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2007年2月27日 (火)

博士号取得へ向けて

昨日の午前中に、私の母校である京都大学大学院法学研究科の事務室を訪れた。拙著がまもなく出版される予定だが、その拙著を博士学位論文として提出することになるので、その際に必要な申請書類の様式をもらうためである。

考えてみれば当たり前のことだが、申請に当たっては、履歴書や論文要旨など、ちゃんとした書類を用意することになっている。その用意すべき書類のリストや、書類記入に当たっての注意事項を読んでいると、気の引き締まる思いがした。

かつて私は大学院の博士課程時代に、達成したい大きな目標として、3つのものを掲げたことがある。それは、博士号、就職、それに結婚である。この3つの目標を大学院生仲間にも公表し、「この3つが、はたしてどの順番でかなっていくことになるか?」とか、「結婚するなら、どんなタイプがいいのか?」などといったことを話の材料にして、大学生協食堂で冗談を言い合ったものである。

この3つのうち、まず最初にかなったのは就職で、平成10年(1998)4月に皇學館大学・社会福祉学部で政治学担当の専任講師となることができた。平成14年(2002)4月には助教授となって現在に至っている。次に実現したのは結婚で、同年9月に現在の妻と結婚し、おかげさまで、それ以来ずっと幸福な家庭生活を送ることができている。翌年9月には女児を授かったが、その娘の発育も順調で、昨年9月に3歳となった。早いもので、この4月からは3年保育で幼稚園に入ることになっている。

こうして最後に残ったのが博士号である。それもいよいよ、具体的に申請に向けて動き出せる段階を迎えることになった。上記の3つの目標を持つようになったのは、たしか平成8年頃だったから、それからもう10年以上も経ったことになる。

いざ博士学位論文の提出を具体的に意識し始める段になると、「これが一体どんな評価を受けることになるのだろうか?」とか、「口頭試問ではどんな質問がされるのだろうか?」といったことが、にわかに頭に浮かんできて、多少不安にならないでもない。だが、今さら躊躇していても始まらないので、勇気を持って、必要な準備を着実に進めていきたいと思う。

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2007年2月25日 (日)

法理学研究会で研究報告

昨日の2月24日に、法理学研究会で研究報告をする機会を与えていただいた(同志社大学・光塩館にて)。法理学研究会(略称:法理研)というのは、1933年に発足した、まことに伝統ある研究会である。その由緒ある研究会で、これまで私は折に触れて研究報告をする機会を与えていただいているので、大変ありがたく思っている次第である。

今回でたしか5度目の報告だったように思うが、今回の報告内容は、この3月に出版される拙著『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房)の第4章を要約したものであった。

その内容をできるだけ簡単にまとめてみるならば、おおよそ、次のとおりである:

自生的秩序論で知られてきたハイエクの市場秩序論は、その“自生的”という言葉がもたらす第一印象とは異なり、実は本質的な意味で政治権力の必要性を認めるものであった。というのも、ハイエクによれば、あるがままの生身の人間は市場における自由競争の厳しさに堪えることを欲しないから、政治権力によって市場に踏みとどまらせない限り、ともすれば自由競争から逃れようとするからである。

自由競争において、努力をした者がその努力の程度にふさわしい結果を得るわけでは必ずしもない、とハイエクは冷徹に主張する。というのも、ハイエクによれば、努力の程度とは無関係の「運」の要素も大きく影響するし、それに何よりも、ハイエクに言わせれば、人間は無知の存在であり、その能力には限りがあるからである。したがって、ともすると、人間はその厳しい市場競争から逃げ出そうとする。しかし、自由競争が広く行われることが社会全体の活力維持のためには必要不可欠だから、人々を市場競争に踏みとどまらせるには、政治権力の働きが不可欠となるのである。

たしかにハイエクは、市場秩序を人間の設計によって出現させることは不可能だと説いていた。ハイエクによれば、市場秩序の出現は、政治権力によらない自生的な社会過程を通してのみ可能である。しかしながら、その市場秩序の自生的な出現は、決して“円滑な”ものではなかった。というのも、厳しい競争を課す市場原理は、人々の嫌悪するものだったからである。むしろ、一種の歴史的偶然による“意図せざる結果”として、なかば奇跡的に出現できたのが市場秩序だった。したがって、自生的かつ偶然にも奇跡的に出現できた市場秩序を、その出現後も人々の反発から守り抜くためには、政治権力の働きが必要不可欠となるのである。

以上のまとめは、非常に簡略化したものであり厳密性に欠けるので、詳しくは拙著を読んでいただきたいのだが、それでも今回の報告内容の骨子はだいたい表現できていると思う。

先にも書いたように、以上の報告内容は、今度出版される私の本の内容に基づいたものであり、自分なりにハイエクを繰り返し読み、考え抜いた末に到達した結論である。しかも、書物としてもうすぐ世に出ることになるのだから、今さらジタバタしても始まらないはずであった。

しかしながら、いざ研究報告を間近に控えてみると、「これで大丈夫だろうか…。思わぬ欠陥が潜んでいて、手厳しく批判されはしないだろうか…?」などという不安が頭をよぎった。そうなると、法理研での3度目の研究報告(3~4年ほど前の)で少し失敗した記憶もまざまざと甦ってくる。「あのときはまだ試行錯誤の真っ最中の報告だった。今回はそうではない」と自分に言い聞かせても、まだ不安は去らなかった。「実際、本に書いておいて、その本がまもなく書店に並ぼうとしているのに、もう後には引けないのに、今さら何を不安がっているのだろう…」と、自分で自分を可笑しく思ったものである。

最後には覚悟を決めて、腹を据えて研究報告に臨んだのだが、幸いにもおおむね好評で、論旨に関わる致命的な欠陥を指摘するコメントは一つも出なかった。参加者の先生方から、むしろ好意的なコメント・質問をいただいてホッとした。「大変勉強になりました」というお声も、研究会終了後に幾人かの先生方からいただいたことは、望外の喜びであった。

