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2008年2月26日 (火)

論文の執筆開始

本ブログの2月15日の記事で、その末尾に「トクヴィルを大急ぎで読み直している」と書いた。それ以来、大学での業務の合間を縫って、『アメリカのデモクラシー』を読み進めてきたのだが、幸い、今日その読み直し作業を終えたので、今晩からいよいよ論文の執筆に着手した。その序論にあたる「はじめに」を書き始めたところである。それに続く本論の論述構成も素描できたので、あとはその構成に従って書き進めていくことになる。

執筆前にトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(全2巻)を読み直すにあたっては、その第1巻の上巻と下巻については、幸い、我が国におけるトクヴィル研究の第一人者のひとりである松本礼二氏による新訳が、2005年11月と12月に岩波文庫から出版されていたので、それを利用させていただいた。第2巻の新訳もその上巻が3月に出る予定のようだったが、それを待つ余裕はなかったので、1972年に岩永健吉郎・松本礼二両氏による抄訳(研究社刊)を再度利用した。それとは別に、全訳が講談社学術文庫から出ているので(井伊玄太郎訳)、それは第2巻の研究社の抄訳に収められていない部分について適宜参照させていただいた。

またそれに先立って、トクヴィル研究書としては、松本礼二氏の『トクヴィル研究』(東京大学出版会、1991年)や、新進気鋭のトクヴィル研究者・宇野重規氏による『デモクラシーを生きる:トクヴィルにおける政治の再発見』(創文社、1998年)と『トクヴィル:平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ、2007年)を参照させていただいた。もちろん、そのほかにもわが国にはすでに中谷猛氏や小川晃一氏によるトクヴィル研究がそれぞれ1974年と75年に出ているし、そもそもトクヴィル自体を研究していこうとするのであれば、そのほかにも参照すべき文献は山ほどあるだろう。しかし、今回の筆者の狙いは、トクヴィルそれ自体の研究にあるのではなく、あくまでも筆者のこれまでのハイエク研究の一環として、「ハイエクから見たトクヴィル」を取り上げるにとどまるので、これ以上の文献参照は断念することにした。

またトクヴィル自身の著書についても、今回はもっぱら『アメリカのデモクラシー』に限ることにした。そのほかにも『旧体制と大革命』(小山勉訳、ちくま学芸文庫。この小山氏も同じちくま学芸文庫からトクヴィル研究書を出されている)や、『フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録』が出ていることはもちろん承知しており、できれば参照したいところだったのだが、ハイエクのトクヴィルへの言及は、管見によれば、『アメリカのデモクラシー』にもっぱら限られているので、『旧体制と大革命』および『回想録』の参照も、やはり断念することにしたのである。

論文を書き始めようとする際には、つねにこの種の“断念”がつきまとうのだが、その断念のタイミングがなかなか難しい。一方で、参照文献が不十分にとどまることは当然許されない。文献の渉猟は、充分に行う必要がある。しかし他方で、完璧を期すあまり、文献の参照に歯止めがきかなくなってしまうことも、実はあまり好ましいことではないのである。というのも、そうなってしまうと、いつまでたっても論文が書けなくなるからである。

今回のこの“断念”あるいは“決断”が100%正しいという自信があるわけではないが、3月10日の締め切りがいよいよ迫ってきたこともあり、思い切って論文執筆の開始を決断するに至ったのである。とはいえ、これが悪い意味での「見切り発車」ではないということも、たぶん間違いないと思っている。しかし、それも最終的には、出来上がった論文の内容次第で判断されねばならないだろう。今後も大学での業務が続くが、時間をうまく使って、全力で書き進めていこうと思う。

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2008年2月19日 (火)

リーダーズ研修会

私の勤務する皇学館大学・社会福祉学部において、昨日から本日までの1泊2日にわたり、名張学舎を会場として(および宿泊には赤目山水園を利用して)「リーダーズ研修会」が開催された。これは、クラブ・サークルなどの課外活動団体のリーダーを対象とした研修会であり、ここ数年、毎年行われているものである。学生委員会の主催なので、今年度より学生委員長となっている私が今回の責任者であった。

昨年度は「リーダー啓発ビデオ」の上映が行われたので、今回もそれにならってビデオを上映することにした。研修会では、そのビデオの内容を受けて、「自分の目指したいリーダー像とは何か?」や「わが団体の目指したい目標は何か? またそのために必要なことは何か?」といったテーマで班別ディスカッションを行っていくのだが、事前の企画段階で神経を使ったのは、その上映内容を何にするかであった。その内容が研修会全体の基調となるからである。ずいぶん以前から「何に上映すればよいか」を考えていたのだが、学生委員会で私が提案し、委員の皆さんの賛同を得られたので、上映することに決めたのは、NHKで放映された次の2本の番組のビデオであった:

(1)プロフェッショナル・仕事の流儀 指揮者・大野和士

(2)課外授業ようこそ先輩 指揮者・小林研一郎

この二つの番組は、いずれも私自身が好きで見ていて、自宅で録画しておいたものである。(1)については、以前にも本ブログで取り上げたことがあるが(指揮者・大野和士の世界)、ともあれ、指揮者という仕事は人を率いるリーダーのよい例だと思われたので、この研修会で学生諸君にも見てもらうのにちょうどよいと考えたのである。(2)は自宅で録画したVHSを使ったが、(1)はそのDVDがNHKによって販売されていたので、それを個人的に購入し、上映した。

この二人の指揮者によって醸し出される雰囲気は、かなり対照的である。大野和士氏の場合はカリスマ的な雰囲気を漂わせているのに対して、小林研一郎氏の場合は親しみやすく、(よい意味で)庶民的な雰囲気である。しかし両者に共通しているのは、楽団員に対して威圧的な態度をとるのではない、ということである。むしろ、両者ともに、いかに楽団員の力を引き出すかということに大変心を配っている。音楽に対する情熱には並々ならぬものがあるのだが、だからといって命令的な態度をとるのではなく、大野氏は楽団員一人ひとりを解放し、小林氏は楽団員の心をおもんぱかることによって、100人にわたるオーケストラを一つにまとめあげるのである。

私自身、この二つは大変素晴らしい番組だと常々思っていたので、おそらく学生たちにも気に入ってもらえるだろうと考えていたが、いざ実際に研修会で上映する段になると、「学生たちの反応はどうだろうか…?」ということが気になった。だが、学生諸君から出された感想文によると、おおむね好評だったので安堵したものである。

ただ、ある一人の学生からは、「一流の事例は、(一流ではない)自分たちの参考にはならない」という意見も感想文に書かれていた。私自身も(1)のビデオだけでは多くの学生たちにそのような印象を与えてしまうかもしれないと思ったので、より親しみやすいものとして(2)も用意したのだったが、それでもこの学生には、どちらも“雲の上の人”だと思われたようである。

一方で私は、最初からあきらめてしまうのではなくて、一流の人たちに自分たちも少しでも近づけるよう、希望をもって努力してほしいと思う。だが他方では、あまり一流の事例ばかりを見せられても…という思いを抱くのも、無理はないだろう。次回の研修会に向けては、さらに親しみやすい事例の紹介も取り入れられるよう、題材収集に努める必要がありそうである。

まだ他にも2点ほど、改善の要望が感想文には書かれており、それについては反省材料とせねばならないが、それでも研修会全体に対する評価はおおむね好評だったので、責任者としては胸をなでおろしている。この研修会が学生諸君の課外活動の活性化に少しでも役立てるものであったことを願うばかりである。

このたびの研修会は、参加してくれた学生諸君はもちろんのこと、学生委員の皆様や学務課職員、および学友会総務部の諸君のご尽力、ご協力により開催できた。また、施設・設備の使用にあたっては、管理課職員の方々のご協力を得た。さらに、宿泊に際しては赤目山水園の皆様より温かい歓待を受けた。この場を借りて、その全ての方々に、心から感謝の意を表明させていただく次第である。

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2008年2月15日 (金)

論文の構想固まる

これまでずっと模索してきた論文の構想が、このほどようやく固まった。それは、ハイエクの民主主義観の変遷--これは“民主主義への淡い期待から幻滅へ”とでも表現できると思われるのだが--を、ハイエクのトクヴィル評価の変遷に即して描いてみる、という構想である。

以前に拙著『ハイエクの政治思想』第3章第3節で、晩年のハイエクがプラトン的なエリート主義へと傾斜していったことを指摘した際、それがいわばハイエクにおける“トクヴィルの(思想的な)死”に伴うものであることを論じた。しかしその際、そこではトクヴィルについてのハイエクのコメントのみに言及したにとどまっており、トクヴィルのデモクラシー論自体に踏み込んだうえで、それをハイエクと比較するという作業はしていなかった。今回の論文では、上記のテーマによって、拙著での議論を補強してみようと思ったのである。『隷従への道』(1944年)や『自由の条件』(1960年)でハイエクはトクヴィルに高い評価を与えていたが、『法・立法・自由』の第3巻(1979年)の第12章注14では、一転して、「トクヴィルに夢中になりすぎた」ことへの後悔の念を表明していた。そのトクヴィル評価の変遷は一体何故だったのか?--この問題を論じてみようというのが、今回の構想である。

これまで右往左往してきたなかで、今回ようやくこのような構想を固めることができた大きな要因の一つは、自分の足場を政治学(とくに政治思想)に置くことを完全に決意できたことによる。上記の拙著の最大の特徴がそもそも政治思想的観点からのハイエク論であることにこそあったにもかかわらず、その第4章では開発経済学の知見にも目を配っていた。それは、哲学・経済学・法学・政治学など諸領域を横断することで大きな思想体系を築きあげたハイエクを分析する際、その視角を自分の天分に照らし合わせてどこに定めるべきか、まだ完全には決め切れていなかったことを意味している。しかし、このたびの試行錯誤を通じて、自分の勝負すべきフィールドが政治学、とくに政治思想にあることが、心の底からよく分かったのであった。その結果、ハイエクの民主主義論の検討という、きわめて政治学的なテーマに辿り着いたのである。

