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2007年10月30日 (火)

『ハイエク後の社会主義』を読む(4)

本ブログ10月12日の記事で挙げておいた文献を頼りにアマルティア・センについて--とくにその「潜在能力アプローチ」について--おおよその知識は得たので、それを踏まえつつ、『ハイエク後の社会主義』(Socialism after Hayek)第5章を読んだのだが、その読後感は、「う~む…ちょっと難しいなぁ……」というものだった。

その「難しい」というのは、今すぐ私自身の問題関心とうまく融合させるのが難しい、という意味である。というのも、著者Burczak のねらいが、ハイエク的自由主義の欠点を克服しつつ、それを発展させていく--ということよりも、むしろ、あくまでも社会主義の現代的再生のために、ハイエクをその再生のための試金石に(のみ)活用することにこそあるということが、本書第5章(あるいは第6章以降)の議論から、よく見えてきたからである。考えてみれば、本書の表題そのものからして、それは当然のことだったのかもしれない。

だが、現在の私の問題関心は、あくまでも自由主義の立場に自らを置きつつ、ハイエクの限界をいかにすれば克服できるかという問題の探求にあるから、その私自身の問題意識と本書のそれとは、(少なくとも現段階では)うまく融合させにくいのである。私自身は旧ソ連崩壊以降の社会主義陣営内での議論状況に通暁していないため、本書の議論にこれ以上ついていくことは、少なくとも現段階においては、少々苦痛を伴うものとなってきた。

そこで、とりあえず本書を読み進めていくことはここで止めて、明日から別の書物へと移ることにした。それは、次の書物である:

J. C. Espada, Social Citizenship Rights: A Critique of F. A. Hayek and Raymond Plant (Macmillan Press, 1996)

本書は、自由主義の立場に立ちつつ、ハイエクの新自由主義とR・プラントの社会主義とを共に批判した書物であり、英オクスフォード大学で博士号を取得した学位論文である。すでに以前にも一度、かなりの程度読み進めた本なのだが、まだ最後までは通読していないので、今回、新たな気持ちで再読してみたいと考えたのである。

また、次の書物も、すでにかなり綿密に読み進めてきたものの、まだ完全には消化し切れていない本である:

J. Shearmur, Hayek and After: Hayekian liberalism as a research programme (Routledge, 1996)

本書も自由主義の立場に立っているが、その特色はフェビアン社会主義者だった青年ハイエクにも目を配りつつ、ハイエク的自由主義のジレンマを鋭く指摘している点にある。そのジレンマの指摘にかんしては拙著『ハイエクの政治思想』の執筆に際してかなり活用させていただいたのだが、著者自身の思想的立場についてはまだ消化不良に終わっているので、この本も依然として気になっている書物なのである。

そのような訳で、今後は上記の2冊を読むことで、研究を進めていこうと思う。『ハイエク後の社会主義』の読書は、現在の自分にとって、今すぐ研究成果につながるものではなかったが、研究プロセスにおいて、こうした試行錯誤は常につきまとうものである。くじけず、柔軟に粘り強く、これからも研究を進めていきたい。

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2007年10月25日 (木)

モーツァルト交響曲「ジュピター」を聴く

10月に入って以来、授業や学生委員長としての仕事の合間を縫っては、少しずつ--本当に少しずつ--研究を進めている毎日だが、そのような日々のなかで私の心の糧のひとつになっているのは、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」を聴くことである。というのも、研究をしていると、ともすると心が深刻になりがちなのだが、このジュピターを聴くことが、私を明るくしてくれるからである。

大学生時代には、もっと深刻なクラシックを聴いていた。最もよく聴いていたのは、マーラーである。とくに交響曲第5番・第6番をよく聴いていた。第1番「巨人」、第2番「復活」もよく聴いたし、ときには第9番のCDをかけて、ぎゅーっと胸が締め付けられる思いがしながらも、その哀歓に酔うこともあった。

その他には、ベートーベン、ブラームス、ブルックナーといったところがお気に入りだった。といっても、クラシック音楽鑑賞の趣味を極めているわけではなく、詳しいわけでは全くないが、それでも音楽の中で一番好きなジャンルは、やはりクラシック音楽、とくに交響曲だった。大学生時代には、そのクラシック音楽のなかでも、深刻な大長編を好んで聴いていた。モーツァルトも聴いていたが、どちらかというと、ベートーベン以降の作曲家に比べて、モーツァルトはやや迫力に足りないような感じを覚えたものである。

