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2006年9月30日 (土)

英文法力を身につけるために

英書講読の受講者諸君へ

10月3日(火)2時間目より秋学期の英書講読が始まるにあたって、時間の制約上、授業中にはおそらく充分には伝えられないかもしれないことについて、あらかじめここでお伝えしておきたい。

4月にも言ったことだが、この授業の1年間を通しての大きなねらいは、次の2つである:

①英語「を」読む:英文自体を理解できる能力を身につける。
②英語「で」読む:英文で書かれている内容・テーマについて理解し、物事を考えるための手がかりとする。

この2つのうち、春学期(4~7月)に行なってきたことは、もっぱら①の方であった。というのも、①ができなければ、②はおぼつかないからである。

この秋学期では、②に重点を移すことにする。というのも、英書講読の本来のねらいは、むしろ②の方だからである。本当は、この英書講読という授業では、①を当然の大前提として、もっぱら②に専念することが想定されているのである。

ところが、実際には①の力が必ずしも十分に身につけられていない場合が大いに考えられたため、あえて春学期は①に専念してきたのであった。

しかし、①にのみ専念してばかりもいられない。先にも述べたように、その本来のねらいはむしろ②の方だからである。春学期中に①について取り上げられたトピックの分量には限りがあったが、それもやむを得ないことであった。あまりにペースを速くしても、ついてこれない受講者が続出する恐れが多分にあったからである。

したがって、これから先、①については諸君の自主性に委ねるしかないことになる。

そこで、諸君が①の力を自分で身につけていくにあたって、大変参考になる本を、ここでいくつか紹介しておくことにする。

そもそも、①にとって不可欠なのは、次の2つの力である:

(a)文法力
(b)単語力

この(a)と(b)のうち、春学期の授業で解説に力を入れたのは、(a)の方であった。サブテキストに指定していた『ビッグ・ファット・キャットの…』は、英文法の基礎中の基礎を分かりやすく解説してくれていた本である。

しかし、これは実は初歩中の初歩を解説してくれているのみであるから、入り口としては最適であったものの、これだけではやはり不十分である。なので、授業では他の教材もコピーして配布したが、それでも、授業中にできることには自ずと限界があった。

そこで、これから先、諸君が自分で勉強しようとする場合に非常に有用な本をここで紹介しておこう。それは、大西泰斗/ポール・マクベイ共著の次の3冊である(授業で配布したコピーはこれらの本からだった):

『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』(研究社)
『ハートで感じる英文法』(NHK出版)
『ハートで感じる英文法 会話編』(NHK出版)

この3冊の中でも、特に英語の本を読むにあたって、「どれか1冊だけを挙げてほしい」と言われるとしたら、私は『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』を勧めておきたい。「絶対基礎力」と銘打っているように、この本があれば、諸君は英語を読みこなしていくのに必要不可欠な文法事項を、しかも非常に分かりやすく、学び直せるにちがいない。というのも、この本のねらいは、丸暗記だけの文法から脱却して、「ネイティブが感じているように英語を感じる」ことができるようになることだからである。この本を読めば、「目からウロコが落ちる」ことが多々あるにちがいない。とにかく、非常に面白く、しかも「ためになる」本である。

あとの2冊『ハートで感じる英文法』シリーズは、昨年7~9月と今年1~3月にNHK教育テレビで放映され、非常に大きな反響を呼んだ番組のテキストである。DVDも別に販売されているので、気軽に英文法を楽しんで学びたいという向きには、こちらからの方が入りやすいかもしれない。

さて、もう一つ、(a)文法力だけではなく、(b)単語力も大変重要なのだが、この単語力を身につけていくのに良い本については、本欄の次回の記事で紹介させていただくことにしよう。

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2006年9月29日 (金)

授業開始を間近に控えて:適切なレベル設定の重要性

ここのところ本欄の更新のペースが落ちてしまっていた。その理由は、10月からの授業開始に向けて、あれこれ考えていたからである。特に「どうすればいいかな…」と考え込んでいたのは、英書講読の授業をどのように進めていけばよいか、ということだった。

4~7月までの春学期の授業について、受講者の学生諸君から寄せられた「授業評価アンケート」の回答集計結果が夏休み中に私の手元に届いた。幸い、おおむね好評であり、英書講読についてもなかなか好評だったのだが、好評さの度合いが、私の担当授業のなかで相対的に低かったのが、実は英書講読だったのである。私が一番苦労していたのが英書講読だったから、この結果は当然だったと言えるだろう。

なので、10月~翌年1月までの秋学期の英書講読はどのようにしていけばよいのか、ということについて、ずいぶんとこれまで、あれやこれやと考えてきたのであった。

およそ教える側のもつ希望としては、①「たくさん教えてあげたい」、②「分かりやすく教えてあげたい」、という2つがあると思われるが、この2つの間でのバランスをほどよく保つことは、実を言うと、そんなにたやすいことではない。というのも、その年その年によって、受講者の学生諸君のレベルや様子は異なるからだ。しかも、受講者一人一人の間でのレベルの違いもなかなか相当な開きがあって、そのレベルのバラツキ具合も、その年その年によって微妙に違っている。なので、毎年、上記の①②の間でのバランスを今年はどのあたりに落ち着かせるか、ということを、その年に応じて探っていかなければならないのである。

春学期に取り上げたテキスト(本の購入は求めずに、コピーを配布していたのだが)は、その原文そのままだと、学生諸君には大変むずかしく感じられたようであった。なので、それを私が、主旨のみを伝えられるような、よりシンプルな英文に直したものをプリントにして、毎時間配っていたのだが、その労力は非常に大きなものだったので、これを秋学期にも続けることはちょっとできそうになかった。

そこで、秋学期には、内容的に関連した、もう少し簡単な題材をテキストとして取り上げることにした。要するにテキストの変更を決断したのである。これは、もしも受講者諸君にテキストの購入を義務づけていたのなら、とてもできないことだったが、そのほんの一部分を、ほんの数ページ分のみを、コピーして配布していただけだったので、テキストの変更も可能だと判断したのである。

秋学期に学習できる分量も、微々たるものにとどめることになるだろうが--だからこそ、コピーでも対応できるし、著作権侵害の心配もなくなるのだが--それは、上記の①「たくさん教えたい」という希望を極力抑えることに決めたからである。これは私にとっては、なかなか辛い決断だったのだが、学生諸君の現在のレベルや要望をあまりにも大きく超える量や内容を提供することは、かえって逆効果になるおそれがあると考えたからである。たとえ良いことでも、それを無理に押しつけることはできない。

