2013年6月 2日 (日)

映画ゼロ・ダーク・サーティを観る

今日、伊勢市内の進富座(しんとみざ)という映画館で、ゼロ・ダーク・サーティというアメリカ映画を観た。米国によるビンラディン殺害の実話に基づいて作られたもので、「ゼロ・ダーク・サーティ」とは、ビンラディン(暗号名:ジェロニモ)殺害に至った作戦の決行時間、深夜0:30を指す軍事用語である。

ビンラディン発見につながる重要情報を吐かせるため、捕虜に対して拷問を加えるシーンからこの映画は始まるが、その拷問シーンは、今ちょうど読み始めた本の第1章でもまさに取り上げられていたものだったので、そのシーンはリアリティを大いに感じさせるものだった。ちなみに、ちょうど読み始めた本というのは、ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン:惨状便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店、2011年)である。

ビンラディンを追い詰めたのは、C.I.A.の若き女性エリート情報分析官だったのだという。彼女の非常に高い情報分析能力と、狂気と紙一重の執念とによって、アメリカは遂にビンラディン殺害を成功させる。それは、たしかに一方で、「殺す者は殺される」という人生上の法則とでもいうべきものの実証例なのだろうと思う。

しかし他方で、パキスタンに潜んでいたビンラディンを殺したからといって、パキスタンに不法侵入して、裁判にもかけずに9.11の首謀者を成功裡に射殺できたからといって、それじゃあ、テロ問題は解決したかと言えば、それは間違いなく「否!」と言わざるを得ないだろう。

先のボストンマラソン爆弾テロ事件が示しているように、いま問題になっているのは、米国内でのhome-grown terroristsの存在である。テロリストを、裁判を受ける権利を持った人間とみなさず、ただちに殺害してもよい「敵性戦闘員」とみなしてその根絶を図ったところで、そこで展開するのは、「憎しみは憎しみを呼ぶ」という悪循環だけだろうと思うのである。

この映画は、アメリカの対テロ対策にまつわるそのような問題点を鋭く突くものであることは間違いないと思う。もしも、ビンラディン殺害を手放しで賞賛することを狙ったものであれば、あのような意味深長なラストシーンにするはずがないからである(これから観ようと思われている読者のために、それがどのようなシーンだったかはここには書かないことにする)。

ビンラディンを有無を言わさず、半ば独善的に殺すのもアメリカなら、その問題点を鋭く抉る映画を作るのもアメリカである。そこに、アメリカという国の懐の深さがあるように思った次第である。

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2011年3月 9日 (水)

日経新聞「やさしい経済学」で「人生と幸福度の経済分析」連載開始

昨日から日本経済新聞朝刊の「やさしい経済学」の欄で、「人生と幸福度の経済分析」と題した連載記事が始まった。筆者は青山学院大学教授の亀坂安紀子氏である(専門は行動ファイナンス、行動経済学)。

やはりここでも、話の始まりは、戦後日本における国民の幸福度がGDPの伸びとは比例していないという事実である。このことについては、『成長なき時代の「国家」を構想する』(ナカニシヤ出版)でも出発点とした事実であった。すなわち、1人当たりの実質GDPが増えたとしても、その国の人々の生活満足度や幸福度は上昇しない、という事実である。

そこで経済学の世界で最近、幸福の経済分析が新たに注目されるようになってきている。その顕著な一例は、仏サルコジ大統領の要請により、スティグリッツ米コロンビア大学教授やセン米ハーバード大学教授が2009年にまとめた報告書である。

しかし、亀坂氏によると、その報告書では人々の「主観的幸福度」を測る指標をつくることが重要であることや、人々の幸福度に影響を与える客観性の高い条件について考慮すべきことが謳われているものの、それでは実際にどのように「主観的幸福度」を測り、客観性の高い条件についてどのように考慮すればよいかについては、具体的には記されていないのだという。おそらく専門的には、クリアーしなければならないハードルがまだまだあるのかもしれない。

しかし、その方向性自体は正しいはずなので、経済学の世界でこの研究が進展してくれることを願うばかりである。この連載記事では、そのあたりの研究状況を読者に分かりやすく解説してくれることだろうから、これからも注目して読んでいこうと思う。

なお、人々の主観的幸福度との関連で、「豊かさの質」についてこれまでどのように論じられてきたか、またそこにはどのような課題がまだ残されているかについては、『成長なき時代の「国家」を構想する』の第Ⅱ部で、大東文化大学の佐藤方宣氏が「『豊かさの質』の論じ方:諦観と楽観のあいだ」と題して論じておられるので、関心のある読者はそちらもお読みになるとよいと思う。

