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2007年1月31日 (水)

伊勢の赤福餅

1月28日から30日まで、私の所属する皇學館大学の一般前期入試があった。それに伴って、私は1月27日夜~30日の3泊4日間、伊勢に宿泊することになった。27日の日中には、友人の結婚披露宴もあったので、その披露宴に出席したその足で、伊勢に向かったのである。普段は毎週月曜日に伊勢学舎での講義のため通っているので、私が伊勢に行くこと自体はもはや珍しいことでも何でもないのだが、今回のように3泊4日となると、ちょっとした旅行気分も湧いてくる。

といっても、観光のための宿泊ではなかったので、伊勢地域を観光巡りしたわけではなかったが、いつもと違っていたのは、ちょっとした旅行気分から、伊勢名物の赤福餅をおみやげに買って帰ったことである。幸い、家族が喜んで食べてくれた。3歳の娘は、上のあんこばかりをペロペロと食べてご満悦そうだった。我が家の仏壇にもお供えし、先祖にも思いを馳せた。中でも、私の妻の3人の兄のうち、夭逝した次兄は、赤福餅がたいそう好物だったそうである。

よく考えてみると、毎週月曜日に伊勢に通えているというのは、実は恵まれたことなのかもしれない。というのも、全国には、わざわざ伊勢神宮参拝のために、伊勢市まではるばると足を運んでこられる方が多いに違いないからだ。ところが、これまでの私は、講義のことばかりに気をとられて、伊勢という土地を味わう心の余裕を持っていなかったような気がする。

しかしそれではもったいないので、今回は伊勢の赤福餅について、少し調べてみた。「調べる」といっても、株式会社赤福のホームページにアクセスしてみただけのことだが、それだけでもいろいろのことを知ることができた。詳しくはそのホームページをご覧いただければよいのだが、その歴史が非常に長いことに加えて、「へぇ~」と感心したのは、あの赤福餅の形に、ちゃんとした意味があったことだ。あの特有の形は、伊勢神宮の神域を流れる五十鈴川に見立てており、白い餅が川底の小石を、そして餡(あん)に付けた三筋の型は清流を表しているというのである(詳しくはこちら)。恥ずかしながら、そのことを私は知らなかった。

また、赤福餅の販売地域について、私が大きな誤解をしていたことに気づいた。これまでの私は「赤福餅はどこに行っても売っている」と漠然と思っていたのだが、それはとんでもない間違いだった。というのも、同社のホームページによると、「伊勢志摩を中心として、東は名古屋から西は神戸までに限定している」というのである。にもかかわらず、私が勘違いをしていたのは、私のこれまでの行動範囲が、まさにこの赤福の販売地域に大幅に一致していたからだった。

赤福餅の販売地域が上記のように限定されている理由は、次の二つだという:

①赤福は旅のお土産菓子なので、その土地に行かないと求められないということを大切にしているということ。②赤福は保存料などを一切使っていない生菓子なので、遠隔地販売では商品の品質管理ができなくなるため(詳しくはこちら)。

私はこれまで「どこでも売っている」と勘違いしていたため、「やっぱり保存料を使っているのかな…」と思っていたのだが、それは大きな間違いだった。この勘違いをこれまで公言したことは一度もないので、株式会社赤福には一切迷惑をかけていなかったが、私の心の中で、根拠のない誤解をしていたことを恥ずかしく思う。心の中でだけだったとはいえ、とんでもない誤解をしていたことを、この場を借りて、お詫びしておきたい。

赤福餅の販売地域が限定されている上記の2つの理由は、現代において、大切にすべきものだと思う。というのも、最近では、どの地方に行っても、同じようなコンビニエンスストア、同じようなコーヒーショップ、同じようなスーパーマーケットが建ち並び、その地方特有の味わいが薄れてしまっているように思うからだ。しかしそれでは面白くないだろう。各地方には、その地方それぞれの特長を生かして、大いに頑張ってもらいたい。それに、食料にこれ以上、むやみやたらと人工的な保存料や着色料を使ってほしくないとも思うのである。