とはいっても、受講者の中には、向学意欲も英語理解能力もなかなか素晴らしい学生もいるから、そういう学生のニーズも満たさなければならない。しかし、たかが1回90分の授業中だけにできる作業などはしょせん限られているし、本当に力を伸ばすためには、授業以外の時間に自分でトコトン勉強するしかない。時間を忘れて集中・没頭して、喜んで勉強に打ち込むほどでないと、大きくは伸びないのである。

もちろん授業に出ることは非常に大切である。だが、その授業で習ったことを“身につける”には、それを自分自身で練習していくしかないのである。だから、授業で受講者諸君に私から提供できることは、自分で勉強するときによい導きとなるような重要な内容を伝えることだけである。それを身につけるために自分でも毎日努力するかどうかは、受講者諸君の自主性に委ねるほかはない。

しかしながら、他方では、「せめてこれだけは受講者全員にクリアしてもらわないと…」という最低の基準は定めなければ、単位認定の際に「可」という評価を出すことはできないから、その必要最低限の到達目標も決めなければならない。

そんなわけで、「可」「良」「優」の3通りのレベルを設定しつつ、そのうちのどのレベルを目指すかは学生一人一人の自由に任せて、全ての学生がそれなりの達成感を味わえるような授業を展開していくことが必要となるわけである。

具体的にどのようにこの秋学期の英書講読の授業を進めていこうとしているかは、授業の時間にお伝えさせていただくことにするが、学生諸君の満足度が春学期よりも上がるよう、コツコツと努力していきたいと思っている。

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2006年9月26日 (火)

NHK教育テレビ「お母さんといっしょ」

この9月初旬に3歳になった娘がいる関係で、我が家ではいま幼児番組を見る機会が大変多いのだが、そのたびにつくづく感心しているのが、NHK教育テレビ「お母さんといっしょ」に出演しているお兄さん、お姉さん役の方々の元気ぶりである。

以前に私の母から聞いたことであるが、ああいう職業につくには、人一倍、健康管理に気を配らなければならないそうである。というのも、体調を崩したからといって誰か他の人に代わりに出てもらう、というわけにはいかないからである。だから、オーディションも大変厳しいとのことである(なぜこのようなことを私の母が知っているかは、今もよく分からないのだが…)。

それに、その出演者の方々は、平日に毎日放送されている通常番組の収録だけが仕事ではない。祝日の朝などによく放送されているのだが、日本各地を回って「ファミリーコンサート」も開いている。30分だけのものもあれば、2時間にもわたる大きなコンサートもある。そのコンサートの間ずっと、非常に元気に生き生きと、歌って踊っておられるのである。そのコンサートの準備・リハーサルも含めて考えると、とても多用であるに違いない。それをこなしていく元気な体力は感嘆に値するだろう。普段の体調管理にも細心の注意を払っているはずなのである。

私の場合は歌って踊ることを要求されるわけではないので、多少事情は異なるが、元気であること、健康であることが、教育や研究を進めていく上で大変重要であることには変わりない。秋学期の授業開始を来週に控えているが、その授業期間中、元気よく授業ができていくよう、授業そのものの準備と共に、体調もシッカリと整えていきたいと思っている。

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2006年9月20日 (水)

NHKラジオ「徹底トレーニング英会話」も聴いています

USENでNHKラジオ英語講座を聴いていることは以前にも述べたとおりだが、その時に述べた「英会話入門」と「英会話上級」に加えて、今月からは新たに「徹底トレーニング英会話 Let's Practice!」も聴くようになった。テキストも購入して聴いている。

この「徹底トレーニング英会話」は、コンテンツ・クリエーターの岩村圭南氏によるもので、その狙いはズバリ、「英語の筋肉を鍛えます」というものだ。“徹底トレーニング”と銘打っているだけあって、音読を中心とした実に様々な練習方法が用意されている。毎日練習するにはうってつけの教材である。

私がなぜ、この講座も聴くようになったのかというと、もっと英語を「話せる」ように練習したかったからである。最近ではリスニング力が伸びつつあることを実感できているのだが、「話す」となると、なかなかスムーズに、まとまりのあるフレーズが口から出てこない。つまり、岩村氏の言う「英語の筋肉」の鍛え方が足りないのである。そこで、この講座に従って、日常の英会話も練習していくことにした。

実を言うと、この岩村氏によるNHKラジオ英語講座を聴き始めたのは、これが初めてではない。正確な年は忘れてしまったが、数年前にも一度聴いていたことがある。その当時の講座名はその後半部分が"Let's Speak!"となっていたが、講座自体のコンセプトは当時も同じであった。つまり「英語の筋肉を鍛えます」である。たしか、この講座が初めてNHKラジオで始まったとき、岩村氏が「これは“体育会系”の講座です」といった主旨のことをテキストで述べておられたように記憶している。要するに「練習あるのみ」という講座なのである。

その体育会系の英語講座を私は数年前にも聴いていたのだが、その時には、恥ずかしいことに、長続きしなかった。それには主に次の二つの原因があったように思う。ひとつは、その当時はまだ、自分のハイエク研究において手探り状態が続いており、そちらの方を最優先せざるを得なかったことであるが、もう一つの理由は、ネイティヴ・スピーカーの英語感覚を、その当時は今ほど理解して身につけてはいなかったことである(もちろん、今でもその英語感覚を完全にマスターできたわけではないが…)。そのために、岩村氏が豊富に提供して下さっていた練習の素材を、テンポよく吸収できずにいたのである。

なぜテンポよく吸収できなかったのかというと、素材として提供されている英会話の文章の意味を、「これが何故こんな意味になるのだろう…」とか、「ここで何故この単語が使われているのだろう…」といちいち立ち止まって考え込んでしまうことが、あまりにもしばしばだったからである。

たとえば、今月号のスキットの冒頭には、こんな簡単なフレーズが載せられている:

Thanks for inviting us over for dinner, Mr. Watanabe.
(夕食に招待してくれてありがとうございます、渡辺さん)

このようなフレーズに出くわしたとき、当時の私なら、「ここで何故“over”が使われているのだろう…」と考え込んでしまっていたはずである。当時の私には、たとえばこの“over”によって加えられているニュアンスがよく分からなかったのである。それについて深く考えることなく、とにかく丸暗記してしまえ!--と思うことが私にはできなかったため、そのたびに深く考え込んでしまい、しかもその答えが分からずに終わってしまう、ということがたびたびだった。そして、それに耐えられなくなったため、結局続けられなくなってしまったのであった。

