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2007年3月31日 (土)

『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』について(3)

私の著作『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房、2007年3月15日)に関して、オンライン書店の最大手(と言ってよいと思うが)のアマゾン書店に、Notre Dameと名乗る方よりカスタマーレビューが1件寄せられていることに、数日前に気がついた。幸い、おすすめ度が最高の5つ星となっており、高い評価をいただいているのは、嬉しいことである(こちら)。

しかしながら、そのカスタマーレビューの中で、本書における議論の主旨に関して、誤解を招く内容が含まれていたので、この場でその誤解を解いておきたい。

その「誤解を招く内容」というのは、そのカスタマーレビューの中の次の文章であった:

最後にマルクスに言及しています。けど、ハイエクの著作でマルクスについて触れているのは僅かで、それを無理矢理にマルクス批判に持っていくのは無理があります。社会主義についてもサンシモン批判であくまで空想的社会主義であり、マルクスの唱えた科学的社会主義とは違うのに。それにも気がついていません。また、社会主義=共産主義という短絡的思考回路もマルクスを知らない人に見られるそのままです。

これは、本書の末尾に掲載した2つの補論のうちの一つ「補論1 ハイエクにおけるマルクスの軽視をめぐって」における議論を指してのことだろう。しかし、私がそこで最も主張したかったことは、むしろ、「ハイエクはもっとマルクスに真剣に向き合うべきであった」ということだったのである。たとえば、私は本書の215-216頁で、次のように述べている:

もしもハイエクがユートピアとしての社会主義・全体主義の「魅力」に対抗して、自由主義を現代的に再生しようとしていたのであれば、彼はサン=シモン主義のみならず、マルクスの共産主義に対しても、もっと真剣に向き合うべきであっただろう。というのも、本書の終章で論じたように、社会主義・共産主義なきあとの自由主義あるいは資本主義の苦境とは、利益誘導型政治を打破するために復権されたはずの市場原理が、むしろその本来の姿とは似て非なる〝バブル経済〟へと、すなわちあまりにも赤裸々なエゴイズム・貨幣欲に突き動かされた非生産的な投機経済へと変質させられていることだったからである。ハイエクは中央計画経済に反論する際に私有財産制が「社会における知識の利用」に必要不可欠であることを力説するあまり、私有財産制が持つ道徳的な負の側面に対する認識は必ずしも充分に行なわずに終わってしまったではなかろうか。

また、私は、「社会主義=共産主義という短絡的思考回路」に陥っているつもりも全くない。というのも、私は本書の213-214頁で次のように述べ、社会主義と共産主義とをむしろハッキリと区別していたからである:

ハイエクがもっぱらサン=シモン主義に着目し、マルクスの教説にはあまり大きな関心を払っていなかったのは、彼が全体主義の本質をもっぱら集産主義=中央統制経済に求めていたからであったと思われる。すなわち、彼の理論的・思想的関心は主として私有財産制の廃止を計画経済化のために行おうとした〝社会主義〟に対して向けられていたのであって、私有財産制の廃止を真の友愛関係の回復のために行なおうとする〝共産主義〟に向けられてはいなかったのである。

このように、本書の「補論1」での議論の主旨はマルクス批判というよりも、むしろ「ハイエクはもっとマルクスにも真剣に向き合うべきであった」というハイエク批判だったのである。

もっとも、他方で私は、この「補論1」で、マルクスの経済学的な観点からの資本主義批判に関しては、むしろハイエクに依拠しつつ、明確に斥けている。本書にカスタマーレビューを寄せられたNotre Dame氏の「社会主義についてもサンシモン批判であくまで空想的社会主義であり、マルクスの唱えた科学的社会主義とは違うのに」という一文は、このことを不満に思われてのことかもしれない。

しかしながら、もしもそうだとしたら、私はそれには全く動じない。というのも、「資本主義の窮乏化法則」を説いた『資本論』でのマルクスの“科学的”予言は、もはや外れていることがあまりにも明白だからである。

いずれにせよ、「補論1」で私は、ハイエクの議論には「私有財産制への攻撃に潜む経済的契機(すなわち市場経済の盲目性に対する攻撃)への視点はあっても、友愛的な人間関係を喪失させるエゴイズムの温床として私有財産制を非難するという道徳的契機への視点はあまりなかった」(本書214頁)という点において、むしろハイエクを批判したのであり、ハイエクはマルクスの資本主義批判における経済学的側面を斥けるだけで満足することなく、マルクスの資本主義批判における道徳的側面に、もっと真剣に向き合うべきであったと論じているのである。

したがって、本書の読者におかれては、以上の主旨を誤解することなく正確に読みとった上で、本書に対する評価を下していただきたいと願う次第である。

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2007年3月30日 (金)