今回の研究報告での好意的な反応によって、もうすぐ世に問われる拙著への自信を少しは深めたのだが、もちろん最終的には、実際に世に出てみないと分からない。しかし、私なりにハイエクの思想体系に徹底的に取り組んだ末に生み出された成果であることは間違いないので、それが書店に並ぶ時を、今は心静かに待ちたいと思う次第である。

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2007年2月22日 (木)

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指揮者・大野和士の世界における“自由の論理”

前回の本欄で、指揮者・大野和士氏の語る指揮の極意--“ないかの如くある”指揮の下に奏者1人1人が解放されている状態--について書いたが、私が何故それに強い興味を惹かれたのかというと、クラシック音楽が好きだという私の趣味の問題だけではなく、それが私に、ある学問的関心も強く抱かせたからである。その学問的関心とは、

「指揮者・大野和士の世界」は、M・ポラニーのいう“自由の論理”の具体例と言えるのではないか?

ということである。

M・ポラニー(Michael Polanyi)は、1891年にハンガリーのブタペストで生まれた思想家で、もともとは自然科学者であったが、「暗黙知」(tacit knowledge)という独特の知識論によって、ソビエト型の「科学の計画化」を鋭く批判して「科学の自由・学問の自由」を強力に擁護し、社会思想の分野でも独自の貢献をしたユニークな自由論者である。私の研究してきたハイエクにも大きな影響を与えているという点で、私の研究課題にとっても非常に重要な人物である。自由市場経済批判の書である『大転換』を著した経済思想家・経済人類学者のK・ポラニー(Karl Polanyi)の実弟だが、兄カールが社会主義者であったのに対して、弟マイケルは自由主義者だったという点で、兄弟間で明確な思想の違いがあった。

そのM・ポラニーの主著の一つが『自由の論理』という書物である。原題は The Logic of Liberty で、1951年に書かれたものだが、邦訳『自由の論理』がハーベスト社から1988年に出ている。その第3章に「学問の自由の基礎」という文章が収められているのだが、そこに、次のような興味深い問題が設定されている:

1人ですると数日あるいは数週間かからなければ完成しない非常に大きなジグゾー・パズルを組み立てなければならないとする。しかも、その期日が非常に切迫しており、その解決には重要な秘密の発見がかかっている。そこで助手のチームを組むことにしたが、このパズルを解くためには、その助手のチームにどのように働いてもらうのが、最も効果的か?

このような問題設定をした後、M・ポラニーは、以下の三つのやり方を挙げている:

①複製した幾組かの同じパズルを、孤立させた何人かの助手たちに個別に渡し、期日までに各自で取り組ませる。
②同じ単一のパズルに取りかかるのに可能な限りで多くの助手を動員し、その助手たちが自由に振る舞って各自のイニシアティヴを発揮するに任せる。
③すべての助手を階層的に組織して、ある一つの中心からの指令に従わせる。

①は文字通りの「自由放任」であり、③は「中央集権」であると言えるだろう。そしてM・ポラニーは、①でも③でもなく、このパズルを急速に解くための唯一の方法として、②を挙げているのである。この②には、自由と調和の不思議な融合が見られるのであり、M・ポラニーによれば、このような意味での科学者同士の自発的な相互調節こそが、科学の発展にとって絶対に不可欠なのである(M・ポラニー『自由の論理』ハーベスト社、45-46頁)。

この②における状態、すなわち、ある高い目的を共に目指すなかでの「個人の自由と全体の調和」こそが、「指揮者・大野和士の世界」だと言えないだろうか? それを伝えるNHKのテレビ番組を見つつ、上記のジグゾー・パズルの例を思い出しながら、私はM・ポラニーのいう“自由の論理”を連想せずにはいられなかったのである。

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2007年2月20日 (火)

指揮者・大野和士の世界

少し前の話になるが、去る1月25日に、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、世界的に有名な日本人指揮者・大野和士氏のことが取り上げられていたのだが(NHKオンラインでの番組内容の紹介はこちら)、それを放映時に見ただけではなく、DVDにも録画しておいて、合間をみて、これまで何度も繰り返して見ずにはいられなかった。というのも、大野氏がそこで語っていた指揮の“極意”に、大きな興味を惹かれたからである。

大野氏は東京芸術大学を出たあと、25歳でドイツに渡り、ヨーロッパを中心に活動してきた。ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語を自由にあやつり、とくにオペラの指揮で定評があるのだという。「第2の小澤征爾」と言われるぐらい、世界的に有名な日本人指揮者として高い評価をかちえているのだが、音楽家の子どもとして生まれたわけではなかったというから驚きである。技術者の父が好きだったクラシック音楽のレコードを聴きながら育ったことで、クラシック音楽の世界にあこがれたのだそうである。

大野氏は、本番のステージで決して大げさな身振りで指揮をしない。氏の語るところによると、指揮棒で「あなた、出なさい!」と(命令的に)演奏者を指したとき、決していい音は出ないのだという。むしろ、奏者の一番弾きたい呼吸で伸び伸びと弾ける状況を作ってあげたときに、最もいい音が出るのだという。つまり、本番の演奏で氏が心掛けているのは、「演奏者1人1人を解放すること」だというのである。

といっても、もちろんそれは、文字通りの「自由放任」ではない。準備段階において、大野氏はまず膨大な資料を読み込み、作曲家と徹底的に会話する。そうして得られた作品の解釈--といっても、大野氏自身の語るところによれば、それは自分の「解釈」というよりも、むしろ作曲家がそう考えたであろうことなのだが--を、練習の時に、具体的なイメージで奏者や歌手に伝えていく。つまり、まず氏は奏者や歌手に「登るべき山を示す」のである。その「登るべき山」を示した上での解放、それが氏の言う「1人1人の解放」なのである。

