2012年4月23日 (月)

マンキュー経済学(マクロ編)勉強記

ミクロ編は何とか読み終えたので、先月下旬あたりから、時間の合間を見つけて、同マクロ編を読み進めてきた。他の標準的教科書とは説明の順序を変えて、長期の閉鎖経済から説明を始めてくれていたので、私にも何となく分かったような気がした。

ところが、第Ⅴ部の開放経済に入った途端、電車内での読書だけでは分かりにくくなってしまった。第Ⅵ部の短期のマクロ経済変動についても、きっと同じに違いない。目で読むだけではなくて、手も動かしてジックリ勉強したいところではあるが、今はその時間が取れない。すでに授業期間が始まっており、私の授業担当は経済学ではなく政治学だからだ。なので、このあたりで近代経済学の勉強は一旦中断して、他の研究に時間を振り向けようと思う。

ちなみに、上述の「他の研究」というのは、市場の歴史を追うこと、言い換えれば、市場システムが近代以降に高度に発展するに至る以前の、古代・中世における市場とはいかなるものであったかを知ることである。それは、本欄2012年2月23日にも書いたとおり、「政治概念としての市場の歴史的展開を追う」という研究計画に関わるものだ。今後しばらくの研究においては、近代以降の経済学によって高度に分析されている複雑な市場システムの方ではなく、近代以前の市場の歴史を見ていくことに専念しようと思っている。

| | コメント (0)

2012年2月23日 (木)

経済学の勉強を始めた理由(2)

先月末から今月中旬にかけては、秋学期末の成績評価の仕事で忙しかった。特に非常勤で行っている関西大学の授業である政治思想史2(現代)では、計454枚もの答案を採点しなければならなかったため、大変な労力を要したが、その採点も先週中に何とか終えることができたので、今は経済学の勉強を再開している。

本欄1月31日で挙げた三冊の本のうち、①と③は全部読み、②については③とテーマが重なっていないところだけを読んだ。それで入門としての学習は終えたと考えて、次は、あの有名なN・グレゴリー・マンキュー著『マンキュー経済学 Ⅰ ミクロ編』(東洋経済新報社)を大学図書館で借りて読み始めることにした。章末の復習問題や応用問題は解いていないが、本文については第7章まで学習し終えた。非常に分かりやすく書かれているので、楽しく学習できている。

さて、前置きが長くなってしまったが、このように本腰を入れて経済学の勉強をし始めた理由のうち、教育上の理由は、すでに本欄2月1日の記事で述べておいた。しかし、実はもう一つの理由がある。それは研究上の必要もあったからである。

『政治概念の歴史的展開』というシリーズが晃洋書房から出されており、現在では第4巻まで刊行されているが、それに続いて、第5巻・第6巻の出版企画が既に動いている。そのことは、第4巻末尾の広告欄で、出版元の晃洋書房自身の手によって、すでに公けにされている。その第5巻に掲載が予定されている政治概念の一つが「市場」なのだが、その執筆担当者が、上述の広告欄で明らかにされている通り、実は私なのである。

もとより、「市場」を “政治概念” として取り上げるのであるから、経済学的な視点を前面に出すつもりはない。とはいえ、経済学的な市場概念も当然、念頭に置いておかねばならないだろう。そんなわけで、経済学の勉強に、研究者としても本腰を入れ始めた次第である。

【追記】 ちなみに、「市場」を “政治概念” として取り上げるという場合、私が念頭に置いているのは、ピエール・ロザンヴァロン著『ユートピア的資本主義:市場思想から見た近代』(長谷俊雄訳、国文社)が次のように述べていた時の “市場社会” の方である:

それ〔18世紀に形成されるような市場概念〕は、〔ホッブズやロックのような〕契約概念と対立する、社会学的で政治学的な概念なのである。経済学の専門的な概念(自由に形成される価格の、そのシステムによる経済活動の調節形態)ではないのだ。経済的自由主義の確立は……自己調節される市民社会といったものを実現したいという渇望を表すものだ。言葉の強い意味で非政治的なこうした展望は、市場社会を新しい社会観の理想型に据える。(経済だけでなく)社会を真に調節するのは、(政治的な)契約ではなく、(経済的な)市場のほうなのである。(『ユートピア的資本主義』4-5頁)

| | コメント (0)

2011年11月18日 (金)

