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2007年2月12日 (月)

グリーン・リベラリズムの可能性:鷲田豊明教授「環境政策と自由主義」を読む

昨年11月28日に「グリーン・リベラリズムとハイエク」と題した文章を本欄に掲載したが、そこで言及した鷲田豊明教授の書かれた著書『環境政策と一般均衡』(勁草書房、2004年)の第1章「環境政策と自由主義」を読んだ。そこでは、私の研究対象であるハイエクの自由主義が好意的に取り上げられていたので、次の研究課題として地球環境問題(なかんずく地球温暖化問題)を真剣に考え始めた私を大いに勇気づけてくれた。

しかし、それと同時に、鷲田教授も的確に指摘されているように、他方で今日の環境問題の出現には自由主義に大きな責任があったのであり、その意味で自由主義自身に欠陥があったことは否定できない。したがって、地球環境問題の解決のためには、鷲田教授の言葉を借りれば、「個人の自由という、人間的文明の前進を測ることもできる大切な価値観を、地球環境問題があらわれるような人類の新たな危機的状況のもとでも前進させる」(『環境政策と一般均衡』14頁)ことが必要である。私なりに言えば、環境保全と両立できるように、われわれは自由主義思想を鍛え直さなければならないのである。

地球温暖化問題の解決には自由主義の“現状維持”に甘んじることは許されないとはいえ、それではなぜ、自由主義の“否定”ではなく、自由主義の“進化”が、すなわち自由主義を生かすという方向性が必要なのか? ここで再び鷲田教授の言葉を借りるならば、「現代は、公害問題と同じような古典的な環境汚染問題の上に、地球環境問題が折り重なってあらわれ、人類は多様な環境問題に直面している」(同書3頁)からである。

公害問題の場合は、汚染源がハッキリと特定できるから、その汚染源に対する政府の直接規制で対応できるし、また実際、直接規制で迅速に対応しなければならない。わが国での1970年におけるいわゆる「公害国会」で制定されたのは、この直接規制のための諸々の法律だった。

ところが地球環境問題の場合には、原因物質の排出源が、ある具体的な工場などに限定されない。たとえばCO2の過剰排出を直接規制の手法で抑えようとすれば、その規制のための取り締まりに莫大な手数がかかってしまうから、人々の意識自体が向上しない限り、実際には効果が上がらない(*)。

(*)ここで私なりに例を挙げるならば、それは駅前の違法駐輪の取り締まりのようなものである。自転車に乗る人は事実上無数にいるから、いくら強制的に撤去しても、(先日放送していたNHK教育テレビの道徳番組によれば)東京・池袋駅周辺の違法駐輪は一向に減らない。人々の意識が変わっていないからである。

したがって、最も望ましいのは、人々の環境意識が向上することである。すなわち、高い環境意識を身につけた人々による自発的な対応である。この点で鷲田教授が期待されているのは、ハイエク的な自由主義における「自由文明の創造力」であって、社会の人々による自発的な創造性が至る所で発揮されることで、環境保全がいわば自生的に、広汎に達成されることである(同書3頁の論述を山中なりに要約)。

しかし、自主性にのみ任せていても迅速に事が運ばれない場合も大いに考えられるから、その場合には、直接規制ほどには自由を制限しないが、社会全体に緩やかな規制を導入すること、たとえば炭素税や、許容されるCO2の排出総量を定めた上で排出権の売買を経済主体間で自由に行うことを認める排出権取引制度などが必要とされる。ハイエク的自由主義においても、社会全体に適用される一般的・間接的な規制は認められているから、ここで重要となるのは、環境政策における市場と政府の役割分担の正しいあり方とはどのようなものか、ということになる。

しかしながら、環境保全に必要な炭素税率がどこまで人々に受け入れられるかどうか、また許容されうる排出量をどのように設定するか、そして排出権を売ることで自らのCO2排出をいかに減らそうとするか等々は、やはり最終的には人々の環境意識がどれだけ向上するかにかかっているから、地球環境問題の解決のためには、やはり人々の環境意識の向上が、もっと根本的に言えば、自然環境への共感を可能とするような人々の世界観の転換が、絶対に必要不可欠となるのである(鷲田『環境政策と一般均衡』15-30頁を参照)。