その意味で、伊勢名物の赤福餅には、これからも上記2つの考え方を大切にして頑張ってほしいと思う次第である。

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2007年1月26日 (金)

地球温暖化問題に求められる日本政府の積極性

先日の1月23日に行われたブッシュ米大統領による一般教書演説で、今後10年間でガソリンの国内消費量を20%削減することが謳われた。CO2の排出削減目標を設定するという議会の動きには同調しなかったものの、“気候変動”(Climate Change)という言葉を大統領就任以来はじめて用い、ガソリン消費量の削減を明確に謳ったことは、ブッシュ大統領における大きな変化だと言ってよいだろう。

またEUでは、去る1月10日に、温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年レベルより少なくとも20%削減することが決められた。さらにそれに先立つ昨年10月末には、イギリス政府による『スターン報告書』が出され、この1月にケンブリッジ大学出版部から刊行されたので、手に入れておいた(Nicholas Stern, The Economics of Climate Change: The Stern Review, Cambridge University Press, 2007)。全部で692ページにもわたる大著であり、まだちゃんと読んではいないのだが、そこには炭素税や、地球全体での排出権取引制度の実施など、気候変動を未然に防止するためにとられるべき様々な政策が、提言として数多く盛り込まれているようである。この書の冒頭部分(pp. xv-xix)に結論の要点が簡潔にまとめられているので、そこを読むだけでも概要はつかめる。また、オンラインでもこの報告書が読めるようになっている。

いずれにせよ、欧米においては、昨年から今年にかけての最近数ヶ月の間で、地球温暖化=気候変動問題について、具体的に様々な政策が現実にとられようとしているのである。

さて翻って、わが国ではどうだろう? 残念ながら、わが国の政治の場で、この問題が本格的に取り上げられる場面は、ほとんどない。小泉政権時代に「クールビズ」が唱えられ、小池環境相(当時)がレジ袋削減のため風呂敷の活用を訴えるなど、国民の日常的な取り組みを奨励する動きはいくつか見られたものの、気候変動を防ぐためにとられるべき政策をめぐって、本格的な論議が国会でされることは、ついぞなかった。

現在の安部首相からも、地球温暖化問題の解決に向けてのメッセージはあまり聞こえてこない。本日行われた施政方針演説の全文を首相官邸ホームページで確認してみたところ、そこにはたしかに、「京都議定書目標達成計画」に基づき、地球温暖化対策を加速します、という言葉はあったが、その具体的中身としては、民間レベルでの省エネ技術のさらなる向上を促すことが主眼とされており、政府の政策として、たとえば環境税・炭素税の実施が謳われるといったことは、一切行われていない。

要するに、この問題に関して、わが国では民間レベルでの自主的取り組みに任されているのである。実際、わが国の財界は民間での自主的取り組みをこそ第一とすべきであるとしており、環境税に対しては、明確に反対の立場をとっている。わが国の政府与党も、この財界の姿勢に同調しているというのが実情である。

たしかに民間レベルで自主的にできることもたくさんあるだろう。環境意識の高い人々は、日本においても、少なくないにちがいない。しかし私には、政府が然るべき政策をとらないまま、そうした市民レベル・民間レベルでの取り組みに任せているだけで、この問題が解決に向けて大きく前進できるとは、とても思えない。というのも、地球温暖化=気候変動問題は、将来起こりうるリスクが現段階ではあまり実感しにくいため、そのまま放っておくと、大部分の人々は、そのリスクを過小に見積もってしまうことになるからである。