ハイエクとハーシュマンの意外な接点

最近、ある仕事を頼まれている関係で、ハイエク全集第10巻『法と立法と自由 Ⅲ-自由人の政治的秩序』(春秋社)を読み直しているところなのだが、今日の早朝にその概要を改めてノートにまとめているうちに、ふと、A・O・ハーシュマン『離脱・発言・忠誠-企業・組織・国家における衰退への反応』(改訳新版、ミネルヴァ書房、2005年)を読みたくなったので、今日からそれを読み始めることにした。

このハーシュマンの邦訳本は、ミネルヴァ書房のホームページでの説明によれば、「人間の社会的行為の三類型を剔出したグランド・セオリーの改訳新版。経済学と政治学の対話の試みであるとともに、新古典派の市場主義原理によって切り裂かれつつある公共性復権の手がかりを与える現代社会科学の古典」である。

ハイエクの『自由人の政治的秩序』の根底にあるのは、(その書の第15章によく表現されているのだが)警戒すべき利己主義は民主政治の場での「集団的利己主義」であって、市場経済の場での「個人的利己主義」は、市場競争への参加を促すという点で、むしろ必要なものだと考える立場である。すなわち、利己主義同士のせめぎ合いをよく律することができるのは、民主主義下での「政治ゲーム」ではなく、むしろ市場経済下での「経済ゲーム」の方だとハイエクは考えていたのである。

しかしながら、「経済ゲーム」の方が「政治ゲーム」よりも常に優れているとは限らないのではないか?--という疑問もあり得るだろう。そこで、上記のハーシュマンの書物に当たることにしたのである。ずっと以前から気になっていながらも、これまでは自分のハイエク研究を一つの書物にまとめ上げることに精一杯で、なかなか読む機会を見つけられずにいたから、今回それを読む余裕ができたことは幸いであった。

そのハーシュマンの邦訳に付けられている「訳者補説」によると、ハーシュマンはハイエクがロンドン大学政治経済学部(LSE)にいたころ、そのハイエクの講義を受講していたことがあるという(p.182)。また、「訳者あとがき」によれば、『離脱・発言・忠誠』において〔批判の対象として〕意識されていた論者の一人に、M・オルソンがいたが(p.208)、そのオルソンの英語で書かれた主著『集合行為論』(邦訳がこれもミネルヴァ書房から出ている)のドイツ語訳の出版に尽力したのが、他ならぬハイエクだったのである。

私はこれまで、ハーシュマンがLSEでハイエクの講義を受講していたことや、ハイエクが大いに賛同していたM・オルソンをハーシュマンが批判の対象として意識していたことを、恥ずかしながら、全く知らなかった。なので、今日そのことを知ることができたのは、大変ありがたいことであった。

そのハーシュマンの『離脱・発言・忠誠』の訳者である矢野修一氏は、邦訳書の訳者紹介によると、京大大学院経済学研究科を出て、現在は高崎経済大学経済学部教授である。氏自身もハーシュマン研究者であり、『可能性の政治経済学-ハーシュマン研究序説』という書物を2004年に法政大学出版局から出されている。このことも今日初めて知ったので、早速、注文して購入することにした。その他、すでに手元にあるハーシュマンの2冊の邦訳書--『情念の政治経済学』と『反動のレトリック』いすれも法政大学出版局--以外にも、まだ入手していないハーシュマンの邦訳書があったので、それも注文したのであった。

そんなわけで、今日は、ハイエクとハーシュマンとの意外な接点を知ることができるなど、ハーシュマンをめぐってなかなか収穫の多い一日であった。これからもこのような収穫を楽しみにしつつ、研究を進めていきたいと思う。

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2007年3月29日 (木)

授業の準備を開始

平成18年度もいよいよ残すところ、あと2日あまりとなった。新年度は目前である。

新年度の授業の準備に今日から着手したが、まず取りかかったのが、地球温暖化問題をテーマとした総合演習(教職)の授業計画の練り直しである。というのも、2年前からテキストとして使用してきた神保哲生『ツバル-地球温暖化に沈む国』(春秋社、2004年)が品切れとなり、今年4月時点での販売ができないという連絡を、2週間ほど前に、皇學館大学名張学舎の取り扱い書店(丸善名古屋支店)から受けたからだ。

春秋社に直接問い合わせてみると、現在、その増補版が準備中で、6月頃に刊行予定だという。そこで、その増補版が刊行され次第、テキストとして使うことにしたが、それまでの間、何を教材とするかの問題が残っていたのである。

いろいろと探してみたのだが、結局、かつて本欄でも詳しく取り上げた、石弘光『環境税とは何か』(岩波新書)の主に第1~2章を、4月から5月までの授業の教材とすることにした。教材として使うには、自分がまずその内容をしっかりと理解していなければならないからである。受講者諸君には購入するテキストが1冊増えることになるが、新書版で税込777円だから、無理な金銭的負担を強いることにはならないと思う。

