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2006年12月31日 (日)

2006年の回顧と2007年の抱負

今年もあと残すところ数時間となった。年の終わりを迎えるにあたって、今年の回顧と新年の抱負を、研究・教育・英語・健康、この4つの面にわたって、手短に述べておくことにしたい。

2006年の回顧

研究面では何といっても、私にとって初めての本を出版できる運びとなったことが最も大きなことだった。これまでの私のハイエク研究の積み重ねを、1冊の本という形にまとめ上げられたことは、やはり非常に大きな成果だったと思う。

教育面では、昨年は週平均6コマだったが、ことしは通年で換算すると週5.5コマの授業(前期7コマ、後期4コマ)だった。その担当授業をほぼ順調にこなすことができた。受講学生による授業評価も、昨年に引き続き、今年もおおむね好評を得られたので、ホッとしている。

英語では、ECCでの実力テストの判定によれば、おおよそ、TOEICで言うと700点台前半、英検で言うと準1級レベルに相当する実力が安定的についてきたようである。リスニング力もだいぶ上がってきたし、読むスピードも、それに伴っていつの間にか上がっていた。聞いたり読んだりした順番に、英語を頭から理解できる能力が少しは向上したのだと思う。

最後に、健康面では、6月中旬から通い始めた虫歯の治療が今月中旬に終了したことが大きい。月平均2~3回のペースで、結局、半年間ずっと通い続けることになったが、悪かったところを全て治療してもらった。その過程で、歯磨きの仕方も上達でき、普段の歯・歯ぐきの状態が大きく改善されたと診断してもらったことが、大変嬉しかった。「適度な運動」という面ではまだ物足りなかったが、昨年に引き続いて、駅などでエレベータやエスカレータを使わず、ほとんどすべての場合において階段を使ったことは、脚のためになったと思う。風邪は何度か引いてしまったが、いずれもそんなに長引かなくなった。風邪予防のための手洗い・うがいの習慣は完全に身についたし、普段の食欲も、かつてに比べればずいぶんと増したように思う。

2007年の抱負

研究面では、まず、3月に出版される予定の本がどのような反応を受けるかであるが、もしも一定の評価を得られたとするならば、それだけ責任も大きくなることになるが、どういう反応が得られるかをまずは待たねばならないだろう。いずれにせよ、時代の趨勢を正確につかみつつ、わが国におけるハイエク研究の進展に、今後も貢献していくことを目指したい。その一環として、「ハイエクの思想をグリーン・リベラリズムの発展にいかに生かすことができるか」というテーマに、ハイエク思想の現代的応用の試みとして、着手してみたいと思っている。

教育面では、来年4月から、本務校の皇學館大学で担当授業がさらに一つ増えることが決まっているとともに、他大学での非常勤も来年10月から1科目引き受けることになったので、通年で平均するとおよそ週7コマとなる。これを“負担”と考えずに、「それだけ私という人間が必要とされているということだ」と解釈して、来年はさらに生き生きと授業に取り組んでいきたいと思う。

英語では、これまで資格試験を受けることにやや消極的だったが、ECCの先生にも「君ならできるよ」と勧められたこともあるので、英検1級に合格することを本気で目指してみたい。

最後に、健康面では、引きつづき歯の手入れを丁寧にしていくことと、新年こそは、一度も休講せずにすむよう、一年じゅう健康で元気ハツラツと過ごしていきたいと思う。あと、来年からは、階段を使うことに加えて、毎日の生活の中に適度な運動(徒歩)を、もっと取り入れていきたいと思う。

読者の皆さんにおかれましては、今年一年、この『教育・研究日記』をご愛読くださり、誠にありがとうございました。どうぞよいお年をお迎え下さい。新年もどうぞよろしくお願い致します。

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2006年12月29日 (金)

ナイジェリアの石油をめぐる不穏な空気

先日の12月27日の本欄で、ナイジェリア石油パイプラインの爆発事故に関して一文を書いたとき、そのニュースを最初に聴いたときに「テロリストの仕業か?」と勘繰ったが、それが実際にはそうではなかったと書いた(こちら)。だが、ナイジェリアの石油をめぐる事情について調べているうちに、私が最初に「テロリストの仕業か?」と思ったのも、まんざら的外れではなさそうだということが分かってきた。というのも、たしかに今回の爆発事故自体は一般市民が石油を盗み出そうとした際に誤って引火させてしまったことが直接の原因だった模様だが、そのきっかけとなった「石油を盗み出す」という行為自体の背後には、どうやら武装組織の存在があるようだからである。

