2010年9月 1日 (水)

豊永郁子「小沢一郎論」を読む

現在、大阪市立大学法学部で政治学の集中講義を行なっているところだが、その大阪市大の図書館で、『新保守主義の作用』や『サッチャリズムの世紀 新版』(いずれも勁草書房)の著書で有名な、豊永郁子・早稲田大学教授(比較政治学)の書かれた「小沢一郎論--前衛主義と責任倫理のあいだ」という論文が、『世界』(岩波書店)の2010年7月号と8月号とに分けて掲載されているのを見つけたので、図書館内でそのコピーをとり、複写申込書を図書館のカウンターに提出した後、帰りの電車の中でそれを読んだところ、小沢一郎という政治家がいかなる思想の持ち主なのかが非常によく分かった。

その論文で豊永教授は、昨秋放映されたNHKスペシャル「証言ドキュメント--永田町・権力の興亡1993-2009」(書籍化されたものが2010年3月に刊行)、および小沢一郎氏の著書『日本改造計画』(講談社、1993年)にもとづき、小沢氏の思想について、鋭利な分析を加えている。

その論旨をこの場であまりに詳しく紹介することは(著作権の侵害になる恐れがあるので)差し控えたいが、「やはりそうだったのか…」と首肯させられたのは、小沢氏が「目的のためならどんな手段をとることも辞さない」という思想の持ち主だということであった。

しかしながら、この豊永論文を読んで初めて分かったことは、そして背筋の凍る思いをさせられたのは、その小沢氏の論理が、かつての共産主義革命の下で少数の前衛集団による権力の独占が正当化された論理と非常によく似ている、と指摘されていることであった。

もちろん小沢氏は共産主義者ではない。しかしながら、その小沢氏の言動においては、かつての共産主義革命における方法論としての前衛主義と同様に、「真の民主主義」を実現するための手段として権力闘争が位置づけられており、さらに権力をひとところに集中させ、権力を排他的に掌握する主体を創造しようという指向が認められる。「真の民主主義」の実現過程において必要とあらば、非民主主義の道を行き、ときには反社会的な手段に訴えかけることも“前衛”の使命であり特権なのであって、大目標の実現過程では多くのことが免罪されるし、免罪されなければならない--このように信じる姿勢が、小沢氏の言動から窺えるというのである……!(『世界』2010年7月号、63-64頁)

たしかに小沢氏は、権力をそれ自体のために追求する政治家ではない。つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために権力を追求する政治家ではない。この点では小沢氏はウェーバーの批判を免れている。

しかしながらそのウェーバーが、その実、最も警戒していたのは、目的意識にあふれた心情倫理家がどのような手段をも厭わなくなることであり、しかもその手段が思わぬ結果を惹き起こしかねないことへの配慮を全く欠いてしまうこと(すなわち責任倫理を欠いてしまうこと)であった。そして小沢氏の前衛主義にはそうした危険性が大いに潜んでおり、それはウェーバーの力説した責任倫理とは大いに隔たっているのだが、そうしたウェーバーの真意が全く誤解されてしまっているというのである(『世界』2010年8月号231-232頁)。

その他、この豊永論文で論じられているのは、主に以下の諸点である:

○小沢氏は個人の自立と自己責任を訴えた1990年代の主張を後に撤回したという見方がこれまで一般的であったが、上記のNHKの番組で最後に小沢氏が日本人の自立心への思いを熱く語っていたことから分かるように、実はその自立論が今もなお健在であったということ

○ところがその自立論において前提とされている自由概念は、自由主義の父ジョン・ロックが唱えたそれとは実は全く異なるものであり、市民社会以前の自然状態における弱肉強食主義の相貌を備えていること

関心を持たれた読者には、この豊永論文を読まれることを強くお勧めしておきたい。ちなみに、豊永教授の『サッチャリズムの世紀』はサントリー学芸賞を受賞した著作であることも、ここで申し添えておく。

【引用文献】
豊永郁子「小沢一郎論(上)--前衛主義と責任倫理のあいだ」『世界』2010年7月号、58-72頁。
  同 「小沢一郎論(下)--前衛主義と責任倫理のあいだ」『世界』2010年8月号、222-239頁。

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2010年8月26日 (木)