実は、一度は加藤尚武『環境倫理学のすすめ』や同『新・環境倫理学のすすめ』(いずれも丸善ライブラリー)も考えた。しかし、その2冊を読んでみて分かったことは、倫理学の薫陶を受けてこなかった私には、そこで説かれている環境倫理学の三つの基本的主張-自然の生存権、世代間倫理、地球全体主義-のおおまかな内容は大体理解できても、それらをめぐる環境倫理学上の込み入った議論を綿密に消化することが、今の私にはすぐにはできそうもない、ということだった。新書サイズの本ではあるが、そこに書かれている内容はなかなか本格的で、読み応えがある。

そのようなわけで結局授業のテキストとしての採用は見送ったが、しかしながら、必要に迫られて上記の加藤尚武氏の著作を読んだことで、自由主義や民主主義や人間中心主義といった近代の価値が地球環境問題を前にして根本的な見直しを迫られている、という重大な事実への基本認識を深めることができたことは、大きな収穫だったと思う。

いずれにせよ、『ツバル』の品切れ→増補版6月刊行予定、という連絡を2週間ほど前にいただいてから練り直しを迫られていた授業計画の立て直しに、おおよその目処が立ってきたことは、大きな進歩だった。明日からも着々と授業準備に励んでいきたい。

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2007年3月26日 (月)

ブログ内検索できます

本欄にブログ内検索機能が、いつの間にか、追加されていた。@niftyココログサービスが、その機能を、私の気づかない間に、付けていてくれたのである。

本欄の記事もなかなかの分量になってきたので、検索機能をつけられればいいな…とは思っていたのだが、恥ずかしながら、どうすればそれができるのかを知らなかったし、またその方法を本気で調べることもしていなかった。そんな状態だったので、その機能が追加されたことは、大変ありがたいことだと思っている。

具体的には、本欄の画面のかなり下に降りて右側のところに、その機能が付けられている。ココログのロゴマークの直ぐ上のところである。そこでの検索の手順としては、

①プルダウンメニューから「このブログ内で検索」を選択→②キーワードを入力→③検索ボタンをクリック

以上の手順を踏めば、@nifty@searchサービスが、検索結果をすばやく表示してくれる。ためしに「ハイエク」で検索してみると、「約100件ヒット」という結果が出た。さすがに多数に上っている。「地球温暖化」では、「約60件ヒット」という結果だった。

そんなわけで、読者の皆さまにおかれては、この新たに追加されたブログ内検索機能を、必要に応じてご活用いただければ幸いである。

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2007年3月24日 (土)

研究者同士のつながりの大切さを改めて実感

本欄ですでに書いてきたように、拙著『ハイエクの政治思想』(勁草書房)が上梓され、書店にも並べられているようだが、それに先だって、120名あまりの研究者の方々にその拙著を謹呈させていただいた。大変ありがたいことに、その献本への御礼状が、電子メール、手紙、それにハガキで、私の手元に届くようになった。本当にありがたいことである。

学界での本書への評価がいかほどのものになるかは、これから徐々に定まってくるだろうが、とにもかくにも自分のこれまでのハイエク研究を一つの形にまとめ上げ、大きな一区切りをつけた以上、今後はそれを基盤としつつも、自分の研究の幅を広げていく必要があるし、またそうしていきたいと強く思っている。

その際に非常にありがたいのが、研究者同士のつながりである。献本するために謹呈リストを作成したが、このリストを眺めていると、ここに載せられている研究者の方々とよくも出会えたものだと、感謝の思いで一杯になるのである。

今後、このつながりを益々大切にしつつ、お互いに切磋琢磨し合いながら、自分の研究業績を積み上げていき、世の中に少しでも貢献していきたいと、強く思う次第である。

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2007年3月21日 (水)

子どもにとってのカナと漢字:我が家の娘の場合

3歳半の我が家の娘が、数ヵ月前から、簡単なパソコン仕立ての「アンパンマン」の文字遊びに、ほぼ毎日興じている。平仮名はおおよそ覚えたようだが、カタカナはまだ難しいようだ。「カタカナ、むずかしい!」と今日も言っていた。ところが、である。驚いたことに、今日、その同じ娘の口から「漢字、大好き!」という言葉が出たのである…!

漢字といっても、その「アンパンマン」のおもちゃパソコンに出てくるのは、木、火、土、人などの非常に簡単な漢字(つまり、会意や形声などではなく象形の漢字)だが、「このおもちゃパソコンは、よく出来ているなぁ…」と感心したのは、それらの漢字を“絵と一緒に覚えさせる工夫”をしていることである。

たとえば、“木”の漢字を問題に出す場合、その横に木の絵も画面に出してくれる。その他の絵も2つ出して、計3つの絵の中から正しい絵を答えさせるのである。そうすると、我が家の3歳半の娘にとっては、カタカナをひらがなに対応させるよりは、漢字を正しい絵に正しく対応させる方が、はるかに簡単なようなのである…!