イギリスBBCのウェブサイトの"Learning English--Words in the News"のコーナーに、12月21日付で、ナイジェリアで石油会社のシェルが武装組織によって襲撃されたニュースが掲載されていた(こちら)。実を言うと、このページにアクセスしたのは、ナイジェリアの石油情勢を調べようとしたのではなく、今日の夕方にBBCのウェブサイトで英語の勉強をしようと思ってのことだったのだが、そうすると意外なことに、そこにナイジェリアでの石油情勢についての記事が教材として載せられていた。その"Words in the News"では、各記事の末尾に、このニュースに関してさらに読み進めるためのリンクも貼られているので、つい最近の私のナイジェリア石油問題についての関心との不思議な符合に驚きつつ、そのリンクをたどって、関連記事を丹念に読むことになったのである。

そうすると、その関連記事では、ナイジェリアの石油地帯(ニジェール川のデルタ地帯:the Niger Delta)の周りにいくつもの武装組織があることがリポートされていた。それらの武装組織は、その地帯の石油から得られる莫大な富を貧困にあえぐ地元住民にもっと分け与えるべきことを主張しつつ、シェルなど同国内の大きな石油会社をたびたび襲っては人質をとって身代金を要求したり、あるいはパイプラインから石油を盗み出しては、それを闇市場で売り(高値で売れるという)、その利益で武器を調達しているというのである(闇市場での石油売却先は主に旧ソ連地域の国々だそうである)。そうした武装組織を、政府高官が背後でバックアップしている可能性も高いらしい。

だから、先日の爆発事故の際にも、おそらくそのような武装組織が大いに関与していたのではなかろうか。というのも、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙のオンライン記事にも、「プロの盗賊がパイプラインを破壊した」という目撃情報が書かれていたからである(こちら)。

また、仮に武装組織の関与が疑われるとしても、私が最初に「そうだとしたら、もっと大騒ぎしているはずだ」と考えたのは的外れであり、実際は大騒ぎされない理由も分かってきた。というのも、こうした石油をめぐっての武装組織の存在は、ナイジェリアにとって、そしてそのニュースにすでに親しんでいる人々にとっては、きわめてありふれた話--That's an old story...!!--であろうからである。むしろ、普段から石油泥棒に悩まされている現地の石油会社の人々は、先日の爆発事故で亡くなった人々のことを「それ見たことか、いい気味だ」とさえ、心中ひそかに思っているかもしれない…。

いずれにせよ、ナイジェリアの石油をめぐっては、不穏な空気が充満している。限られた地域に埋蔵された資源をめぐる奪い合いは、古今東西、政治問題の最たるものであるが、ナイジェリアの例は、それを如実に例証しているであろう。そのような熾烈な奪い合いに巻き込まれずに済むよう、他から奪う必要のないクリーンな自然エネルギーの開発に全力を注ぐことこそが、わが国も含めた、21世紀における各国政府(とくに先進諸国)の非常に重大な役割だと思うのだが…。

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肉食と穀物と森林破壊…そして飢餓

昨日12月28日のヘラルド朝日紙の社説欄に、「食用肉と地球」(Meat and the Planet)と題された論説が掲載されていたが、ここには、肉食が大きな地球温暖化の促進要因になっていることが要領よく述べられていた。

それによると、(食用肉にするための)家畜は、実に地球温暖化効果のおよそ18%を占めており、それは交通・運輸による温暖化効果の割合(すなわち自動車等の排気ガスによる温室効果)を上回るのだという。というのも、ウシの胃袋からはメタンガスが吐き出されるし、肥料からは窒素が排出されているからである。それに加えて、牧場(の開拓)による森林破壊も地球温暖化を促進する。そうした事実を簡潔に述べた後、そのヘラルド朝日の論説は、「われわれの健康と地球の健康は、家畜の生産をもっと持続可能な方向にもっていくことにかかっている」(our health and the health of the planet depend on pushing livestock production in more sustainable directions.)という一文で結ばれている。

この論説を読んで思い出したのは、今年の5月19日に放映されていたNHKスペシャル「アマゾンの攻防~日・中・米 大豆争奪戦」である。NHKによるその簡単な内容紹介についてはこちらをご覧いただければよいのだが、要するに、中国において大豆の需要が爆発的に増えたため、日・中・米の間で、急増する大豆の需要を満たそうと、ブラジル・アマゾン川流域の穀倉地帯を舞台に、大豆の争奪戦が繰り広げられているというのである。その大豆を栽培する地域を拡大するために、アマゾン川流域での森林伐採が進み、一昨年だけで東京都の12倍の面積の熱帯雨林が消失したという。