しかし、幸いなことに、今ならそれが理解できる。それは、本欄でたびたび紹介している、大西泰斗・Paul C. MacVay両氏による一連の共著のおかげである。たとえば、上記の“over”の意味を今の私が分かるのは、次の書物のおかげである:

『ネイティヴ・スピーカーの前置詞』(研究社)

皆さんもきっと、この本を読めば、この“over”に込められた意味がお分かりになるだろう。ここで私が下手に説明するよりも、その説明はこの書に譲っておきたい。

それに加えて、この over のような前置詞・副詞のコア・イメージを理解できたのは、田中茂範氏による次のNHKテレビ英語講座のおかげでもある:

「新感覚 キーワードで英会話」(NHK教育テレビ,火~金午後11:00~11:10)

ちなみに、この番組は今年の4月~9月までの放送だったが、この10月からの再放送が決定したそうである(放送曜日は一部変更)。たいへん有用な番組なので、本欄の読者の皆様にも強くお勧めしておきたい。テキストも毎月購入しておかれるとよいだろう。もうすでに、10月号が発売されているはずである。

いずれにせよ、現在の私は幸いなことに、ネイティヴ・スピーカーの英語感覚に少しでも近づくことができてきたため、岩村氏の“体育会系”の英会話練習について行くのに、苦を感じなくなっている。むしろ、練習したくてウズウズするようになっていたのが、最近の私だった。なので、今では楽しく練習できるようになっている。

もう一つ、この“体育会系”の英会話練習に喜んでついていく気になった理由としては、もしかすると、「体を動かすことの喜び」を今月になって思い出せたこともあるかもしれない(これについては、本欄の9月4日同7日の記事をご参照下さい)。今週はちょっと、外で軽い運動をすることはできずにいるが、体を動かしたときの楽しみを今月の初めに強烈に味わえたので、「よぉし、練習するぞ!」という気持ちになりやすくなっていたのである。

そのようなわけで、今月に入って、NHKラジオ「徹底トレーニング英会話」で毎日練習している次第である。これからもコツコツ続けていきたいと思っている。

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2006年9月17日 (日)

政治は希望を生み出せるか?

今朝の産経新聞の「Sunday読書」欄に、評論家の稲垣真澄氏による「時評 論壇10月号」の記事が載せられていたが、そこに付けられた見出しが「意欲・希望に関わる政治」というものであった。

そこでは10月号の各総合雑誌のなかから三つの論文あるいはルポが取り上げられていたが、その中で、稲垣氏は『文藝春秋』10月号に掲載されている次の二つ、すなわち、山田昌弘氏の「『希望格差』から『希望平等社会』へ」と、後藤正治氏の「ワーキング・プアの時代」とに言及しつつ、ある一つの問いかけを投げかけていた。以下、その問いかけを私なりにできるだけ簡潔にまとめてみると、それは次のようなものである:

「再チャレンジが可能な社会の実現」が政策として声高にいわれているが、その場合に政治にできることは、スポーツの敗者復活戦のような「制度」を作ることのみにとどまるのか。それとも「再チャレンジしよう!」という「意欲」まで政治が生み出さねばならないことを意味するのか。政治は「希望」にかかわることができるのか。

稲垣氏自身はこの問いかけに対する答えを書いてはおられなかったが、この問いかけはなかなか鋭く、重要なものだと思う。というのも、ポスト小泉の政治のあり方に関心が集中しつつある中で、小泉後の総理大臣--それが誰であろうと--に「私たちに“希望”を、“意欲”を与えてくれ!」という期待を寄せている人たちも、もしかすると少なくないかもしれないからだ。

しかし、私自身は、政治が“希望”や“意欲”の直接の生みの親になることはできないと思うし、またなるべきでもないと思う。というのも、政治にできることは、あくまでも「制度」の整備のみだからだ。

たしかに政治の目的は共通善、すなわち社会の人々に共通する善い目的--自由・平和・福祉・安全・繁栄など--であり、その意味では、「働く意欲」や「生きる希望」といったことも、もちろんその共通善の中に含まれるだろう。したがって、政治は少なくとも“希望”や“意欲”を間接的に促進できるような制度的整備は目指せるだろうし、また目指すべきだと思う。

その意味で、この5年間で小泉首相が行おうとしてきた「構造改革」は、たとえその背景に首尾一貫した理論的・思想的バックボーンを欠いていた嫌いが多分にあったとはいえ、一定の評価に値するものだっただろう。すなわち、山田昌弘氏が上記の『文藝春秋』10月号に寄せた論文の中で指摘されているように、既得権益に安住して「努力しなくても報われる人」を生み出すような政治的仕組みを打破しようとしたという意味で、すなわち「働く意欲」や「生きる希望」を全ての人が持つための妨げとなる制度的要因を改革しようとした、という意味で、それは一定の評価に値するものだったと思われるのである(『文藝春秋』2006年10月号、299ページ)。

しかしながら、政治は希望や意欲の直接の生みの親にはなれない。またなるべきでもないだろう。というのも、政治の政治たるゆえんは、その目的を実現する手段として「権力」を使う、ということだからだ。もっとあからさまに言ってしまえば、それは要するに「強制力」なのである。

しかしながら、希望や意欲といったものは、権力を使って強制的に持たせるべき性質のものではないはずであろう。というのも、それはすぐれて、一人一人の「心の問題」だからである。

そのような、いわば“心の救済”を政治に、あるいは政治的リーダーに直接求めることは、きわめて危険である。それはかつて、前世紀に全体主義が行おうとしたことだ。しかも全体主義は、何らかの“敵”を攻撃の対象に挙げることで、それを行おうとした。すなわち、ナチズムはユダヤ人種に、共産主義は資本主義階級に、この世の矛盾の全責任を負わせ、その“敵”の殲滅を政治の目的とし、その目的に心身ともに捧げることを“人生の意義”として国民に強制したのが、かつての全体主義だったのである。

この点でいささか気になることは、小泉氏の政治手法が、つねに敵・味方をはっきりさせ、敵を排除することで国民の支持を劇的に得ようとするものだったということである(この敵・味方を鮮明にする「分かりやすい」政治手法については、今朝の産経新聞の正論欄に掲載された、佐伯啓思・京都大学教授による「小泉流の政治手法が残したもの」と題された論説でも、的確に指摘されている)。