『環境問題の法哲学 法哲学年報1995』(有斐閣、1996年)の23-24ページによると、地球温暖化問題などの「環境リスク問題」の場合、被害発生のメカニズム〔の詳細〕は不明確だが、被害が発生した場合のコストは膨大である。にもかかわらず、〔まだ現実のものとはなっていないため〕被害発生の主観確率は小さくなるが、このような場合、心理学的実験によれば、人は許容しうるリスクの範囲内であると間違って判断し、もしもの場合を考えて慎重になることはない、というのである…! このような場合に必要とされるのは、「被害の発生を待たない予防的な制度、環境リスク管理機能を持つシステムである」と『環境問題の法哲学』24ページでは述べられている。

すなわち、地球温暖化による気候変動の恐れに対して、政府が「被害の発生を待たない予防的な制度」を実施しないまま、人々の自主的な行動に任せきりにするとき、(一部の環境意識の高い人は別として)大部分の人々の行動は、リスクを甘く見た誤った方向へと流されていきがちなのである。

そのような場合、気候変動のリスクを考慮に入れた正しい方向へと、人々の行動を誘導していくことが政府には求められるのであり、そのための経済的手段として、環境税や排出権市場といった制度の本格的導入が必要不可欠なのである。

なお環境税については、すでに本欄において、昨年5月23日25日6月2日6月7日、および6月13日の記事で考察を加えているので、詳しくはそちらを参照されたい(それに先立つ昨年5月19日の記事で、すでに「環境税を考える(1)」と題していたが、それは実質的には単なる予告に過ぎないので、ここでは「環境税を考える(2)」からリンクを貼っておいた)。

わが国の政府も早くこのことに気づき、(あるいは実はすでに気づいているのなら、それをもっと真剣に受け取り)、この問題にもっと積極的に取り組んでもらいたいと切に願うものである。

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2007年1月24日 (水)

寒さにも感謝

これまでの私は、冬の寒さが苦手だった。つまり、今までの私には、寒さは、ただ単に“耐える”対象でしかなかったのである。

ところが、その寒さに対する苦手意識が、昨日の朝、少し解消できたように思う。というのも、その朝に、「寒さの効用」に気付いたからである。その「寒さの効用」とは、眠気を感じている体をシャキッ!とさせてくれ、眠気を吹き飛ばしてくれる、という効用である。

そのことが分かったのは、昨日の朝起きて、まだ眠気を感じつつも、暖房でほんのり暖かい寝室から起きて、まだ暖房を効かせていない私の書斎部屋に移り、パソコンでちょっとした作業をしているときだった。

私の書斎部屋では、小さな電気ストーブを暖房に使っているだけである。冷暖房のエアコンが備え付けられてはいるのだが、最近ではめっきり使わなくなった。電気代がもったいないのと、エアコンでは空気が乾燥してしまうため、のどによくないからである。したがって、私の部屋は、冬はいつも、少しだけだが、ひんやりとしているのである。もちろん、綿入れを羽織るなどして、体を冷やさないようにはしているのだが、小さな電気ストーブを使っているだけだから、部屋全体が暖まることはないのである。

実をいうと、これまでの私は、冬の季節になると、この自分の部屋に行くのが少し億劫になっていた。寒いのが苦手だったからである。必要があればもちろん行くのだが、それにはいつも、ちょっとした気合いが必要だったのである。

しかし、昨日の朝に、いつものように少しひんやりした自分の部屋の中で作業をしているうちに、いつの間にか眠気が吹っ飛び、頭がシャキッとしている自分に気がついて、今更ながら驚いたのであった。「あぁ、これが寒さの効用だ!」と分かったのである。これまでも、そのような経験はしていたとは思うのだが、これまではそれが素晴らしいことだと気付かなかったのである。

それにしても、なぜ今になって初めて、こうした「寒さの効用」に気付いたのだろう…と考えてみた。それで分かったことは、この冬のあまりの“暖かさ”が、私に地球温暖化の心配をさせていたことだ。「この時期ならもっと寒くなっているはずなのに…」という思いが募り、例年の寒さを恋しがる自分になりつつあったのである。だからこそ、今になって初めて、「寒いのもありがたい」と気付いたのであった。