まだそうした漢字の正答率は100%ではないが、カタカナよりもはるかに高い正答率である。それに何よりも、3歳半の子どもから「漢字、大好き!」という言葉が出たことが、カタカナと漢字の、この3歳半の子ども本人にとっての“馴染みやすさ”の違いを、雄弁にあらわしているであろう。

もちろん、この一つの事例のみを以て、いきなり一般化した結論を引き出すのは早計だろう。しかしながら、もしも我が家の娘の事例が特異なものではなく、実際に調べてみれば、実は他の子どもたちにも当てはまるものだったとするならば、私は、小さい頃から、ひらがなやカタカナだけではなく、漢字も、簡単なものからドンドン遠慮なく教えていってあげる方が、却って子どもの知育のためによいのではないか…という気がするのである。

有名な言語社会学者の鈴木孝夫氏(慶應義塾大学名誉教授)は、その著『日本語と外国語』(岩波新書、1990年)の第四章と第五章で、「漢字の知られざる働き」と題して、漢字の特質を明快に解説しておられるが、その中で鈴木氏は「日本語は音声と映像という二つの異質な伝達刺戟を必要とするテレビ型の言語であり、これに比べると西欧の諸言語は音声にほとんどすべての必要な情報を託すラジオ型の言語だ」と述べている(195頁)。つまり表音文字のみの西欧言語とは異なって、日本語は視覚も大いに活用した言語だ、ということである。ちなみに私の手元にある『日本語と外国語』の奥付によると、1990年1月22日にその第1刷が出た後、2004年2月25日には、実に第31刷が出ている。息の長い売れ行きを誇る名著だと言うべきだろう。

いずれにせよ、以上のような我が家の娘の事例からするならば、その視覚を適度に刺戟しつつ、漢字も徐々に覚えていけるように、子どもの興味を上手に引き出していくことが、親として、子どもの知育のためにはきわめて大切ではないかと思うのである。

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2007年3月19日 (月)

子どもと散歩

最近、春休みで時間に多少の余裕があるのを幸いとして、3歳半になる娘と、夕方に外で遊ぶ機会を、いつもより少しは多く取れるようになった。やはり子どもは、外で遊んでいるときが一番生き生きとしている。

今日は5時頃から家の前で少しボール遊びをしたあと、三輪車に乗って近くの田んぼに行った。幸い、我が家の周りにはまだアスファルトに覆われていない、土に触れることのできる場所が多少は残されている。今の季節はその田んぼには何も育てられていないので、子どもをそこで遊ばせることができる。土の道なら、走って転んだとしても(まだ転んだことはないが)、大きな石さえなければ怪我の心配はない。やはり子どもには、硬いアスファルトよりも、柔らかい土の方がはるかに魅力的なようだ。

今日はさらに、その田んぼからさらに足を伸ばしたがったので、歩いて5分ほどの小さな公園にも行ったが、今日はもっともっと足を伸ばしたがったので、そこからもう少し北に上がったところにある、溜め池へも散歩した。その溜め池までは初めてだったので、娘も興味津々だったようだ。

その溜め池は釣り堀も兼ねているようで(「会員以外の釣りを禁ず」という看板がかけられていた)、私たち親子が池沿いを歩いていると、おそらくフナだったと思うが、金網で隔てられている池の岸辺にドンドン寄ってきて、口を開けてエサを要求しだした。20尾ぐらいはいたであろうか。あいにくエサとしてあげられるようなものは何も持っていなかったし、そもそも勝手にエサをやってよいものかどうかも分からなかったので、我々はただそのフナたちを眺めているだけだったが、娘はやはり興味津々だ。空にはスズメなどの鳥も飛ぶので、その姿にも娘は感動して「あっ、トリ!」と生き生きと声を出して指をさす。

そうこうしているうちに、午後6時からの「アンパンマンくらぶ」の放送時間が近づいてきたので、三輪車の置いてあるところまで戻り(その途中までは肩車をした)、およそ1時間弱の散歩の時間を終えたのであった。「おとうさん、おさんぽ、たのしかったね!」と娘が喜んでくれるので、父親としても大変嬉しい。

こうして我が家では幸いにして、散歩しながら動植物に触れることのできる機会を多少は持てる環境があるのだが、散歩させている時にいつも非常に神経を使うのが、車である。というのも、道路が車中心に作られていて、歩行者にはあまり優しくない道が多いからだ。できるだけ車の通れない道を選ぶが、それでもどうしても車も通る道を使わなければならなくなるので、そんな道では抱っこして通ることにしているが、もう少し、歩行者に優しい道を作れないものか…と、散歩のたびごとに、街作りのあり方に思いを馳せるのである。

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2007年3月16日 (金)

『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』について(2)

拙著がいよいよ書店に配本されたと出版社(勁草書房)から昨日に連絡をいただいた。実際に書店で並べられるにはまだもう少し時間がかかるかもしれないが、おそらく今月中には、勁草書房の図書を扱っている主要書店で陳列されることになるだろう。勁草書房のホームページにも刊行案内が掲載されたので(こちら)、オンライン書店でもいずれ登場することになると思う。なお、勁草書房の特約書店については、勁草書房ホームページのトップページ上欄の「特約書店」をクリックしてご覧いただきたい。

