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2008年9月25日 (木)

翻訳の苦しみからの解放を求めて(2):安西徹雄『英語の発想:翻訳の現場から』

本ブログ8月29日の記事で言及した安西徹雄氏の本を、このほど読み終わった。そのときに挙げた『英文翻訳術』に加えて、同じくちくま学芸文庫から出ている『英語の発想--翻訳の現場から』も読んだのだが、この2冊とも、2度繰り返し熟読したのである。それはまさに“目からウロコ”の連続だった。

いまここで、その一部始終を詳しく説明している余裕はないのだが、とにかく、この2冊の本のおかげで、英語を読むのが非常に楽になった。日本語らしい翻訳ができるようになってきただけではなく、英文の内容を読み取ること自体も、非常に楽になってきたのである。これは嬉しい驚きだった。

これまでは英語を「英語の発想のまま」で読み取ろうとしてきた。もちろん、まずはそれが第一に必要なことだろう。しかし、私はやはり日本人である。だから、英文で書かれている内容を、最終的には日本語の発想に合わせて理解する方が、はるかに“腑に落ちる”のである。考えてみれば、これは当然のことであった。

たとえば、A slight slip of the doctor's hand would have meant instant death for the patient. という英文があるとする(『英語の発想』62頁に掲載;『英文翻訳術』では53頁)。これを英語の発想そのままに理解するならば、「医者の手のわずかな滑りが、患者のたちどころの死を意味したであろう」となる。

これを実際に翻訳する必要がなければ、これをこのままにしておいても、さしたる不便はないだろう。少なくともこれまでの私にはそうだった。

しかし、これを日本語の発想に置き換えるならば、「医者の手がほんのわずかに滑っても、患者はたちどころに死んでいたであろう」となる。こう理解しなおした方が、日本語で育った来た私には、はるかによく分かるのである。

もちろん、ここには両者の間での発想の違いがある。それは、『英語の発想』のあちこちで的確に解説されているように、英語では、動作主(人間であれ無生物であれ)による「働きかけ」の発想が強いのに対して、日本語では、むしろ物事が「自然にそうなった」と捉えることが多い--という違いである。また英語では、日本語よりも、「名詞中心の構文」が圧倒的に多いことも、大きな違いである。

これまでの私は、こうした英語の発想に沿って、英語を英語として理解しようとしてきた。それはもちろん大切なことだと思う。

しかしそれだけではなく、英語の発想はそれとして理解しつつ、最終的にはそれを日本語の発想に置き換えて理解しておく方が、英語を読み進めていくときのストレスが格段に減るのである。

このストレス減り具合は、誠に驚くべきものであった。これまでの私は、知らず知らずのうちに、このストレスと闘いながら、英語を読んでいたのであった。しかし今の私は、そのストレスから大いに解放されつつある。むしろ非常に楽しくなってきたとさえ言ってよいだろう。

そんなわけで、私は今、翻訳の苦しみのみならず、そもそも英語自体を読むストレスからも、解放されつつあるのであった。誠にありがたい限りである。

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2008年9月10日 (水)

ハイエクと夏目漱石:『文藝春秋』2008年10月号より

今日は、モンペルラン東京大会のエクスカージョン(excursion)の日であり、鎌倉観光に行くことになっていた。それに行っていれば、他の参加者との交流を深める良い機会になっていたことだろう。

ところが、実をいうと、私はそれには参加しなかった。校務の関係で、どうしても今日中に仕上げておきたい資料があったからである。今日はその資料を一日中、ホテルの部屋にこもって作っていた。他の参加者と交流できる機会を逃したのは残念だったが、大会はあさっての金曜日まで続くから、まだ交流の機会は残されている。おかげで資料も何とか作成できたので、後顧の憂いはなくなった。これで、この大会の後半のプログラムに、心おきなく参加できそうである。

そんなわけで、今日は大会参加から得られる収穫はなかったが、思わぬ形で、また別の収穫を得ることができた。それは、今日の朝日新聞(朝刊)の広告を手がかりに、最近発売されたばかりの『文藝春秋』十月号を購入し、そこに掲載された興味深い論説に出会えたことである。

その論説文は「漱石・ハイエク・江藤淳「こころ」の絆」と題されたものである。筆者は共同通信論説委員の会田弘継氏である。その内容を詳しく紹介することは著作権の侵害になりかねないので、ここではその触りしか紹介できないが、会田氏によると、ハイエクは漱石の小説『こころ』の英訳を読んだことがあり、それを読んで大変感動したというのである。

氏によると、その英訳者は、日本文学研究家でイェール大学名誉教授のエドウィン・マクレランであった。このマクレランは、かつてシカゴ大学で、ハイエクの指導のもと、漱石にかんする博士論文をまとめていたという。そのマクレランが英訳した漱石の『こころ』をハイエクに読んでもらったところ、ハイエクは、激しく感動したのだそうである。このエピソードを、会田氏はマクレランへのインタヴューにより知ったという。

そのマクレランはまた、ハイエクの晩年の主著『法と立法と自由』の英文草稿を手直しし、読みやすくする作業を行った人物でもあることを、会田氏は紹介していた。氏は「その〔ハイエクの草稿を手直ししたマクレランの〕名前と、英語世界における最高の漱石学者マクレランを結びつけているハイエク学徒は果たしているだろうか」と書いている。恥ずかしながら、ハイエク学徒の一人である私は、このことを全く知らなかった。なので、会田氏のこの論説に出会えたことは、まことに有難いことであった。