ここで急いで付け加えておかなければならないが、私は何も小泉政権が全体主義だったと言っているわけではない。というのも、そもそも日本は全体主義体制とは対極の位置にある自由主義体制の国だし、また小泉政権は別に、敵を文字通り抹殺しようとはしていなかったからだ。せいぜい、総選挙の時に、ある一つの分かりやすい争点をめぐって国民の支持を一時的に集めようとしただけである。それどころか最近では、かつて郵政民営化問題で自民党を離党した郵政反対組に対して、「離合集散は世の習い」という言葉で、復党容認の姿勢をさえ示したというではないか(これに関しては、gooニュースのこちらの記事を参照)。このようなことを飄々とやってのけ、自らは権力の座からあっさりと引いてしまうような人物を、私たちはとても全体主義者だとは言えないだろう。ヒトラーにせよスターリンにせよ、死ぬまで権力の座に執着し続けた人物だったのである。

しかしながら、小泉流の政治手法が、たとえ一時的にせよ、その時その時に応じて“敵”を作り出すことで国民の劇的な支持を集めようとするものだったことに、私はやはり一抹の懸念を覚えざるをえない。

たしかにそれは、既得権益を守ってきた政治的仕組みを打破するには一定の効果を発揮したかもしれない。しかし、そのような既得権益に安住してきた人々を排除しただけで、残りの人々の人生がたちどころに好転するわけではあるまい。

そのようなとき、もしも自らの恵まれない境遇をもたらした責任を自分以外のどこか外部に、すなわち何らかの敵に見いだそうとするメンタリティを、国民の少なからぬ人々が持ってしまっていたとしたらどうだろう? 最近では資源問題や歴史問題をめぐって中国や韓国との関係がギクシャクしているが、そのような中で、隣国を外敵に仕立て上げ、それを標的にする形で偏狭なナショナリズムが我が国で盛り上がってしまったとしたら、どうだろうか? 外敵の排除に希望や意欲を見出させるようなことが起こってしまわないだろうか? 「内政の危機を外交で挽回する」という昔から行われてきた政治手法が、我が国でも行われないとも限らないのではないだろうか?

もちろん、こんなことは杞憂に過ぎないのかもしれない。私自身もそうであってほしいと思う。しかし、敵を作り出すことで一定の政治的効果をあげようとする政治手法が、最近の我が国で多くの国民の人気を集めてしまっていたことに、やはり私はいささか心配してしまうのである。

話がいつの間にかずいぶん大きくなってしまったが、要するにここで私の言いたかったことは、《政治に心の救済を求めるべからず》ということである。というのも、政治の用いる手段は「権力」だからである。“働く意欲”とか“生きる希望”といった「心の救済」の問題は、政治権力の扱うべき問題ではない。それを間接的に促すための制度的整備はできても、そこから先は、一人一人の心の問題である。それを扱うべきは、政治権力ではなくて、よい意味での宗教や思想・哲学なのである。

私たち国民は、政治に無関心になりすぎることもなく、またそれと同時にあまりに政治に熱狂しすぎることもなく、政治以外の場面で、自らの人生において持つべき人生観を提供してくれる思想・哲学、あるいは宗教とは何かということを正しく追求・判断し、その一方で政治に対しては、「政治にできること」と「政治のできないこと」、「政治の為すべきこと」と「政治の為すべきでないこと」とをシッカリと区別しつつ、冷静に政治と付き合っていくべきだと思うのである。

その意味で、総選挙前後の時にだけ政治的熱狂に踊らされ、その熱狂がさめた後はまた政治に無関心になってしまうといった状況がもし我が国にあるとしたら、それはあまり好ましいものではない。政治はもっと冷静に、しかも持続的に付き合っていかなければならない性質のものである。あまり感情的に流されることなく、もっと粘り強い議論を丹念に行っていくべき領域なのである。そういう意味での政治的成熟を、われわれ日本人はもっと示していくべき時だと思うのだが…。

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2006年9月12日 (火)

9/11の5周年の日に考える(2)

ハイエクはその著『自由の条件』(邦訳『ハイエク全集 第5巻』春秋社)の「責任と自由」と題した章で、経済的自由に伴う責任の厳しさについて、次のように述べている:

自由は、個人が選択の機会と負担との両方をもつことを意味するだけでなく、それはまた、個人が自分の行動の結果を引き受けなければならず、その結果にたいして称賛と非難とをうけいれることを意味する。自由と責任は不可分である。〔中略〕責任の否定は、通常、責任を恐れるからであり、その恐れは必然的に自由を恐れることでもある。疑うまでもなく、自分自身の人生を築きあげる機会は、絶えることのない課題、すなわち、もしも人が自分の目的を達成しようとするならば、自分に課さなければならない訓練をも意味するのであるから、多くの人々は自由を恐れるのである(邦訳105-106頁)。

つまり、自由は必ずしも甘いものではなく、むしろ自分で自分の生活を立てていくということを意味しており、その過程で起こってくる失敗についても、あくまでも自己の責任として引き受けていくことを人々に要求するものであるが故に、自由とはその実、なかなか厳しいものなのである。

そして、ハイエクは上記に引用した文章に付した注で、E・フロム『自由からの逃走』を挙げているが、このことは、昨今のテロの問題を考える上で、非常に示唆的であると思う。というのも、昨今のテロの特徴は、ロンドンでのテロがはっきりと示しているように、先進国で生まれ育ち、自由を享受していたはずのアラブ系移民2世による自爆テロが増えているということだからである。

なお、ロンドンのテロと“自由からの逃走”との間に密接な関係があるかもしれないことについては、本欄の昨年7月24日の記事をご参照願いたい。

このように自由がむしろ厳しいものであり、それに順応することは必ずしも容易ではないが故に、まだ経済的に未発達な発展途上国に経済的自由を急激に強いることは、かえって反発を招くだけであろう。

しかも、WTO(世界貿易機構)でいつも問題になるように、先進諸国でさえ、ハイエクの説く経済的自由の論理に首尾一貫して従っているわけではない。というのも、先進諸国は一方で工業製品については途上国にたいして門戸を開放するよう強く要求しているにもかかわらず、他方で、農産物については、途上国からの農産物に対して高い関税をかけたり、自国の農産物に多額の補助金を与えたりして、先進国自身の農業を途上国から保護しているからである。つまり、先進諸国は工業製品については自由貿易の論理を掲げているにもかかわらず、農産物についてはむしろ保護貿易の論理を持ち出しているのである。