ところが今では、もうすっかりモーツァルトを専ら聴くようになった。おそらくそれは、私の心が底抜けの明るさ・悦びを求めるようになったからである。

もちろん、モーツァルトにも短調の名曲がいくらでもある。交響曲で言うとたとえば第40番がそうだし、ピアノ協奏曲なら第20番が私のお気に入りだ。モーツァルトのレクイエムも(少なくともモーツァルト生存中に作曲された部分は)秀逸だと思う。それにあの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の天上楽のような透明感は聴く者の心を強く揺り動かす。

それでもやはり、私が一番好きなモーツァルトは、やはり交響曲第41番ジュピターである。音楽の訓練を専門的に受けてこなかった私には、その素晴らしさを言葉で説明することはできないが、とにかく、このジュピターを聴いていると、何かこう、人生を“大肯定”したくなる。理屈ぬきで「素晴らしきわが人生!」と心の中で叫びたくなるのである。

もちろん、ベートーベンもブラームスも、ブルックナーもマーラーも、それぞれがあまりにも有名な大作曲家であり、たとえばモーツァルトよりもベートーベンの方がお気に入りだ、という方も多いだろう。それはそれでよいと思う。だが今の私にとって、モーツァルトのジュピターに優る音楽はないのである。

そのような訳で、これからもこのジュピターを心の糧として、明るく研究に勤しみたいと思う。

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2007年10月21日 (日)

野口健氏の講演会

一昨日から今日までの三日間、皇學館大学社会福祉学部の大学祭が行われたのだが、今年の大学祭の講演会にお招きした講師は、エベレストや富士山の清掃登山で有名な、登山家(アルピニスト)の野口健氏だった。私は野口氏と個人的な面識があるわけでは全くなく、また講師として氏をお呼びすることを私が発案したわけでもなかったのだが、このたびの講演会で私が司会役を務めることになったため、氏の講演を間近で拝聴することができたことは、大変幸運なことだった。

今では非常に有名な野口氏だが、氏自身は全然飾らない気さくな方だという印象を受けた。その講演は氏の豊富な登山体験に裏打ちされた大変迫力のある内容だった。「迫力がある」といっても、氏の話し方そのものは大変穏やかで、ユーモアあふれるソフトな語り口だったのだが、その講演で語られた内容そのものが氏の過酷な登山体験に裏付けられたものだったことが、私をして、尋常ならざる迫力を感じさせたのである。他の聴衆の方々も、本当に熱心に聞き入っていた。

その講演内容の全てをここで私が下手にお伝えしようとするよりも、「百聞は一見にしかず」で、氏自身の講演会に実際に行かれた方がよいと思う。たとえば、氏が3度目の挑戦でエベレスト登頂に初めて成功した後、今度はそのエベレストの清掃登山に取り組むようになった経緯が大変意外であり、またその清掃登山でのエピソードは聴衆の心を強く打つものだったのだが、これについては、是非とも氏自身の口から聞かれるのがよいだろう。

ただ、今日の講演会のテーマ--「富士山から日本を変える」--に直接関わる内容についてだけは、ここで少しだけ触れさせていただきたい。というのも、それに私は大変勇気づけられたからである。

氏が富士山の清掃登山を始めた当初は、そのあまりの汚さに、「こんなのはとうてい無理だ…」と思われたのだそうである。ところが、その活動を続けていき、マスコミでも富士山の悲惨な状況や、その悲惨な状況のなかでの氏の清掃隊の活動が広く報じられるようになると、最初は少なかった清掃隊の人数が増えていき、今では全国から数千人の規模で集まってくるようになった。

それだけでなく、少なくとも5合目より上に捨てられるゴミ--すなわち麓の不法投棄物ではなく、登山客が捨てていくゴミ--については、ある年から途端に少なくなったのだそうである。というのも、氏の活動が広く知られるようになり、また富士山の悲惨な状況もマスコミを通じて広く伝えられるようになると、今度はひと夏30万人を数える登山客たち1人1人が、何と今度は自分自身でゴミを拾い始めるようになり、またゴミをあまり捨てなくなったからである。そのようにある時から状況が鮮やかに好転していったという事実に、私は大いに勇気づけられた。それと同時に、清掃活動を実際に積み重ねてこられた野口氏の行動力に、頭の下がる思いがしたのである。

