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2007年5月 4日 (金)

中国における国家と社会

今日、滝田豪氏の論文「中国研究における『国家と社会』概念の再検討」(『法学論叢』京都大学法学会153号3号、2003年6月所収)を読み、中国政治社会を見る新たな視点を学ばせていただいた。

氏によると、中国研究の世界では、中国における「国家と社会」の関係をめぐって、「遊離論」と「浸透論」とが論争を繰り広げてきた。「遊離論」は、国家と社会が中国では遊離しており国家権力が社会に浸透することはなかったという議論であり、「浸透論」は、逆に国家が社会に浸透していたとする議論である。この両者の議論を概観しながら(こうした概観は、専門家ではない私には大変有難い)、滝田氏は中国研究における「国家と社会」概念の再検討を試みている。というのも、中国政治社会の現実においては、「浸透論を検討すれば遊離の局面が目につき、遊離論を唱えるには国家の力が強すぎる、というような状況が長い間続いてきた」からである(上掲論文36頁)。

そこで氏が重要な手がかりとして言及しているのは、台湾の石之瑜氏と日本の岸本美緒氏の研究に共通する視角である、国家と社会の両者を包摂する「全体秩序」という概念である。石氏によれば、「伝統的な中国人の認識世界においてはそもそも国家と社会という区別は存在しない。儒教においては、皇帝は君子であり、民衆は子民である。つまり社会全体がひとつの家庭のようなものであり、そこでは国家がすなわち社会なのである。現代中国においても、あるときには国家が優位に立ち、あるときには社会が優位に立っているように見えるのは、単なる視座の違いによるものに過ぎない」(38頁)。また岸本氏によると、「伝統中国社会の公的な事業を担うのは国家か社会かという問いを立て、その答えを導くのが難しいのは、両者の役割の境界が曖昧であるからというよりも、そもそもそれが『同型』のものであったから」だったのである(39頁)。

このように中国では国家と社会がその本質において「同型」ではあったが、しかしながらそれと同時に、そこには権力や支配という縦の関係が貫かれてもいた。だがそれは、欧米におけるように、国家と社会とが明確に分かれている状態がまずあって、そこから、権力関係とは無縁な横の人間関係たる社会に対して国家権力が上から支配を浸透させた、という図式を意味するのではない。そもそも中国では「『国家』と『社会』という二つの区別された実体自体が存在しない」のであり、中国の秩序は「国家の色が上から下に向けて少しずつ薄くなっていくグラデーションようなものだと考えることができる」のである(39-42頁)。

その場合、国家権力による上からの支配はたしかに下まで浸透していくが、それは近代国家のように緊密な支配ではなく、中国では常に「変通」(適宜融通を利かせた変化)を被ることを余儀なくされる。そこには国家権力の浸透を阻む強力な「横の壁」が国家と社会の間に明確に横たわっているわけではないのだが、その浸透は「変通」という〔柔らかい〕障害物によって骨抜きにされてしまう。

以下、私自身の解釈も交えながら要約を続けるならば、その国家権力の浸透を「変通」させていく〔すなわち“薄めて”いく〕柔らかい壁は、中間団体における宗族という血縁関係である。しかしその宗族は、ヨーロッパの伝統的共同体のような強固な凝集性を誇るものではなかった。というのも、中国ではいわば「近くの他人よりも遠くの親戚」が当てにされるがゆえに、共同体における地縁的つながりが形成されにくいからである。従ってそれは、国家権力の浸透を薄めることはできても、完全に阻むことはできないのである。しかしながら、その柔らかい壁は、国家権力の浸透を許しながらも、しぶとく生き残り続けるが故に、中国では近代国民国家のような緊密な国家と社会の一体化は相変わらず実現困難な課題であり続けているのである。

もっとも滝田氏も的確に指摘しているように、「近年では〔グローバル化の進展による〕国民国家の黄昏が叫ばれて」いる(45頁)。本ブログでも再三述べてきたように、鄧小平はそれを鋭敏に見抜き、孫文・蒋介石・毛沢東といった歴代の中国指導者が追求してきた国民国家化路線を放棄し、中国を「改革開放路線」へと大きく旋回させたと言えるだろう。

ここからは上記の議論を踏まえての私自身の考察なのだが、そうして中国が市場経済化の道を歩むとき、そこに出てきた巨大な貧富の格差による福祉の諸問題に、中国はどうやって対処していこうとするのだろうか? 二十世紀に全盛期を迎えた福祉国家は同時に国民国家でもあった。それがグローバル化によって転機を迎えるなかで、社会福祉の世界で近年強調されるようになっているのが「地域福祉」という概念である。

しかしながら、もしも中国社会が依然として地縁よりも血縁を、あるいは血縁的つながりに類する「関係」(グアンシ)すなわち人的なコネを重視する社会であるとするならば、経済的に頼れる富裕者をその血縁あるいは「関係」に持たない人々は、一体どうなるのだろうか?

身近にそのような貧困者を目の当たりにしていても、「近くの他人よりも遠くの親戚」をこそ大事に考えるとするならば、同じ共同体にいる困窮者をむしろ冷淡に放っておくことになるだろう。そのように放っておかれる貧困者は、しかしながら、国家による生活保障に頼ることもできないにちがいない。というのも、現代中国はすでに福祉国家=国民国家の路線を放棄しているからである。

だからといって地方政府がそれを行おうとしても、地方共同体における地縁的に緊密な組織化を拒み、あくまでも血縁的な「関係」が幅をきかせる中国社会では、生活保障の財源となる税金の徴収は、それこそ「変通」を被り、スムーズに進まないにちがいない。だとするならば、中国における「地域福祉」にも、多大な困難が待ち受けていると思われるのである。

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