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2007年7月30日 (月)

大雨で出張キャンセル

今日の朝9時前、出張のため京都駅から9:15発東京行のぞみ122号に乗ろうとしたところ、台風が来ているわけでもないのに、新幹線がストップしていた。静岡地方で1時間に70mmを超える猛烈な大雨が降っているため--というのである。

今日は群馬県高崎市の母子生活支援施設へ挨拶に伺うはずだった。私の所属する皇學館大学社会福祉学部の学生が一人、この夏休みにその施設へ現場実習に行かせていただくのだが、その施設では皇大・社福からは初めての実習生なので、実習期間に入る前に、実習生受け入れのお礼に伺うことになっていたのである(これを「初指定外施設訪問」という)。今日の午後2時に先方にお伺いする約束になっていた。

ところが、今朝京都駅に来てみると、新幹線がストップしていたのである。それを知らせるアナウンスでは「運転再開の見込みはまだ立っていない」ということだった。

そこで急いで先方にお電話し、今回の初指定外施設訪問とはまた別に、巡回指導のために(私とは別の)担当教員がその施設を訪問することになっているので、その際に、本学の学生を初めて受け入れていただいたことのお礼を兼ねることで了解を得て、今回の私の出張はキャンセルすることになったのであった。

共同通信の伝えるところによると(こちら)、午前8時半より約1時間、運転を見合わせたとのことなので、実際の運転見合わせの時間はそんなに長くは続かなかったようだが、それにしても、台風でも大地震でもなく、「大雨」で新幹線がストップしたことに、驚きを禁じ得なかった。そういえば、今日の朝未明、たしか午前4時頃だったと思うが、突然の激しい雨と雷の音で目が覚めたが、その低気圧が東に移動していたのかもしれない。

いずれにせよ、最近の雨の降り方はやはり非常に極端になっていると思う。降り方が激しくなるのは、地球温暖化=気候変動の大きな特徴だと言われていることを思うとき、低炭素社会へ向けての取り組みが急務であることを改めて痛感した。昨日投開票された参議院選挙では争点が「政治とカネ」に集中してしまった感があるが、そんな低レベルの政争に明け暮れている場合ではないはずなのである。

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2007年7月23日 (月)

書評:橋本努著『帝国の条件-自由を育む秩序の原理』

週刊紙・図書新聞第2830号(2007年7月21日)の第5面に、橋本努著『帝国の条件-自由を育む秩序の原理』(弘文堂、2007年4月15日刊)に関して私の書いた書評記事が掲載された。図書新聞の許可を得て、ここにその書評記事を転載させていただくことにする。

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本書は、現在のアメリカが「帝国」として世界を単独で支配しているという状況をわれわれの生のあり方を否応なく条件づけるものとして引き受けつつも、そのような現実の「帝国の条件」のもとで思考停止に陥ることなく、むしろ現行の世界秩序をより善きものへと変えていくための新たな「善き帝国の秩序」=〈帝国〉の構想を、現実を超えたもう一つの理想的な「帝国の条件」として描こうとする、きわめて野心的な試みである。

著者の橋本努氏によれば、九・一一事件以降、アメリカはテロリズムに打ち克つための自信過剰の勇気とテロリズムの恐怖から逃れようとする安心への願望に衝き動かされている(三頁)。テロ事件後のアメリカは、そのような「勇気(好戦主義)」と「安心(セキュリティ強化)」への願望から、「自由と民主主義の理念を世界に伝播する」という大義を掲げつつ、その強大な軍事力によって、世界の国々を支配下に置こうとする「帝国」と化している。アメリカが現在「帝国的」と呼ばれうるのは、「自由と民主主義の拡張を使命とするアメリカ建国精神」を対テロ戦争正当化のための大義として用い、こうした「建国理念のために死ぬ」という大義を媒介として、軍事力の行使に至高な正当化原理を与えているからなのである(七一頁)。