そうと決まれば、あとは書くのみであるが、その前に確認のため、大急ぎでトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を読みなおし始めたところである。締切が3月末から3月10日へと繰り上がったので、大いに急がねばならない。全力で走り抜こうと思う。

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2008年2月 7日 (木)

ただいま試行錯誤中(2)

試行錯誤を続けながらも、最近、少し光が見えてきたように思う。この光の指し示す先に一体何があるのかは、さらに探求を続けてみなければ分からないが、何かおぼろげに見えてきたのは確かである。こういうことは、研究プロセスによくあることだ。いずれにせよ、ハイエクそのものを主題として、書けること、書くべきことがまだありそうである。最近、邦語でのハイエク研究書が2冊立て続けに出版された(あるいは出版予定である)ことも(*)、そのことを物語っているのかもしれない。

(*)山崎弘之『ハイエク・自生的秩序の研究-経済と哲学の接点』(成文堂、2007年12月)
 萬田悦生『文明社会の政治原理-F・A・ハイエクの政治思想』(慶應大学出版会、2008年2月刊行予定)

ところで、今日は私の39歳の誕生日だった。大学売店で店員の方に「お誕生日おめでとうございます!」と言われたり、一人の学生さんから同じく「お誕生日おめでとうございます!」とメールをいただいたりした。売店の方にそうお声をかけていただいたのは、本ブログで「来年2月7日で39歳になる」と書いていたからであった。学生さんの方も、おそらくはそうだったろうと思う。当の本人はスッカリ忘れていたのだが、読み直してみると、たしかに昨年の大みそかに私はそう書いていた。それを読んで、お声をかけていただいたり、メールをいただいたりしたのだから、大変うれしく思うとともに、本ブログをお読みいただいているということに、気の引き締まる思いである。

帰宅すると、妻が誕生日プレゼントと、一足早いバレンタインのチョコレートを買ってくれていた。そのプレゼントとは、財布である。今の財布は、もうかれこれ15年ほどずっと使っており、ほころびが出てきていたので、そろそろ買い換えなければ…と思っていたところだった。感謝あるのみである。

こうして私は今日39歳になった。私を生んでくれた両親は既に他界してしまったが、生んでくれたことに改めて感謝し、明日からまた新たな気持で、研究と教育にいそしんでいこうと思う。

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2008年2月 4日 (月)

ただいま試行錯誤中

論文執筆のための試行錯誤が現在も続いている。本ブログに以前書いたように、最近ではマイケル・ポラニーの自生的秩序論あるいは自由論を勉強し始めたり、進化ゲーム理論における「相互扶助を語る自生的秩序論」の動向を追ってみたりしてきたのだが、一方でマイケル・ポラニーに踏み込むには、3月末締切では時間が全然足りないし、他方で、外的強制を全く必要としない秩序形成の可能性を追求する進化ゲーム理論は、政治権力の必要性を大前提とするハイエクの議論とはかみ合わないので、結局、そのいずれも今回の論文のテーマには使えないことが分かったのであった。

そんなわけで、どうしたものか…と思い悩む日々が続いてきたのだが、ふと思ったことは、「何もハイエクから急いで離れようとしなくとも、政治学の観点から、まだハイエクそのものを使って書くべきことが残されているかもしれない」ということだった。というのも、拙著『ハイエクの政治思想』の第4章では開発経済学にも足を踏み入れたのだったが、いま思えば、筆者の能力からすれば、自身の専門とは違う分野に踏み込むよりも、むしろ政治学の議論に徹するべきだったかもしれない…という思いがしてきたからである。それはまた、ハイエク全集第Ⅱ期第5巻政治学論集の翻訳の仕事--これも3月末締切である--と無理なく両立できる道でもある。

そう思って、改めてハイエクの政治学関係の論文(その民主主義論)を新たな気持で読み直しはじめたところ、これまでのような不安がなくなり、妙に心が落ち着いてくるのを感じた。これまでハイエクは経済学や法哲学の分野で論じられることが多かったなかで、政治学の観点からハイエクを論じたのが拙著の最も大きな特徴だったとすれば、そしてその視点からまだ論ずべきことが残されているとすれば--そんな気が徐々にしてきたのだが--それを今回の論文テーマにすればよいのではないか、と思えてきたのである。その論文が掲載されるのは日本政治学会の年報だから、その意味でもそれこそがふさわしいはずなのであった。そう分かってみれば、なぜもっと早くに気づかなかったのか、とも思うのだが…。

だが今さら後悔してみても始まらない。もはや残された時間は2ヶ月を切っているが、ハイエクを題材とするのであれば、おそらく堅実に仕事を進めていくことができるだろう。幸い、授業期間を終えて、まとまった時間を比較的取りやすい時期に入ったので、とにかく前に進んでいきたい。反省した後はそれ以上徒らにくよくよするべきではなかろう。ただ前進あるのみである。

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