言われてみれば当たり前のことなのだが、指揮者自身は決して音を出さない。音を出すのは、奏者自身である。それでは、指揮者の役割とは一体何なのか? 大野氏の語るところによれば、“あるようでない”、“ないかの如くある”--これが指揮の極意なのだという。個人個人が自由に解放されているにもかかわらず、“ないかの如くある”指揮者を中心として、そこには実に見事なハーモニーが表現される。これがまさに指揮者・大野和士の世界なのである。

このような自由と調和の見事な融合のためには、もちろん、指揮者と奏者の相互における芸術意識と技術とが非常に高度なレベルで成熟している必要があるだろう。大野氏はベルギーの王立劇場の音楽監督であり、したがって、オーケストラの奏者1人1人も非常にすぐれた技倆の持ち主である。そのような一流のレベルであってこそ、“ないかの如くある”指揮の下で「1人1人が解放される」ことができるのである。その意味で、このような自由と調和の見事な融合は、そう簡単に達することのできる境地ではあるまい。しかしながら、だからこそそれは、目指すに値する「登るべき山」だと思われるのである。

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2007年2月17日 (土)

杉林の光景を見て考える

私が通勤に使っている近鉄大阪線に乗ると、その途中で車窓から杉林が一面に広がっている光景に出くわす。奈良県宇陀市榛原の付近を通過するときである。花粉症に苦しむ私にとっては、何とも悩ましい光景である。

自分で詳しく調べたことはないが、おそらくこれは、戦後日本の営林政策の結果だろう。私の住む橿原市にある耳成山の森などに比べると、杉の木ばかりが並んでいる杉林の光景は、やはりどこか不自然に映ってしまう。

杉の木ばかりを人為的に植えた戦後日本の営林政策について、最近ある人から、「住宅不足があったからね…」というご指摘をいただいた。たしかにそうだったのかもしれないが、そのおかげでいま私が花粉症に悩まされることになったことを考えると、やはり非常に複雑な心境にならざるをえない。

たとえ住宅不足があったとはいえ、そのために、生物多様性を崩してまで、杉の木ばかりを植えてしまって、はたして良かったのだろうか? 杉のような針葉樹林ばかりでなく、広葉樹林も豊かにある森であってこそ、地中深くまで根が伸びていき、それが複雑に絡み合って、土がしっかりと保たれるというものだろう。最近よくニュースで聞く土砂崩れの被害は、その意味では、むしろ“人災”と言うべきものではないだろうか?

ここ数日の私は、花粉症のおかげで体調がすぐれず、何とも言えない「どよ~ん」とした感じを全身に感じているのであるが、こうして花粉症に悩まされるたびに、戦後日本の営林政策を疑問に思い、自然本来の生物多様性をいかにすれば回復でき、それを未来の世代に遺せるのだろうかと、考えをめぐらさずにはいられないのである。

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2007年2月13日 (火)

“自然資本主義”の可能性

昨日の本欄でグリーン・リベラリズム(環境自由主義)の可能性について若干の考察を加えたが、これからの自由主義にとって、環境問題と並ぶもう一つの試練は、貧困問題・南北問題であろう。つまり、先進国と途上国との間での貧富の巨大な格差の問題である。

途上国においては、貧しい境涯に置かれているが故にこそ、目の前の生活のために森林伐採等の自然破壊を行っているという構図になっているから、貧困問題と環境問題とは密接に絡み合っていて、切り離すことができない。したがって、地球規模での環境問題と貧困問題とを共に解決できる能力を発揮できるかどうかが、これからの自由主義にとっての試金石になると思われるのである。

この点で、私が大きな可能性を感じ、勉強し始めているのが、“ナチュラル・キャピタリズム”(自然資本主義)の概念である。というのも、そこで目指されているのは、「十分な賃金と生きがいをもたらす雇用を生み出し、世界中の貧しい人々の生活水準を向上させ、環境に及ぼす人間の影響を急減させるような変化」を全世界でもたらすことだからである。

この自然資本主義(natural capitalism)が提唱されているのは、次の書物においてである:

Paul Hawken, Amory Lovins, L. Hunter Lovins, Natural Capitalism: Creating the Next Industrial Revolution (Little, Brown and Company, 1999)
佐和隆光監訳、木幡すぎ子訳『自然資本の経済-「成長の限界」を突破する新産業革命』日本経済新聞社、2001年。

上記の「十分な賃金と生きがいをもたらす雇用を生み出し、世界中の貧しい人々の生活水準を向上させ、環境に及ぼす人間の影響を急減させるような変化」という文章は、邦訳9頁に書かれている。

著者の1人ポール・ホーケンは、邦訳書に掲載されている略歴によると、環境問題研究家、起業家であり、作家でもある。非営利の国際的な環境教育団体 The Natural Step を主宰しており、『サステナビリティ革命』(ジャパンタイムズ)、『ネクスト・エコノミー』(TBSブリタニカ)等のベストセラーをはじめとした多くの著作がある。

同じく著者のロビンズ(夫妻?)は、同じく邦訳書掲載の略歴によると、天然資源に関する非営利のシンクタンクであるロッキーマウンテン研究所の共同経営者である。世界中の企業にコンサルティングやアドバイスをしており、『ソフト・エネルギー・パス』(時事通信社)、『ファクター4』(省エネルギーセンター)など多くの著作があり、1989年にデルファイ賞、99年にはリンドバーグ賞を受賞している。

それにしても、なぜ環境破壊的な経済をやめることが雇用の増大につながりうるのであろうか? それは、産業革命以来の経済が、あまりにも資源の浪費にコストをかけすぎているからである。したがって、経営立て直しのためには、解雇によらなくとも、資源効率性の改善を行えばよいことになる。