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2011年2月 9日 (水)

『成長なき』所収の拙論にアマゾン・カスタマーレヴューで高評価

昨日、本欄で、『成長なき時代の「国家」を構想する』(ナカニシヤ出版)の増刷について言及したが、その『成長なき』がネット上ではどのようは評価を受けているのかを試しに調べてみた。

そうしたところ、アマゾン書店のサイトでカスタマーレヴューが1件寄せられていた(2011年2月7日付)ので、それを読んでみると、なんと、本書所収の拙論「“生産性の政治”の意義と限界:ハイエクとドラッカーのファシズム論を手がかりとして」に大変高い評価が与えられていたので、非常に驚いた。

『成長なき時代の「国家」を構想する』アマゾン・カスタマーレヴュー

その評者の甲本博人氏を、まだ私は存じ上げないのだが、この場を借りて、心からの感謝を申し上げたい。

このような高い評価を得られたことは、大変光栄であり、もちろん非常に嬉しいことである。しかしながら、昨日もここに書いたことだが、それだけ、著者の一人としては責任が重くなるということでもある。さらに一層気を引き締めて、これからも研究に勤しんでいきたい。

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2011年2月 8日 (火)

『成長なき時代の「国家」を構想する』が増刷されました

この1か月間は、採点や次年度授業のシラバス作りなどの作業に従事する毎日だったが、そんな日々を送っている私に、先日、『成長なき時代の「国家」を構想する』の増刷決定の知らせが、版元のナカニシヤ出版編集部から届き、昨日その増刷(第2刷)見本が私の手元にも届けられた。

本書第1刷の発行日は2010年12月18日だった。今回の第2刷は2011年2月10日の発行である。なので、第1刷は、その発行から2か月もたたないうちに、ほぼ完売されたことになる。

編集部によると、このような短期間での増刷は、学術書の出版社としては異例の速さだという。このことはもちろん、共著者の一人として嬉しいことであるが、またそれだけ責任も重くなるとも言えるだろう。これからも気を引き締めて、研究を進めていきたいと思う。

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2011年1月 4日 (火)

毎日新聞社説で『成長なき時代の「国家」を構想する』に好意的評価

皆さま、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

さて、昨年12月に本欄で紹介してきた『成長なき時代の「国家」を構想する』(ナカニシヤ出版)が、今朝の毎日新聞社説で大変好意的に取り上げられていたので、そのリンクを以下に貼っておきたい。

毎日新聞社説「2011扉を開こう 福利増大めざす国家に」(2011年1月4日)

このように本書が注目されることは、著者の一人として大変喜ばしいことであると同時に、責任の大きさをヒシヒシと感じる。その責任を肝に銘じて、今年も少しずつではあるが、地道に研究を進めていこうと思っている。

【追記】この記事の表題を、一部改めました(旧題:毎日新聞社説で『成長なき時代の「国家」を構想する』に言及)2011年1月4日17:30記

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2010年12月18日 (土)

『成長なき時代の「国家」を構想する』は何を訴えているか(2)

前回、本書が訴えているのは「経済成長を至上のものとする旧来の姿勢から脱却し、むしろ国民福利の向上それ自体を目的とした経済政策、すなわち「国民福利アプローチ」へと思い切って転換していくべきこと」であると述べた。すなわち、経済的豊かさに代わる新たな政策目標を設定すべきことを、本書は訴えているのである。

しかしながら、本書の序で詳しく言及されているように、経済的豊かさに代わる新たな政策目標を設定する試みは、実はすでに1970~80年代においてなされたことがあった。たとえば、1971年に当時の通産省産業構造審議会によって出された「70年代の通商産業政策の基本方向はいかにあるべきか」と題された答申がそれであり、また、それから約10年後に当時の大平首相の下で設けられた政策研究会「文化の時代の経済運営研究グループ」が1980年に発表した報告書も、その一例である。当時のこうした政策ヴィジョンが経済的豊かさ以外の価値を探求したのは、間違いないことであった。

ところが、本書の序で指摘されているように、こうした政策ヴィジョンは、他方で、実は経済成長が続くことを前提としていた。それが今後も続くことを想定したうえで、経済的豊かさだけには満足できずに、文化的・精神的価値をも求めるというのが、当時の政策ヴィジョンで示されていた姿勢だったのである。したがって、1990年代以降において経済的豊かさが危うくなった途端に、経済以外の価値を目指すという理想もあっさり後退してしまったのであった。

