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2007年11月30日 (金)

“ハイエク後の社会主義”の研究を断念

ここ数ヶ月ほどの間、“ハイエク後の社会主義”をめぐる議論を追ってきたが、その方向での研究を断念することにした。前回の記事で言及した David L. Prychitko, Markets, Planning and Democracy: Essays after the Collapse of Communism (Edward Elgar, 2002) をその後速読してみたのだが、Burczak にせよ Prychitko にせよ、ここでの議論は多分に経済学の分野におけるそれであり、これについて私の出る幕は、どうもなさそうだからである。このことについては、実は前回の記事を書いた11月15日の数日後に最終的な判断を下したのだったが、これまで記事を更新できずにいたため、ここに書くのが今日になってしまった。

きわめておおまかな要約であるが、私の読み取ったところによると、要するにここでの議論の焦点は、ハイエクの知識論を取り入れた「経済民主主義」の実現が可能かどうか、ということである。Burczak の『ハイエク後の社会主義』がそれを可能だとし、ハイエクの社会主義経済批判を乗り越える形での Labor-Managed Firm が可能だと考えるのに対して、オーストリア学派の Prychitko はそれを不可能だとし、むしろ経営者の企業家精神が重要だと考えている、というのが両者の間での違いのようである。

いずれにせよ、ここでの議論の主たるテーマは、「社会における知識の分散」を説いたハイエクの知識論をめぐるものだった。他方でハイエクが唱えていた自生的な秩序原理をめぐる問題は--私の期待に反して--議論の対象とは結局なっていなかったのである。

そのようなわけで、私が次に書こうとしている論文のテーマとして“ハイエク後の社会主義”の動向を取り上げることは、きっぱりと断念することにした。経済学の専門的な訓練を私は全く受けていないからである。

その代わりに既にここ2週間来、進み始めている研究方向は、実は、マイケル・ポラニーの自生的秩序論についてである。拙著『ハイエクの政治思想』の補論1で、ハイエクとポラニーの全体主義批判の違いについて論じたのだが、それを受けて、今度はポラニー自身の議論を本格的に追ってみよう、と考えたのである。

拙著の補論1でも書いたように、「暗黙知」や「自生的秩序」の概念を取り入れる上で、ハイエクがポラニーからの影響をはっきりと認めているにもかかわらず、その内容は、実はかなり相違している。そのポラニーの議論を「もう一つの自生的秩序論」として本格的に研究する価値はあるにちがいないと思うのである(少なくとも今の段階ではそう思っている)。調べてみると、すでに英米では盛んに研究されているようである。そうした研究動向を踏まえつつ、私自身の研究がどのように進捗しているかについては、また機会を改めて、本ブログに書き綴っていくことにしたい。

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