200年前の産業革命の時代には、労働人口=人的資本は今の10分の1にすぎない一方で、天然資源=自然資本はあり余るほど存在していた。そのために、生産性の向上は、労働力を節約できる機械に天然資源を惜しみなく投入することで行われてきた。つまり、そこでの経済成長とは、①労働力の節約、②天然資源の浪費、この2つによる生産量の(飛躍的)増大を意味していたのである。

ところが、現在では、②天然資源の浪費があまりにも激しかったために、経済をその根底で支えているはずの自然環境がもう限界に来つつある。それと同時に、①労働力の節約による経済成長という観念が惰性的に続いているために、いまでも各企業は経営立て直しと言えば、すぐにリストラの名の下に労働力を減らそうとする。しかし、これまでは天然資源の節約の必要性がほとんど全く考慮されてこなかったために、その非効率ぶりは実はあきれるほどである。したがって、コストの削減は、何も解雇によらなくとも、資源効率性を改善することによって、十分すぎるほどに達成できるのである(『自然資本の経済』32-36頁を参照)。

しかしながら、上記のような資源効率性の達成だけで、自然環境が守られるとは限らない。ここで私なりの例を出すならば、たとえばガソリンで走る自動車の燃費が飛躍的に良くなったからといって、ガソリンの消費が必ず抑えられるとは限らないだろう。燃費が良くなったことでむしろ節約観念が薄れてしまい、いつの間にか走行距離が増えすぎることで、結果的に、却ってガソリン消費量が増えてしまう、という事態も大いにあり得るからである。

そこで、『自然資本の経済』の著者たちは、以下の4つをナチュラル・キャピタリズムの原則として唱えている(『自然資本の経済』38-52頁):

(1)資源効率性の飛躍的改善--これがまず第一であるが、これだけでは足りないので、以下の3つが追加されることになる。

(2)生物を模倣した産業システムの構築により廃棄物という概念をなくすこと

(3)財の購入によってではなく、むしろレンタルによるサービス提供へと経済システムを変えること--たとえばテレビなら、テレビ自体を購入させるのではなく、テレビ自体はレンタルとし、消費者はテレビを「見る」というサービスを購入するための料金を、毎月定期的に少しずつ支払う。そうすれば、メーカーはやたらとモデルチェンジして新しいのを売りつけるために、消費者に旧タイプのテレビを廃棄させようとする必要はなくなるから、廃棄物が激減する。

(4)自然環境を無価値とみなさずに、むしろ貴重な“自然資本”と捉え、その自然資本を増大させるような再投資によって、環境破壊への傾向を逆転させる。

以上は、自然資本主義の議論の、ほんの「さわり」である。本格的にはこれから勉強しなければならないが、真剣な検討に値することは、著者の1人ホーケン氏がかつて環境経済・政策学会によって日本に招かれ、同学会によってナチュラル・キャピタリズムが真剣な議論の対象となっていることからも分かるだろう(環境経済・政策学会編『環境保全と企業経営 環境経済・政策学会年報第7号』東洋経済新報社、2002年)。

そのような訳で、この自然資本主義の概念にハイエク的、あるいはM・ポラニー的な自由概念、自生的秩序の概念を掛け合わせてみれば、どのような新たな経済秩序が浮かび上がってくるのか、その可能性を真剣に探ってみたい--というのが、今の私が次の研究課題として考えていることである。

なお、ナチュラル・キャピタリズムについては、著者によるウェブサイト(http://www.natcap.org/)もあるので、参照されたい(ただし英語)。

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2007年2月12日 (月)

グリーン・リベラリズムの可能性:鷲田豊明教授「環境政策と自由主義」を読む

昨年11月28日に「グリーン・リベラリズムとハイエク」と題した文章を本欄に掲載したが、そこで言及した鷲田豊明教授の書かれた著書『環境政策と一般均衡』(勁草書房、2004年)の第1章「環境政策と自由主義」を読んだ。そこでは、私の研究対象であるハイエクの自由主義が好意的に取り上げられていたので、次の研究課題として地球環境問題(なかんずく地球温暖化問題)を真剣に考え始めた私を大いに勇気づけてくれた。

しかし、それと同時に、鷲田教授も的確に指摘されているように、他方で今日の環境問題の出現には自由主義に大きな責任があったのであり、その意味で自由主義自身に欠陥があったことは否定できない。したがって、地球環境問題の解決のためには、鷲田教授の言葉を借りれば、「個人の自由という、人間的文明の前進を測ることもできる大切な価値観を、地球環境問題があらわれるような人類の新たな危機的状況のもとでも前進させる」(『環境政策と一般均衡』14頁)ことが必要である。私なりに言えば、環境保全と両立できるように、われわれは自由主義思想を鍛え直さなければならないのである。

地球温暖化問題の解決には自由主義の“現状維持”に甘んじることは許されないとはいえ、それではなぜ、自由主義の“否定”ではなく、自由主義の“進化”が、すなわち自由主義を生かすという方向性が必要なのか? ここで再び鷲田教授の言葉を借りるならば、「現代は、公害問題と同じような古典的な環境汚染問題の上に、地球環境問題が折り重なってあらわれ、人類は多様な環境問題に直面している」(同書3頁)からである。

公害問題の場合は、汚染源がハッキリと特定できるから、その汚染源に対する政府の直接規制で対応できるし、また実際、直接規制で迅速に対応しなければならない。わが国での1970年におけるいわゆる「公害国会」で制定されたのは、この直接規制のための諸々の法律だった。

ところが地球環境問題の場合には、原因物質の排出源が、ある具体的な工場などに限定されない。たとえばCO2の過剰排出を直接規制の手法で抑えようとすれば、その規制のための取り締まりに莫大な手数がかかってしまうから、人々の意識自体が向上しない限り、実際には効果が上がらない(*)。

(*)ここで私なりに例を挙げるならば、それは駅前の違法駐輪の取り締まりのようなものである。自転車に乗る人は事実上無数にいるから、いくら強制的に撤去しても、(先日放送していたNHK教育テレビの道徳番組によれば)東京・池袋駅周辺の違法駐輪は一向に減らない。人々の意識が変わっていないからである。

