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2007年2月25日 (日)

法理学研究会で研究報告

昨日の2月24日に、法理学研究会で研究報告をする機会を与えていただいた(同志社大学・光塩館にて)。法理学研究会(略称:法理研)というのは、1933年に発足した、まことに伝統ある研究会である。その由緒ある研究会で、これまで私は折に触れて研究報告をする機会を与えていただいているので、大変ありがたく思っている次第である。

今回でたしか5度目の報告だったように思うが、今回の報告内容は、この3月に出版される拙著『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房)の第4章を要約したものであった。

その内容をできるだけ簡単にまとめてみるならば、おおよそ、次のとおりである:

自生的秩序論で知られてきたハイエクの市場秩序論は、その“自生的”という言葉がもたらす第一印象とは異なり、実は本質的な意味で政治権力の必要性を認めるものであった。というのも、ハイエクによれば、あるがままの生身の人間は市場における自由競争の厳しさに堪えることを欲しないから、政治権力によって市場に踏みとどまらせない限り、ともすれば自由競争から逃れようとするからである。

自由競争において、努力をした者がその努力の程度にふさわしい結果を得るわけでは必ずしもない、とハイエクは冷徹に主張する。というのも、ハイエクによれば、努力の程度とは無関係の「運」の要素も大きく影響するし、それに何よりも、ハイエクに言わせれば、人間は無知の存在であり、その能力には限りがあるからである。したがって、ともすると、人間はその厳しい市場競争から逃げ出そうとする。しかし、自由競争が広く行われることが社会全体の活力維持のためには必要不可欠だから、人々を市場競争に踏みとどまらせるには、政治権力の働きが不可欠となるのである。

たしかにハイエクは、市場秩序を人間の設計によって出現させることは不可能だと説いていた。ハイエクによれば、市場秩序の出現は、政治権力によらない自生的な社会過程を通してのみ可能である。しかしながら、その市場秩序の自生的な出現は、決して“円滑な”ものではなかった。というのも、厳しい競争を課す市場原理は、人々の嫌悪するものだったからである。むしろ、一種の歴史的偶然による“意図せざる結果”として、なかば奇跡的に出現できたのが市場秩序だった。したがって、自生的かつ偶然にも奇跡的に出現できた市場秩序を、その出現後も人々の反発から守り抜くためには、政治権力の働きが必要不可欠となるのである。

以上のまとめは、非常に簡略化したものであり厳密性に欠けるので、詳しくは拙著を読んでいただきたいのだが、それでも今回の報告内容の骨子はだいたい表現できていると思う。

先にも書いたように、以上の報告内容は、今度出版される私の本の内容に基づいたものであり、自分なりにハイエクを繰り返し読み、考え抜いた末に到達した結論である。しかも、書物としてもうすぐ世に出ることになるのだから、今さらジタバタしても始まらないはずであった。

しかしながら、いざ研究報告を間近に控えてみると、「これで大丈夫だろうか…。思わぬ欠陥が潜んでいて、手厳しく批判されはしないだろうか…?」などという不安が頭をよぎった。そうなると、法理研での3度目の研究報告(3~4年ほど前の)で少し失敗した記憶もまざまざと甦ってくる。「あのときはまだ試行錯誤の真っ最中の報告だった。今回はそうではない」と自分に言い聞かせても、まだ不安は去らなかった。「実際、本に書いておいて、その本がまもなく書店に並ぼうとしているのに、もう後には引けないのに、今さら何を不安がっているのだろう…」と、自分で自分を可笑しく思ったものである。

最後には覚悟を決めて、腹を据えて研究報告に臨んだのだが、幸いにもおおむね好評で、論旨に関わる致命的な欠陥を指摘するコメントは一つも出なかった。参加者の先生方から、むしろ好意的なコメント・質問をいただいてホッとした。「大変勉強になりました」というお声も、研究会終了後に幾人かの先生方からいただいたことは、望外の喜びであった。

今回の研究報告での好意的な反応によって、もうすぐ世に問われる拙著への自信を少しは深めたのだが、もちろん最終的には、実際に世に出てみないと分からない。しかし、私なりにハイエクの思想体系に徹底的に取り組んだ末に生み出された成果であることは間違いないので、それが書店に並ぶ時を、今は心静かに待ちたいと思う次第である。

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コメント

この記事を書くより前に、私と同じくハイエクを研究している太子堂正弥氏から、次のコメントを、本欄の別の記事へのコメント欄にいただいたので、以下に再掲させていただくことにする。

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今日のご報告、非常に感銘を受けました。「賞賛に値する努力が必ずしも報われるとは限らない」、しかし可能性に向かって投企を行う信念がなにより大切でありそれが「自由」ということだという人間観は、山中さんの個人的信念がまさに投影されていましたが、僕もハイエクのそこに一番共感するので、学問的研鑽の場ではありますが、お聞きしていて少し胸が熱くなりました。