9.11の同時多発テロの標的の一つが、NYの世界貿易センターであったことを思いだそう。あれは、アメリカの経済的繁栄の象徴を狙い打ちしたものだった。すなわち、アメリカの繁栄が途上国の犠牲の上に成り立っている(と見える)ことに対する強烈な異議申し立てが、あの同時多発テロだったのである。その意味で、あれは宗教戦争と言うよりは、宗教的情熱を利用した政治的・経済的な争いなのである。

だとするならば、現在の米ブッシュ政権が取っている、あまりにも強引に見える自由拡大政策は、むしろイスラム諸国をはじめとした非欧米諸国の反発を招くだけであろう。したがって、むしろアメリカの取るべきは、かつてアメリカが我が国に対してとってくれたように、まだ経済的に未発達な国に対する寛大な姿勢、すなわち、一定の政府規制を伴った開発主義を認めることだろう。さもなければ、アメリカはこれからも、「あまりにも自国中心主義的である」との非難を浴び続けてしまうと思われる。

とはいえ、貿易赤字と財政赤字という“双子の赤字”を抱えるようになってしまった現在のアメリカには、かつて第二次大戦後に我が国に対して見せてくれた寛大な姿勢を取る余裕は失われてしまっているのかもしれない。だとすれば、アメリカの同盟国としての我が国こそが、そして経済的にアメリカに次ぐ大国となった日本こそが、かつて自らがその恩恵にあずかった開発主義を採用することを途上国に認めつつ、みずからは経済的自由主義の論理に首尾一貫して従うだけの度量を示すべき時だと思われるのである。

なお、宗教テロについて本欄でかつて論じた記事については、カテゴリーの「宗教テロ」に属する一連の記事を、また開発主義については本欄の昨年8月7日同8日の記事を参照されたい。また、国際テロとグローバリゼーションについては、昨年7月13日同14日同15日で論じている。

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2006年9月11日 (月)

9/11の5周年の日に考える(1)

2001年9月11日の米同時多発テロから今日でちょうど5年が経った。あの日以来、ブッシュ政権の推し進めてきた“対テロ戦争”は現在も継続中だが、そのような中でブッシュ大統領は、9月5日、米国軍将校協会の会合で演説し、アルカイダの指導者オサマ・ビン・ラディンをレーニンやヒトラーになぞらえたという(このことはいろいろなところで報道されているだろうが、私が直接確認したのは、こちらのgooニュースの記事によってである)。

つまり、ブッシュ大統領は、かつて二十世紀にアメリカ主導の自由主義文明に対抗したファシズムや共産主義に言及しつつ、現在の対テロ戦争を二十世紀的なイデオロギー対立と同等のものと見なすことによって、米国民に対テロ戦争の正当性を訴えようとしている、というわけである。ブッシュ大統領にとって、オサマ・ビン・ラディンは、ファシストであり、全体主義者だというわけである。

私には、このブッシュ大統領の演説が、本気でそう信じた上でなされたものなのか、それとも対テロ戦争に大義名分を持たせるための単なる修辞として用いられたものなのか、ということについては分からない。この点について正確に判断するための材料を現在の私は持たないので、これについての安易な断定は慎まねばなるまい。

また、はたして本当にオサマ・ビン・ラディンが、政治思想上の正確な意味で「ファシスト」であり「全体主義者」と呼べるかどうかについても、ここで問うことはしないでおこう。

だが、いずれにせよ、ひとつだけ確かだと私に思われ、また非常に気になることがある。それは、このブッシュ大統領の演説に見られる論調は、かつて父ブッシュ元大統領が冷戦終結時に声高らかに「新世界秩序」を唱えたときの自信に満ちあふれたそれとは、明らかに異質のものだということである。

たしかに「アメリカ流の自由民主主義を世界に広めるべし」というメッセージは、1918年1月に当時の米ウィルソン大統領によって発せられたいわゆる「十四ヶ条」以来、歴代のアメリカ大統領によって繰り返し掲げられてきたものであり、父ブッシュ元大統領も現在のブッシュ大統領もこの点で変わりはないことは、間違いないだろう。

しかしながら、私にとって気になるのは、かつての父ブッシュと異なって、現在のブッシュ大統領の場合、危機意識がはるかに強くなっている分だけ、そのメッセージがきわめて攻撃的なものとなっているということである。

それがきわめて攻撃的で、あまりにも強引なものと映るがゆえに、多かれ少なかれ非欧米諸国からの反発を招いていることは、いまさら述べるまでもないだろうが、私が懸念しているのは、たとえその攻撃的な姿勢が曲がりなりにも功を奏して、これからも引き続き米国流の自由民主主義が米国の主導によって非欧米諸国に押し広められていくとしても、それが果たして本当に非欧米諸国の人々が心底から受け入れるものとなりうるか?--ということである。

特に私が気にしているのは、アングロ=サクソン流の自由市場経済が強引に押し広められようとした場合のことである。

私自身の研究関心に引きつけて思考をめぐらせることを許していただけるとすれば、ここで私が念頭に置いているのは、やはりハイエクである。とくにその1960年の著書『自由の条件』のことが私の頭に浮かんでくる。というのも、この書の冒頭には「アメリカに成長しつつある未知の文明のために」という言葉がつけられているからである(『ハイエク全集 第5巻 自由の条件Ⅰ 自由の価値』春秋社、1986年、3頁)。

現在アメリカが推し進めようとしている自由民主主義が必ずしもハイエクの思想を忠実に体現したものとは限らないだろうが、思想の面から考えて、ハイエクの自由論の中身について確認しておくことは、今後のアメリカにとって、またアメリカを最重要の同盟国としている我が国にとっても、意味のあることだろうと思う。というのも、ハイエクは冷戦期に「自由市場経済とは何か」ということをトコトン考え抜いた、二十世紀を代表する思想家の一人と言ってよいからである。

そのようなわけで、次回は、このハイエクの自由論について、できるだけ簡潔に、私なりに再確認してみることにしたい。

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2006年9月10日 (日)

シャドウイングの効用

『CNN ENGLISH EXPRESS』をフル活用して英語力を上げようと毎日練習し始めていることを前回書いたが、その練習の中で「これは効果的だな…」とつくづく感心しているのが、「シャドウイング」という練習法だ。