したがって、最も望ましいのは、人々の環境意識が向上することである。すなわち、高い環境意識を身につけた人々による自発的な対応である。この点で鷲田教授が期待されているのは、ハイエク的な自由主義における「自由文明の創造力」であって、社会の人々による自発的な創造性が至る所で発揮されることで、環境保全がいわば自生的に、広汎に達成されることである(同書3頁の論述を山中なりに要約)。

しかし、自主性にのみ任せていても迅速に事が運ばれない場合も大いに考えられるから、その場合には、直接規制ほどには自由を制限しないが、社会全体に緩やかな規制を導入すること、たとえば炭素税や、許容されるCO2の排出総量を定めた上で排出権の売買を経済主体間で自由に行うことを認める排出権取引制度などが必要とされる。ハイエク的自由主義においても、社会全体に適用される一般的・間接的な規制は認められているから、ここで重要となるのは、環境政策における市場と政府の役割分担の正しいあり方とはどのようなものか、ということになる。

しかしながら、環境保全に必要な炭素税率がどこまで人々に受け入れられるかどうか、また許容されうる排出量をどのように設定するか、そして排出権を売ることで自らのCO2排出をいかに減らそうとするか等々は、やはり最終的には人々の環境意識がどれだけ向上するかにかかっているから、地球環境問題の解決のためには、やはり人々の環境意識の向上が、もっと根本的に言えば、自然環境への共感を可能とするような人々の世界観の転換が、絶対に必要不可欠となるのである(鷲田『環境政策と一般均衡』15-30頁を参照)。

以上、「環境政策と自由主義」に関する鷲田教授の論説の主旨を、私なりにまとめてみた。私自身、鷲田教授の論旨に大いに共鳴したのであるが、この3月刊行予定の『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房)で論じた私の議論によると、ハイエク的自由主義は21世紀において大いに生かされる必要があるものの、その必要はハイエク自身の自由概念だけによっては満たされないだろう。というのも、ハイエク自身の描いた市場秩序における人間の自由は、ありのままの人間にとっては、あまりにも耐え難く厳しいものとして、描かれているからである。

したがって、ハイエク的自由主義における「自由文明の創造力」が地球環境問題においても発揮されていくためには、自由概念の真摯な再考が要求されることだろう。これは誠にも challenging な課題であり、簡単には行かないだろうが、地球環境問題の深刻さを考えると逃げるわけにはいかない。根気を必要とする地道な作業になりそうだが、勇気を持って取り組んでいこうと思う。

追記(1):鷲田教授の「環境政策と自由主義」は、氏自身のウェブサイト上でも公開されている(こちら)。

追記(2):上述の「社会の人々による自発的な創造性が至る所で発揮されることで、環境保全がいわば自生的に達成される」ために有効なのは、ハイエクの自由概念よりも、むしろM・ポラニーの自由概念の方かもしれない。M・ポラニーは「自生的秩序」や「暗黙知」といったハイエクにおける中心概念に大きな影響を与えた、ハイエクと同時代の自由主義者であるが、その自由主義思想の中身は、実はかなり異なっていたように思われる。そのM・ポラニーの自由主義思想に対する検討も、私の次の研究課題になるだろうと思う。

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2007年2月11日 (日)

温暖化と花粉症(2)

前回「温暖化と花粉症」と題した文章を書いたのは昨日の朝だったが、その後、その“季節外れ”の早すぎる花粉症のために体がひどくだるくなり、昨日から今日にかけて寝込んでいた。ようやくそれが治ってきたので、今こうして文章を打っているが、その間もずっと考えていたのは、やはり「地球温暖化を何とかしなければ…」ということだった。

しかしそれは、誰かを責めるという気持ちからではない。というのも、地球温暖化の原因となる温室効果ガス、なかんずくCO2の過剰な排出については、先進国に住む人間である以上、私自身も紛れもなくその責任を負っているからだ。公害問題であれば加害者と被害者とにハッキリと分かれるが、地球温暖化問題の場合は、それが先進国に住む同時代人の間での話に限定すれば、その人々はみな、被害者であると同時に加害者でもある。したがって、公害問題の場合のように誰か特定の人(あるいは企業)だけを名指しして非難することは、地球温暖化問題の場合はできないのである。

しかし、この「被害者であると同時に加害者でもある」という関係は、先ほども述べたように、「先進国に住む同時代人の間での話に限定すれば」という場合である。つまり、①「先進国に住む」という空間的な限定と、②「同時代人の間で」という時間的な限定と、この①・②の限定をおいた場合での話である。この2つの限定を外してしまえば、そこには「加害者 対 被害者」という関係が再び浮上してくる。

まずは①の空間的な限定を外して、《先進国と途上国》の関係に視野を広げてみよう。そうすると、そこには、「CO2の過剰排出者 対 それによる被害者」という関係がハッキリと現れる。現に、南太平洋に浮かぶ島国ツバルでは、今まさに国土そのものが海面上昇によって水没しつつあり、その国土を捨ててニュージーランドへの移住がすでに行われている。しかし、その当のツバルでは小規模な農業と漁業による自給自足経済が行われてきているだけだから、CO2の過剰な排出は皆無である。したがって、ツバルの人々は、地球温暖化による純然たる被害者だ。また、アラスカ地方でも永久凍土(だったはずの)海岸で、その凍土が溶けてしまって海岸浸食が進んでいるために、そこに住む人々は他国への移住を真剣に考え始めざるを得なくなっている。このアラスカ地方の人々にも、CO2の過剰排出の責任はない。それはまさに先進国の責任なのである。