民主党における「もう一つの政府・与党二元体制」

民主党の小沢一郎前幹事長が本日午前、党代表選への出馬を表明したという。その出馬表明を受けて、民主党内で多数派工作が激化する見通しであることを、日本経済新聞が伝えている(2010/8/26 15:35 日本経済新聞 電子版)。同じく日経新聞電子版によると、小沢氏は出馬理由について「挙党態勢を首相に求めてきたが、全く受け入れられなかったので出馬することを決めた」と支持グループの議員に説明したという(2010/8/26 12:05)。

こうした民主党内の分裂状態と、その結果としての激しい権力闘争の様子を伝える報道に接すると、私は「やはり民主党は、まだ統合的意志の担い手とはなりえていないのだな…」と慨嘆せざるをえなかった。

この関連で想起されたのは、このままでは民主党は内閣と与党とを切り離す「もう一つの二元体制」をつくり出すことになりかねない--という野田昌吾・大阪市立大学教授の指摘である(ちなみに「政府・与党二元体制」の説明については、本ブログ2010年5月12日の欄を参照)。

野田教授は、山口二郎編『民主党政権は何をなすべきか:政治学からの提言』(岩波書店、2010年1月28日刊)に、「「政策決定の一元化」を超えて--新しい政党政治の確立のために」と題された論文を寄せておられるが、そのなかで野田教授は、昨年8月の衆院選による政権交代以降、民主党が推し進めてきた「政策決定の内閣への一元化」にひそむ問題点を鋭く指摘している。

その問題点とは何かというと、そこでは依然として、「政党とは所詮は個別利害の代表の寄せ集めである」という前提が、自民党政治の時代に引き続いて、相も変わらず維持されてしまっているということである。

たしかに民主党は、自民党政権時代の「政府・与党二元体制」の弊害を克服しようとして、「政策決定の内閣への一元化」を打ち出した。しかし、それは、次の①ではなく、実は②の考え方に基づくものだったのである〔ここでの①②という番号は、説明の便宜上、山中が付したものである〕。

①党政調会長の内閣入りなどによって、政府・内閣との有機的連結を図ろうとする考え方。

②「政党とは所詮は個別利害の代表の集まりである」という自民党政権時代の政党観をそのまま引き継いだうえで、「そのような政党を政策決定過程に関与させてしまうと政治的統合を危うくするだけである」として、政策決定を政府・内閣に「一元化」し、政権与党たる民主党を政策決定過程から切り離すという考え方。

ちなみに野田教授によると、①が先の衆院総選挙前に当時の菅代表代行が示していたものであったのに対して、②は小沢氏の考え方であるという。そして、ドイツ政治を専門とする野田教授は、②の考え方では党の弱体化がもたらされる恐れがあることを、現代ドイツの社会民主党の例を引きつつ指摘している。

この野田教授の指摘は大変鋭いものだと私は思う。要するに、自民党も民主党も、自らを統合的意志の担い手として脱皮させようとしていないという点では、全く同じだというわけである。

しかしながら、そんなことでは、政党政治そのものの未来が決して開けてこないと言わざるを得ない。私の考えるところでは、民主党であれ、自民党であれ、政治的統合の担い手たる存在へと自らを鍛え上げる努力が絶対に必要なのである。

もちろん、そのためには、まず党内で議論を深めることが大切なのは言うまでもない(真の政治的統合とは、議論を経ない強引なものでは決してない)。そのうえで、そうした議論を経たのちは、党としての方針を一致させ、統合的意志の担い手とならなければならないのである。

にもかかわず、もしも現在の民主党も自民党も、政治的価値観をかなり異にしているはずの議員の寄せ集めにすぎないにもかかわらず、「寄らば大樹の陰」とばかりに目先の政権の座を追い求めているために、思い切った政界再編へと踏み出す勇気を持つことができず、その結果として、新たな政治的対立軸を有権者に対して明確に示せないままに終わるのだとすれば、そんなことでは、政党政治の未来そのものが閉ざされてしまう--と私は強く憂慮するのである。

ちなみに、野田教授によると、小沢氏の政治手法は、党内の多様な声を汲み取る組織運営を心掛けるというよりも、権力の維持や確保のための戦略がまずありきで、与党をそうした戦略の手段とみなすものである。しかも、その戦略は自らを中心とする党上層部で一方的に決めるのだという。

しかしながら、そのようなきわめて強引な政治手法では、野田教授も指摘しているように、かつての自民党とは異なる「新しい政党のかたち」を開くことによって、党内での議論を踏まえたうえでの、真の政治的統合を実現することは、決してできないだろう。そんな強引な手法を「実行力がある」という表現で肯定することは、とても危険なことだと私は思う。