英語の聞き取り練習をしている人にはすでにお馴染みの練習法だと思うが、これは「スクリプトを見ないで、流れてくる英語をそのすぐ後から影のように繰り返す」というもので、なかなか難易度の高い練習法である。

このシャドウイングの練習をしていて分かったことは、「シャドウイングできない箇所は、本当の意味では理解できていない箇所である」ということだ。テキストにはもちろん英文(スクリプト)も載っているから、そのスクリプトを見れば意味が一応は理解できるのだが、いざシャドウイングをしてみると、それがうまくできない箇所がいくつも出てくる。そのたびに、その箇所を繰り返し音読練習をし、意味が即座に分かるようになるまで、さらにシャドウイング練習を続けるのである。そうしているうちに、だんだんと即座に理解できる箇所が増えてくるのが分かるので、なかなかやり甲斐のある練習である。

このシャドウイングの練習をしていて、初めて認識できたことがある。それは、次の2点だった:

①聞こえてくる音を「そのまま素直に」受け取ることで初めて、聞いたときに即座に分かるようになるということ。
②シャドウイングができるようになると、英文を「読む」のも早くなり、会話で使えるようになる表現も増えるということ。

①は当たり前のことを言っているようであるが、私には新たな発見だった。英文を見て理解できたとしても、それがどのような音として聞こえてくるかを同時に理解していないと、リスニングでは対応できない、ということ自体は、前から頭では理解していた。しかしながら、これまでの私は、「なんでこの英文がこんなふうに発音されるんだ!」という一種の反発心を、ネイティヴの話す、必ずしも一字一句きちんと発音されていない、ちょっと崩れた発音に対して抱いていた。このことを、練習していくうちに、自覚できたのである。

しかしそれでは実践的なリスニング力の向上は覚束ないだろう。そうではなくて、そこはやはり、聞こえてくる音を「そのまま素直に」受け止めて、その文字と聞こえてくる音とを自分の中で一致させていかなければならないのである。そのように素直になったとき、面白いことに、聞いて分かる発音が格段に増えてきたのである。

②も私にとっては、新たな発見だった。第一義的にはリスニング練習としてシャドウイングをしているのだが、それに伴って、自然とその英文を「読む」のも早くなり、会話で使える表現も身についていくのである。たとえば、「~の進路を追う、~の動向を追跡する」というのは英語で keep track of~というが、これをたんに目で読んだときに受動的にそう理解できるだけではなく、自分でも使える表現として、自然と身についてしまうのである。シャドウイングのときに即座に理解し、後から影のように繰り返すことができるようになると、「読む」力も「話す」力も、同時に伸びるのであった。

「聞く」「読む」「書く」「話す」--これらは決して別々のものではない、ということは、頭では分かっているつもりだった。しかし、それを本当に肌で実感したのは、これが初めてだったのである。

もっとも、この「シャドウイング」というのはなかなか高度な練習法であり、その前提として必要なのは、英文を「日本語の順番に当てはめて、後から訳し上げる」のではなく、「聞こえてくる順番に、英語の語順で文の頭から情報を処理していく」というやり方に慣れておくことである。これを、『CNN ENGLISH EXPRESS』によると、「区切り聞き」というそうであるが、この「区切り聞き」に慣れておいてから、これをもっとスピードを上げて、聞こえてくる英文をその順番で次々と処理していく練習となるのが、シャドウイングなのである。

この「区切り聞き」で行われるために必要な、「英語が出てくる順番に、前から順に理解していく」ことを、まず英文を「読む」ときに私がスムーズにできるようになったのは、以前にも本欄で言及した、大西泰斗・Paul C. MacVay両氏による一連の共著のおかげであるが、ここでは特に、次の書を掲げておきたい:

『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』(研究社、2005年)1,575円

いずれにせよ、シャドウイングの練習によって、CNNのようなニュース英語への理解度が着実に上がっていっていることが実感できるのはうれしい。これからもコツコツと練習を続けていきたいと思う。

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2006年9月 8日 (金)

CNN ENGLISH EXPRESSのフル活用を決意

私が通っているECC難波校の時事英語クラスで使われているテキストの一つは、『CNN ENGLISH EXPRESS』という月刊誌(朝日出版社刊)である。アメリカの三大放送ネットワークの一つであるCNNから題材を集め、学習用に編集されたものだ。ECCでのテキストはもう一つあって、それはイギリスの公共放送局BBCから題材を集めたテキストであるが、こちらは月刊誌ではなくて、一冊で完結した書物である。毎週木曜日の授業プログラムは、CNN→CNN→BBCというサイクルで進められていく。

その時事英語クラスでは、BBCのテキストの方は15本のニュースしか収録されていないので、上記のサイクルで行なっても一年間で何とかほとんど全てを学習できるが、CNNのテキストの方は、その内容が盛りだくさんなので、そのすべてを授業で取り上げることはできない。また、毎月の号がテキストとして用いられてもいない。最初に4月号を少しずつ学習した後のテキストは、9月号にまで飛んでしまった。要するに、CNNの月刊誌をフルに活用することは、各自の自宅学習に任されているのである。これは1週間に1回しか授業がないという制約からして、仕方のないことだろう。

4月から7月までは、私の勤務大学での授業の持ちコマ数が週7回あって、授業をこなしていくだけで精一杯になってしまったため、CNNの月刊誌をECCでの授業以上に、自分で学習する時間を作れずにいた。しかしながら、その内容をよくよく見ていると、自宅学習用になかなかよくできているので、思い切って9月号からの毎月号を自主的に購入して、フルに活用していくことにしたのである。

そうしていざ始めてみると、「これはいいぞ…!」と思えるようになった。これを続けていけば、徐々にではあるが、着実に英語力が伸びていくことを予感できるのである。毎日学習を進められるように、うまく工夫して編集されているので、その気になりさえすれば、毎日練習できるのがありがたい。

実を言うと、これまでは、レッスン日の木曜日にのみ備えて何とか勉強を中断させずに済んだという状態だった。だが、今回、『CNN ENGLISH EXPRESS』をフル活用する決心をしてからは、練習を毎日続けることができ始めたのである。毎日の練習が何事を身につけるのでも最も効果的だから、今回、練習を毎日できるようになったことを大変嬉しく思う。