それにしても、なぜ、中国でそれだけ大豆の需要が急激に増えたのだろうか? それは、経済発展の著しい中国で、肉食をする人が増えたからである。その食用肉を生産するために家畜を早く肥らせるには、大豆から食用油を搾り取った「大豆粕」が良いのだそうである。というのも、その大豆粕は穀物の中で最も多くのタンパク質が含まれているからである。このように、日本やアメリカでのみならず、中国でも肉食をする人が増えたことにより、大豆の輸出大国・ブラジルでは、大豆栽培のためにアマゾンの森林破壊が進んでいるのである。

また、そのNHKスペシャルでは触れられていなかったが、大量の大豆粕が(人間が食べるための肉にされる運命の)家畜の口に放り込まれている一方で、この同じ地球上では、いま私の手元にある日本ユニセフ協会の基礎チラシ「守りたい、子どもの命…子どもの未来」によると(オンラインではこちらでそのチラシの写真が小さく掲載されている)、1年間で1050万人もの子供が5歳の誕生日を迎える前に、(飢餓や栄養不足による病気で)亡くなっている。

つまり、先進国での飽食による生活習慣病(最近の言葉で言えば“メタボリック・シンドローム”)の一方で、途上国では3秒に1人、子供が命を落としているのである…。

しかし、もしも、いま家畜の口に渡っている穀物がこれらの子どもたちに行くならば、こうした飢餓もなくなるはずであろう。そのために最善の方法の一つは、要するに、われわれが肉食をやめる(あるいは減らす)ことなのである。それは、食肉用の家畜を飼うスペース確保のための森林破壊への推進力も大きく減らすことになる。

そう考えていくと、何も大きな革命を起こそうとしなくとも、われわれ先進国の人間ひとりひとりが、日常生活の中で肉食することを少しでも控えることによって、現在大きなグローバル・プロブレマティーク(地球的問題群)となっている地球環境問題と飢餓・食糧問題との解決が、大きく進むことが分かるだろう。私たち自身の健康のためにも、地球の健康のためにも、菜食の方が望ましいのである。かく言う私は、宴会等の場で勧められたときには肉もいただくが、普段の生活において自分で選べるときには、野菜と魚を食べるようにしている。

読者の皆さんも、新たな年を迎えるにあたって、肉食を少しずつ減らしてみませんか?

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2006年12月27日 (水)

ナイジェリア石油パイプラインの爆発事故

今日はすでに記事を一つ本欄に掲載済みであるが、昨日から今日にかけて報じられたある事故に大いに触発されたので、変則的ではあるが、今日はもう一つ掲載させていただこうと思う

昨日の夕方、英BBCワールドサービスのラジオ(BBCウェブサイトのinternational versionからアクセスできる)を聴いていたら、ナイジェリアの石油パイプラインが爆発し、20数人(とその時点では言っていたように思う)が死亡した--死者数はさらに増える模様--というニュースが耳に止まった。原因についてはまだ不明と言っていたので、一瞬「テロリストの仕業か?」と勘繰ってしまったが、もしそうだとしたら、もっと大騒ぎしているはずだから、そうではないだろうと思い直した。「だとしたら、一体、何が原因だったのだろう…」と不思議に思っていたのである。

そうすると、今朝の産経新聞では、共同の記事として「油送管爆発、200人死亡 ナイジェリア 石油盗む最中 引火?」というタイトルで、その事故が報じられていた。今朝7時からのNHKニュースでも同様に伝えられていたが、死者数が200人に増えていたことにまず心を痛めたのに加えて、その原因について「石油盗む最中 引火?」と報じられていることに、「う~む…」と大いに考えさせられたのである。

産経の記事によると、ナイジェリアでは1990年代以降、石油を盗んでいる際の同様の爆発事故が相次いでいるというが、その事実を知らなかったことは、まことに迂闊であった。資源問題に私が重大な関心を持ち始めたのは、比較的最近のことだから、報じられていても、私の目にとまらなかったのだろう。いずれにせよ、まだ正確な原因は不明であるが、同様の事故が過去にも相次いで起こってきたことからすると、おそらく、石油をパイプラインから盗んでいる最中に起こった悲劇である可能性は高いだろうと思われる。

