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2009年2月13日 (金)

出来たことを数えて前進する

やらなければいけない色々な仕事がたくさん重なってくると、「これもまだ出来ていない、あれもまだ出来ていない、それもまだ…」と考えてゲンナリすることがある。実際、以前までの私には、そんなことが、これまで度々あった。

しかし最近の私はそれをやめて、逆に、まずは「出来たことを数える」ことにした。具体的に言うと、日記に「今日出来たこと」を書いていくのである。そうすると、次の日をとても明るい気分で迎えることができるようになってきた。そんな毎日が、最近ずっと続いている。

それなら何故、以前の私はそれをしなかったのかというと、「まだ出来ていないことがたくさんあるのに、出来たことを数えて安心すると、能天気になってしまって、前に進む意欲が薄れてしまうのではないか」と心配していたからであった。言い換えれば、「まだ出来ていない」という一種の“危機感”がないと、怠けてしまうのではないか、ということである。

ところが、実際にまず「出来たこと」を日記に書くことを始めてみると、「前進を妨げるような“思い上がり”につながるのではないか…」という心配は全く無用だった。そうではなく、まったく逆に、むしろ「まだ出来ていないこと」も、「これまでに出来てきたこと」と同じように、「きっと出来ていくに違いない」という確信が生まれ、かえって前進する意欲がこんこんと湧いてくるのである。

たしかに、「これからしなければならないこと」は、「これまで出来てきたこと」とは違い、何かしら新しいことなので、今後為すべきことが、以前と完全に同じやり方で実現できるわけではない。新しいことへのチャレンジは、人生を生きていく以上、つねにつきまとう。

しかし、だからといって「まだ出来ていないこと」をあまりに心に強く印象づけてしまうと、「出来ていない」「まだ出来ていない…」という印象ばかりが心を占領してしまい、そうなると、「以前に達成できたはずのこと」までもが、なぜか心の外に追い出されてしまうのである。

たとえて言うなら、「すでに出来たこと」を白とし、「まだ出来ていないこと」を黒とすると、「まだ出来ていないこと」(=黒)をあまりに心に強く印象づけてしまうと、いつのまにか、その黒色で心が全部占められてしまい、同時にあるはずの心の白色=「すでに出来たこと」までもが、意識の外へ消えていってしまう。要するに心が「暗く」なってしまうのである。

このたとえで言うなら、心のなかには「黒」と「白」が同時に併存していてもよさそうなものである。にもかかわらず、なぜか心は「黒」一色に染められてしまう。「黒」と「白」という相反するものを同時に心で認めることは、心理的に言って、非常に難しい。そこで、いつのまにか、黒一色で心を染め上げてしまうのである。

ところが、全く逆に、心のなかの「白」=「すでに出来たこと」をまず認めることにすると、不思議なことに、その「白色」が、今度は、それまで「黒色」と感じられた領域の方にも染み出していって、「まだ出来ていない」とばかり思っていた思い=黒色だったはずのものが、いつのまにか「いずれ出来ていくこと」という、いわば「ほんのりとした白色」に変わってしまい、心は白色ばかりになってしまうのである。

より正確に言うと、その白色は、完全な白色(=すでに出来たこと)と、ほんのりとした白色(=これから出来ていくこと)とがあって、その二つの白色がグラデーションになっている感じである。

こう言うと何か非常に複雑な感じがするが、とどのつまりは、要するに、心が「明るく」なるのである。さっきとは逆に、心が今度は白一色に染め上がることになる。白と同時に黒も存在すると認めることが、心理的には、なぜか気持ち悪い。心理的には、むしろ、どうしても、どちらか一方にしたくなるのである。だとするならば、同じ一色に染めるのなら、白い方に、明るい方に染め上げた方が、元気が出るというものではないだろうか。

そんなわけで、最近の私は、「出来たことを数えて前進する」ようになった。心の健康に非常に効果的なので、やってみる価値は大いにあると思う。

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2009年2月10日 (火)

ただいま監訳中

春休みに入り、多少なりともまとまった時間を、ハイエクの監訳にも割くことができるようになってきた。その監訳作業を進めていく中で、改めて強く認識させられているのが、「英語は名詞中心、日本語は動詞中心」ということである。

この「英語は名詞中心、日本語は動詞中心」というのは、安西徹雄『英語の発想』(ちくま学芸文庫)で解説されていることである。たとえば、その62頁にはこんな例文が挙げられている:

A slight slip of the doctor's hand would have meant instant death for the patient.