もちろん科学的には、今年の暖冬が単発的なものなのか、それとも実は徐々に進行しつつある地球温暖化=気候変動の兆候の一つなのか、そのどちらなのかについては、まだ結論が出されていないことだろう。私自身、願わくば、この暖冬が単発的なものであってほしいと思う。しかし、おそらくは、地球温暖化=気候変動の前触れと覚悟しておいた方がよいだろう。その方が、今後必要であるはずの対策について、より真剣に考えることができるからである。

そのようなわけで、これまでは寒さを苦手と思っていた私だったが、これからは“寒さ”にもっと感謝していきたいと思う。

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2007年1月22日 (月)

失敗を恐れない文化の必要性

わが国には、もっと「失敗を恐れない文化」が必要なのではないか-このような思いをしたのは、去る20-21日に行われたセンター試験の初日にあったリスニングテストをめぐる報道に接したときである。

今年のセンター試験は志願者が55万人を超え、例年最も受験者の多い外国語(筆記)の今年の受験者は、50万5000人だったという。外国語(筆記)の次の時間に行われた英語リスニングテストの受験者数は、私の調べた限りでの報道では明らかにされていなかったが、おそらく50万人前後だっただろうと思われる。

それだけの人数が、昨年から導入されたばかりのリスニングテストを受けたわけだが、そのうち、ICプレーヤーの不具合等による何らかのトラブルのため、再開テストの対象となったのは394人であり、そのうち381人が実際に再開テストを受けたという。トラブルの発生は、およそ50万人が受けたとすれば、その中の394人だったから、率にして、約0.079%である。

この事実がどのように報道されたか? 我が家でとっている産経新聞の21日付朝刊の1面の見出しは、次の通りであった:「リスニングまたトラブル センター試験、381人再テスト」。「またトラブル」という表現に否定的な評価が込められていることは、誰の目にも明らかだろう。

また読売新聞のオンライン記事(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070121ur02.htm)にも、「十分な体制で臨んだはずなのに、またトラブルが発生した」という表現があるし、朝日新聞のオンライン記事(http://www.asahi.com/edu/news/TKY200701200325.html)では、“受験生「まさか今年も」 センター試験リスニング不調”という見出しのもと、かなり否定的・批判的な論調で報じている。

しかしながら、先ほど確認したように、トラブル発生率は(受験者数が50万人と仮定すれば)0.079%である。しかも、センター試験におけるリスニングテストは、今年でたった2回目にすぎない。それを考えると、トラブル発生率が0.1%をすら下回っていることは、試験全体で言えば、かなりの“成功率”を挙げたとは言えないだろうか? 昨年は機器不具合等で465人が再開テスト--昨年は再テストという名称だったが--の対象者となっていたから(そのうち457人が再テストを受験)、再開テスト対象者の数は、昨年に比べ、実は“減っている”、すなわち改善されているのである。

にもかかわらず、なぜ、トラブル発生率が0.1%を下回っていたというこの事実が、「〔今年も〕またトラブル」といったような、否定的・批判的な調子で報じられることになるのだろうか?

私はここに、マスコミ全般によく見られる「暗黒面の強調傾向」もさることながら、センター試験を取り巻く「失敗は許されない…!」という雰囲気が大いに影響しているように思われてならない。というのも、昨年初めてリスニングテストが導入されたとき、試験前に大学入試センターは「万全を期している。機器の不具合はあり得ない」と自信満々に断言していたからである。昨年のトラブル発生を受けて、今年はいくぶんトーンダウンしていたが、それでもやはり「トラブルは大幅に減少できる」とセンターは述べていた。そこには、「トラブルはあってはならない…!」という力みが透けて見える。また、今年のトラブル発生を受けて、センターは「再開テストの受験生に迷惑をかけて大変申し訳ない」と陳謝したというから、トラブルの発生という事実自体に、センターが大変苦悩していることがよく分かるだろう。

しかし、よく考えてみると、センター試験というのは、全国で50万人以上が受けるという、とてつもなく大規模な入試である。しかも、リスニングテストは昨年導入されたばかりの新しい試みである。だとすれば、そこに何らかのトラブルが大なり小なり発生することは、むしろ初めから予想しておくべきことではないだろうか?