山中優の博士論文審査結果がWeb上で公表されていました

京都大学に提出し、2008年3月に博士号を授与された拙著『ハイエクの政治思想:市場秩序にひそむ人間の苦境』(勁草書房、2007年)の審査結果が、PDFファイル化されてWeb上で公開されているのを、大変遅まきながら見つけたので、そのリンクを本欄にも貼っておくことにしよう。

京都大学学術情報リポジトリKURENAI ハイエクの政治思想:市場秩序にひそむ人間の苦境

上記の拙著は、序章から第3章までは概ね高い評価を得られている一方で、第4章と終章については評価が分かれており、どちらかというとむしろ低い評価が与えられている場合の方が多かった(し、酷評されている場合もあった)が、この審査結果を読めば、それがなぜなのかを知ることができると思う。

| | コメント (0)

2011年7月 4日 (月)

IVR日本支部2011名古屋セミナーでの議論

本欄6月2日の記事でも述べたように、本日、名古屋の中京大学で、英オックスフォード大学のD・ミラー教授を招いてのIVR2011名古屋セミナーが開かれ、私はパネリストの一人として参加した。いま宿泊先の名古屋市内のホテルでこの文章を書いている。

あらかじめ提出していたコメントペーパーに、私がハイエクとの比較の観点から挙げておいた論点の一つは本欄6月2日の記事にも書いたとおりだったが、もうひとつ、今回のコメントで提示してみたのは、市場社会主義の基盤としてのナショナリティが、B・アンダーソンのいう「想像の共同体」であり、いわば想像上のフィクションにすぎないとしても、学者や知識人のみならず、一般民衆の間においても、依然として強固に信じられ続けることが可能か--という論点だった。

それに対するミラー教授の応答の要点は、「ナショナリティについての学者による批判的な吟味と一般民衆のナショナリティへの強い信念というのは共存しうる」ということ、および「民主的な国では、ナショナリティ理解が批判的に吟味されることが、全体主義に陥らないためには必要不可欠であり、それは一般民衆におけるナショナリティへの信念と両立しうる」というものだった。ナショナリティに神話的要素が不可避的に含まれるとしても、ナショナリティへの信念が完全に虚構であることを意味するわけではなく、現実に一般民衆の間で強固な連帯精神を形成し維持しうるのだ--というのがミラー教授の主張であった。

もうひとつ、私がコメントペーパーで投げかけてみたのは、ミラー教授の議論とイギリス理想主義British Idealismとの関係は如何--という論点だった。その際に私が引き合いに出していたのは、David Boucher というイギリス理想主義研究者が、Social Justice: From Hume to Walzer(邦訳『社会正義論の系譜:ヒュームからウォルツァーまで』ナカニシヤ出版)という書物の中で、ミラー教授のナショナリティ論を「形而上学なきイギリス理想主義〔前掲邦訳中の訳語では「イギリス観念論」〕の立場」と表現していたことであった。

ところが、ミラー教授はご自分の立場がそのように位置づけられていたことをご存じなかったようだ。また、ミラー教授としては、形而上学を伴った元来のイギリス理想主義にさほど大きな興味をお持ちでもないことが、ディスカッションに入る前のティーブレイク中に教授と交わした会話の中で明らかになった。

なので、その点については教授もディスカッションの時間には触れられなかったし、私としてもその点に触れることは控えることにした。私自身、イギリス理想主義については勉強を始めたばかりであり、深く議論する用意もなかったからである。とはいえ、ミラー教授が形而上学に対してかなり懐疑的であることが確認できたのは、私としては一定の収穫だったと思っている。

ところで、私自身の今後の研究関心は、T・H・グリーンやホブハウスといったイギリス理想主義あるいはニューリベラリズムの方に実は向かいつつある。ハイエク研究との関連では、萬田悦生『文明社会の政治原理:F・A・ハイエクの政治思想』(慶応義塾大学出版会)で、ハイエクとグリーンを比較して論ずるという大変ユニークな視点が2008年にすでに提示されていることもあるので、私としても、これを機に、イギリス理想主義の政治思想を本格的に研究してみたいと思っている。

| | コメント (0)

2011年6月 2日 (木)

IVR神戸記念レクチャーがD・ミラー教授を招待して開催

法哲学・社会哲学国際学会連合(IVR)日本支部は、1987年に神戸で開催された第13回IVR世界大会を記念して、3年ごとに「神戸記念レクチャー」を開催してきているが、今回の第10回神戸記念レクチャーでは、英オックスフォード・ナフィールドカレッジのデイヴィッド・ミラー教授を招いて、この7月に開催される。ミラー教授の紹介等については、下記のサイトに書かれている。