日本語であれば「医者の手がほんのわずかに滑る」と動詞を使って言うところを、英語では A slight slip of the doctor's hand という名詞句にまとめてしまう。同様に、「患者はすぐに死ぬ」は instant death for the patient となる。

したがって、翻訳においては、名詞構文→動詞構文という転換が必要となるのである。これと同じことが、江川泰一郎『英文法解説 改訂三版』(金子書房)36頁では、「名詞構文の名詞はその周辺の語句も含めて、実質的には1つの文に相当する」と説明されている。

この「名詞構文の名詞はその周辺の語句も含めて、実質的には1つの文に相当する」という原則が、まさにハイエクの文章にも当てはまるのである。非常に多くの文章にそれが言えるのだが、今日、特にそれを痛感させられた--したがって翻訳にも大変苦心した--のが、次の文章だった:

An economy in the strict sense of the word......is indeed an organization or a deliberate arrangement of a given stock of resources in the service of a unitary order of purposes.
(Hayek, "Studies in Philosophy, Politics and Economics", p. 164)

この文章で「名詞→動詞」という転換が必要だとすぐに分かるのは、organization と arrangementである。ここはそれぞれ、organize, arrangeという動詞に転換して訳すことになるが、この転換にはそんなに苦労しなかった。

この文章で大問題だったのが、末尾の a unitary order of purposes である。もともとの下訳でどう訳されていたかは、ここには書かないことにするが、これは大変難しかった。要するに、ハイエクがここに込めた意味を損なうことなく、しかも自然な日本語に表現することが大変難しかったのである。

しかしながら、おそらく間違いないと私に思われたのは、この order についても「名詞→動詞」の転換が必要なことであった。また、途中でいったん切ることや、適当な言葉を補うことも必要だと思われた。

こうして苦心した結果、結局この文章に対して私がつけるに至った訳文は、次のとおりである:

厳密な意味での経済は、蓄積された一定の資源を意図的に配置し、編成していく営みに他ならない。さまざまな目的をある単一の優先順位に沿って序列化しておき、その序列にしたがって目的を実現していくために、資源を意図的に配置し、編成していくのである。

もちろんこの訳文は仮のものであり、出版段階で最終的にどのような訳文に落ち着いているかはまだ全く分からないが、いずれにせよ確かなことは、安西徹雄氏による“英語の発想”の解説が、私にとって、非常に大きな拠り所となっていることである。これからもそれに依拠しつつ、監訳作業を進めていくことにしたい。

【追記】書き忘れていたが、翻訳していく上でもうひとつ重要な原則は、安西氏によると、「すぐれた翻訳は原文よりも長くなければならない」という原則である。すなわち「訳文が原文より長くなることは気にしなくてもよい、むしろそれが当然であり、必要でさえある」というのである(安西徹雄『英文翻訳術』108-109頁)。私の上記の訳文が--すぐれた翻訳であるかどうかはともかくとして--原文よりも長くなっているのは、その原則に従ったためであることを、ここに書き添えておくことにする。(2009/02/10 12:56記)

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2009年2月 9日 (月)

経済危機で注目を集める古典思想

2月7日の朝日新聞朝刊の文化面で、「世界不況の経済学 古典の思想家再注目」という特集記事が組まれていた。その記事によると、「100年に1度ともいわれる世界的な経済危機。打開のヒントを、遠ざけられがちだった古典に求める機運が高まっている」という。

その注目を集める古典思想家の中に、ハイエクもあげられおり、『ハイエク全集第Ⅱ期』(春秋社)の刊行が今年1月より開始されたことにも、その記事で言及されていた。

私の監訳担当は「政治学論集」なので、経済に直接かかわるものではない。しかしながら、冷戦期とは異なり、ハイエク思想の多面的な姿にも注目される機運がどうやら高まりつつあるようなので、その意味では、この「政治学論集」にも関心が持たれるかもしれない。監訳者としての責任が重大であることを、今回の朝日の記事で、再認識した次第である。

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2009年2月 8日 (日)