それに対して、本書で提示されている「オルタナティヴ・ヴィジョン」では、経済成長はもはや自明のものとされていない。むしろ低成長社会が前提となっている。この点で、本書の「オルタナティヴ・ヴィジョン」は、これまでの政策ヴィジョンとは全く異なる新たな試みなのである。そのことを、本書の序で、編者の中野剛志氏は次のように力強く宣言している。

経済成長だけでは飽き足らなくなったから、経済成長以外の価値を探すのではない。もはやこれ以上の経済成長を望めなくなるという事態に直面したときに、われわれは、何を目的として経済を運営すべきなのか。そういう厳しい状況をあえて設定したうえで、経済政策の進むべき道を議論しようというのである。こうして得られたヴィジョンこそが、これまでのように経済の好不調によって左右されない、長期的な経済政策の脊椎となり得るであろう(本書21頁)。

こうした問題意識のもとに提唱されているのが、本書第Ⅰ部「経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」である。その基本姿勢を一言で表わすとすれば、それは ≪国内総生産から国民福利へ≫ というものである。これを本書では「国民福利アプローチ」と呼んでいるが、社会心理学的研究の成果を踏まえつつ、その国民福利を構成するものとして本書で特に重視しているのが、「家族、友人関係、地域共同体といった、心理的紐帯で結ばれた人間関係や一体感のある共同体に帰属し、その相互信頼や相互扶助の関係の中で、他者からの承認を得ていること」である(本書42頁、強調は山中による)。

なお、この場合の「共同体」には、伝統的な共同体のみならず、近代的な産業組織や趣味のためのクラブなども含まれる。そうした産業組織やクラブなどであっても、それが暗黙の信頼関係や帰属意識によって結ばれ、持続的に存在している集団であれば、共同体とみなされるのである(本書82-83頁、注2参照)。

ここで非常に重要なキーワードは、「他者からの承認」であろうと私は思う。というのも、それを得られずに社会から排除され、孤立してしまう人々が多数発生してしまっていることが、現代日本においても、非常に深刻な問題となりつつあるからである。すなわち、いわゆる「社会的排除」(social exclusion) の問題である。

この「他者からの承認」「社会的排除」の問題を意識しつつ、本書に寄せたのが山中論文である。それに私は「“生産性の政治”の意義と限界:ハイエクとドラッカーのファシズム論を手がかりとして」というタイトルをつけたが、その要旨を編者の中野氏が、本書の序で、次のように簡潔に表現してくれている。

山中論文は、ファシズムをめぐるハイエクとドラッカーの議論を題材とし、経済成長を第一義的な目的とする従来のヴィジョンの限界と危険性を明らかにする。すなわち、低成長社会にあっても経済成長を最優先に推進することは、屈折した社会感情を噴出させ、ファシズムをもたらすと警鐘を鳴らすのである(本書28頁)。

この山中論文が載せられているのは本書第Ⅱ部であるが、その第Ⅱ部は、次の五つのテーマから構成されている(ちなみに山中論文は下記の④の一つである)。

①福利の可能性と限界
②国民の境界線
③共同体の再考と再興
④経済政策の社会的意味
⑤新たな国際秩序の構想

いずれも本書第Ⅰ部で提示された論点を、それぞれの専門的立場から、さらに深めて論じたものである。お読みいただき、読者諸賢の批判を仰ぐことができれば幸甚である。

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2010年12月 9日 (木)

『成長なき時代の「国家」を構想する』は何を訴えているか(1)

前回、オルタナティヴ・ヴィジョン研究会の成果たる『成長なき時代の「国家」を構想する』の基本姿勢が「経済成長を第一の目的としない」というものであることを述べたが、もしかすると、それは「経済成長をしぶしぶ諦めるという後ろ向きのスタンスなのではないのか」と思われた向きもあるかもしれない。

しかしながら、もしもそうだとすれば、それは誤解である。たしかに、資源・環境上の制約から、経済成長がもはや持続不可能なものになりつつあるという要因もあるのであって、その要因も本書では重視されている。しかしながら、だからといって、われわれのスタンスが「だからもう、経済成長は諦めなければならないのだ」という消極的な諦念のみにもっぱら由来するのだと思われるとしたら、それは誤解なのである

本書『成長なき…』第Ⅰ部に収められた「経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」(中野剛志)において問題とされているのは、上述の資源・環境上の制約もさることながら、何よりもまず、「そもそも日本において、仮に経済成長が今後も可能だとしても、それが国民の福利の増大に直結する時代ではなくなった」ということである。ここでいう「福利 (well-being)」とは、広く「自分の人生に対する積極的な評価」のことを指しているが(本書42頁)、今日、すでに豊かとなった国々では、物質的・金銭的な豊かさのさらなる増大が、もはや人々の福利の向上をもたらすものではなくなっているのである。それは、最近の社会心理学の研究などによって、すでに明らかにされていることである。

そもそも、これまで経済成長が国家経済政策上の目標とされてきたのは何故だったのか?--それは、物質的・金銭的豊かさの増大が福利の向上をもたらす手段であるという認識が共有されていたからであったはずだ。ところが、今日では、その認識がもはや妥当しなくなってきているのである。にもかかわらず、「経済成長」を至上のものとするという従来からのスタンスに依然として固執しつづけてしまうとしたら、むしろそのようなスタンスこそ、消極的・後ろ向きなものだと言うべきではなかろうか?