本書のタイトルを『ハイエクの政治思想』としたのは、ハイエクの市場秩序論において、政治権力の働きに、実はかなり本質的な役割が与えられていることを、本書で力説したからであった。「政治権力に頼らずとも自律的な秩序形成能力が社会には備わっている」と論ずる“自生的秩序論”で知られてきたハイエクではあったが、それは単純な自由放任論ではないといった点にとどまらない、より本質的な意味で、ハイエクの説く市場秩序論は政治権力の働きを必要としていたのである。

社会秩序の形成・維持のために政治権力の働きを(あまり)必要としない、という議論を展開するためには、大なり小なり、楽観的な人間観が前提とされていなければならない。そうであって初めて、「自由に任せておいても大丈夫」と安心できるからである。しかしながら、ハイエクをつぶさに読むとき、その諸著作から浮かび上がってくるのは、比較的楽観的な人間観から、かなり悲観的な人間観へのハイエクの変遷なのである。

それに伴って、彼の民主主義観においても重大な変化が見られることになる。もともと多数者意志の妥当性に対して、いささか懐疑の念を持っていたハイエクではあったが、その壮年期の主著『自由の条件』(1960年)第7章に書かれたその民主主義論では、優れた少数意見に引っ張られる形で、多数者意志が自由市場の論理に順応していく可能性について、楽観的な期待がまだ表明されていた。ところが晩年の主著『法・立法・自由』(1973~79年の期間に3巻に分けて順次出版された)の第3巻『自由人の政治的秩序』(1979年)では、その多数者意志の自由市場への順応可能性について、きわめて悲観的な見解が表明されることになったのである。ここから彼は、民主制を「平和的な政権交代を可能にする唯一の方法」としてその存在意義を認めつつも、その民主制の実際の運営方法としては、かなりエリート主義的な方式を提唱することになったのであった。

詳しくは本書をお読みいただきたいのだが、以上のような、ハイエクにおける市場秩序論と政治論との重要な結びつき(およびその政治論におけるエリート主義的な性格)を指摘することで、わが国におけるハイエク研究の進展にいささかなりとも貢献しようとしたのが本書である。その試みが成功しているかどうかについては、読者諸賢のご判断に委ねたいと思う。

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2007年3月13日 (火)

英文を書く練習を始めました

昨日から、英文を書く練習を始めた。「日本語→英語」の練習である。題材としては、ハイエクの主著の一つ『自由の条件』を選ぶことにした。ある仕事を頼まれていて、ハイエクの民主主義論を読み直す必要があるので、その余勢を駆って、その『自由の条件』の民主主義論に当たる第7章の和訳文を、原書の英文に正しく直す練習をすることにしたのである。この方法が、私にとって最も良いやり方であることが分かった。

現在の私の英語力をさらに向上させるには、「英文を読む・聞く」という英語の“インプット”だけではなく、“アウトプット”=「英文を話す・書く」能力も上達させる必要があることは、かなり以前から感じていた。また、そうしたい衝動に駆られていたことも事実である。

幸い、単語のレベルを落とせば、今の私でもそのアウトプットがある程度は自由にできる。そもそも実際の会話の場面では、その現段階で使える単語のレベルで「とにかく話す」という姿勢が非常に大切である。思い浮かんだ日本語にピッタリ合うような複雑な表現が英語では出てこないからといって、その場で黙りこんでしまっては、会話にならないからである。そのような場合は、思い切って、自分のその時点での英語の実力レベルにまで落として、とにかくおおまかにでも自分の言いたいことを伝えようとする姿勢が大事なのである。

しかしながら、やはり他方で、日本語で思い浮かぶ複雑なレベルの内容を、その同じレベル(あるいはそれに近いレベル)の英語を使って表現できるのが一番良いことも事実である。特に何かの国際的な学会などで研究報告をしようと思えば、それは必須のことなのである。

そのようなわけで、英文を書く練習をかなり以前から始めたかったのだが、その練習として最適な方法が、実はなかなか思い当たらなかった。通信講座を利用することも考えたが、そういう講座の場合、どうしても題材が誰にでも親しめる一般的なものになる。その通信講座をビジネスとして成り立たせるには、できるだけ多くのニーズに応えなければならないから、それは当然のことだろう。しかしながら、私の場合は少し特殊で、自分の専門分野に関わる内容でないと、私にとっての実用性が欠けてしまうことになる。ところが、そのような高度な専門性に応える通信講座となると、ビジネス英語を除けば、医学の分野でのそれに限られてしまうのである(医学では論文を英語で書くのが普通だから、それだけ需要も多いのだろう)。