なお、氏はこの論説のなかで、ハイエクが漱石の『こころ』を読んで、なぜ激しく感動したのか、その原因についても解釈を施しているが、その解釈については、著作権の関係で、ここでは紹介しないことにする。興味のある読者は、実際に購入して読まれるとよいと思う。そこには、江藤淳とマクレランとの関係についても、詳しい紹介がある。

ちなみに、この論説に出会えたそもそものきっかけとなった今朝の朝日新聞であるが、これは、いま私が泊まっているホテルで、毎朝、宿泊客の部屋に届けられているものである。私が自宅で購読しているのは産経とヘラルド朝日だから、今朝、私が朝日新聞(の日本語版)を手にしたのは、このホテルに泊まっていたからこそであった。

もっとも、今朝の産経新聞にも、『文藝春秋』十月号の広告は載っていたのかもしれない。だが、その確認はしていないので、この点については何とも言えない。

いずれにせよ、その朝日新聞の広告を手がかりに、会田氏の論説文に出会えたことは、なかなか面白い収穫だった。明日からまた改めてモンペルラン東京大会に参加するにあたって、会話のよい材料になるかもしれない。

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2008年9月 8日 (月)

モンペルラン協会2008東京大会に参加(2)

昨日書いたように、この大会の第1セッションは、気候変動問題がテーマだった。そこでの論調は、私の予想通り、基本的に4年前と変わらなかった。その4年前の論調については、本ブログ2006年6月3日の記事に書いてある。

とくにそれが鮮明だったのは、チェコ大統領のクラウス氏による報告だった。"Current Global Warming Alarmism and the Mont Pelerin Society's Long Term Agenda" と題されたその報告で、クラウス氏は、IPCCを批判している。氏によれば、"environmentalism" あるいは "global warming alarmism" は、かつての社会主義的な統制手段の再来だというのである。それによって自由が脅かされることこそ、氏にとって、何よりも警戒すべきことなのであった。その問題意識をよく表現しているのが、今年出版された次の書物のタイトルである。Vaclav Klaus, Blue Planet in Green Shackles: What Is Engendered: Cimate or Freedom? (Competitive Enterprise Institute, 2008)

また氏は、いわゆる「予防原則」についても、厳しく批判している。この予防原則については、本ブログ2006年5月22日の記事に書いておいたが、クラウス氏に言わせれば、この予防原則は気候変動のリスクを過大評価しているのだという。

もっとも、他方で氏は、豊かになれば環境保護への志向も高まる、とも述べている。したがって、市場経済によって豊かさを実現すればよいのであって、強制的な措置をとる必要はない、ということになる。つまり、氏が信頼する環境保護対策は、あくまでも“自主的取り組み”だけなのだろう。その一方で、環境税や排出量取引といった経済的手段による温暖化防止策に対してさえ、氏は否定的であった(氏によれば、それは「市場」や「価格」という言葉の“濫用”に他ならないのだという)。

以上のような議論が出てくるのは、おそらく、環境保護を訴える主張が社会主義と結びつくことが多かったからにちがいない。だとすれば、クラウス氏がそれを極度に警戒するのも無理はないだろう。というのも、氏は旧ソ連の衛星国だったチェコスロバキアで、共産主義政権の圧制に耐えてきた経験を持つからである。それは本当に苦しい体験だったに違いない。

しかし、氏の言うように、気候変動のリスクがまったくの杞憂にすぎないのであればよいのだが、はたして本当にそうだろうか…? やはり私自身は、そのリスクを真剣に受け止めつつ、自由主義的な環境保護の可能性を追求してみたい気がする。少なくとも私には、環境税や排出量取引までも否定するほど、政府権力に対して極度の不信感を持つ気にはなれない。たとえ自由主義の立場に立つとしてもである。政府権力が濫用される可能性を警戒しつつ、それと同時に、政府権力をいかにすれば正しく活用できるかを考えるべきではないだろうか?

追記:ちなみに、同じ第1セッションの3人目のスピーカー(米ハーバード大のE. L. Glaeser教授)は、私の英語のヒアリングが間違っていなければ、必ずしも環境税を否定していなかったように思う。環境税がその報告の本題ではなかったため、口頭でのアドリブを聞きとるしかなかったのだが、おそらくそうだったと思う。

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2008年9月 7日 (日)

モンペルラン協会2008東京大会に参加

いま私は東京に来ている。モンペルラン協会2008年東京大会に参加するためである。

モンペルラン協会の大会に私が参加するのは、これが3回目である。1度目は2000年サンチアゴ大会(チリ)、2回目は2004年ソルトレークシティ大会(アメリカ)、そして今回の東京大会である。この協会の世界大会は2年に1度の開催であり、2002年はロンドン、2006年は確か南米グアテマラでの大会だったそうだが、私の参加は4年に1度ずつとなった。

今回の東京大会も興味深いテーマが目白押しなのだが、私が特に関心を抱いているのは、明日午前中の第1セッションである。というのも、テーマが気候変動問題だからである。具体的には次のテーマとなっている:

Global Warming, Environment and Free Market

現在のモンペルラン協会がこの問題に関してどのような見解を示すのか、ポイントを聞き逃すことなく、明日の第1セッションに集中して臨もうと思っている。

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