今朝のNHKニュースや産経新聞では、それまで判明している事実について簡潔に報じられていただけで、その原因について、それ以上の突っ込んだ分析は為されていなかったが、私は直観的に「ナイジェリアでの貧富の格差が原因ではないか…?」と考えた。アフリカ最大の産油国であるにもかかわらず、その石油による富が一部の石油会社及び政府高官によって独占され、残りの大多数の国民が貧困にあえぐなかで、その貧民たちが少しでも稼ぐために、パイプラインから石油を盗もうとした結果ではないか…と思ったのである。

その私の推測を裏付ける記事が、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)のオンライン記事に掲載されていた(こちらを参照)。それによると、まず死者数は260人と報じられていたが、事故の背景としては、ナイジェリアは世界最大の産油国の一つであるにもかかわらず、ナイジェリア国民1億3千万人のうち、そのほとんどが深刻な貧困状態に置かれており、その貧しい村人たちは、石油燃料を盗むことを生まれながらの権利だと考えているというのである。

そのIHTオンライン記事では、目撃者情報として、プロの盗賊たちが真夜中になってからパイプラインを破壊した後、数百人の男女や子供がそこから石油を汲み上げようとして、石油缶、プラスチックバケツやビニール袋を手に殺到したと伝えている。何がガソリンを発火させたかは明らかになっていないというが、この揮発性の液体は静電気でも発火する恐れが高いのだから、何らかの些細なことが原因となったにちがいない。

私はこの事故のうちに、石油に頼った政治・経済・社会システムの矛盾が集約的に表れているような気がしてならない。単純に考えれば、産油国において石油から得られる利益が公正に分配されるようにできるならば、石油に頼ったままでも貧富の巨大な格差は解決されそうに思えるかもしれない。しかし、石油のような化石燃料は、再生可能な自然エネルギー(風力、太陽光、地熱、および水素燃料など)とは異なり、地球上のどこでも調達可能というわけにはいかない。どうしてもその埋蔵場所に偏りが生じてしまう。その場所を誰かが占有し、所有権を主張すれば、他の人々は法的に手出しできなくなる。その所有権が良心的に行使されるなら問題はあまり生じないだろうが、現実には、それが事実上の独占権となって、腐敗した政治システムとも相俟って、一部の者にのみその富が占められてしまうことになるのである。

もっぱら化石燃料や鉱物資源にその経済的利益を頼る国に往々にして見られることは、それに頼りすぎて、その他の高い付加価値を生みうる技術が顧みられず、その結果、国民一般はその高い技術を教育されないまま、貧しい境涯に放っておかれてしまうことである。そうして生じた貧富の格差が有効に是正されないまま放置されるならば、この種の悲劇はこれからも後を絶たないだろう。偏った地域に埋蔵された石油を輸送するには、どうしてもパイプラインが敷かれていなければならないからである。

したがって私は、本欄12月4日の記事にも書いたように、中央集中型の化石燃料に依拠したエネルギー秩序から、太陽光や風力と水素燃料とを組み合わせた分散型のそれへの移行に向けて、少しでも早く着手すべきだと思うのである。それこそが、化石燃料にまつわる環境問題も富の偏在も解決しうる道だと考えられるからである。

ついでながら、その「分散型のエネルギー秩序」の形成に向けて、私の研究してきたハイエクの自生的秩序(spontaneous order)=多中心的秩序(poly-centric order)の概念が、有効に応用されうるのではないかと、私は最近、心ひそかに考えている次第である。

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ハイエクとシュミット:その民主主義批判における共通性

前回の記事で、ハイエクとC・シュミットとの間での隠れた共通性を指摘したショイエルマン(William E. Scheuerman)の研究があることについて触れたが、今回はその指摘の内容について、簡単に書き留めておくことにしよう。

C・シュミットの研究者で、米国ハーバード大学で1993年にPh.Dを取得し、現在ミネソタ大学の政治学教授のショイエルマンは(ミネソタ大学HP掲載のショイエルマン教授の略歴についてはこちら)、その著Carl Schmitt: The End of Law (Rowman & Littlefield, 1999)の第8章 "The Unholy Alliance of Carl Schmitt and Friedrich A. Hayek" のなかで、民主主義的な福祉国家に対する批判の仕方において、ハイエクが実はシュミットに大幅に依拠していることを指摘している。それは単にお互いの議論が似ていることからショイエルマンが推測しているのではなく、ハイエクの諸著作におけるシュミットへの言及から、実際に裏付けているのである。

