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2010年3月15日 (月)

ドラッカー『経済人の終わり』を読む

先週末で充電を完了し、再び動き始めた。授業の準備もさることながら、研究の面でも2本の論文を書く仕事があり、そのうちの1本は4月23日締切なので、その執筆に向けた準備を、先週末から急ピッチで進めていくことにしたのである(もう1本の論文は、6月下旬締切)。

その準備に必要と考え、昨日から改めて読み直し始めたのが、P・F・ドラッカー『経済人の終わり-全体主義はなぜ生まれたか』(上田惇夫訳、ダイアモンド社)である。言うまでもなく、ドラッカーは経営学の世界で非常に有名だが、この書は経営学の分野にはおそらく当てはまらないので、もしかすると、彼の他の本ほどには、この本は読まれていないかもしれない。

私がこの書に関心を抱くようになったのは、ハイエク『隷属への道』(春秋社)に、この『経済人の終わり』を意識して書かれたという一面が、実はあったからである(その詳細はここでは省略する)。

この『経済人の終わり』で私の興味を惹くのは、ドラッカーがこの書で、経済的自由の厳しさを明確に指摘していることである(第2章)。ドラッカーによると、資本主義が、それ以前の身分的安定の放棄を迫るものであったにもかかわらず、信条として広く受け入れられたのは、それが「自由と平等を実現する」と約束したからであった。

ところが、実際には資本主義は(そしてマルクス主義も)その「自由と平等をもたらす」という約束を裏切るものであった。そのため、大衆が絶望の淵に追い込まれ、その絶望の末に信じられるにいたったのがファシズムだった--ごくごく大まかに言えば、これが『経済人の終わり』の論旨である。

このドラッカーの論旨は、ハイエクが『隷属への道』第14章で“経済恐怖症”economophobia--春秋社の邦訳書では「経済嫌い」と訳されているが--と呼んでいる現象と、本質的には同じだと言える(ただし、“経済人の終わり”というテーゼをめぐる評価は、ドラッカーとハイエクとでは重大な差異があったのだが、それについては『隷属への道』第14章を参照されたい)。ついでながら、こうした平等と不平等をめぐる問題は、宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社)においても、的確に論じられている。

いずれにせよ、現代日本が直面しているのは、まさに、この「経済的自由の厳しさにどう向き合うのか」という問題だと言えるだろう。自由と平等をめぐる問題だと言ってもよい。

戦後日本は、長らくGDPの増大を国家目標としてきた。その実現を可能にしてきたのは、言うまでもなく、重厚長大型の産業構造と、護送船団方式と呼ばれてきた経済政策である。そのもとで、日本国民は収入の継続的な増大を期待できた。人生の将来像が描きやすい時代を、20世紀後半の日本国民は生きてきたのである。

しかしながら、山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房)など、実に多くの論者がすでに指摘してきているように、また現在の経済状況がまさに物語っているように、グローバリゼーションと脱工業化が進む現代においては、GDPの増大による国民の継続的な収入増加を実現することは、もはや不可能である。要するに、現代は、まさに経済的自由の厳しさにまともに直面せざるを得ない世界となっているのである。

そうした時代にあっては、GDPの成長による物質的欲望の満足を経済政策の第一義的な目標とすることは、もはや出来ないと言うべきだろう。“経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン”が必要とされている所以がここにある。

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