2007年10月25日 (木)

モーツァルト交響曲「ジュピター」を聴く

10月に入って以来、授業や学生委員長としての仕事の合間を縫っては、少しずつ--本当に少しずつ--研究を進めている毎日だが、そのような日々のなかで私の心の糧のひとつになっているのは、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」を聴くことである。というのも、研究をしていると、ともすると心が深刻になりがちなのだが、このジュピターを聴くことが、私を明るくしてくれるからである。

大学生時代には、もっと深刻なクラシックを聴いていた。最もよく聴いていたのは、マーラーである。とくに交響曲第5番・第6番をよく聴いていた。第1番「巨人」、第2番「復活」もよく聴いたし、ときには第9番のCDをかけて、ぎゅーっと胸が締め付けられる思いがしながらも、その哀歓に酔うこともあった。

その他には、ベートーベン、ブラームス、ブルックナーといったところがお気に入りだった。といっても、クラシック音楽鑑賞の趣味を極めているわけではなく、詳しいわけでは全くないが、それでも音楽の中で一番好きなジャンルは、やはりクラシック音楽、とくに交響曲だった。大学生時代には、そのクラシック音楽のなかでも、深刻な大長編を好んで聴いていた。モーツァルトも聴いていたが、どちらかというと、ベートーベン以降の作曲家に比べて、モーツァルトはやや迫力に足りないような感じを覚えたものである。

ところが今では、もうすっかりモーツァルトを専ら聴くようになった。おそらくそれは、私の心が底抜けの明るさ・悦びを求めるようになったからである。

もちろん、モーツァルトにも短調の名曲がいくらでもある。交響曲で言うとたとえば第40番がそうだし、ピアノ協奏曲なら第20番が私のお気に入りだ。モーツァルトのレクイエムも(少なくともモーツァルト生存中に作曲された部分は)秀逸だと思う。それにあの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の天上楽のような透明感は聴く者の心を強く揺り動かす。

それでもやはり、私が一番好きなモーツァルトは、やはり交響曲第41番ジュピターである。音楽の訓練を専門的に受けてこなかった私には、その素晴らしさを言葉で説明することはできないが、とにかく、このジュピターを聴いていると、何かこう、人生を“大肯定”したくなる。理屈ぬきで「素晴らしきわが人生!」と心の中で叫びたくなるのである。

もちろん、ベートーベンもブラームスも、ブルックナーもマーラーも、それぞれがあまりにも有名な大作曲家であり、たとえばモーツァルトよりもベートーベンの方がお気に入りだ、という方も多いだろう。それはそれでよいと思う。だが今の私にとって、モーツァルトのジュピターに優る音楽はないのである。

そのような訳で、これからもこのジュピターを心の糧として、明るく研究に勤しみたいと思う。

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2007年2月22日 (木)

指揮者・大野和士の世界における“自由の論理”

前回の本欄で、指揮者・大野和士氏の語る指揮の極意--“ないかの如くある”指揮の下に奏者1人1人が解放されている状態--について書いたが、私が何故それに強い興味を惹かれたのかというと、クラシック音楽が好きだという私の趣味の問題だけではなく、それが私に、ある学問的関心も強く抱かせたからである。その学問的関心とは、

「指揮者・大野和士の世界」は、M・ポラニーのいう“自由の論理”の具体例と言えるのではないか?

ということである。

M・ポラニー(Michael Polanyi)は、1891年にハンガリーのブタペストで生まれた思想家で、もともとは自然科学者であったが、「暗黙知」(tacit knowledge)という独特の知識論によって、ソビエト型の「科学の計画化」を鋭く批判して「科学の自由・学問の自由」を強力に擁護し、社会思想の分野でも独自の貢献をしたユニークな自由論者である。私の研究してきたハイエクにも大きな影響を与えているという点で、私の研究課題にとっても非常に重要な人物である。自由市場経済批判の書である『大転換』を著した経済思想家・経済人類学者のK・ポラニー(Karl Polanyi)の実弟だが、兄カールが社会主義者であったのに対して、弟マイケルは自由主義者だったという点で、兄弟間で明確な思想の違いがあった。