次に②の時間的限定を外して、「現代人とその子孫」という《世代間》の関係に視野を広げてみよう。そうすると、そこにも「加害者 対 被害者」という関係が見えてくる。というのも、CO2の過剰排出→地球温暖化→気候の極端化による様々な被害、という因果関係は、世代を超えた長いタイムスパンで生じるからだ。つまり、このままでは我々は子孫から恨まれてしまうことになるのである。それが幸せな世界であるとはとても言えまい。

したがって、地球温暖化問題の解決のためには、人間界にだけ話を絞ってさえも、以上のような①②の点での“視野の拡大”が求められている。これに③動植物との共存、という観点を加えれば、われわれ21世紀を生きる人間には、①②③の3重の意味での視野の拡大を、地球温暖化問題によって強力に迫られているのである。これはまさに、21世紀最大の challenge だと言わなければなるまい。

花粉症に話を戻せば、その主要原因とされる杉花粉は、一説によると、戦後日本における植林政策によって人工的に植えられた大量の杉から来るものだと言われている。だとすれば、それは私が生まれてくる前の話だから、そういう意味では、私は世代間関係における“被害者”だ。しかし、今年のように早くも2月に杉花粉を浴びてしまうという現象が温暖化によるものだとするならば、私のライフスタイルからもまさにCO2が過剰に排出されてきたはずだから、それは“自業自得”ということになる。だから、私は前世代の植林政策を恨みに思うだけで満足するわけにはいかない……昨日・今日の私は、花粉症に悩まされながら、そんなことを考えていたのであった。

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2007年2月10日 (土)

温暖化と花粉症

昨日の産経新聞夕刊に、「熱波・花粉症悪化・水不足 温暖化 人命影響も」という見出しの記事が1面に載っているのをみて、ハッとした。というのも、いつもなら3月に入ってから徐々に出てくるはずの私の花粉症が、今年は何と、この2月初旬にはもう出始めていたからである。

私が花粉症になったのは、大学生の時だ。たしか20歳になった頃だったように思う。その春に急に、目がかゆくなり、鼻がムズムズし始めた。眼科や耳鼻科に行ってみると、「花粉症」と診断されたのである。それ以来ずっと、毎年春になると悩まされ続けてきた。3月になると出始め、それからだいたい5月の大型連休明けぐらいまでそれが続く-ということが毎年の“恒例”になってきた。

しかし、今年はそれが、なんと今月の7日には、もう始まってしまったのである…!2月7日は私の誕生日だから(38になった)、この花粉症スタートの異常な早さの“記録日”は、決して忘れることがないだろう。

冒頭に挙げた記事は、IPCC第2作業部会の第4次報告書案の内容を伝えるものだった。第2作業部会というのは、第1作業部会の科学的な温暖化予測を受けて、その社会経済的影響を予測する部会である。それによると、海面上昇による海岸浸食が起きた地域があるなど、温暖化の影響が自然環境面だけではなく人間生活面でも顕在化しつつあることを第3次報告書以上に踏み込んで指摘しており、新たな現象として、欧州やアジアで熱波によって人命が奪われたり、北半球の中緯度地域で花粉の量が増えて、アレルギーが広がっていることが挙げられているという。これまで温暖化の影響は発展途上国や小さな島国に最も深刻な打撃をもたらすとされてきたが、異常気象や熱波の被害は先進国でも避けられないというわけである。

同報告書案によると、今後も化石燃料に頼り、高い経済成長を重視する社会が続けば、2050年頃には気温が1990年比で2~3度上昇し、生物の20~30%が絶滅の危機にさらされ、水不足に見舞われる人口が最大20億人増える。2080年頃には3~5度上昇し、水不足人口が最大32億人増加、世界の5人に1人が洪水の影響を受ける恐れが出てくる。異常気象によって農業にも大きな影響がもたらされ、食糧不足で飢餓に悩む人口も最大で1億2000万人増える可能性があるという。

何とも不気味な予測だが、これは「今後も化石燃料に頼り、高い経済成長を重視する社会が続けば」という前提のもとでの予測である。だから、それを大きく転換し、温室効果ガスを出さないクリーンで再生可能な自然エネルギーに基づいた社会を形成していけばよいのである。

今年は、早くも外出するときにはマスクをしなければならなくなったが、花粉症程度なら、まだ水不足や熱波、飢餓などで命の危険にさらされるよりは、ずっとずっとマシだと言うべきであろう。花粉症程度でとどまっているうちに、それを重要な兆候と受け止め、さらなる温暖化防止のために真剣に取り組まなければならないと決意する誕生日を、今年は迎えたのである。

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2007年2月 6日 (火)

温暖化防止をめぐる米と仏

地球温暖化の人為性を強く指摘したIPCC第1作業部会の第4次報告書を受けて、温暖化を遅らせて地球を守るため、違反者を罰する権限をもった新たな世界環境監査機関(world environmental monitor)の創設をフランスが提唱し、フランス以外に45ヵ国がその呼びかけに応じたことを伝えるAP通信の記事が、昨日のヘラルド朝日紙に掲載されていた(オンラインではこちら)。その提唱者はフランスのシラク大統領である。

ところが、この呼びかけに応じなかったのが、アメリカ、中国、それにインドだったという。いずれも、経済力の(さらなる)発展に熱心な政権の国である。それに対して、仏シラク大統領は、名指しこそしなかったとはいえ、アメリカに対する不満を表明したという。また、それに先立って、シラク大統領は先週、アメリカに対して、もしも地球気候に関する諸協定(global climate accords)にアメリカが署名しないのであれば、アメリカからの輸出品に炭素税がかけられることになるだろうと警告したことを、このAP通信は伝えている。

しかし、米ブッシュ政権は、1月の一般教書演説で、米国内での石油消費量の大幅な削減は謳ったものの、CO2の排出削減を義務化することには、依然として否定的な態度をとっている。IPCCの第4次報告書についても、米フラット副報道官は「結論は有意義だ」と記者団に述べたものの、世界最大の排出国として気温上昇の悪影響には判断を示さず、ブッシュ大統領も特別な声明を出さなかったと、日本経済新聞が伝えている(こちら)。