“不惑”の年を迎えて

昨日の2月7日、私は40歳の誕生日を迎えた。いわゆる“不惑”の年である。

言うまでもなく、この“不惑”という呼称の由来は、孔子の『論語』である。孔子が七十を越えたころ、自分の生涯を振り返って述べたものであり、あまりにも有名な文章だが、その書き下し文をここにも引用しておこう。なお(  )内は読みがなであるが、読みにくいと思われる読者もいるかもしれないと私が判断した箇所にのみ付けたものである:

子(し)曰(いわ)く、吾(われ)、十有五(じゅうゆうご)にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳(みみ)順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず〈為政篇四〉。

有名な中国古典研究者の加地伸行氏が、その著『論語 ビギナーズクラシックス』(角川文庫)で孔子の生涯を平易に解説してくれているが--上記の書き下し文もこの本の25-26頁に掲載されているのを引用したものであり、そこには加地氏による現代日本語訳も書かれている--それによると、孔子の三十代、四十代は実は不遇の時代だったのだという。しかし、その間に実力を蓄えていき、「四十にして惑わず」と言い切るだけの自信を持つに至ったというのである。

翻って、私自身の人生を振り返ってみると、私も十五歳前後に「学に志した」と言えるかもしれない。中学2年生の1学期までの私は、実はあまり成績のよくない生徒だった。ところがその2学期以降、高校受験が近づいてくるにあたって、「自分は勉強で身を立てていこう!」と一大決心し、はじめて本気で勉強に励むようになったからである。

次に「三十にして立つ」を自分の歩みになぞらえてみるならば、私が大学の専任講師としての職を得たのが平成10年の4月、29歳の時だったので、これが私の「三十にして立つ」に当たると言えるかもしれない。爾来(じらい)、30代としての10年間を過ごした後、今こうして40歳を迎えたということになる。

とはいえ、孔子が「四十にして惑わず」と言い切った時に持っていたであろうような自信に、今の私が充ち溢れているかどうかは、正直なところ、自分ではよく分からない。そもそも、孔子がそう言ったとき、そこにどのような意味を込めていたのか、その本当の意味を今の私が分かっているかどうかも、はなはだ怪しいものである。というのも、その有名な文章が『論語』中の一節だということは常識として知ってはいたものの、それがその中の〈為政篇〉の一節だったということは、恥ずかしながら、全く知らなかったからである。

『論語』という書物は、実は佐々木毅『政治学の名著30』(ちくま新書)のなかでも取り上げられている1冊である。すなわち、それはまさに“政治”について論じた書物でもあったのである。もちろんそこで説かれていたのは、一言で言ってしまえば“徳治”の重要性であるが、この孔子の思想について、今の私は、まだ全くといっていいほど何も知らないのである。

そんな私でさえ、四十を迎えるにあたり、この孔子の論語の一節を思い浮かべずにはいられなかったのであるから、それだけ論語の思想は日本にも多大な影響を及ぼしているということなのだろう。これを機会に、日本人の一人として、時々は孔子の思想に思いを馳せてみるのもよいかもしれないと思った次第である。

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2009年2月 5日 (木)

【重要】基礎演習Ⅱe レポート作成上の注意点:脚注をつけること!!

基礎演習Ⅱe 受講生の皆さんへ

明日2月6日締切のレポート答案が、今日までにいくつか提出されてきましたが、授業で強調していたつもりの注意点が、まだ徹底されていなかったようです。これが徹底されていないと、“盗作”とみなされて、不合格答案となってしまいます。

なので、この場で急いで、再び注意を促しておきます。

それは、脚注で参考文献(あるいは参考資料)の出典を明記する、ということです。

これがされていないと、参考文献・資料からの“無断転用”となってしまいます。つまり“盗作”です。これだと、不合格とせざるを得なくなります。

ですので、自分のオリジナルの文章ではなく、他の参考文献・資料に依拠した文章の場合は、その該当箇所に注番号をつけ、必ずそこに出典を明記して下さい

その脚注の付け方については、授業でも配りましたが、私が授業で行った報告例で用いたレジュメをこの場にも貼り付けておきます。

「sample.doc」をダウンロード

なお、本ブログでの元々の出題文のリンクも、念のために貼り付けておきます。

基礎演習Ⅱe H20年度 レポート課題

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