ところが著者によれば、このようなアメリカ主導の帝国理念が、その「力の優位」によっていかに実際に通用していようとも、その具体的な形態はつねに別様でありえた可能性があり、別の方が善い秩序だったかもしれないという可能性を否定することができない(一〇五頁)。著者はこの「別の方が善い秩序だった可能性」を徹底的に追究し、ネグリ/ハートの『帝国』を参照しつつ、「善き帝国の秩序」を可能にする新たな思想理念を本書において紡ぎ出すことによって、「世界秩序の夢と想像力を次世代につなぎたい」(七頁)と高らかに宣言するのである。

この新たな思想理念は非常に独創的なものである。著者は、これまで『自由の論法』と『社会科学の人間学』の二著で論じてきた「成長論的自由主義」をさらに展開し、マルクスとハイエクの思想的融合から、「超保守主義」、「全能人間」、そして「自生化主義」という新たな思想理念を本書で打ち出している。「善き帝国の秩序」を支えるこれら三つの思想的基盤を本格的に論じているのは本書の第七章および第八章であり、この二つの章が本書の中核部分となっている。さらにそれに続く第九章・第十章では、世界貨幣の生成と世界大の配分的正義に向けた具体的な政策構想も提示されている。

それに先立つ第一章~第六章までは、九・一一以降の四つのイデオロギーについての議論に始まって、現実の「帝国」の動態とその思想状況についての詳細かつ綿密な分析となっており、読者は、まずこの現実分析の鋭さに目を奪われるだろう。とくに現在の帝国としてのアメリカを動かしている二つのイデオロギーたるネオリベラリズムと新保守主義を論じた第五章と第六章は本書前半における白眉であり、俗流理解を排して、これら二つのイデオロギーの深部と向かい合っているが故に、現代世界の思想状況について正確な理解を得る上で、非常に示唆的であるだろう。

しかしながら本書は単なる現実分析の書ではない。むしろ現実分析を踏まえた新たな理念追求の書である。それゆえに、本書全体に真摯に向き合おうとするならば、読者はその著者独自の思想理念をこそ真正面から受け止め、それに対して真剣に呼応することを要請されることになるのである。

その新たな思想理念とは、自由を育む〈帝国〉の秩序理念と、その〈帝国〉の下で実践される自己の潜在可能性の追求としての自由、および、そのような自由の下での諸個人の潜在能力の全面開花を促そうとするものである。こうした思想理念を著者はそれぞれ「超保守主義」、「全能人間」、それに「自生化主義」という言葉で表現している。また著者は、「支配なき世界における人間の能力の自生的成長」というユートピアに一定の意義を認めつつも、実際には「支配なき世界」は存在しない以上、次善として、そうした条件を人工的に作り出すことに関心をもち、そのための権力的基礎として、権力を行使される側が自らの自己超越ないし成長を求めて取り結ばれる権力関係、すなわち「命令 - 服従」関係ではなく「配慮 - 被配慮」の関係において行使される権力=「転換的権力」を唱えている。

なるほど、本書において「超保守主義」、「全能人間」、それに「自生化主義」という言葉で提示されたこれらの思想理念は、著者自身ですら「あまりに唐突で、グロテスクにみえるかもしれない」(六頁)と認めるほど、一見、まことにも奇抜なものに映るだろう。また、評者の見るところ、著者の唱える「成長論的自由主義」において、人間はいわば「終着点なき無限成長」のプロセスに置かれることになると思われるが、その「終わりなき無限成長のプロセス」は、人によっては、むしろキリのない一種の「無期懲役の刑」と感じられるかもしれない。それを苦しみではなく喜びと感じることができるための条件とは一体何だろうか?――といったような疑問が本書に対して投げかけられるかもしれない。さらには、著者の言う「転換的権力」はプラトンの「魂への配慮としての政治術」を連想させるが、著者の唱える権力概念とプラトンのそれとは果たして同じなのか、それとも異なるのか? 異なるとすればいかなる点においてか?――といったことも、論点となりうることだろう。