とはいえ、私にはエベレストに登ることも出来なければ、富士山に登るだけの体力もないから、私自身は野口氏のような活動はできない。だが、私には私に与えられた生活環境で実際に出来ることが、小さな事とはいえ、沢山ある。道端や駅のホームに落ちているゴミを一つ二つ拾うことは、今や完全に私の日常となった。また、最近では野口氏は、地球温暖化によるエベレスト氷河湖の融解問題を解決するための活動に精力的に取り組んでおられるとのことだが、その地球温暖化は、最近邦訳された『異常気象は家庭から始まる』(日本教文社刊)という本でも説かれているように、1人1人の家庭での生活の仕方に大きく起因している。だから、私たち1人1人が、それぞれの置かれている生活環境のなかで、小さな改善を積み重ねていけばよいのである。

私が文字通り野口健氏のようになることはできないが、私は私なりに、環境のためになる行動を日々実践していこうと思う。

追記:なお、野口健氏の八面六臂の活躍ぶりについては、氏のオフィシャル・サイトに詳しく書かれている。

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2007年10月15日 (月)

翻訳の仕事は毎日少しずつ

現在、研究面では、来年3月までが期限の仕事を二つ抱えている。論文1本の執筆(のための読書)と『ハイエク全集』第Ⅱ期第5巻「政治学論集」の翻訳、この二つである。

授業の合間を縫ってのこの研究の仕事については、これまで、この二つを隔週で交互に行っていく方針だった。だが、そうではなく、双方共に毎日少しずつ行なう方針に変えることにしようと思う。というのも、特に翻訳の仕事が、まとまった長い時間、集中的に行なうのはかなりハードだということが分かったからである。研究面で1週間まるまる翻訳だけ--というのは、少なくとも今の私にとっては、かなりきつい…。

やはり翻訳というのは神経を使う仕事である。だから毎日少しずつ進めていき、それをこまめに積み重ねていこうと思う。ちょうど語学の勉強のように。

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2007年10月12日 (金)

アマルティア・センの勉強を開始

前回の本ブログの記事の末尾で、「A. SenやM. NussbaumのCapability Theoryについての先行研究に当たっていくことが、私に必要な次の作業である」という趣旨のことを述べておいたが、まずはA. Senすなわちアマルティア・センの勉強から取りかかることにした。セン自身の著作の邦訳書も(全部ではないが)数冊はすでに入手してあるのだが、まずは、先達の研究から謙虚に学ぶ方がよかろうと判断したのである。センについてのわが国での先行研究として、私がすでに入手していたのは、次の三著である:

①鈴木興太郎・後藤玲子『アマルティア・セン:経済学と倫理学【改装新版】』(実教出版、2002年)
②川本隆史『現代倫理学の冒険:社会理論のネットワーキングへ』(創文社、1995年)
③若松良樹『センの正義論:効用と権利の間で』(勁草書房、2003年)

①はセンに関する大変良質な入門書として定評のある書である。②はセンのみを取り上げたものではないが、センとハイエクとを比較した論文が収められているという意味で、ハイエク研究者の私にとって無視できない重要な文献であり、③は法哲学における現代正義論の文脈でのセンの独創性を浮かび上がらせた力作である。

この三著を読み進める順序であるが、センに関して全く素人の私としては、やはり①から読み始めることにした。現在、授業の合間を縫って少しずつ読んでいるところである。いま読み進めている途中の『ハイエク後の社会主義』第5章の理解のために、これらの先行研究から大いに学ばせていただこうと思っている。

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2007年10月 5日 (金)

『ハイエク後の社会主義』を読む(3)

今日の午前中は久しぶりにジックリと研究に勤しむことができた。8月21日以降、『ハイエク後の社会主義』の続きを読むことが満足にできていなかったが、今日はその第4章を読むことができた。以下、その要点を覚え書きとして記しておくことにしたい。