そのM・ポラニーの主著の一つが『自由の論理』という書物である。原題は The Logic of Liberty で、1951年に書かれたものだが、邦訳『自由の論理』がハーベスト社から1988年に出ている。その第3章に「学問の自由の基礎」という文章が収められているのだが、そこに、次のような興味深い問題が設定されている:

1人ですると数日あるいは数週間かからなければ完成しない非常に大きなジグゾー・パズルを組み立てなければならないとする。しかも、その期日が非常に切迫しており、その解決には重要な秘密の発見がかかっている。そこで助手のチームを組むことにしたが、このパズルを解くためには、その助手のチームにどのように働いてもらうのが、最も効果的か?

このような問題設定をした後、M・ポラニーは、以下の三つのやり方を挙げている:

①複製した幾組かの同じパズルを、孤立させた何人かの助手たちに個別に渡し、期日までに各自で取り組ませる。
②同じ単一のパズルに取りかかるのに可能な限りで多くの助手を動員し、その助手たちが自由に振る舞って各自のイニシアティヴを発揮するに任せる。
③すべての助手を階層的に組織して、ある一つの中心からの指令に従わせる。

①は文字通りの「自由放任」であり、③は「中央集権」であると言えるだろう。そしてM・ポラニーは、①でも③でもなく、このパズルを急速に解くための唯一の方法として、②を挙げているのである。この②には、自由と調和の不思議な融合が見られるのであり、M・ポラニーによれば、このような意味での科学者同士の自発的な相互調節こそが、科学の発展にとって絶対に不可欠なのである(M・ポラニー『自由の論理』ハーベスト社、45-46頁)。

この②における状態、すなわち、ある高い目的を共に目指すなかでの「個人の自由と全体の調和」こそが、「指揮者・大野和士の世界」だと言えないだろうか? それを伝えるNHKのテレビ番組を見つつ、上記のジグゾー・パズルの例を思い出しながら、私はM・ポラニーのいう“自由の論理”を連想せずにはいられなかったのである。

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2007年2月20日 (火)

指揮者・大野和士の世界

少し前の話になるが、去る1月25日に、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、世界的に有名な日本人指揮者・大野和士氏のことが取り上げられていたのだが(NHKオンラインでの番組内容の紹介はこちら)、それを放映時に見ただけではなく、DVDにも録画しておいて、合間をみて、これまで何度も繰り返して見ずにはいられなかった。というのも、大野氏がそこで語っていた指揮の“極意”に、大きな興味を惹かれたからである。

大野氏は東京芸術大学を出たあと、25歳でドイツに渡り、ヨーロッパを中心に活動してきた。ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語を自由にあやつり、とくにオペラの指揮で定評があるのだという。「第2の小澤征爾」と言われるぐらい、世界的に有名な日本人指揮者として高い評価をかちえているのだが、音楽家の子どもとして生まれたわけではなかったというから驚きである。技術者の父が好きだったクラシック音楽のレコードを聴きながら育ったことで、クラシック音楽の世界にあこがれたのだそうである。

大野氏は、本番のステージで決して大げさな身振りで指揮をしない。氏の語るところによると、指揮棒で「あなた、出なさい!」と(命令的に)演奏者を指したとき、決していい音は出ないのだという。むしろ、奏者の一番弾きたい呼吸で伸び伸びと弾ける状況を作ってあげたときに、最もいい音が出るのだという。つまり、本番の演奏で氏が心掛けているのは、「演奏者1人1人を解放すること」だというのである。

といっても、もちろんそれは、文字通りの「自由放任」ではない。準備段階において、大野氏はまず膨大な資料を読み込み、作曲家と徹底的に会話する。そうして得られた作品の解釈--といっても、大野氏自身の語るところによれば、それは自分の「解釈」というよりも、むしろ作曲家がそう考えたであろうことなのだが--を、練習の時に、具体的なイメージで奏者や歌手に伝えていく。つまり、まず氏は奏者や歌手に「登るべき山を示す」のである。その「登るべき山」を示した上での解放、それが氏の言う「1人1人の解放」なのである。