ただ、研究会での最後の質問とも少し関係するのですが、僕は「努力してもかならずそれが100%報われるとは限らない」というのは、実は弱者にも(僕も含むのかもしれません)救いの余地を残しているのではないかと思います。つまり、どうにもならない立場にある人間でも、そこまで力のない人間でも、運や状況によっては逆に力以上の立場につける可能性があるということも意味しているのではと思います。

もちろん、コネ等で不当な利益を得ることは許されることではないですが、人間が状況や運命によってかなりの部分支配されているということは、弱者にも一つの福音なのではないかということです。

ハイエクは全てが一つの価値観で序列化されるメリトクラシーもなにより批判していたと思いますし、努力が100%認められるということには努力による序列化につながる可能性もまたあるのではないかと個人的には感じました。

また議論させてください。今日は、本当に勉強させていただきました。

投稿: 山中 | 2007年2月25日 (日) 22時00分

太子堂さん、

コメントを誠にありがとうございました。法理研では質問をいただき、感謝申し上げます。また、いつも本欄をご愛読いただき、ありがとうございます。

> 僕は「努力してもかならずそれが100%報われるとは限らない」というのは、実は弱者にも(僕も含むのかもしれません)救いの余地を残しているのではないかと思います。つまり、どうにもならない立場にある人間でも、そこまで力のない人間でも、運や状況によっては逆に力以上の立場につける可能性があるということも意味しているのではと思います。

たしかに、それは一種の慰めにはなるかもしれません。しかし、自分の努力とは全く関わりのない“偶然”が自分の運命を左右することが大いにありうるのだとすると、その“偶然”がいつでも自分の都合の良いように働いてくれるとは限らないわけですから、やはり不安感を拭いきれないでしょうし、それはどこか頼りない人生観につながってしまうのではないでしょうか?

それに、「運や状況によっては逆に力以上の立場につける可能性がある」となると、そういう“幸運”に「たまたま」恵まれなかった人たちの怨嗟の対象となってしまうことも、避けられないと思います。そういった不公平感が蔓延してしまうと、社会全体にシニシズム(冷笑主義)やニヒリズム(虚無主義)が広がってしまいかねないというのが、私の危惧するところなんですが、いかがでしょうか?

またゆっくり議論したいですね。ありがとうございました。

投稿: 山中 | 2007年2月25日 (日) 22時14分

太子堂さん、

お名前は「正称」さんでしたね、「正弥」さんではなくて…。大変失礼しました。謹んでお詫び申し上げます。

投稿: 山中 | 2007年2月25日 (日) 22時38分

山中先生へ

えーと、僕は卒業後まあ・・・その・・・・色々ありまして現在アルバイトで何とか生きています。まあ社会的に決して強い立場ではありませんね。言ってみれば「福音」を必要として日々頑張っております。
組織論みたいというのはよくスポーツの監督がビジネスに役立つ組織論を書いており、大体組織と個人のバランスが大きなテーマとなっているからです。でもポラニーほど奥深い本ではないとは思いますが。

でもハイエクでなくとも人生生きていたら良くも悪くも「運」というものが関わってくるのは経験則としてわかるのではないか、と言うのが率直な所です。僕は何も努力というものを軽視しているのではなく(まあ、努力をし続けるのは苦手なのですが、自分なりに結構頑張っているつもりなのですがね)単なる「ガンバリズム」だけでは人生は決して割り切れないものなのだ、ということです。色々な人の人生、小説や映画、社会や世界状況の移り変わりを見ていたらそんな風に感じます。もちろんそれと同時にガチガチの不公平で非寛容なシステムに取り巻かれているというのも肌で感じます。そこには悪いことに市場も政治権力も密接に関わってそのシステム(とはいってもかなりカオスな要素があると思うのですが)を作っているような気がしてなりません。

当然現代社会はシニシズムやニヒリズムというものが慢性的に広がってると思いますし(それは一見社会的に成功している人でも見られると思います)、それは健全な社会とはとてもいえません。人間や人生というものは現代の文明人が思っているよりもずっと良くも悪くも複雑な性質があり、社会システムを作り上げる立場にいる人はそのような人生に対する「細かい配慮」というものをどうしても見落としてしまっていると思うのです。最もそのよう人たちは一つの体制のトップの位置にいる人が殆どでしょうから、そのような「細かい配慮」をしていると自分の地位もやがてはなくなるかもしれないという恐怖とも向き合わなければならないのかも知れませんが。