たしかに、事前の準備に万全を期そうとすることは、何事を行う場合でも大切なことであろう。私は何も、適当にいい加減にやれ、とここで言いたいのではない。人の生命に関わるような重大な事故が許されるべきだと言いたいのでも、もちろんない。

しかし、だからといって、今回のリスニングテストの場合のように、何らかのトラブルが発生したからといって「今年もトラブルが相次いだ」といって責め立てようとするような報道をすることには、あまり感心しないのである。

私は何もここでセンター試験の弁護をしようとしているわけではない。むしろ、あのような画一的な試験のやり方は、受験生の創造性・独創性を養う上で、あまりよろしくないと思っている。むしろ、私がここで言いたいことは、センター試験に限らず、およそ何らかの新しい試みを思い切って行おうとする場合に、わが国において、いい意味でもっと「失敗を恐れない文化」が根付いていくべきではないか、ということである。というのも、これからのわが国には、「欧米に追いつき追い越せ」式の、模倣型・応用型の技術のみならず、いわば創造型の技術革新が様々な分野で求められるはずだからである。

その意味で、上記で言及したオンライン記事の中で、読売新聞のそれに載っていた、ある受験生のコメントに頼もしさを感じた。すなわち、その受験生は「機械を使っている以上、少々のトラブルは仕方ない。明日も頑張りたい」とコメントしていたのである。

これからのわが国には、何かにつけ、この受験生のコメントのようなおおらかな姿勢、一種の図太さのようなものが、失敗を恐れずに新たなことに挑戦していく勇気を養っていく上で、とても重要なことではないだろうか? そうであってこそ、一度失敗し落後したからといって「落ちこぼれ」というレッテルをはるのではなく、「再チャレンジ」がいつでも可能な社会が生まれてくると思うのである。

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2007年1月19日 (金)

学生の質問に答えて:9/11はなぜ起こったか?

伊勢学舎での政治学受講者から、「9・11事件がなぜ起こったのか教えて下さい」という質問をいただいた。授業中にできるだけ簡潔に答えるつもりだったが、次回が今年度の最終授業であり、時間切れになってもいけないので、試験範囲外のテーマでもあることから、授業の場ではなく、本欄で簡潔にお答えしておくことにする。

まず、あの9・11で何が標的にされたかを振り返ってみよう。それは、世界貿易センタービルと、ペンタゴン(国防総省)であった。前者はアメリカ(および西洋社会)の富の象徴であり、後者はアメリカ外交政策の象徴である。前者は経済的側面、後者は政治外交的な側面と言えるだろう。すなわち、以下の2つである:

①経済的側面-国際的および国内的な貧富の格差への反発
②政治外交的側面-アメリカの中東政策への反発(とくにイスラエル・パレスチナ問題)

しかしながら、この2点に加えて、もう一つ、

③思想的側面-善悪二元論からくる、妥協を知らない敵意

も挙げておかねばなるまい。というのも、池内恵『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書)によると、いまのアラブ世界では、パレスチナに代表される「イスラーム世界とユダヤ・アメリカ十字軍の戦い」を、終末論的な意味合いを持った(妥協の余地なき)闘争と受け止める傾向が出てきているからである(『現代アラブの社会思想』129ページ)。

ところで、この「善悪二元論」は米ブッシュ政権も同様である。というのも、「悪の枢軸」という言葉を使って、テロリストを庇護しているとみなされている国家を厳しく非難しているからである。