たしかに、シラク大統領の提唱したような監査機関は、私も必要とならざるをえないと思う。しかしながらそれは、≪①化石燃料からの、さらには②原子力からの脱却 ⇒ 自然エネルギーへの全面的転換≫に向けての国際的・世界的な協力体制の構築を伴わない限り、米国(および中国・インド)をも巻き込んだ全世界的な監査体制には、到底なりえないだろうと私は思う。

というのも、一方において、化石燃料に依拠している限りにおいては(上記①)、CO2削減の義務化は、取りも直さず、経済力の低下を意味するがゆえに、米ブッシュ政権にしてみれば、それは“環境”に名を借りた“フランスのアメリカ国力の低下戦略”と見えてしまうだろうからである。

国際政治を「国益をめぐる主権国家同士のせめぎあい」と見る限り、軍縮でさえ、ライバルの国力を低下させるための道具として悪用されてしまう。それと同じように、地球温暖化防止でさえ、劣位国(仏)の優位国(米)に対する国力低下の試みへと、そしてその試みに対する優位国の抵抗へと、たちどころに変貌してしまう。国際政治が国家主権同士の国益の対立としての性格から脱しきれていない以上、悲しいことではあるが、地球温暖化防止を謳うメッセージでさえ、権力闘争の具となってしまいかねないであろう。

しかし、地球温暖化=気候変動の脅威は、世界各国に、国家主権の自己主張からの脱却を強力に迫っている。したがって、強制力を伴う全世界的なCO2削減の監視体制の構築のためには、化石燃料からの脱却⇒自然エネルギーへの転換を目指す国際協力が、絶対に必要不可欠であろう。さもなければ、CO2削減の義務化が経済力=国力の低下を招くという疑念を拭い去ることができないからである。

また他方において、フランスは、石油に代わるエネルギー源として、原子力発電を強力に推進している国である(上記②)。そしてシラク大統領は、かつて1995年に南太平洋ムルロア環礁で、核実験を強行した人物に他ならない。言うまでもなく、核実験という行為は、国家主権の強烈な自己主張であり、かつ自然環境破壊の最たるものである。そのような前歴のある人物に、しかも、いつ軍事目的に転用されてもおかしくない原子力による発電を強力に推し進めている国から、CO2削減義務化のための監視体制の構築を謳われたところで、米ブッシュ大統領にしてみれば、とうてい信頼しきれないことだろう。どうしても安全保障上の懸念をぬぐいきれないからである。したがって、フランスが地球温暖化防止のために全幅の信頼を得るためには、化石燃料のみならず、原子力からの脱却こそが、求められるはずである。

しかしながら、それと同時に、核の放棄をフランスにだけ求めても、それは無理な話であろう。全世界的にそれが行なわれなければ、互いに疑心暗鬼に陥って、どの国も自分から進んで核放棄に踏み切れないからである。安全保障のジレンマから抜けられないのである。だからこそ、全世界的な核放棄に向けた信頼関係の醸成が、地球環境のためにも必要とされるはずなのである。

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2007年2月 5日 (月)

温暖化問題は行動の段階へ:科学者から国民への緊急メッセージ

地球温暖化が人為的な現象である可能性が非常に高いことを強い言葉で指摘したIPCC第1作業部会の第4次報告書を受け、日本の科学者15名が、日本国民に向けて、2月2日付けで緊急メッセージを発表した。タイトルは次の通りである:

気候の安定化に向けて直ちに行動を!-科学者から国民への緊急メッセージ-

環境省のホームページから、このPDFファイルがダウンロードできる(こちら)。A4サイズで本文がたったの3ページだから、すぐに読める。これを読むと、昨今の地球温暖化の「原因」をめぐる議論の段階は、すでに終わったことが分かるのである。

もちろん、予測される海面上昇の詳しい数値をめぐっては、今後も議論が専門的には為されていくことだろう。しかし、そのような細かい数値がまだ完全に確定していないことを理由に、各国の政策担当者が対策を怠ることは、もはや許されない段階に突入したと言うべきだと思われる。いまや問題は、温暖化の進行を食い止めるために、いかなる「行動」をとるべきか、という段階に入ったのである。

これを受けて、世界各国がどのような政策を実施するのか。わが国の政府はどのような方針を打ち出すのだろうか。

その点、ひとつ気になるのは、上記の「緊急メッセージ」に名を連ねている科学者の中に、「二酸化炭素海底地下地層貯留に関する専門委員会」のメンバーも何名かいることである。これは要するに「CO2の地下固定」の可能性を検討している委員会である。

この専門委員会は、環境省の諮問機関の一つたる中央環境審議会の地球環境部会に属しているが、もしも環境省が、このCO2地下固定を推進しようとするのだとしたら、それはちょっと違うと私は思う。というのも、つねに放射能漏れのリスクを抱えざるをえない原子力発電と同様に、地下固定されていたはずのCO2が何かの拍子に一気に漏れ出てしまう危険性を完全になくすことは、おそらく不可能だからだ。それは一種の“技術過信”だと思われるのである。

温暖化問題が、原因をめぐる議論から、対策のための行動の段階へと移ったことは、まさに上記の「緊急メッセージ」のとおりだろう。しかしながら、その場合にとられるべき行動とは、原子力発電やCO2地下固定といった大きなリスクと背中合わせのものではなく、再生可能な自然エネルギーの実用化へ向けた諸対策だと私は思うのである。

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追記:上記の文章を9:32PMに公開した後、上記の「専門委員会」の会議録をためしに読んでみたら、昨年9月25日の第1回の会議録(こちら)に、上記の「緊急メッセージ」にもCO2地下固定の「専門委員会」にも名を連ねている野尻幸宏氏(国立環境研究所 地球環境研究センター 副センター長)の発言の中に、次のようなものがあったが、それはCO2地下固定技術の将来性に期待する趣旨のものであった:

「恐らく回収・貯留という技術を30年後に始めたのでは、少し遅いのではないかと。きっとそれより前にかなり準備をして、やるか、やらないか、国際的にも議論して、進める必要が出てくるんじゃないかというふうに思うわけです。〔中略〕地球物質循環の立場でいえば、もし100年で99%保持していてくれて、1%しか漏れないというんだったら、これは非常に対策技術としては、十分意味がある技術だというふうに、私、考えるので、〔後略〕」

CO2地下固定の専門委員会に名を連ねているといっても、もしかしたら、むしろそれに批判的な立場からの発言もあるかもしれないと思い直したので、ためしに会議録を少し読んでみたのである。すべてに綿密に目を通したわけではないので、安易な断定はできないが、上記の例に関する限り、やはり、肯定的な立場に立っているからこそ委員になっていると言ってよいだろう。しかし私としては、CO2地下固定には、やはり賛成しかねるのである。(10:23PM記す)

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2007年2月 2日 (金)

IPCC第4次報告書が温暖化の人為性を強く指摘

国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第1作業部会がこのほど第4次報告書をまとめ、その中で、人間活動が温暖化をもたらした可能性について「非常に高い(very likely)」としていることが、イギリスBBCやInternational Herald Tribune(IHT)のウェブサイトで、大きく報じられた。ここでの「非常に高い(very likely)」は、90%以上の確率を意味するのだという。

今日の18:00頃に私が調べてみた限りでは、BBCやIHTがそのウェブサイトで、いち早く、しかもトップでこの報告書のことを報じていたのに対して、わが国の主要な新聞社やNHKのウェブサイトでは、そのトップページに全く取り上げられていなかったのが不思議で仕方がなかった。もちろん、あえて探せばその記事が出てくるのだが、それにしてもなぜわが国の主要メディアではこんなにも扱いが小さいのかが、私には理解できなかった。

それはともかく、2001年に出された第3次報告書では、人間活動によって温暖化がもたらされた可能性については"likely"という表現が使われていた。IPCCにおける用語法では、これは66~90%を意味する。それに対して今回の第4次報告書では「非常に高い(very likely)」という表現になった。つまりIPCCは、地球温暖化の人為性について、表現を強めたのである。

BBCウェブサイトの報道によると、今回の報告書では、2100年までの気候変動について、次のような予測がなされているという:

・恐らく起こるであろう気温上昇(probable temperature rise)は摂氏1.8~4度
・ありうる気温上昇(possible temperature rise)は摂氏1.1~6.4度
・海面は28~43cm上昇する可能性が非常に高い(Sea level most likely to rise by 28-43cm)
・北極の氷は21世紀後半に消滅する(Arctic sea ice disappears in second half of century)
・熱波が増加する可能性がかなり高い(Increase in heatwaves very likely)
・熱帯の嵐〔ハリケーンや台風など〕の強度が増す可能性が高い(Increase in tropical storm intensity likely)

詳しくはその報告書自体を読んでみないと分からないし、上記の予測数値の正確性を科学的に吟味する能力は素人の私にはないが、IPCCが温暖化が人為的な要因によって引き起こされた可能性を90%以上と断定し、表現を強めたことを、われわれは重く受け止めるべきであろう。わが国の政府もこれを真摯に受け止め、早急に必要な政策を講じてもらいたいと願わずにはいられないのである。

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2007年2月 1日 (木)

BBCのLearning English

以前に本欄で、NHKラジオやCNN ENGLISH EXPRESSを活用するようになったと書いたことがある(たとえば昨年8月25日9月8日)。しかしその後、実は、自宅での英語の勉強のための素材を、イギリスBBCのウェブサイト上にあるLearning Englishに変えた。理由は次の二つである:

①CNNは当然アメリカ英語だが、私にはイギリス英語の方がより必要であること。

②NHKラジオを聞いていたUSENの聴取料が、家計にちょっと負担になってきたこと。

①について補足すると、もし私がこの先留学することがあるとしたら、それはアメリカではなく、イギリスになるだろう。というのも、ハイエク研究の世界で、たしかに経済学の分野なら、アメリカでの研究が盛んだが、政治思想の分野なら、それはイギリスだからである。それに、何故かは分からないが、私の好みに合うのも、実はイギリス英語の方なのである。なので、最近では、BBCをもっぱら活用している。

②USENにNHKラジオ英会話のチャンネルがあり、一日中繰り返し放送されているので便利であることは、以前にも書いたとおりである。しかし、その聴取料は毎月6000円弱であり、これがなかなかバカにならない。今年の4月からは娘を私立の幼稚園に行かせることになっているので、その教育費を考えると、我が家にとって、USEN放送の聴取は“贅沢”になってきたのである。もともと、最初から自ら進んで契約したのではなく、一昨年の4月にチューナーがクジで当たったことがきっかけで契約を結んだというのがその経緯だったから、是が非でも聴取したいと思っていたわけではないので、やめても支障はないのである。とはいえ、最低2年間はサービスを利用する約束だから、いま解約すると違約金が発生するが、その違約金の額はあと2ヶ月の聴取料よりも高いから、今度の4月になるのを待って、解約するつもりである。要するに、私のUSEN利用動機は、音楽を聴くことではなく、もっぱら英語学習のためだったが、英語学習のための素材なら他にもっと、私に向いたものがあった、ということなのである。

以上のようなわけで、最近ではBBCのLearning Englishのコーナーを活用するようになった。何よりも無料で使えることが大変ありがたい。その中のWords in the Newsでは、時事英語に出てくる表現を学べるし、時事的な話題についても知ることができる。また、Quizzesでは、クイズ形式で文法問題をオンラインで解答できるようになっている。その他にもいろいろなコーナーが用意されているが、今のところ、私が活用しているのは、以上の二つである。

というわけで、最近の私は、BBCを英語勉強に活用している次第である。

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