【参考文献】
野田昌吾「「政策決定の一元化」を超えて--新しい政党政治の確立のために」、山口二郎編『民主党政権は何をなすべきか:政治学からの提言』(岩波書店、2010年1月28日刊)54-70頁。

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2010年8月 4日 (水)

授業での質問に答えて(2):菅首相の消費増税発言をめぐって

前回に引き続き、消費税の増税への賛否について、学生から寄せられた質問に答えることにしよう。今回は、「菅首相からの提案の仕方には問題があった」という点について、説明を加えていくことにする。その説明にあたっては、参院選後に出された『週刊ダイヤモンド』2010年7月24日号(pp. 102-111)の、田中秀征、藤原帰一、片山善博、グレン・S・フクシマの四氏による討論を参考にしたい。その討論で四氏が揃って指摘していたのは、今回の菅首相による消費税率10%への言及の仕方が、いかにも唐突で稚拙だったということである。

フクシマ氏は「消費増税は財政再建のうえで避けられない非常に重要な政策だが、選挙の直前に表明したのは賢明ではなかった」と述べている。にもかかわらず、なぜ菅首相はあえて選挙直前にわざわざ消費税の増税を打ち出したのか。田中氏によると、「菅氏は消費税率を上げると選挙に勝てると思った節がある」というのである。「確かに世論調査をすれば増税の必要性を認める結果が出る。だが、それはあくまでも将来の安定した年金制度や医療制度のためであって、そのためにも早くムダをなくせというのが世論だ。〔中略〕菅氏はそれを完全に読み誤っただけではなく、議論なしで唐突にやってしまった」と田中氏は述べている。

片山氏によると、菅首相が議論なしに唐突に消費増税を持ち出した要因として、来たる6月26-27日にカナダで開かれることになっていたG20首脳会合で、ギリシャ問題を受けて、財政再建が主要論点になることがあらかじめ明らかだったことを指摘している。そのG20首脳会合に臨むにあたって、「手ぶらで行くのはそこで国際舞台にデビューする菅氏にとっては耐えがたいことだ。なにかしらの材料が要るということで、G20の事前準備を進める段階で、〔かねてより増税による財政再建を必要と考えていた財務官僚の口から〕首相の耳にさりげなく入れられるわけだ」と片山氏は述べている。菅内閣の人気が高いから大丈夫と考えた財務官僚たちが、増税を首相に植え付けたというわけである。

つまり片山氏は、菅首相の背後に財務省の意向が潜んでいたと睨んでいるわけだが、氏がそう推測している原因の一つは、首相が「プライマリーバランスを20年までに黒字にする」と発言していたことである。「プライマリーバランス」という言葉は財務省の業界用語で、国民にはわかりにくいのもかかわらず、国民にきちっと説明しなければいけない人が業界用語をそのまま持ち出したところに、もう背後関係が透けて見えるというのである。

もっとも、藤原氏は「首相の消費増税発言は財務省に操られていただけだ」という片山氏の推測には異論を唱えているが、その藤原氏も、首相の消費増税発言はG20を睨んでのことだった--ということについては、片山氏に同意している。要するに菅首相は、財務省に背後で操られていたかどうかはともかくとして、いずれにせよG20を見据えて、党内での議論を経ることなく唐突に消費増税を持ち出したのであり、そこには、そうした方が参院選に勝てるという政略があった--ということなのである。

しかしながら、日本政府の財政再建問題は、目前の選挙に勝てるかどうかという問題に矮小化されてしまうには、あまりにも重大な問題である。それを有権者も分かっていて、菅政権にお灸をすえた--というのが、今回の参院選の結果だったのではないかと私は思う。

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2010年8月 3日 (火)

授業での質問に答えて(1):消費税の増税をめぐって

前回の記事から2ヶ月以上もあいてしまったが、夏休みに入り、ようやくひと息ついたところである。

さて、伊勢学舎での政治学入門の授業で、7月12日と19日に、聴講券の裏面に書かれるという形で質問が計二つ寄せられていたのだが、授業中には答える時間的余裕を持つことができなかったので、このブログ上で答えさせてもらうことにしたい。今日はまず、7月12日に寄せられた質問に答えよう。

【質問要旨】自分は、今回の参議院選挙で注目されていた消費税増税には反対だったが、先生は賛成だったか、反対だったか?〔実際には「ですます調」で質問が書かれていたが、本欄では「である調」で統一して表記する〕