私はシュミットについては全くの素人だから、シュミットについて専門的にコメントできる用意はないが、一言で荒っぽくまとめてしまうことが許されるとするならば、要するにシュミットは、当時のドイツ・ワイマール共和国の多元主義--すなわち諸々の社会集団同士の間での利害競争の予定調和を説く多元的国家論--を根底から批判し、例外状態における国家の決断によって「国民的同質性」を回復させようとした、ということができるだろう。

ところが、ショイエルマンによれば、ハイエクが福祉国家への批判から提唱するに至った議会制改革論にも、シュミット的な決断主義に基づいた権威主義(あるいは独裁)国家の影が見え隠れしている、というのである。というのも、ハイエクは民主的な福祉国家=多元的国家論の批判においてまさにシュミットに依拠しており、その克服のために、(ここからは私なりの言葉で要約させてもらうならば)一種のエリート主義に依拠した立法議会が上院となって、下院たる行政議会における利益集団民主主義を抑制する役割を果たすべきことを、ハイエクはその議会制改革論において提唱しているからである。

すなわち、ショイエルマンに言わせれば、このハイエクはまさに、実はシュミットと同じく、非民主的な権威主義(あるいは独裁)体制の提唱者だというわけである。

繰り返しになるが、私はシュミットについてはまだ全くの素人である。したがって、このショイエルマンの指摘について全面的な検討を加える用意は今の私にはない。しかし、ハイエクの政治思想を研究してきた者から見て、このショイエルマンのハイエクに対する指摘は、たしかに一理あると言うべきだろう。というのも、ハイエクは特にその晩年になると、民主主義に対して、きわめて懐疑的な姿勢をとるようになっていたからである。

晩年のハイエクは民主主義に対して、シュンペーターと同じく、それが平和的な政権交代を可能にする唯一の道である、という以上の積極的な意義を認めなくなっていた。換言すれば、ハイエクにとって、「参加民主主義」は全く非現実的なものだったのである。このような民主主義に対する懐疑的な醒めた姿勢こそが、ハイエクの政治思想の大きな特徴だった。

そして、その民主主義に対する深い懐疑の念において、ハイエクはプラトンとも相通ずるものを持っていたのである。

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2006年12月25日 (月)

今後の研究課題(2):ハイエクとプラトン,シュミット

索引の作成作業を終え、ホッと一息つくことができた。出版に向けての著者としての作業は、基本的には、これで終わりである。しかし、次にやるべきことが、やはり気になっている。

次の研究課題として意識しているなかに格差問題と環境問題とがあることは、本欄12月10日の記事で述べたとおりである。しかし、私の本来の専攻分野である政治思想の観点からして、ハイエクとの関係が気になっている政治思想家が、実はプラトンとC・シュミットである。

まずプラトンだが、ハイエク自身はK・ポパーと同様に、プラトンを全体主義者として斥けていたことはもちろんである。だが、にもかかわらず私には、ハイエクの思想体系のうちに、プラトン的な一種のエリート主義の姿勢を垣間見ずにはいられなかった。詳しくは、来年3月には出版される予定の私の本を読んでいただきたいのだが(*)、J. Shearmurというハイエク研究者も(彼はポパー研究者でもあるのだが)、Hayek and After(Routledge, 1996)という本の中で、ハイエクに潜むプラトン的な哲人王政治への傾斜の可能性(あるいは危険性)を指摘しているのである。

(*)そういえば、まだ私の本の書名や出版社等を本欄で明かしていなかったが、もうそろそろこの場で公にしても差し支えないだろうから、以下に記しておくことにしよう:

山中優『ハイエクの政治思想:市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房)

来年の3月には出版される予定である(うまく行けば、2月になるかもしれない)

それに加えて、私がプラトンを気にしているもう1つの理由は、佐々木毅氏(元・東京大学法学部教授、現在は学習院大学教授)がその著『プラトンの呪縛』(講談社、1998年)のなかで、次のような問題提起を行なっていることである:

政治的ラディカリズムが(究極的)解決策への信念に依拠しているとすれば、こうした信念がますます衰弱しつつあることは極めて明瞭である。市場という範疇の大流行はその反映に他ならない。それは今世紀前半の政治的爆発がもたらした精神的トラウマの表現ともいえよう。しかし、こうしたトラウマだけで地球規模の問題に応答できるとは思われない。(13-14頁)