この第4章は Recasting Hayek's Good Society: The Non-Neutrality of the Law and the Market と題されているが、要するにここでは、J・フランクやK・ルウェリンのアメリカ・リアリズム法学の議論--このリアリズム法学の概要については、平野仁彦・亀本洋・服部高宏『法哲学』有斐閣アルマ、2002年刊、pp. 193-194を参照--に依拠しつつ、「社会進化の中から公平な市場競争のルールが出現してくる」というハイエクの主張を批判し、市場経済を支える法(特にコモン・ロー)やそれに基づいた裁判の「非中立性」(Non-Neutrality)が指摘されている。また、現実の市場経済でのCredit Rationingのあり方が富裕者を優遇するものとなっており、それは貧困者から機会の平等を奪うものであるという事実を指摘することで、現実の市場経済が、ハイエクの主張とは異なって、貧困層に対して成功の機会を不当に奪うものとなっている、という主張が展開される。そうして最後に、判例の積み重ねを通じたコモン・ローとしての共通善の出現というプロセスよりも、むしろ「共通善とは何か」という問いが政治の場での民主的な議論に開かれていることこそが重要であるという結論を下している。

このように民主的な討議を重視するとはいっても、著者のBurczakはそのような民主的な手続さえ踏まれればそれで充分と考えているわけではない。むしろその民主的プロセスにおいて実現されるべき正義とは何かということが大切だと述べている。その際、著者が依拠しようとしているのは、A. SenやM. NussbaumのCapability Theoryであるが、それについては本書第5章で論じられることになる。

従って、引き続き本書の第5章を読んでいこうとすれば、A. SenやM. NussbaumのCapability Theoryについて一応の知識を予め持っておく必要があるが、実は私はまだそれについては、教科書的・断片的な知識以上のものは全く身につけていない。幸い、わが国でも邦語で書かれた優れた研究がすでに出ているので、それらの先行研究に当たっていくことが、私に必要な次の作業である。

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2007年10月 2日 (火)

毎日少しずつ着実に、そして部屋は整理整頓

昨日から秋学期の授業期間がスタートした。年末年始の休みを挟んで、来年1月までの4ヶ月間、授業が続くことになる。幸い、順調に滑り出すことができた。体にエンジンがかかってきたように思う。体力も徐々に回復してきたようだ。

やりたいこと、やるべきことは、なかなか沢山ある。試みに書き出してみよう。

○研究:来年3月までに論文1本執筆(そのための文献精読)、同じく3月までに春秋社刊ハイエク全集第Ⅱ期第5巻政治学論集の翻訳

○教育:隔週で週6コマあるいは8コマの授業(そのための準備を含む)

○委員会関係:学生委員会、広報委員会、FD推進委員会等の諸委員会の仕事

○クラブ・サークルの顧問:サッカー部、フットサル部、軟式野球サークル、ソフトボールサークルの練習を、時々見に行ってあげること(あまりできていない…)

○英語:通訳トレーニング入門(毎晩30分ほど)、ECC英会話学校への通学(毎週土曜日午前、ただし仕事が土曜日にも入ることが先月は多くて、ほとんど行けていなかったが…)

--などなどである。

これらの仕事をコンスタントにこなしていくためには、うまくスケジュールを組んで、毎日少しずつ進めていくことだ--と改めて実感している。それも、できるだけそのスケジュールを定期的なものとし、それを習慣づけた方がよい。授業の時間割は動かせないものとして定められているから、それ以外の時間に他のことを組み入れていくことになる。

週ごとの仕事のリズムが完全に定まるまで、まだもう少し手探りの状態が続きそうだが、今月半ばぐらいには、だいたいの要領が分かってくるだろう。どうやら研究の時間は、私の場合、やはり朝食前の早朝の時間を利用するしかなさそう(あるいはそれがベスト)である。

順調に滑り出せた大きな要因の一つは、部屋を整理整頓したことだった。研究室も自宅の部屋も、少々乱雑になっていたので、先月末に思い切って整理整頓を敢行したのである。おかげで、気分がスッキリした。

また、大学の仕事は自宅に持ち帰らないことにした。それにこれからは、夏・冬・春休みでも平日には大学に行って、休み期間中の研究は、自宅ではなくて研究室で行うことにした。私の場合、その方が生活のリズムにメリハリがつくことが分かったからである。現在、自宅に置いてある本を、毎日少しずつ、研究室に持って行っているところである。自宅では語学の勉強に限ることにした。その方が、自宅の部屋もきれいに保ちやすいからである。

いずれにせよ、大切なのは、そうしたリズミカルなスケジュールのなかで、毎日少しずつ進んでいくことだと思う。一気に進もうとしない方がよい。毎日着実に、少しずつ。少しずつでよい。その積み重ねが、大きな成果へとつながっていくのだから…。

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