もっとも、このCNN月刊誌のニュース記事に添えられている文法解説自体は、従来の学校英文法に依然として忠実に書かれているが、私自身はそれには頼っていない。というのも、英文法については、『ハートで感じる英文法』(NHK出版)をはじめとした大西泰斗氏(東洋女子短大教授)とPaul C. MacVay氏(麗澤大学助教授)による一連の共著や、現在NHK教育テレビで放送中の「新感覚キーワードで英会話」の監修者・田中茂範氏(慶應義塾大学教授)の著作の方が、ネイティヴ・スピーカーが体得している言語感覚にまで根を下ろした生きた英文法を教えてくれているからだ。私が現在、このCNN月刊誌を使って学習する際に、あまり抵抗なくスムーズに進んでいけるのも、以前に生きた英文法を勉強できたおかげであることは間違いないのである。

ちなみに、田中茂範氏の著作については、本欄で以前に取り上げたことがあるので、詳しくはこちらを参照されたい。また、大西泰斗氏とPaul C. MacVay氏のオフィシャル・サイトもなかなか有用だと思う。

それにしても、その生きた英文法を基盤として実践的な英語力を身につけていくためには、生の英語にたくさん触れていくしかないから、その意味で、『CNN ENGLISH EXPRESS』の毎月号をフル活用していくことは、私の英語力を着実に向上させてくれることだろう。毎日コツコツと練習に励んでいきたいと思っている。

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2006年9月 7日 (木)

身障者サッカー親善大会に参加(2)

前回の記事から少し日があいてしまったが、今日はその前回の続きを書くことにしよう。

昨年、本当に久しぶりにこの「身障者サッカー親善大会」に参加した。トレーニングがまったく充分ではなかったので、思うように体がシャープには動かなかったが、トレーニングが足りなかった割には、ほどほどに体が動いたのは、うれしい驚きだった。

といっても、やはりトレーニングが足りていなかったという事実に変わりはなかった。なかでも迂闊だったのは、基本中の基本たる「ウォーミングアップ」の重要性をすっかり忘れていたことだった。試合前にそれを怠っていたため、試合は20分ハーフ--すなわち前後半20分ずつの計40分--だったのだが、その最初の20分間はとてつもなく疲れてしまい、もう全然動けないと思われるほどだった。

ところが、その試合の後半の20分ハーフを休ませてもらったら、だんだん回復してきて、かえって体がよく動くようになった。つまり、「ひと汗かいた後の方が体がよく動くようになる」という基本を、「そういえばそうだった…」とその時初めて思い出したのである。なんとも恥ずかしい話だが…。

そんなことが去年あったので、今年は当日の試合前のウォーミングアップを入念に行なった。のみならず、前の日の晩から体をほぐすことを心がけた。つまり、前日夜のお風呂上がりにストレッチ体操を入念に行なったのである。翌日の試合当日の朝にもお湯につかり、体をほぐした。試合開始(9:30)の一時間半前(8:00)にはグラウンドに出向き、準備体操やランニングを念入りに行い、「ひと汗かいておいた」のである。

そのおかげで、今年も20分ハーフの試合を二つ--しがたって、計80分--行なったのだが、二つともフル出場することができた。去年よりも体の動きはよかったので、プレーしていて、本当に楽しかった。実は何人かの方から「よく動いてたなぁ…」と褒められたのだが、それはまさに望外の喜びだった。

しかしながら、まだ普段のトレーニングが足りていなかったことに変わりはなかった。去年の親善大会を終えてから、「来年に向けては運動するぞ!」といったんは決意したものの、その決意が長くは続かず、結局は普段の生活の中でトレーニングらしいことは殆どできずに終わったことは、実は去年とあまり変わっていなかったのである。実際、ある程度は走れたものの、さらにスピードを上げようとすると、大腿部が「もうこれ以上はできませ~ん!!」と悲鳴を上げそうになるのを感じた。要するに筋力不足だったのである。そのため、スピーディで切れ味の鋭いプレーは全くできずに終わったのであった。

にもかかわらず、今年は「楽しい」と思えるほどには動けたのには、次のような理由が挙げられると思う:

①タバコをまったく吸っていないこと→心肺機能を極端には衰えさせていなかった
②夏でも極力クーラーを使っていなかったこと→夏の暑さに体が慣れていた
③普段から階段を使い、エスカレータやエレベータは使わなないようにしていたこと→歩く運動は多少はできていた

もっと遠くの原因を探れば、「昔取った杵柄」と言うように、小学校・中学校・高校とずっとスポーツをしてきたということもあるだろうが、それ以来、本格的なスポーツからは殆ど全く遠ざかってきていたにもかかわらず、今年はあれだけ動けたのには、上記の①~③の理由があったのである。無論、この①~③はずっと続けている習慣だから、去年にも当てはまることだったのだが、いずれにせよ、たったこれだけのことでも非常に大きな効果を発揮したことを思うと、普段の生活習慣がいかに大切かということを、改めて実感できたような気がする。

そして、去年と違っていたもう一つのことは、終わった後、「来年に向けて、運動したいな」と自然に思えたことだった。去年は「運動しなければ!…でもちょっとシンドイかも」としか思っていなかった。ところが今年は「運動はやっぱり楽しい!」と思えたのである。この体を動かす楽しさは、もう理屈抜きでそうなのだ、ということを今年は思い出せたのである。

去年が本当に久しぶりの参加だったので、それを「一回目」と数えると、今年は二回目の参加だった。来年は三回目である。“三度目の正直”ということわざがあるが、来年はまさにそうなってくれるような気がして、今からワクワクしている。

そんなわけで、来年に向けては、普段から楽しんで体を動かしていこうと思う。それはきっと、教育と研究の仕事にもプラスに働いてくれるに違いない。

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2006年9月 4日 (月)

身障者サッカー親善大会に参加(1)

9月2~3日に、身体障害者サッカー親善大会に参加してきた。会場は神戸市北区の「しあわせの村」である。正式名称は「'89フェスピック神戸大会記念 日本身体障害者サッカー親善大会」という。

「日本身障者サッカー親善大会」といってもそんなに大袈裟なものではなく、初日の夕方に集合してその日の夜は懇親会をし、一泊した後、翌二日目の午前中に、神戸市内のママさんサッカーチーム--実はなかなか上手なチームである--とのフレンドリーマッチを楽しむ、というものである。

この「身障者サッカー親善大会」は、ある年を除いて、ほぼ毎年行われてきているが、今回はこの親善大会のもとになった「'89フェスピック神戸大会」のことと、その後この「親善大会」が行われるようになり、一時存続の危機を迎えながらも素晴らしく復活した経緯について、簡単にではあるが書いておこうと思う。