かといって、今の段階でいきなり、たとえばもうすぐ書店に並ぶ予定の私の本を、ダイレクトに英訳しようと思っても、残念ながらなかなか思うようには進まないことが分かった。英語で論文を一本書いたことはあり、その時には不思議とスラスラ書けたのだが、それはもう6年も前のことになってしまったので、今一度、練習し直す必要がある(その論文名については、こちらの【論文】(4)を参照)。それにそもそも、その時よりももっと高度な内容を、本の中では日本語で表現したが、その日本語に合うだけの英語のレベルには、やはりまだ到達していないのである。「英語→日本語」のときにはかなりのレベルの英語表現が日本語に直せても、それが「日本語→英語」となると、その途端にどうもスムーズには進まなくなってしまう。私の日本語レベルに合う英語表現をすぐさま思い浮かべるための思考回路が、私の頭の中にはまだできていないのである。

そこで、冒頭に書いた練習方法をとることにした。具体的には、次のようなプロセスを踏んでいる:

①まず邦訳書と原書の両方を机上に広げる。
②次に邦訳書の和訳の一文を読んで、頭の中で英文を思い浮かべてみる。
③しかし今の段階ではまだ全部は分からないので、あまり考え込みすぎることなく、さっさと原書の英文を見てしまう。そうして「あぁ、なるほど…!」と、感動しながら納得する。
④そしてその英文をノートに書き写すのである。
⑤その際、必要があれば、改めて辞書を引いて語法を確認する。
⑥そしてもう一度、英文を書いてみる。そうすると、②の段階よりも英文が(はるかに)スムーズに出てくるようになっている。

この①から⑥までのプロセスを、一文ごとに繰り返す。なかなか時間がかかるので、とりあえずは1日につき1~2段落とすることにした。だいたい、1つの段落でB5版のノート1頁が手書きの英文で埋まっていくようである(次行を1行あけて書いた場合)。

こうして、ちょっとした試行錯誤を経て、ようやく私にとって最適の練習方法に出会えた。嬉しい限りである。これを繰り返していくうちに、私の日本語レベルに相当する(あるいはそれに近い)英語表現が、徐々に頭の中に蓄積されていくことだろう。その蓄積が進んでいけば、いずれ必ず、スラスラとその英語表現が口をついて出てくる日が来るにちがいない。結果を焦らなくとも、練習を続けていけば、自然とそういう日が来るものである。その日を楽しみにしつつ、気長に練習を積み重ねていきたいと思っている。

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2007年3月11日 (日)

『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』について

昨日、山中優『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房)の見本が、出版社から私の手元に届けられた。書店に並べられるのは14日頃だという話だから、いよいよ私の最初の本が世に問われる時が来たことになる。大変嬉しく思うと同時に、気の引き締まる思いである。

Img_3788_1 私がこの本で試みたのは、単純な市場礼賛ではないハイエク思想の複雑な陰影を描き出すことである。二十世紀最後の四半世紀以降、グローバリゼーションが進むなかで、途上国に急激な自由化・市場開放を迫る動きが強力に推し進められてきたが、ハイエクを丹念に読むとき、決してそのような単純な市場移行戦略が肯定されることはない、ということを示そうとした。また、私見によれば、わが国においても、ハイエクがわれわれに突きつけた“自由の規律”に従う用意ができているとは必ずしも思えないのである。したがって、今後われわれが市場経済に向き合うとき、それ相応の覚悟が必要となることだろう。

本書の帯(の背表紙側)に編集者の方が引用してくれた抜粋の文章が、私の示そうとしたハイエク思想のエッセンスを簡潔に表現しているので、以下にそれを引用しておくことにしよう:

しかしながら、ハイエクの議論を、政治権力の不完全性を指摘するとともにその肥大の危険性を警戒し、社会の自生的性格を強調する議論としてのみ受け止めることは、もはや社会主義なき二十一世紀のグローバル化の時代…において、危険な帰結をもたらす恐れがあるように思われてならない。…ハイエクの議論は…市場の論理が人々の自然感情にそぐわない冷酷非情な側面を孕んでいることを率直に認めるものであり、それを承知の上で覚悟して市場を受け入れることを迫る非常に厳しいメッセージをわれわれに突きつけるものなのである。<序章>より

本書で私は、ハイエク思想に全面的な賛意を表明してはいない。ハイエクの説く“自由の価値”それ自体には大いに魅力を感じているが、ハイエクの説く“自由の規律”(すなわち自己の運命に対する自己責任)にわれわれを納得ずくで従わせることができるだけの論拠は、私見によれば、結局ハイエク自身によっては充分に示されずに終わってしまったのである。興味を持たれた本欄の読者におかれては、本書をお読みいただき、二十一世紀における自由の意味を考える手がかりの一つとしていただければ、著者として幸いこれに過ぐるものはない(四六判上製、本体2900円+税)。

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2007年3月 9日 (金)

「不都合な真実」が呼ぶ静かな反響

アメリカ元副大統領のアル・ゴア氏が地球温暖化の深刻な現状をリポートする映画『不都合な真実』が、米国のみならず日本でも静かな反響を呼んでいることを、昨日の産経新聞夕刊が1面で伝えていた。それによると、米国では昨年計77館のみの上映だったのが、現在では600館にまで拡大しており、日本でもいくつかの映画館が上映期間の延長を決めたり、新たに上映を決めたりしている。日本での興行収入は3月8日現在で2億9千万円にのぼっているのだという。