次に、C・シュミットだが、ナチスの御用学者とまで言われたシュミット-それが本当にシュミットに対する正しい評価であるかどうかは疑問だが-に対して、ハイエク自身がきわめて批判的だったことは言うまでもない。

しかし、実は、このシュミットについても、ハイエクとの隠された共通性を指摘した研究書がある。それは次の書物である:

William E. Scheuerman Carl Schmitt: The End of Law (Rowman & Littlefield Pub Inc, 1999)

以上、とりあえず挙げてみたいくつかの点に加えて、「なぜハイエク研究者の私にとってプラトンやシュミットが気になるのか」について、その理由をさらに明確に詳しく述べることは、今の私にはできない。ただ直観的に、そこには何かあるような気がしてならないのである。

今の大学を取り巻く状況下では、以上のような純粋に政治思想的な問題関心に専念するためのまとまった時間的余裕は、そうたくさん与えられそうにないので、この年末年始の休みをそれに当てたいと思っている。

しかし、それよりも、まずは年賀状を書いてしまわなければなるまい(笑)

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2006年12月19日 (火)

ただいま索引作成中

ここのところ、授業等の合間を縫って、本の索引作りにかかりっきりになっている。いざ作り始めてみると、意外と時間のかかる作業だということが分かった。190~200程度の項目を挙げ、その項目が載っているページ番号を一つ一つ挙げていく。やってみると、なかなか根気のいる作業である。

これまで、本を読む場合に、索引欄の存在を当たり前のように思ってきたが、いざ自分が作り始めてみると、いかに手数のかかっているものかがよく分かる。索引欄の分量はページ数にするとほんの4ページほどだが、そこに挙げられている項目とページ番号のひとつひとつに、貴重な労力が費やされているのである。

それにしても、索引を作っていると、自分の文章の中でどのような言葉をどれだけの頻度で使っているかがよく分かって面白い。文章を書いているときとはまた別の面から、自分の文章の性質を改めて発見できる。

その作成作業は、ようやく半分を過ぎたところだ。丁寧さが要求される地味な作業だが、着実に進めていきたいと思う。

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2006年12月14日 (木)

出版作業に役立つ本

先週の土曜日に再校刷が手元に届いたので、現在、再校作業中なのだが、その際の重要な仕事が、索引をつくることだ。今週は、その索引の原稿作りに取り組んでいる。

こうして、出版に向けて順調に事が運べているのだが、その際、本の出版が初めてである私にとって、大変役に立ってくれているのが、次の書物である:

中村健一『論文執筆ルールブック』(日本エディタースクール出版部、1988年)

この本は「論文内容の書き方というより、印刷・出版用原稿の書き方の技術的部分に焦点を当て、とくに人文・社会科学系の著書および雑誌原稿の執筆を支援しようとする」もので(iページ)、編集者の立場から、執筆者の立場に立つ人々に向けて書かれている、というのが特徴である。

本書のまえがきには、次のような文がある:

出版物をつくるということは、執筆者と編集者および印刷・製本所との共同作業であるわけですから、もしこの三者のだれかが協調しないときにはよいものはできない、ということを覚えておいてほしいものです。

これは、本の原稿を書く者にとって、非常に大切なことだと思う。今回、初めて自分の本を出そうとするに当たって、この本は実にいろいろなことを教えてくれた。今回、出版に向けて順調に事を進めるにあたって、この本は大いに役立ってくれている。

残念ながら、日本エディタースクール出版部ウェブサイトの本書紹介ページによると、本書は現在品切れ中のようだが、こういう本は、私のような立場に立っている者にとって、必要不可欠な書物だと思う。将来、何らかの形で再版されることを願わずにはいられない。

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2006年12月10日 (日)

今後の研究課題:格差問題と環境問題

この1週間、授業の合間を縫って考えていたのは、「今後の研究テーマをどうするか?」ということだった。本の出版に向けての進行状況は順調であり、予定どおり来年3月には出版されることになるだろうが、その見通しがしっかりと立ってきた今、もう次のことが気になりだした。要するに、今後の研究課題として、何を設定すべきだろうか?--ということを、考えていたのである。

ハイエク研究者としては当然、まず第一に、ハイエク研究をめぐる最近の動向をつねに意識して追っていくことは、もちろん重要なことである。そのためには、本欄11月29日で言及した『ケンブリッジ・ハイエク必携』の消化が必要である。