テロという手段がとうてい容認されえないものであることはもちろんである。しかしながら、かといって、なぜテロリストたちがあのような手段に訴えるほどにアメリカおよび西洋社会を恨むことになっているのかについて、欧米先進諸国の側における責任を自ら反省することなく、このような善玉・悪玉論だけでテロリストを攻撃するばかりでは、この問題の解決はとうてい望めないだろう。

なお、国際テロの問題については、本欄において、すでにいくつかの試論を掲載しているので、興味のある学生諸君は、本欄のカテゴリーから「宗教テロ」および「経済・政治・国際」を選んでクリックし、その中に含まれている関連記事をお読みいただきたい(ただし、本欄での考察は、筆者の研究における専門分野の関係で、主に上記の①③に焦点を当てていることを、あらかじめ断っておく)。

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2007年1月12日 (金)

何事も“潤いのある温かい心”で

一昨日の夜7時から9時まで、学生5人と一緒に、名張市内の居酒屋で新年会をした。実を言うと、学生と一緒に新年会をするのは初めてである。その初めての新年会で思ったのは、「こういうのも大切だな…」ということである。

私はどちらかというと、いわゆる「宴会」が少し苦手なタイプであった。というのも、お酒があまり強い方ではないし、それに何よりも、これまでの私は、一人で静かに過ごす時間の方が好きだったからである。人付き合いも、実はあまり良い方ではなかった。

しかし一昨日、学生たちと一緒に新年会をしてみて、「こういうのもいいな…」と思った。不思議と心がポカポカと温かくなったのである。

もちろん、日頃の憂さ晴らしで飲み過ぎるのはよくないだろう。飲む量は、ほどほどがよい。飲む頻度も、ほどほどがよいだろう(私はふだん家で飲酒することはほとんどない)。しかし、人と人とのつきあいの中で、ほのぼのとした雰囲気の中で、時には一緒に飲食をともにするというのも(アルコール付きであろうとなかろうと)とても大切なことだ、と改めて気付いたのである。学生もとても喜んでくれていた。

自分のことだけ考えると、少しでも時間を惜しんで、研究のための本を読みたいという気になりやすいものだ。もちろん、私の仕事の上では、本を読むことは非常に大事である。しかし、時には人との交わりの中で飲食をともにし、潤いのある温かい心で互いに励まし合うことも、とても大切なことだと分かったのである。

それに、そもそも研究それ自体も、そのような“潤いのある温かい心”があれば、より一層うまくいくと思うのである。というのも、そういう心があれば、「世のために貢献できる仕事がしたい」と思いやすいからである。

また、そのような心があれば、授業にもより一層、気持ちが入るにちがいない。

そんなわけで、今年は“潤いのある温かい心”で何事にも取り組んでいきたいと思った次第である。

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2007年1月 3日 (水)

地球温暖化問題に求められる“沈着さ”

読者の皆様、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

さて、1月2日付のヘラルド朝日紙が3日付と一緒に今朝配達されてきたが、その1月2日付のヘラルド朝日紙には、地球温暖化が人為的なものかそうでないかをめぐるホットな議論において、普段はなかなか目立たない中道の立場をとっている科学者たちが、声を上げはじめたことが報じられていた。その記事のタイトルは、Some climate scientists choose the middle road: Panic over global warming discouraged である(オンライン記事は見つけられなかったので、残念ながら、今回はここにリンクを貼ることができない。もし見つかれば、後日そのリンクを追加することにしたい)。

この記事によると、ハリケーン・カトリーナ以来、地球温暖化をめぐる議論がひどく興奮したもの(feverish)になってきているが、中道の立場をとる気候学者たちによると、たしかに熱帯地方の海の温度が1度上がるごとに、ハリケーンなどの暴風雨(storms)は1~2%強さが増すことは将来において考えられるものの、また近年、被害者が多く出ているために、われわれに対する暴風雨のインパクトが強まっているものの、しかし近年の暴風雨には、(海面の)熱によって強大化したという確固たる証拠は、科学的には(まだ)何もないのだという。