言われてみれば当たり前のことなのだが、指揮者自身は決して音を出さない。音を出すのは、奏者自身である。それでは、指揮者の役割とは一体何なのか? 大野氏の語るところによれば、“あるようでない”、“ないかの如くある”--これが指揮の極意なのだという。個人個人が自由に解放されているにもかかわらず、“ないかの如くある”指揮者を中心として、そこには実に見事なハーモニーが表現される。これがまさに指揮者・大野和士の世界なのである。

このような自由と調和の見事な融合のためには、もちろん、指揮者と奏者の相互における芸術意識と技術とが非常に高度なレベルで成熟している必要があるだろう。大野氏はベルギーの王立劇場の音楽監督であり、したがって、オーケストラの奏者1人1人も非常にすぐれた技倆の持ち主である。そのような一流のレベルであってこそ、“ないかの如くある”指揮の下で「1人1人が解放される」ことができるのである。その意味で、このような自由と調和の見事な融合は、そう簡単に達することのできる境地ではあるまい。しかしながら、だからこそそれは、目指すに値する「登るべき山」だと思われるのである。

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2006年7月28日 (金)

クラシック音楽奏者の集中力

7月23日の日曜日朝9時からのテレビ番組「題名のない音楽会」で、ラヴェルのボレロが取り上げられていた。その日はオープンキャンパスで日曜出勤だったので、それを録画しておいたのだが、最近はそのビデオを毎日見ている。

ご存知の方も多いと思うが、ボレロはフランスの作曲家ラヴェルによる非常に有名な作品である。演奏時間はおよそ15分、曲全体が一つの大きなクレシェンドになっており、メロディはたった2種類のみ、しかも最初から最後まで全く同じリズムである。それなのに、この曲が聞く者を飽きさせない面白さをもっているのは、管弦楽の魔術師と言われていたラヴェルがその中にさまざまな仕掛けを組み込んでいたからであるという。そのさまざまな仕掛けについて、この番組では、音楽の素人の私にもよく分かるように、やさしく解説してくれていたので、大変面白かった。名曲だけあって、何度聞いても味わい深さが増すばかりである。

ところで、この番組のビデオを見ていて、改めて感心させられたのは、演奏しているオーケストラの方々の集中力のすごさである。クラシック音楽の演奏の様子を見ていていつも魅力を感じていたのは、音楽の素晴らしさはもちろんなのだが、それに加えて、演奏者の方々が演奏中に見せてくれる、研ぎ澄まされた知的な集中力である。

すばらしい音楽を美しく表現するために、プロの演奏者の方々は、日々大変な努力をしておられるに違いない。私は音楽をキチンと習ってこなかったため、楽器は何も出来ないから、その難しさは想像するしかないのだが、とにかく楽器は全く出来ないので、ただただ驚嘆するばかりである。その努力は並大抵ではないはずなのだが、プロのクラシック演奏者の演奏の様子を見ていると、そこから伝わってくるのは、やはり“表現の喜び”である。実際、私も、ラヴェルのボレロの演奏をビデオで見ていて、感動の涙がジワッとこみ上げてくるのを抑えることが出来なかったのである。

私には音楽のことについて専門的に語る資格は全くないが、あのクラシック演奏者の方々が見せてくれる、あの知的で凛とした集中力は、私も是非見習っていきたいと強く心に思ったのであった。というのも、分野の違いこそあれ、論文を書くということも同じく“表現活動”であり、学術的なものである場合、そこにはクラシック音楽奏者の方々が見せてくれるのと同じような、知的な集中力が必要だからである。

あのキリッと引きしまった凛とした集中力を、私も自分の研究活動において、少しでも発揮していきたいと思う。

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