しかし、それに加えて、現代社会から要請されているもののなかで、私にできる研究課題とは、いったい何だろうか?--とあれこれ思考をめぐらせていた。

その結果、到達したのは、次の二つのテーマである:

①「格差社会」の問題
②資源・環境問題

①の「格差社会」は、言うまでもなく、昨今の我が国でさかんに口にされるようになった言葉であるが、おそらくこれは単なる一過性の流行にとどまるものではない。むしろ、「工業社会からポスト工業社会へ」という根本的変革、すなわち知識経済化、IT化、およびグローバル化という産業構造の根本的変革に我が国がさらされるなかで、市場経済を必要としつつも、それが生み出さざるを得ない貧富の格差をどう考えるべきか、という根本問題であろう。その意味で、ハイエク流の市場自由主義が向き合うべき重要課題だと言わねばなるまい。

②は、より長期的な観点から見た、市場自由主義の向き合うべき根本問題だと言えると思う。というのも、化石燃料に依拠した経済発展がもはや限界を迎えているなかで、われわれ人間の生活を根底的に支えている自然環境との調和を抜きにして、今後の政治経済システムは考えられないからである。

この①と②とは、一見、別々の問題のように見える。したがって、この二つのテーマを同時並行させて追求していくことは、ちょっとできそうもないように思われた。もしそうだとするならば、どちらか一方を横に置いて、差し当たっては片方のみを探求していかなければならなくなる。

しかし、私にはどうしても、この二つがどこか深いところでつながっているような気がして、仕方がなかった。この二つを統合できる視点がどこかにあるような気がしてならなかったのである。

そのような思いからして、最近の私の興味を惹いたのは、まずは“自然資本主義”(natural capitalism)の概念である。というのも、産業革命以来の大量生産・大量消費・大量廃棄型の経済がもはや様々な面で行き詰まりを見せているなかで、「自然資本」という新たな資本概念を打ち出しつつ、新たな産業革命の可能性を説いているのがこの“自然資本主義”の議論であり、これは自然環境と調和した新たな経済のあり方を唱えているのみならず、新たな雇用の創出をも可能にする経済システムとしても提唱されているからである(『自然資本の経済:「成長の限界」を突破する新産業革命』日本経済新聞社、邦訳2001年/原著1999年)。

もう一つ、最近の私の目を引いたのは、例の“希望格差社会”の議論で有名な山田昌弘氏の新著『新平等社会:「希望格差」を超えて』(文藝春秋、2006年9月刊)であった。というのも、この『新平等社会』では、希望格差の問題が、環境問題と同じく、“外部不経済”の問題として捉えられていたからである。

“外部不経済”というのは、市場経済によって生み出されたコストでありながら、そのコストの解消が市場経済内部では達成されないような場合を言うが、山田氏によれば、市場経済によって、「努力すれば報われる」という希望をめぐって格差がもたらされ、とくに非正規雇用の地位にいる人々の間に絶望感が広がっている一方、その希望格差の解消は市場経済自体によっては不可能であるが、この希望格差を放っておけば深刻な社会不安がもたらされる恐れがあるため、それを防ぐためには何らかの形での政府介入が必要とされるのである。その際のポイントは、格差を生み出す自由な経済市場は肯定しつつも、市場の自由の結果生じた格差は、放っておかずに是正すべきだという主張である(『新平等社会』30ページ他)。

また『新平等社会』では、経済的成功のみを追い求める価値観からの転換の必要性も唱えられていたことも、私の関心を引いた。すなわち、金銭的価値を追い求める生き方ではなく、環境保全や高齢者介護、子育て支援などの事業に対して政府が本気で支援し、そのような活動に取り組む人たちが、経済的成功とはまた別の観点から、高く評価されるような社会が必要だというのである(175-177ページ)。ここにも、希望格差の解消と環境保全との両立の可能性を見出せたような気がした。

以上、試みに挙げてみた、上記の①②を統合しうる視点というのは、もちろん、まだ試論の域を全く出ていない。その探求はまだまだこれからであるが、暫定的にではあれ、そのような統合的視点をおぼろげながらもいくつか見出せたのは、ありがたいことだった。

この①②のうち、これまでの私の研究テーマ--ハイエクの政治思想の研究--により近いのは、①の方だから、まずは①に優先的に取り組んでいくことになるだろう。その際には、本欄11月30日の記事で取り上げた『ハイエク後の社会主義』が非常に重要な書物となる。