映画の公開に合わせて日本で1月に発行された同名の書籍も、ノンフィクションとしては異例の売り上げを記録し、堅い内容で値段も高価(2800円)であるにもかかわらず、先月末までのわずか1ヶ月間で発行部数15万部を突破した。先月26日のアカデミー賞受賞後には全国の書店から問い合わせが殺到したため、発行元のランダムハウス講談社は18万部までの増刷を決めたという。通常、環境問題を扱った書籍は女性層の人気が高いのだが、同書の場合は購入層の約7割が男性で、30~40代のビジネスマンが中心なのだそうである。

このように静かな反響を呼んでいるこの映画を、しかしながら、実はまだ私は見に行っていない。というのも、これまでの私には映画館に足を運んで見に行くという習慣がほとんどなく、むしろテレビでの上映かDVDの販売を待つ、というのがこれまでの私のスタイルだったからだ。それに、その映画で伝えられているのは、昨年放映されたNHKスペシャル「気候大異変」(全2回)と似たような内容だろうと思っていたので、その推測が正しいのだとしたら(正しいという保証はないが)、少なくとも私にとっては内容自体にあまり新味はないだろう…、と思っていたからである(「NHKスペシャル 気候大異変」の内容については、本欄の2006年5月30日6月4日同5日同6日の記事を参照)。

しかし、これだけ反響があるのだとすれば、私も見に行かなければならないかもしれない…と思い始めた。というのも、この映画を見に行った学生も私の授業に出てくる可能性を否定できないからだ。私の担当する授業科目の1つに教職課程の「総合演習」があるが、そこで私が取り上げているのは、他ならぬ地球温暖化問題である。これまでは、受講学生は地球温暖化にあまり大きな関心を持っていないことが多かったので、それを前提にして、まずは受講生たちの関心をかき立てることから授業を始めるのが常だった。しかし、これからは、この「不都合な真実」を見た学生も中には出てくる可能性もあるだろう。そうだとすれば、教員である私も、見に行っておかねばなるまい。

とはいえ、かつて小学生の頃に父や兄に連れられて映画館に行ったことはあるものの、自分から進んで映画館の上映期間を調べて行ったことは、これまで2~3回ぐらいしかなかったうえに、それはもう20年以上も前のことである。だからまずは、どの映画館で放映しているかをどうやって調べればよいのか、ということから、始めなければならなくなりそうである(笑)。

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2007年3月 6日 (火)

綿棒から耳かきへの“冒険”

最近、風呂上がりの耳掃除をするのに、綿棒をやめて、耳かきを使うようになった。ほんの少しでも資源の節約になるだろう、と思ってのことである。

綿棒という便利なものを使うようになって、もうどれぐらい経つだろうか。たぶん私が中学生の頃にはもう綿棒というものが家にあって、それを使い始めたように記憶している。いま38歳だから、もうかれこれ25年ぐらいになるだろうか。

たしかに綿棒は耳には心地よい。耳かきよりも感触がやさしいからだ。これまで当たり前のように使ってきており、あまりにもそれに慣れてしまっていたので、耳かきを使うのに、ちょっとした怖さを感じるようにさえなっていた。竹でできた耳かきだと、耳の中を傷つけてしまいはしないか、と知らず知らずのうちに怖がるようになっていたのである。

しかし、考えてみると、私がこれまで使っては捨てていた綿棒の本数は、相当数に上るだろう。仮に25年間として、少なくとも2日に1本は使っていたとすると、約182本/1年×25年=4550本である。実際には5000本は消費してきたかもしれない。

綿棒の両端はもちろん綿であり、芯の部分は、プラスティックまたは厚紙だろう。詳しく調べてみたことはないが、以前に『地球白書』で綿の栽培には農薬が大量に使われていると書かれていたのを記憶している。だから服を選ぶにも、オーガニック・コットン(有機栽培の綿)の服を選ぶべし、ということである。服だけではなく、綿棒の綿も、もしかしたら、農薬栽培のそれかもしれない。芯がプラスティックであればその原料はもちろん石油だし、紙だとしても、その原料の木は、割り箸と同様に、もしかしたら森林破壊の進む中国のものかもしれない…そう考えてみると、たとえ耳には心地よくても、綿棒を使い続けることが、環境には良くないように思えてきたのである。

そこで一昨晩、“25年ぶりに”、思い切って耳かきを使ってみた。最初は恐る恐るだった。やはりちょっと怖かったのである。しかし、よく注意しつつ、慎重に使ってみると、竹でできた耳かきは、綿棒に比べるとたしかにちょっと硬質な感じは否めないが、意外にこれも心地よかった。耳かきであれば、大事に使い続ければ、おそらくは半永久的に長持ちするだろう。それに何よりも、竹は非常に成長の早い再生可能資源なのである。

そんなわけで私は、思い切って綿棒に別れを告げて、耳かきへの“冒険”を敢行したのであった。これからも、この竹でできた可愛い耳かきのお世話になろうと思う。Img_3780

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2007年3月 3日 (土)

グリーン・リベラリズムにふさわしい“自由”とは?