この「'89フェスピック神戸大会」(以下、「フェス89」と略記)というのは、1989年(平成元年)--たしか9月だったように思うが--に神戸で行われた、環太平洋諸国の身体障害者のためのスポーツ大会のことである。「環太平洋諸国」というところが、全世界を参加対象とし、オリンピックと同年に開かれる「パラリンピック」との大きな違いなのだろうと思う。

身障者のためのスポーツといえば、普通、水泳や、車椅子バスケット/テニスなどの車椅子利用者のための競技等が思い浮かぶだろうが、この「フェス89」の時にはサッカーも競技種目の一つに加えられた。その当時20歳だった私は--そして「左上腕欠損」という障害を2歳の時以来負っていた私は--中学校・高校とサッカーをしてきた経験を買われて、「日本代表チーム」の一員としてこの大会に参加したのである。

ただし、サッカーは身障者のスポーツとしてはあまり普及していなかったためか(現在でもその事情は変わっていないと思うが)、参加国は日本とインドネシアだけだったので、日本がAチームとBチームに分かれ、計2ヵ国3チームの総当たり戦形式で行われた。私は日本Aチームの一員として参加したが、結果は2位だった。1位はインドネシアである。傷痍軍人の選手によって構成されたインドネシアチームは、日本チームの体力を上回っており、われわれ日本チームはA・Bともに走り負けてしまった。日本A対インドネシア戦のスコアは、たしか0-2だったように記憶している。

その「フェス89」のあとも、「これでおしまいにしてしまうのはもったいない。年に一度はみんなで会おう!」ということで、そのときの日本の身障者サッカー代表選手が同窓会のような形で年に一度集まってサッカーを楽しむ、ということが行われてきたのである。

その「親善大会」は、最初のうちは、「フェス89」の会場提供者・神戸市の協力によって行われてきた。ところが、例の阪神淡路大震災のために、神戸市が復興に全力を挙げる必要から、この「親善大会」は協力母体を失って、一時中断してしまったのである。

それでもう、この集まりもおしまいかと思われたのだが、関係者一同のただならぬご尽力により、思わぬ形で素晴らしく復活した。なんとあのJリーグがバックアップしてくれることになったのである。というのも、身障者もサッカーにいそしむということが「Jリーグ百年構想」の趣旨に合致するとみなされたからである。この「百年構想」についてはこちらをご覧いただきたい。Jリーグの川淵三郎チェアマン(当時)がそのように判断され、場所が神戸ということで、具体的な主催者としてヴィッセル神戸を指名されたと聞いている。関係者一同のご尽力には心から感謝せずにはいられない。そのようなわけで、「'89フェスピック神戸大会記念 日本身体障害者サッカー親善大会」が、一時存続の危機を迎えながらも見事に復活し、毎年9月初旬の土日に行われ続けることになったのであった。

なお、この「親善大会」の昨年の様子についての簡単な報告記事がこちらに掲載されている。おそらく今年の大会のことも、近いうちに掲載されることと思う。

実を言うと、私は「フェス89」が終わった翌年から2,3回だけ「親善大会」に参加した後は、研究者として独り立ちすることに精一杯で、これに参加するだけの心の余裕を持てなかったため、ずいぶん長い間参加していなかったのだが、ここにきてようやくその心の余裕を持てるようになったため、昨年、実に久しぶりに参加させていただいた。今回の参加は、昨年に引き続いての参加だったのである。

この今回の参加がどうだったのか--それは非常に楽しいものだったのだが、このことについては、また次回に書かせていただくことにしよう。

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2006年9月 1日 (金)

再試験受験者の諸君へ

政治学概論(名張) 再試験受験者の諸君へ

今日、再試験対象者の発表があった。その対象者リストに自分の学生番号を見つけた諸君は、多かれ少なかれショックを受け、ガッカリしたことだろうが、そこはひとつ、気を取り直して、本試験に臨んだときの準備不足を謙虚に反省し、気持ちを新たにして、シッカリと準備してほしい。

「再試験にはどんな問題が出るのですか?」と、何人かの学生に今日聞かれたが、本試験と同じものが出題される。まったく同じ問題である。

そう答えたとき、「えっ!そうなんですか…」と少し顔を曇らせた学生もいた。「再試験はもう少しやさしい問題が出されるかもしれない」と期待していたのかもしれない。なかなか本格的な記述・論述問題だったから、再試験では選択・穴埋め式を期待したかったのかもしれない。

科目によって、また担当教員によって、考え方はいろいろあるのかもしれないが、私の考え方は、「同じ難易度の問題を出さなければ、不公平だ」というものである。

ちなみに、再試験で合格した場合の評価は「可」のみであり、たとえ70点や80点を取っても、「良」や「優」ではなくて、「可」とだけ評価されるが、それは2度目なのだから当然である。

だが、ここでの問題は、仮に再試験の難易度を本試験よりも低くした場合、それでも再試に合格したときには「可」と評価されることになるが、この再試験での「可」は、本試験での「可」よりも取るのがやさしくなってしまっている、ということである。

もしも再試験での出題が本試験よりもやさしくなるのであれば、本試験の時はわざと落第しておいて、再試験でラクをして「可」を取ろう、という姿勢が蔓延してしまうだろう。これが果たして、本試験で「可」を取った学生と比べて、扱いが公平だと言えるだろうか? 決してそうではあるまい。

やはり、再試験での「可」も、本試験で「可」を取るのに必要なはずだったのと全く同じレベルに到達してこそのものだろう。再チャレンジの機会を与えられるということ自体が、実は必ずしもあって当然ではないことであり、それは非常に恵まれた「救済措置」なのだから--実際、私が通っていた大学には再試という仕組みはなかった--そのことを心に銘記して、ぜひとも奮起して再試験に本気で臨んでもらいたい。

本来なら、難易度を同じにしていさえすれば、再試験では本試験とちがう内容の問題を出してもよいのである。

しかし、私の場合はそうはせず、全く同じ問題を出題する。だから、「同じ問題を出します」と聞いたときには、顔を曇らせるのではなく、むしろ目を輝かせてほしいのである。違う問題ならまた新たな準備が必要となるが、全く同じ問題なら、本試験に臨む場合に本来なら必要だった準備をしておけば、それでいいからである。

そのようなわけで、再試験の受験に当たっては、本試験で60点以上を取るために本来必要だった準備に、シッカリと取り組んでもらいたい。配点も全く本試験と同じである。よい答案を期待している。

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