しかしながら、①に優先的に取り組んでいくに当たっても、私としては、つねに②も念頭に置いておきたい。その②のためにまず必要なことは、まだ途中の『自然資本の経済』を、最後まで読み通すことだ(500ページを超える大著だが…)。その後には、本欄11月28日に挙げた「グリーン・リベラリズム」の探求にも取り組まねばならない。

①と②のテーマを同時並行的に追求していくためには、一種のバランス感覚が大切になってくるだろうが、時間配分を上手にしつつ、地道に取り組んでいこうと思っている。やるべきことは山ほどありそうだが、焦らず着実に、一つ一つ、階段を上っていきたい。

この1週間、本欄の更新がお留守になったのは、実のところ、その間以上のようなことをあれこれと考えており、それがまだ形になっていなかったからであった。

しかしこうしてようやく、今日ここに、試論的にではあれ、書き留めておくことができたことに、ホッとしている。とりあえず気軽に書き出せることが、ブログのいいところだ。このブログのような表現形態を可能にしてくれた技術の進歩に、改めて感謝したい。

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2006年12月 4日 (月)

電気事業の“自然独占”のゆくえ(2)

本欄の11月1日以来、電気事業の自然独占のゆくえをめぐる話を継続できないでいた。この話題については本格的な連載にするつもりだったのであるが、ちょっとそれができそうもないので、差し当たっては、要点のみを大まかに書いておいて、ひと区切りをつけておき、本格的な連載は他日を期することにしたい。

さて、なぜ電気事業の自然独占が将来は消滅する可能性があるのかというと、根本的には、もはや化石燃料に頼った中央集中型のエネルギー秩序が、地球温暖化に伴う急激な気候変動を未然に食い止めるという観点からは、存続を許されないからである。言い換えれば、それに代わって、太陽光や風力などの自然エネルギーに移行していく必要があるからである。

しかし、太陽光や風力などの自然エネルギーには、貯蔵不可能という難点がある。そこで注目されているのが、水素燃料である。水すなわちH2Oを電気分解すれば、水素と酸素になる。そうして得られた水素を燃やしても(つまり酸化させても)、二酸化炭素は排出されない。排出されるのは純粋な水だけである。そこで、その電気分解に必要な電力を自然エネルギーから得て、水素を貯蔵しておき、その水素燃料を必要に応じて使えば、再生可能でクリーンなエネルギーが、ほぼ無尽蔵に得られることになるのである。

化石燃料の場合は埋蔵されている場所が限られているため、どうしても中央集中型になるが、自然エネルギーも水素も地球上の至るところにあるから、各オフィスや家庭に備え付けが可能である。自家発電で貯蔵しておいた水素燃料を必要に応じて使用し、余った電力は、それを必要とするところに売ることもできる。すなわち、各オフィスや家庭がすべて、いわば“自家発電所”となり、その自家発電所どうしを結ぶネットワークが、現在のインターネットを結んでいるワールド・ワイド・ウェブ(www)のように形成されれば、各オフィスや家庭が、電力の消費者兼発電所として、電力を必要に応じて売買できるネットワークが形成されうるのである。これを、文明評論家のジェレミー・リフキン氏は、その著『水素エコノミー』(NHK出版)のなかで、“水素エネルギーウェブ”(HEW)と呼んでいる。

かつての飛行船ヒンデンブルク号の爆発事故から、「水素は危ない」というイメージを持たれている読者も多いかもしれないが、実はあのヒンデンブルク号の事故での死者は、ディーゼル油の炎による火傷や、飛行船から飛び降りたために亡くなったのであり、水素による透明の炎が巻き上がるなか、燃え続ける飛行船内にとどまった62人の乗客は負傷もなく無事に地上に降り立ったのだそうである(『自然資本の経済』日本経済新聞社、75ページ)。ガソリンとちがって水素は軽いため、漏れても拡散速度が速く、たちまち消散してしまう。要するに、水素燃料はガソリンよりも安全な燃料なのである(同前)。

だとするならば、ゆがんだ補助金で自然環境に負荷を与える経済活動に誤ったインセンティヴを与えるのではなく、環境税・炭素税の導入と所得税の軽減(あるいは廃止)をセットにした税制改革によって、自然エネルギーと水素燃料を基盤とした分散型のエネルギー秩序への転換を促していくべきではないだろうか? 何も電気事業の自然独占を維持するために原子力発電所に頼り、核燃料廃棄物を地中に無理やり閉じこめるために巨額の資金を投入するような「原子力立国」を目指す必要はないと、私は思うのである。

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