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2011年7月 4日 (月)

IVR日本支部2011名古屋セミナーでの議論

本欄6月2日の記事でも述べたように、本日、名古屋の中京大学で、英オックスフォード大学のD・ミラー教授を招いてのIVR2011名古屋セミナーが開かれ、私はパネリストの一人として参加した。いま宿泊先の名古屋市内のホテルでこの文章を書いている。

あらかじめ提出していたコメントペーパーに、私がハイエクとの比較の観点から挙げておいた論点の一つは本欄6月2日の記事にも書いたとおりだったが、もうひとつ、今回のコメントで提示してみたのは、市場社会主義の基盤としてのナショナリティが、B・アンダーソンのいう「想像の共同体」であり、いわば想像上のフィクションにすぎないとしても、学者や知識人のみならず、一般民衆の間においても、依然として強固に信じられ続けることが可能か--という論点だった。

それに対するミラー教授の応答の要点は、「ナショナリティについての学者による批判的な吟味と一般民衆のナショナリティへの強い信念というのは共存しうる」ということ、および「民主的な国では、ナショナリティ理解が批判的に吟味されることが、全体主義に陥らないためには必要不可欠であり、それは一般民衆におけるナショナリティへの信念と両立しうる」というものだった。ナショナリティに神話的要素が不可避的に含まれるとしても、ナショナリティへの信念が完全に虚構であることを意味するわけではなく、現実に一般民衆の間で強固な連帯精神を形成し維持しうるのだ--というのがミラー教授の主張であった。

もうひとつ、私がコメントペーパーで投げかけてみたのは、ミラー教授の議論とイギリス理想主義British Idealismとの関係は如何--という論点だった。その際に私が引き合いに出していたのは、David Boucher というイギリス理想主義研究者が、Social Justice: From Hume to Walzer(邦訳『社会正義論の系譜:ヒュームからウォルツァーまで』ナカニシヤ出版)という書物の中で、ミラー教授のナショナリティ論を「形而上学なきイギリス理想主義〔前掲邦訳中の訳語では「イギリス観念論」〕の立場」と表現していたことであった。

ところが、ミラー教授はご自分の立場がそのように位置づけられていたことをご存じなかったようだ。また、ミラー教授としては、形而上学を伴った元来のイギリス理想主義にさほど大きな興味をお持ちでもないことが、ディスカッションに入る前のティーブレイク中に教授と交わした会話の中で明らかになった。

なので、その点については教授もディスカッションの時間には触れられなかったし、私としてもその点に触れることは控えることにした。私自身、イギリス理想主義については勉強を始めたばかりであり、深く議論する用意もなかったからである。とはいえ、ミラー教授が形而上学に対してかなり懐疑的であることが確認できたのは、私としては一定の収穫だったと思っている。

ところで、私自身の今後の研究関心は、T・H・グリーンやホブハウスといったイギリス理想主義あるいはニューリベラリズムの方に実は向かいつつある。ハイエク研究との関連では、萬田悦生『文明社会の政治原理:F・A・ハイエクの政治思想』(慶応義塾大学出版会)で、ハイエクとグリーンを比較して論ずるという大変ユニークな視点が2008年にすでに提示されていることもあるので、私としても、これを機に、イギリス理想主義の政治思想を本格的に研究してみたいと思っている。

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