もしかすると、これは私見であるが、こういった現象はそのメカニズムがあまりにも複雑なために、厳密な意味では、まだ立証されていないのだということなのかもしれない。いずれにせよ、まだ科学的には「海面の温度上昇→ハリケーン等の暴風雨の強大化」という因果関係は証明されていないというわけである。

とはいえ、中道の科学者たちは地球温暖化が脅威ではないと言っているのでは全くない。むしろ、気候変動は非常に現実的なリスク(a very real risk)であり、そのリスクを否定するのはまったく馬鹿げていると彼らはハッキリと主張している。しかしながら、それと同時に中道の科学者たちによれば、気候変動の生じる可能性を正確に計算できると主張することも、(実際には気候現象はあまりにも複雑なプロセスで生じるが故に)同様に馬鹿げているという。

この記事によると、地球温暖化をめぐっては、一方で、ハリケーンの強さがすでに計測できるほどに増しているという(やや大げさな)主張を根拠に、地球温暖化の脅威がすでに現実のものになっていると声高に主張する人たちがいる。多くの環境運動家がそれである。そうかと思うと、他方で、人間によって温暖化が引き起こされたことを取るに足りないもの、まだ立証されていないもの、あるいは作り話と考える保守的な政治家が(そして少数ながら科学者も)いて、彼らの多くはエネルギー企業とつながっている。

しかし、多くの気候学者たちは、この両極の立場のいずれもとらず、地球温暖化=気候変動の危険性に対して、実際的・実用的に対処していく道をとっていくべきだと主張しているのである。、いまここで地球を家に、そして気候の極端化を火事にたとえるとするならば、この問題に対する適切な対処は、すでに猛威をふるっている火事に立ち向かう消防士のそれではなく、むしろ、家に火災保険をかけたり、家にスプリンクラーを備え付けたりすることだという。すなわち、予防のための備えをしておくべく、クリーンな自然エネルギーへの転換に向けて実際に動き出すべきだというのである。

私も、以上のような多くの気候学者のバランスのとれた立場が妥当だと思う。地球温暖化の脅威に目をつぶることは決してできないし、むしろ大いに重大視すべきだろう。実際にその“兆候”は、すでにハリケーン・カトリーナ等において現れているにちがいない。しかしながら、その兆候をあまりにも強調しすぎて、大げさに語りすぎるならば、問題の解決に向けての意欲をむしろ萎えさせることだろう。昨年5月22日の本欄でも述べたように、むしろ地球温暖化問題に対してわれわれがとるべきは、「(あまりにも厳密な)科学的証明よりも、むしろ予防原則が優先されるべし」という立場に立った実際行動ではないだろうか。

その意味で、私は“沈着な”姿勢がこの問題には要求されると思う。『広辞苑』によると、「沈着」という言葉には、「①おちついていること。物事に動じないこと ②物事に心をこめ、うちこむこと」という意味がある。この二重の意味での“沈着さ”こそが、地球温暖化問題の解決には必要不可欠だと思われるのである。

さきほど、「気候変動は非常に現実的なリスク(a very real risk)である」と中道の科学者たちが言っていると書いたが、その「リスク(risk)」という言葉の意味は、すでに現実に生じてしまった危害のことではなく、「現実に起こるかもしれない恐れ・危険」のことである。

そうした言葉の正確な意味での「リスク」である気候変動を未然に防ぐための“沈着な”実際行動こそが、われわれ一人一人の日常生活のレベルから、国レベル、世界レベルにいたるものまで、あらゆる場面で、今まさに求められていると言えるのではなかろうか?

たしかに、まだ大火事にはなっていないだろう。しかしながら、だからこそ今、行動しなければならないのである。未然に防ぐことができるのは、まだ小さな火にとどまっている「今」しかないからである。

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追記:インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙の該当記事がオンラインでも掲載されたので、こちらをご覧下さい(2007. 1. 6 記)。

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