以上、「環境政策と自由主義」に関する鷲田教授の論説の主旨を、私なりにまとめてみた。私自身、鷲田教授の論旨に大いに共鳴したのであるが、この3月刊行予定の『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房)で論じた私の議論によると、ハイエク的自由主義は21世紀において大いに生かされる必要があるものの、その必要はハイエク自身の自由概念だけによっては満たされないだろう。というのも、ハイエク自身の描いた市場秩序における人間の自由は、ありのままの人間にとっては、あまりにも耐え難く厳しいものとして、描かれているからである。

したがって、ハイエク的自由主義における「自由文明の創造力」が地球環境問題においても発揮されていくためには、自由概念の真摯な再考が要求されることだろう。これは誠にも challenging な課題であり、簡単には行かないだろうが、地球環境問題の深刻さを考えると逃げるわけにはいかない。根気を必要とする地道な作業になりそうだが、勇気を持って取り組んでいこうと思う。

追記(1):鷲田教授の「環境政策と自由主義」は、氏自身のウェブサイト上でも公開されている(こちら)。

追記(2):上述の「社会の人々による自発的な創造性が至る所で発揮されることで、環境保全がいわば自生的に達成される」ために有効なのは、ハイエクの自由概念よりも、むしろM・ポラニーの自由概念の方かもしれない。M・ポラニーは「自生的秩序」や「暗黙知」といったハイエクにおける中心概念に大きな影響を与えた、ハイエクと同時代の自由主義者であるが、その自由主義思想の中身は、実はかなり異なっていたように思われる。そのM・ポラニーの自由主義思想に対する検討も、私の次の研究課題になるだろうと思う。

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コメント

ありがとうございます。
じっくり拝見させていただきますね。

投稿: toshiki | 2007年2月12日 (月) 22時33分

山中先生へ

二酸化炭素など、今の環境問題の問題の大半は先進国の大企業が出していると考えています。その上層部の人たちは多分自分たちの利益を失ってしまうと考えているのではないでしょうか?

彼らも詳しいことは僕も全然知らないけれど、「生き残りの競争」というものがあると思うので、環境対策にも躊躇しているのではないでしょうか?
「己の得た権利を失いはしないかと戦々兢々としている」というものです。若き日のゾシマ長老に自分が殺人したことを告白した町のミハイルという名士もそんなことを言ってはいなかったでしょうか?

森林破壊や工場などで働いている人たちはそれこそ「日々の生活」のために心身とも大変な目にあっています。そしてそれは上の人たちからの命令でもあります。

僕が危惧するのは例え炭素税など、国や企業にそれなりの「規定」ができたとしても底辺の人たちが「直接のとばっちり」を受けるのではないかということです。もちろん僕は今のままでいいとは全然思いません。

ただ僕は(ハイエクとハイオクとハイテクの区別がつかない僕が言うのもなんですが)山中先生のブログの自由主義について読めば彼のイデオロギーは確かに立派なのかも知れないのですが、そのような人たちの具体的な人生に対する想像力がなかったことではないでしょうか?そしてこのようなことは歴史上案外繰り返されていることのように思うのです。

環境問題は底辺の貧しい人々について考えるようなことだとも思います。何だかよくまとまらない文章でしたが・・・・

投稿: スメルジャコフ | 2007年2月13日 (火) 00時07分

スメルジャコフさん、

> 環境問題は底辺の貧しい人々について考えるようなことだとも思います。

あなたのご意見は、もっともだと思います。この点については、「“自然資本主義”の可能性」と題して、本欄に新たに文章を書いておきましたので、どうぞお読み下さい。

ハイエクは、実は青年時代、貧困問題を危惧する社会主義者でした。ところが、ミーゼスという経済学者の業績に触れて、社会主義経済の実行不可能性に気づき、自由主義者に変わっていった、という経緯があります。貧困問題の解決のためには、自由主義経済によって、全体の底上げを図るしかない、という考え方です。詳しくは、ハイエク『ハイエク全集5 自由の条件 Ⅰ 自由の価値』(春秋社)第3章に詳しく論じられています。

社会主義者から自由主義者へというハイエクの経緯については、日本語で書かれたものとしては、橋本努編『20世紀の経済学の諸潮流』(日本経済評論社、2006年)258-262頁にコンパクトに紹介されていますので、興味があれば、どうぞお読み下さい。

投稿: 山中 | 2007年2月13日 (火) 22時02分

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