【回答要旨】消費税増税それ自体は必要だと以前から考えていたが、今回の菅首相からの提案の仕方には問題があった。
 菅首相は、選挙前にあえて増税を打ち出すことで、却って選挙に勝てると思っていたフシがあるが(だからこそ選挙期間中に首相の発言は世論の反応を受けて揺らいでしまった)、財政再建という課題は、単なる選挙対策にとどまらない最重要課題である。

今回は、この回答要旨の前半部分、すなわち消費税の増税自体は必要だと考える理由について、もう少し説明を加えることにして、後半部分については稿を改めて説明を続けることにしたい。

さて、消費税の増税自体は必要だと私が考える理由は、日本政府の財政赤字が相当深刻であり、財政再建はもはや待ったなしの状況だと思われるからである。『週刊ダイヤモンド』2010年7月10日号で消費税の特集記事が組まれていたが、その35頁で指摘されているように、日本政府の2008年度の総債務残高は846兆円である。これは同年のGDP比でなんと171%(!)であり、ギリシャを上回る世界最悪水準である(*)。

(*)なお、政府の債務残高を論じる場合、「総債務残高(グロス債務残高)」で見るか、それとも、そこから政府の持つ金融資産を差し引いた「純債務残高(ネット債務残高)」で見るかが専門的には問題となるが、本欄で論じる余裕はないので、詳しくは『週刊ダイヤモンド』2010年7月10日号の34-36頁を参照されたい。

にもかかわらず、2010年度の一般会計予算では、歳入総額92.3兆円のうち、国債発行額は44.3兆円とされており、その国債発行額は歳入総額の実に48%を占めるに至っているのである。ギリシャとは違って、日本の国債の多くが海外投資家ではなく国内の金融機関によって支えられているためにまだ安心だと言われているとはいえ、こうした赤字体質をこれ以上放置しておくわけには、やはりいかないだろう。そのためには、やはり消費税の増税を含めた税制全体の抜本的な改革が必要だと私は思う。

なお、今回の参議院選挙で議席を伸ばしたみんなの党は、「名目4%の経済成長が続けば5~10年で基礎的財政収支(プライマリーバランス)が改善するので、消費税増税は必要ない」と主張しているが〔『週刊ダイヤモンド』2010年7月10日号の28頁を参照〕、物質的にこれだけ成熟・飽和した日本経済が名目4%の経済成長を続けていけるとは、私にはとても思えない。

たしかに歳出の無駄を削ることは重要だが、おそらくそれだけでは不十分だろう。失業対策のための職業訓練や、人材育成のための教育にもっと力を入れていくべきであるとするならば、そのための増税はやはり不可避であると私は思う。

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2010年5月12日 (水)

「政府・与党二元体制」いまだ克服されず

現在の民主党政権を見ていると、長らく自民党政治の特徴とみなされてきた「政府・与党二元体制」が、いまだに払拭されていないと言わざるをえない。

この「政府・与党二元体制」というのは、政治学者の飯尾潤氏によるものである。議会選挙と大統領選挙が全く別の「二元代表制」たる大統領制とは異なって、議院内閣制は議会選挙で勝った政党が行政部のトップである内閣も構成できるという「一元代表制」だから、選挙で勝った政党は、本来なら「政権党」と呼ばれるべきである。それなのに、それが政府とは区別された「与党」と呼ばれてきたところに、日本の議院内閣制の特殊性があったのである(したがって、「与党」という日本語のもっているニュアンスは、英語には訳しきれないということになる)。

それでは、なぜ「与党」は政府とは区別される存在だったのか。それは、簡単に言うと、政府=内閣が公共利益を推進すべき立場にあるのに対して、与党はむしろ個別利益を保護するために活動していたからである。そして、公共の利益の推進がある業界団体=圧力団体の個別利益にとって不都合な場合には、与党の「族議員」が内閣を牽制し、その政策から首尾一貫性を失わせてきたのであった。

そうした弊害を打破すべく登場してきたはずの民主党政権だと思っていたが、日本経済新聞で最近連載され始めた「軽すぎた約束:袋小路の政権公約」などを読んでみると、どうやらそれはちがっていたようである。

しかし、その弊害が克服されない限り、日本政治の混迷はこれからも続くことになるだろう。目の前の選挙に勝って権力にしがみつくことだけを考えて、あるいは権力を奪取することのみを考えて、候補者選びにおいてもスポーツ界等で有名だからという理由を最優先しているようなら、そのような政党政治に未来はないのである。

【参考文献】飯尾潤『日本の統治構造:官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書、2007年)

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