国からの農産物に対して高い関税をかけたり、自国の農産物に多額の補助金を与えたりして、先進国自身の農業を途上国から保護しているからである。つまり、先進諸国は工業製品については自由貿易の論理を掲げているにもかかわらず、農産物についてはむしろ保護貿易の論理を持ち出しているのである。

9.11の同時多発テロの標的の一つが、NYの世界貿易センターであったことを思いだそう。あれは、アメリカの経済的繁栄の象徴を狙い打ちしたものだった。すなわち、アメリカの繁栄が途上国の犠牲の上に成り立っている(と見える)ことに対する強烈な異議申し立てが、あの同時多発テロだったのである。その意味で、あれは宗教戦争と言うよりは、宗教的情熱を利用した政治的・経済的な争いなのである。

だとするならば、現在の米ブッシュ政権が取っている、あまりにも強引に見える自由拡大政策は、むしろイスラム諸国をはじめとした非欧米諸国の反発を招くだけであろう。したがって、むしろアメリカの取るべきは、かつてアメリカが我が国に対してとってくれたように、まだ経済的に未発達な国に対する寛大な姿勢、すなわち、一定の政府規制を伴った開発主義を認めることだろう。さもなければ、アメリカはこれからも、「あまりにも自国中心主義的である」との非難を浴び続けてしまうと思われる。

とはいえ、貿易赤字と財政赤字という“双子の赤字”を抱えるようになってしまった現在のアメリカには、かつて第二次大戦後に我が国に対して見せてくれた寛大な姿勢を取る余裕は失われてしまっているのかもしれない。だとすれば、アメリカの同盟国としての我が国こそが、そして経済的にアメリカに次ぐ大国となった日本こそが、かつて自らがその恩恵にあずかった開発主義を採用することを途上国に認めつつ、みずからは経済的自由主義の論理に首尾一貫して従うだけの度量を示すべき時だと思われるのである。

なお、宗教テロについて本欄でかつて論じた記事については、カテゴリーの「宗教テロ」に属する一連の記事を、また開発主義については本欄の昨年8月7日同8日の記事を参照されたい。また、国際テロとグローバリゼーションについては、昨年7月13日同14日同15日で論じている。

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コメント

こんばんわ☆
宗教的情熱を利用した政治的・経済的な争い…考えれば考えるほど難しいですが、共にいらだちとむなしさと疑問が浮かびます。
経済の象徴のセンタービルを壊して、多大なる人の命を未だに奪い続けてまでそれを打ち壊したいとは。
そこまで国民が一体になれるのに何故経済や生活の為に動かなかったのか、いや、動けなかったのか。もともと確かに発展途上国と先進国との差は出てきてはいますが、その国なりにやはり頑張って生きています。このような言い方をすれば「お前は先進国にいるからそんなことが言えるんだ」と言われても仕方ないかもしれません。
じゃあ経済的などに発展している先進国はテロを起こした国々には何もしなかったのか、それは違うと思います。
互いにもう少し考え直さないといけない部分がかなりあるみたいですね。この国々だけではなく、世界規模として。

投稿: N.ゆかり | 2006年9月13日 (水) 00時05分

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