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2007年3月31日 (土)

『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』について(3)

私の著作『ハイエクの政治思想-市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房、2007年3月15日)に関して、オンライン書店の最大手(と言ってよいと思うが)のアマゾン書店に、Notre Dameと名乗る方よりカスタマーレビューが1件寄せられていることに、数日前に気がついた。幸い、おすすめ度が最高の5つ星となっており、高い評価をいただいているのは、嬉しいことである(こちら)。

しかしながら、そのカスタマーレビューの中で、本書における議論の主旨に関して、誤解を招く内容が含まれていたので、この場でその誤解を解いておきたい。

その「誤解を招く内容」というのは、そのカスタマーレビューの中の次の文章であった:

最後にマルクスに言及しています。けど、ハイエクの著作でマルクスについて触れているのは僅かで、それを無理矢理にマルクス批判に持っていくのは無理があります。社会主義についてもサンシモン批判であくまで空想的社会主義であり、マルクスの唱えた科学的社会主義とは違うのに。それにも気がついていません。また、社会主義=共産主義という短絡的思考回路もマルクスを知らない人に見られるそのままです。

これは、本書の末尾に掲載した2つの補論のうちの一つ「補論1 ハイエクにおけるマルクスの軽視をめぐって」における議論を指してのことだろう。しかし、私がそこで最も主張したかったことは、むしろ、「ハイエクはもっとマルクスに真剣に向き合うべきであった」ということだったのである。たとえば、私は本書の215-216頁で、次のように述べている:

もしもハイエクがユートピアとしての社会主義・全体主義の「魅力」に対抗して、自由主義を現代的に再生しようとしていたのであれば、彼はサン=シモン主義のみならず、マルクスの共産主義に対しても、もっと真剣に向き合うべきであっただろう。というのも、本書の終章で論じたように、社会主義・共産主義なきあとの自由主義あるいは資本主義の苦境とは、利益誘導型政治を打破するために復権されたはずの市場原理が、むしろその本来の姿とは似て非なる〝バブル経済〟へと、すなわちあまりにも赤裸々なエゴイズム・貨幣欲に突き動かされた非生産的な投機経済へと変質させられていることだったからである。ハイエクは中央計画経済に反論する際に私有財産制が「社会における知識の利用」に必要不可欠であることを力説するあまり、私有財産制が持つ道徳的な負の側面に対する認識は必ずしも充分に行なわずに終わってしまったではなかろうか。

また、私は、「社会主義=共産主義という短絡的思考回路」に陥っているつもりも全くない。というのも、私は本書の213-214頁で次のように述べ、社会主義と共産主義とをむしろハッキリと区別していたからである:

ハイエクがもっぱらサン=シモン主義に着目し、マルクスの教説にはあまり大きな関心を払っていなかったのは、彼が全体主義の本質をもっぱら集産主義=中央統制経済に求めていたからであったと思われる。すなわち、彼の理論的・思想的関心は主として私有財産制の廃止を計画経済化のために行おうとした〝社会主義〟に対して向けられていたのであって、私有財産制の廃止を真の友愛関係の回復のために行なおうとする〝共産主義〟に向けられてはいなかったのである。

このように、本書の「補論1」での議論の主旨はマルクス批判というよりも、むしろ「ハイエクはもっとマルクスにも真剣に向き合うべきであった」というハイエク批判だったのである。

もっとも、他方で私は、この「補論1」で、マルクスの経済学的な観点からの資本主義批判に関しては、むしろハイエクに依拠しつつ、明確に斥けている。本書にカスタマーレビューを寄せられたNotre Dame氏の「社会主義についてもサンシモン批判であくまで空想的社会主義であり、マルクスの唱えた科学的社会主義とは違うのに」という一文は、このことを不満に思われてのことかもしれない。

しかしながら、もしもそうだとしたら、私はそれには全く動じない。というのも、「資本主義の窮乏化法則」を説いた『資本論』でのマルクスの“科学的”予言は、もはや外れていることがあまりにも明白だからである。

いずれにせよ、「補論1」で私は、ハイエクの議論には「私有財産制への攻撃に潜む経済的契機(すなわち市場経済の盲目性に対する攻撃)への視点はあっても、友愛的な人間関係を喪失させるエゴイズムの温床として私有財産制を非難するという道徳的契機への視点はあまりなかった」(本書214頁)という点において、むしろハイエクを批判したのであり、ハイエクはマルクスの資本主義批判における経済学的側面を斥けるだけで満足することなく、マルクスの資本主義批判における道徳的側面に、もっと真剣に向き合うべきであったと論じているのである。

したがって、本書の読者におかれては、以上の主旨を誤解することなく正確に読みとった上で、本書に対する評価を下していただきたいと願う次第である。

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コメント

確かにおっしゃるとおりでしょう。然し、ハイエク、ケインズしかり、マルクスに対し真摯に向き合おうとはしなかった。というか出来なかった違いない。有効需要の理論もカレツキが再生産から簡単に導き出した。カレツキに対してケインズの対応が冷たかったのもその現れか知らないけど。ケインジアンでも真摯に向き合ったのはロビンソン夫人だけで、彼女も労働価値説は退けていますし、利潤率傾向的低下の法則を理解できなかった。しかしながら「資本論」に書かれたことが今まさにこの世の中で着々と進行しているのについては如何お考えか?世の中「資本論」の通りにことが進んでいます。これが最後にどうなるかは解りませんが。ハイエクもマルクスについて言及した箇所が異様に少ないのもマルクスに敢えて触れないでおこうと思ったのではないか。触れると自身の理論が覆されるおそれがあるのだったのかもしれない。
渡部昇一氏の著書と比べると比較にならない優れていることは認めますけど。あの本が出たときは西山千明氏まで巻き込んで大変なことになりましたから。

投稿: Notre Dame | 2007年4月11日 (水) 15時12分

Notre Dameさん、

本書のカスタマーレビューをお書き下さり、高い評価をいただいたことに、まず感謝申し上げます。ありがとうございました。

> 「資本論」に書かれたことが今まさにこの世の中で着々と進行しているのについては如何お考えか?

「資本論」の予言が、現代のグローバリゼーションの時代にこそ、まさに的中しつつある-という議論があることは聞いたことがありますが、それについてはまだジックリ検討できておりませんので、この点については、これから勉強させていただきます。

本ブログにコメントをお寄せいただき、誠にありがとうございました。

投稿: 山中 | 2007年4月12日 (木) 05時32分

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