本欄の2月12日の記事で、「グリーン・リベラリズムの可能性」と題した文章を書いたが、それ以来ずっと、「グリーン・リベラリズム(環境自由主義)にふさわしい“自由”のあり方とは何か?」という問題を考えている。

2月12日の記事の追記(2)でも書いたように、そのふさわしい“自由”のあり方への重要な手がかりを与えてくれるのは、M・ポラニーの自由論ではないか?--という気がしてならない。というのも、M・ポラニーの“自由の論理”においては、他から干渉されないことのみを求める私的・消極的自由(「~からの自由」)だけではなく、むしろ何らかの真理・実在への献身を求める公的・積極的自由(「~への自由」)こそが重要視されているが、気候変動の危機が迫る中で、地球環境を保護あるいは保全していくためには、自然環境に手段的な価値以上の、より本質的な価値を認め、その本質的な価値を守るためには献身的な努力を惜しまない姿勢が、おそらくは必要不可欠となるだろうからである。M・ポラニーは、消極的自由の重要性を否定したわけではないが、より重要なものとしてはむしろ積極的自由の方を高らかに掲げた自由論者として、全体主義を批判した20世紀の自由主義者のなかでは、異彩を放つ思想家だったのである(たとえば、M・ポラニー『自由の論理』ハーベスト社を参照。なお、M・ポラニーの自由論をハイエクとの比較の下に論じたものとしては、渡辺幹雄『ハイエクと現代リベラリズム-「アンチ合理主義リベラリズム」の諸相』春秋社、2006年の第4章および付章2の3を参照されたい)。

しかしながら、こうした積極的自由を唱道していくためには、消極的自由論者が警戒してやまない「全体主義」の恐れを解消しておくことが、非常に大切なことになるだろう。というのも、消極的自由論者に言わせれば、“真理”や“実在”という名をかたる独善的なイデオロギーこそが、全体主義を生み出した張本人だったからである。したがって、その危険性を回避し、個人の自由を守っていくためには、消極的自由論者によれば、およそ真理や実在なるものを騙る権力への警戒を怠らない私的・消極的自由をこそ堅持して行かなくてはならない。

こうした消極的自由論の立場からは、したがって、環境問題を論じるにあたっても、ディープ・エコロジーの思想は、生態系至上主義の全体論(ホーリズム)だとして、警戒されることになってしまうのである(たとえば森村進『自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門』講談社現代新書、198-207ページを参照。森村氏はそこで、自由市場こそが環境問題を解決するという基本認識に立ちつつ、他方ではリバタリアニズム=自由至上主義にはたしかに人間中心主義に過ぎるところがあることも認めながらも、ディープ・エコロジーの思想に対しては、個人の自由をなみする全体論に陥るものとして、大きな警戒心を表明している)。

したがって、環境問題の解決のために環境自由主義を目指すに当たっては、「個人か全体か」とか「人間か動植物か」といった二項対立・二律背反に陥るのではなく、「個人も全体も」「人間も動植物も」ということを可能にするようなものとして、自由のあり方を考えていかなくてはならないのである。これは非常に大きな課題であるが、私の次の研究課題として、勇気を持って取り組んでいきたい。

とはいっても、一気に事は運ばないだろうから、焦らず着実に、日々の積み重ねを大切にしていきたいと思っている。

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2007年3月 1日 (木)

3月を迎えて

あっという間に2月が終わってしまった。今年の2月はとくに早く過ぎていったように感じる。

さて今日から3月を迎えたわけだが、今年は月が改まるたびに、新年を迎えたときほどではないが、「年明け」ならぬ「月明け」の気分を味わうようになった。今日もその「月明け」の新鮮な気分である。

先月の反省は、気持ちが少々落ち着かなかったことだ。気持ちの上で焦ってしまい、仕事に「追われて」しまった。そうこうしているうちに、あっという間に2月が終わってしまったのである。

気持ちが落ち着かなかった原因は、やるべきことをノートに書き留めず、頭の中だけで「え~っと、あれをして、これをして…」とあれこれ考えてしまっていたことだ。そこで、昨晩、新たな月を迎えるにあたって、やる必要のある仕事のリストを、小さなノートに、思いつくままに箇条書きにした。そうするとやはり、そうして書き出してみるだけで、気持ちが落ち着いてくるのである。書き出したリストを眺めていると、自ずから、こなしていく仕事の順序も見えてくる。そうしておおまかなスケジュールをイメージできれば、着実に仕事をこなしていけるのである。

こうすればよいということは、もうすでに承知のことだったのだが、今年に入ってからは、それをちょっと怠っていた。新たな月を迎えるにあたり、それを再開して、仕事を順調にこなしていこうと思っている。

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