それに対して、本書では、経済成長を至上のものとする旧来の姿勢から脱却し、むしろ国民福利の向上それ自体を目的とした経済政策、すなわち「国民福利アプローチ」へと思い切って転換していくべきことを強く訴えているのである。その意味で、本書の打ち出している姿勢は、非常に積極的かつ大胆なものだと言えると思う。

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2010年12月 7日 (火)

経産省「オルタナティヴ・ヴィジョン研究会」の成果が刊行

本ブログで昨年9月7日に取り上げた、経済産業省での「オルタナティヴ・ヴィジョン研究会」の成果が、このたび刊行される運びとなった。その編者・書名等は、次のとおりである:

中野剛志(編)『成長なき時代の「国家」を構想する:経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン』(ナカニシヤ出版、2010年12月18日初版第1刷発行)本体価格2600円+税、四六判408頁

本書はすでに、著者の一人である私の手元には届いている。全国の主要書店にも、まもなく並べられることになるだろう。以下では、本書の「序:成長という限界」に依拠しつつ、本書の成立経緯と基本姿勢について、できるだけ簡潔に紹介してみたい。

先ほども述べたように、本書は経産省で開かれていた研究会の成果であるが、経済産業省の公式見解を示すものではない。そうではなく、経産省とは独立した形で、研究会に集まったメンバーの有志の手によって書かれたものである。

そもそも本研究会は、経産省内で開かれたものとはいえ、研究会自体としては経産省から独立した形で組織されていた。政府の公式見解とは無関係に、今後の経済政策のあるべきヴィジョンを検討するために開かれていたのである。そのオルタナティヴ・ヴィジョン(以下、「ヴィジョン」と略記)の基本姿勢は「経済成長を第一目的とはしない」というものであった。

それではなぜ、本研究会は、経産省から独立した形で組織されたのか? それは、上述した「経済成長を第一目的としない」という本研究会で打ち出された方針が、それまでの政府の公式見解に沿うものでは決してなかったからである。むしろ、「ヴィジョン」の基本方針は、それまでの政府見解に対する根本的な問題提起としての性格を持つものであったがゆえに、政府見解として即座に打ち出すことは、政治的に難しいと思われた。したがって、本研究会は経産省から独立した形で組織されることとなったのである。

とはいえ、この研究会での議論は、経産省の職員が自主的に傍聴することが認められていたし、実際に傍聴されていた。正確に数えたわけではないが、私の記憶によると、当時の経済産業政策局長や産業構造課長も含めて、おそらくは毎回少なくとも20~30名前後の職員が、傍聴していたように思う。また、本研究会のレポート「経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」は、今後の経済産業行政の参考の一つとしてもらうこととしたが、実際に経産省内で広く読まれ、活発な賛否両論を巻き起こしたのである。

そもそも経済産業省という官庁は、経済成長の実現を使命としてきた。したがって、経済成長を第一目的としない経済政策の新たなヴィジョンを提示することは、経産省の存在意義自体を脅かすものとなりかねないはずであった。

にもかかわらず、本研究会のレポートは、経済産業省において少なからぬ関心を巻き起こしたのである。もちろん異論も出されたが、逆に積極的な評価もなされた。要するに賛否両論が巻き起こったわけだが、異論が出されること自体、少なからぬ関心が抱かれたことの証左と言うべきだろう。そもそも関心が抱かれていなければ、その無関心から出てくるのは、異論ではなく、むしろ黙殺・無視という反応であったはずである。ところが、本レポートは、異論もさることながら、一部からは積極的な評価さえ生み出したのであった。

それにしても、「ヴィジョン」がそのような大きな関心を経産省内で引き起こした理由は、一体どこにあったのか? それについては、本書第Ⅲ部の座談会で語られている。この座談会は、研究会メンバーの代表と、経済産業省経済産業政策局の政策担当者との間で行われたものである。なお、経済産業政策局からの座談会出席者には、当時の経済産業政策局長であった松永和夫氏も含まれているが、ちなみに、氏は現在、経済産業事務次官である。