いずれにせよ、本書は著者が実際にニューヨークで九・一一事件を目の当たりにして以来、国際秩序の問題についての理論的考察に全力を傾けてきた結果として切り拓かれた新たな理論的地平であり、安易な批判を許すものではない。したがって、読者は本書で提唱された新たな思想理念に対し、真剣に呼応するための努力が求められることだろう。その努力を常に怠らないこと――これこそが、著者の橋本努氏が前著『社会科学の人間学』において提示した新たな人格像=「問題主体」としての生き方にかなう道なのである。

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2007年7月13日 (金)

佐々木毅『いま政治になにが可能か』を読む

二日ほど前に、佐々木毅『いま政治になにが可能か:政治的意味空間の再生のために』(中公新書、1987年)を読み終えた。これは、今から2ヶ月ほど前に近所の古書店で、なんと105円(!)で売られていたのを、大喜びで買っておいたものだが、最近、ある必要を感じて読み始めていたのである(*)。

(*)その「必要」というのは、ハイエク全集第Ⅰ期(春秋社)の新装版が刊行されるにあたり、その第10巻『自由人の政治的秩序』の新解説を執筆することになっているのだが、その執筆の参考になるのではないか--と判断したからである。この点については、機会があれば、また後日、本欄で書くことにしたい。

著者の佐々木毅氏は、東京大学法学部教授として長らく政治思想史と政治学を教えてこられたが、2001年4月から4年間、東京大学総長を務めたのち、現在は学習院大学法学部教授として、政治学を教えておられる。わが国を代表する政治学者の一人である。最近では、『政治学は何を考えてきたか』と題した著書を、筑摩書房から昨年12月に出版されている。この最近著の帯にはこう書かれている--グローバリズムに支えられた「市場」は利益政治を解体した。〈帝国〉に翻弄される「一国民主主義」! リベラル・プロジェクトは生き残れるか?--この問題意識は、まさに私のそれと重なるものであり、大変興味深い。

さて、ここで紹介している『いま政治になにが可能か』は、著者が1987年の1月から2月にかけて執筆したものである。当時は日米経済摩擦が深刻さを増すとともに円高が歯止めを失って着々と進行していた時期であり、そのような時期に書かれた本書には、日本政治が戦後定着させてきた一国主義的な利益分配政治がもはや通用しなくなってきた状況に対する危機意識が一本の赤い糸として貫かれている。たしかに今からもう20年も前に書かれたものだが、「政治的意味空間」という概念を軸として、日本政治には根本的・構造的欠陥があるのではないかと鋭く指摘する氏の議論は、本質的な点で、現在でもそのまま通用するのではないか--という思いを私は禁じえなかった。

名張学舎の政治学概論の授業で、参考文献として挙げておいたが、ここに改めて紹介することで、学生諸君に、本書を読むことをお勧めしておきたいと思う。私の授業の教科書ではなく、あくまで参考文献だから、定期試験を控えた今の時期にすぐ読み始める必要はないが、試験を終えたあと、この夏休みにでも読まれてはいかがだろうか? 残念ながら本書は現在品切れ状態であるから、古書としてしか入手できないが、少々の手間をかけてでも入手し、読むに値する書物である。「吉野作造賞」を受賞した名著である。

なお、佐々木毅教授の現在の問題意識については、学習院大学法学部政治学科の教員紹介欄に書かれているので、読まれるとよいと思う。

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2007年7月 4日 (水)

工場式畜産の問題点

7月3日の「総合演習(教職)」の授業で、地球温暖化問題を扱う一環として、肉食が地球温暖化に及ぼす悪影響について説明し、その際、本ブログ昨年12月29日の記事「肉食と穀物と森林破壊…そして飢餓」を参考資料として用いた。

そうしたところ、受講生の一人から率直なコメントをいただいた。その主旨は、「牛に草だけではなく大豆を食べさせてもよいと思う。人間だっていろいろなものを食べているのだから。牛のゲップによるメタンガス排出も、牛が生きているからこそである」というものだった。