今の日本社会を見ていると僕はハイエクのように(とはいっても今回のブログで山中先生が紹介しているハイエク論ですが)市場と政治が「健全な牽制」ができそうには中々思えません。だって政治家と資本家たちの面構えを見てると・・・・・ね。でも世の中が本当に少しでもいい方向になってくれたら、とは思っています。

投稿: スメルジャコフ | 2007年2月25日 (日) 23時48分

スメルジャコフさん、

> 人生生きていたら良くも悪くも「運」というものが関わってくるのは経験則としてわかるのではないか、と言うのが率直な所です。

その「運」というのは、一体、何者なのでしょうね…?スポーツの世界などでは「運も実力のうち」と言いますが…。はたしてそれは自分の努力とは全く無関係なところで、偶然に降って湧いてくるものなのか。それとも、自分の心の持ち方と大いに関係しているものなのか…?

もしも後者だとすると、同じ努力でも明るい気持ちで努力し続けていた方が、明るい運命を引き寄せるということになりますが、はたして…?

私は個人的にはそう信じて、とにもかくにも明るく生きていこうと思って日々を送っています。いずれにせよ、お互いに、明るい運命に恵まれたいものですね。

投稿: 山中 | 2007年2月27日 (火) 22時02分

山中先生
お返事ありがとうございました。
おっしゃられることよくわかります。
ただ市場秩序において、全体が評価されるとは限らず、常に運が存在するという前提は山中さんも僕も共有していると思います。
そこでは「頑張れば必ずいいことがある」とある意味冷徹な事実を覆い隠すことでそれを一つの救いとして、社会全体に向上心をもたらすか、それとも、その現実自体に救いがあるのではと考える違いはありますが、いずれにせよ「個人が自分の運命を打開するために努力する必要があり、統治組織や社会も何らかの方法でそれを手助けすべき」という点に関しては大きな違いはないのかなとも思います。

>「運」とは(中略)・・・はたしてそれは自分の努力とは全く無関係なと>ころで、偶然に降って湧いてくるものなのか。それとも、自分の心の>持ち方と大いに関係しているものなのか…?

生まれや能力、それ以外のこともかなり運命や状況に依存しているのは確かだと僕は思います。ただそれをどう解釈するかは、山中さんがおっしゃるように「自分の心の持ち方と大いに関係しているもの」だと思います。
ハイエクの認識論はやはり、「対象そのものをそのまま認識できる」という単純なものではなく、「対象に、見る人間のフィルターを当てはめることでしか認識とは成立しないしできない」ということだと思います。だとすると、一つの現実(それ自体が認識によって構成されたものですが)をどう解釈するかは人によって選択の余地があるようにも思います。
僕は例えば過去をどう見るかもある意味同じじゃないかと思いますし、単純に考えても以前は辛かったとしか思えないことが、後になっていい経験だったと思えるのはよくあることです。だから、ハイエクからは離れてしまうかもしれませんが、僕は未来はもちろん「過去も変えることができる」と信じています。そしてそれは、過去や未来がもう、もしくはまだ現実にはどこにも存在しない以上、やはり「今」頑張ることと不可分なのではと思います。

とりとめもなくながくなりました。
個人的には独裁者型の指揮者も好きですが、僕も大野和士さんの指揮一度聞いたことがありまして、やはり才能のあるかただと思います。それでは。

投稿: 太子堂正称 | 2007年3月 7日 (水) 07時19分

3月15日(木)本が発売されたと、見せていただくき、有難うございました。
早速、探して読ませていただきました。

本屋回りの報告について

3月16日(金)紀伊国屋梅田店
検索器械で検索するが、「本は無い」
3月16日(金)紀伊国屋梅田店
検索器械で検索すると、「地方行政・政治」コーナーにあると分かる。下の方に、表紙が上を向いてよくわかるようにおいてある。
アサヒ書店難波店
検索器械で検索すると、「本は無い」
ジュンク堂書店難波店
検索器械で検索すると、「社会学」コーナーにある」と紙が出てくる。
よく分からないので、店の人に聞くと、「社会学」は、中央で決めたことなのでという。「経済学」コーナーにあるという。「経済学のハイエク」のコーナーにある。

3月18日(日)
ジュンク堂天満橋店
検索器械は見当たらないので、「経済学」コーナーに行く。「ハイエク」コーナーに、本の表紙が全部見えるようにして置いてある。その後ろには、違う人の本が後ろ向きに置いてある。
3月19日(月)ジュンク堂梅田堂島店
検索器械で、「社会学」コーナーの「近・現代政治」コーナーにあると紙が出てくる。確かめると、本の表紙が全部見えるようにして、全部が山中氏の本であった。

投稿: 青井 律子 | 2007年3月20日 (火) 13時12分

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