本書は全体で3部構成となっているが、まず第Ⅰ部は、上述の本研究会のレポート「経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」である。それに対して第Ⅱ部は、その「ヴィジョン」で提示された論点について、研究会メンバーおよび経済産業省の有志が、それぞれの専門の立場から掘り下げた論稿が収められている(ちなみに私自身もその第Ⅱ部の筆者の一人である)。そして第Ⅲ部が、前述の座談会である。その部構成も含めた目次の詳細等については、ナカニシヤ出版のサイトを参照されたい。

いずれにせよ、本書が多くの読者によって広く読まれ、今後の日本における経済政策のあるべき姿について、考えを深めるきっかけとなってくれることを願うばかりである。

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2010年4月22日 (木)

現代日本の貧困あるいは「社会的排除」問題

さきほど、私の Twitter に、昨日のヘラルド朝日紙に掲載されていた現代日本の貧困問題に関する記事を、(International Herald Tribune のオンライン記事にあった"TWITTER"と書かれたリンクを通じて)貼り付けることができた。これは、「社会的排除」の問題とも言えるだろう。有斐閣から出されている『社会的排除』の著者・岩田正美氏のコメントも、この記事には載せられている。

日本ではかつて「戦後安定社会」であったのが、1990年代以降、急速に「希望格差社会」となっている(山田昌弘『希望格差社会』筑摩書房)。工業社会から脱工業社会=知識社会へと移行する中で、経済的な成功のチャンスが、かつてのようには、ほぼ全ての国民にまんべんなく与えられる時代ではなくなったのである。

にもかかわらず、依然として日本では、経済的成功のみを人生の価値とし、貧困レベルに落ちてしまった人々に対して落後者の烙印を押し、社会から排除してしまう傾向があるようだ。だが、それでは問題を深刻にする一方であろう。

ちなみに、ハイエクは、人間の道徳的・精神的評価(merit)が経済的成功とは切り離して与えられることが一般的である方が、人々の幸福感が増進されるだろうと考えていた。というのも、自由社会においては、道徳的には称賛に値するはずの努力が金銭的報酬という結果において報われるとは限らないがゆえに、もしも経済的な成功以外に高い道徳的・精神的な評価や承認を他の誰からも与えられないとするならば、そうした社会は、経済的に成功できなかった者には、まことに堪えがたい社会となってしまうからである(ハイエク『自由の条件 Ⅰ 自由の価値』〈新版ハイエク全集第Ⅰ期第五巻〉気賀健三・古賀勝次郎訳、春秋社、二〇〇七年、一三九~一四〇頁)。

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2010年3月17日 (水)

ドラッカー再評価熱、高まる

一昨日、本欄でドラッカー『経済人の終わり』を私が再読し始めたことについて書いたが、そのドラッカーの再評価熱が最近、日本でにわかに高まっているらしい。そのことを、今日放送されたNHKクローズアップ現代を見て知った。

そのクローズアップ現代を見て私の心に強く印象に残ったのは、「利益は手段であって目的ではない」などをはじめとしたドラッカーの警句の数々が、多くの経営者たちに強い影響力を与え、その経営を立ち直らせているということだった。どうやらドラッカーの思想は、経営者たちに元気を与えるものらしいのである。

またスタジオゲストとして、ドラッカーの邦訳本のほとんどを訳している上田惇夫氏が登場していたが、その上田氏も非常に明るく、生き生きとしていることにも感心させられた。上田氏の目がキラキラと輝いているのである(その上田氏の肩書が「ドラッカー学会代表」となっていたのを見て、「ドラッカー学会」というものがあるということも初めて知った)。また糸井重里氏もスタジオゲストとして呼ばれていたが、糸井氏もドラッカーのファンだということであった。

そのドラッカーの著書の一つ『産業人の未来』(上田惇夫訳、ダイアモンンド社)では、しかしながら、経済的自由を決して甘いものだと述べているわけではない。むしろ、なかなか厳しいものだと論じており、「自由とは楽しいものではない」とハッキリ述べているのである(第6章)。

にもかかわらず、そのドラッカーの思想が多くの経営者たちを力強く生き生きと立ち直らせていることを考えると、彼の思想は、産業構造の大きな転換期の真っ只中にある現代において、人々にその厳しい自由をあえて引き受けさせ、困難を乗り越える知恵と勇気を与え、さらには、いたずらに利益のみを追い求めることなく、利益を上げること以上の、働くことそれ自体の意義を教えるものらしいのである。

ドラッカー思想のこうした非常に明るい側面は、同時代を生きたハイエクにはないドラッカー独自の特徴だと言えると思う。

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