それに対する応答を上記記事のコメント欄に書いておいたが、このコメントのおかげで、授業での説明不足に気づくことができたので、ここでそれを補っておきたい。それは、「工場式畜産の問題点」である。

クリストファー・フレイヴィン編著『ワールドウォッチ研究所 地球白書 2004-05』(家の光協会、2004年5月刊)の130~137頁に、「工場式畜産を見たことがありますか」という見出しの文章が書かれている。その中に、「過密な飼育と濃厚飼料から発生するリスク」と題して、次のような説明がある:

ウシは反芻動物であり、草や豆類、ワラや茎などを餌とする。しかし、畜舎で与えられるのはトウモロコシと大豆の混合資料である。この飼料のほうが、家畜の体重を短期間で増やせるからであり、また太っている家畜のほうが市場価格が高いからである。多くの消費者が工場式畜産の霜降り肉の食味や食感や見た目に期待するようになってきたが、穀物ばかりの濃厚飼料で育ったウシにはさまざまなリスクが隠れている。まずこの栄養価の高い飼料では、ウシは膨張感、酸血症、肝膿瘍、腸内のガスといった症状に悩まされる傾向がある。〔中略〕草を中心とした飼料がウシの胃の中の有毒な微生物を除去するのに対して、穀物飼料はその増殖を促すことも明らかになっている。これが、ウシなどの家畜の飼料に低用量の抗生物質を添加する一つの理由である。〔中略〕しかし、過密で不衛生な環境は動物をいっそう虚弱にさせ、サルモネラ菌や大腸菌、あるいは致命的な病気が、健康状態の良くない家畜の間で急速に蔓延するおそれがある。〔131~133頁。太字による強調は山中が加えた〕

つまり、大豆のような濃厚飼料はウシ自身にとって好ましいものでは全くなく、むしろ牛肉を食べたいという人間側の都合のみによるのであって、むしろ草を中心とした飼料のほうが牛自身のためなのである。

もっとも、牛肉を食べたいという人々の人口がそんなに多くなければ、過密な工場式畜産ではなく、自然に近い環境での飼育で充分だろう。その場合は濃厚飼料を与えることによって必要となる抗生物質や成長促進剤の投与も、されることがなかったはずである。

ところが、牛肉を欲する人口がこの地球上で急速に増えているために、畜産業では、あたかもモノを工場で大量生産するように、工業化された家畜生産が行なわれてきた。そのために上記のようなさまざまな問題点が生じてきたのである。

たしかに、牛のゲップ=メタンガスの排出は、牛が生きているからこそだろう。しかしながら、自然に近い飼育にとどまるならば、牛の頭数が不自然に急増させされることもなかったはずである。ところが、あまりにも牛肉需要が増えてきたために、牛の頭数も不自然に増やされることになり、メタンガスの排出も増加してきたのである。

そう考えると、あまりに過密で不自然な工場式畜産による牛肉の生産が、決して牛自身の命を尊ぶことにはならないし、地球温暖化の防止にもつながらないことが分かるだろう。

ちなみに、これも授業で言及しなかったが、家畜による地球温暖化への悪影響については、国連の食糧農業機関によって昨年12月に出された『家畜の長い影』(Livestock's Long Shadow)と題した報告書に詳しく書かれている(ただし英語)。それによると、世界の畜産部門がその生産の過程で排出する温室効果ガスの割合は、なんと運輸部門(13.5%)を上回る18%にも上るというのである…!

そうだとするならば、もうそろそろ我々は、「知らずに犯す罪」から脱却し、肉食が地球温暖化にもたらす悪影響を自覚し、少しずつでもいいから、肉食を減らしていくべきではなかろうか?--私にはそう思えてならないのである。

追記:この記事で、授業での説明を精緻化できたのは、受講生の一人が率直なコメントを寄せてくれたおかげだった。ここに感謝の意を表させていただく次第である。

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