IVR第10回神戸記念レクチャー

今回私は、この名古屋セミナーで、3人のコメンテーターのうちの一人を務めることになっている。名古屋セミナーのテーマは「グローバルな正義・グローバル資本主義・市場社会主義」であるが、私がコメントするのは、ミラー教授の市場社会主義についてである。

ハイエクと比較した場合、私にとって興味深いのは、自由観や社会正義についての考え方においては鋭く対立しているにも関わらず、市場のもたらす結果が人間の制御できる範囲を超えた偶然(luck)によって左右されるのは不可避だと認める点で、実は両者が共通していたという点である。人間活動の集合的結果からの疎外は市場経済の特徴であり、市場社会主義といえどもこれを避けることはできない。マルクスの言葉を使えば、人間は「疎遠な力のおもちゃ」the play thing of alien powerに転ずる危険性を持つというわけである。

コメントペーパーはすでに実行委員会に提出したので、あとは名古屋セミナーの当日(7月4日中京大学にて)を待つばかりである。それまでに残された期間も有効に使い、当日のディスカッション(英語)に備えたいと思っている。

なお、最後に付言すれば、この第10回神戸記念レクチャーにおける一連のレクチャー・セミナーは、いずれも参加無料、事前申込も不要である。詳しくは上記の公式サイトを参照されたい。

| | コメント (0)

2011年3月 8日 (火)

日経新聞経済教室・集中講義「市場を考える」を読む(2)

日経新聞朝刊で1月4日から毎週月~金曜日に連載されていた「集中講義 市場を考える」が2月22日の第35回を以て終了した。本欄1月6日の記事でこの連載記事への関心を表明していた私としては、その連載が終了した後、すぐに本欄でコメントを加えたいところだったが、2月下旬以降は研究室の名張から伊勢への引っ越し作業のため、その時間的余裕がなかった。最近ようやく落ち着きを取り戻してきたので、ここで若干のコメントを加えさせていただこうと思う。

まず感心させられたのは、筆者の松井氏が、昔話や童話を引き合いに出しながら、そこから得られる教訓を踏まえつつ、議論を展開されていることだった。そうした能力はまだ私には備わっていないので、少しでも見習いたいと思った次第である。

全35回に渡ったこの連載記事では、市場を機能させるために必要とされる諸条件について様々な角度から語られており、学生時代に経済学を専攻していなかった私には、まだその全てを理解することはできていないのだが、それでも、この連載を読むことで、市場を生かそうとする経済学における根本思想だけは、読み取ることができたように思う。それが私にとっての最大の収穫だった。

それでは、その根本思想とは何か? 私なりに要約すると、それは、「見知らぬ者同士の間で“顔で差別しない”関係、すなわち分け隔てのない相互協力関係を、強制権力にできるだけ頼ることなく形成するのが、市場の役割である」ということである。

この根本思想のうち、「強制権力にできるだけ頼ることなく」という点を現実に生かそうとする際に、おそらく避けて通れないのは、ホッブズの政治思想であろう。実際、松井氏は第2回の記事で、昔話「さるかに合戦」を引き合いに出しつつ、ホッブズに対して、さりげなく異議を唱えていた。その箇所は次のとおりである:

 それにしても、〔『さるかに合戦』の〕猿は浅知恵だった。もしかしたら『リヴァイアサン』の「万人の万人に対する闘争」のくだりだけ勉強して育ったのかもしれない。あだ討ちされてしまうくらいなら、あのような強欲なことはせずに、カニから少しだけ分け前をもらうことで満足すべきであった。
 一方でホッブズも、『さるかに合戦』を読んでいたら、王権の強化だけが唯一の答えでないことに気づいたかもしれない。『さるかに合戦』、恐るべし。(日本経済新聞朝刊2011年1月5日31ページより)

しかしながら、ホッブズがいわゆる自然状態を戦争状態として描いた大きな理由--また、その戦争状態を克服するには強力な政治権力に頼るほかないと考えていた理由--は、「人間は、虚栄心(と不安)を理由として、他者に対する優越を絶えず求めようとする強欲な動物だ」という悲観的な人間観を彼が持っていたからであった。したがって、ホッブズの政治思想を克服するためには、人間の虚栄心をいかに抑えるかが重要なポイントとなるはずである。

松井氏も、虚栄心が市場における健全な競争を阻害するということには気づいている。すなわち、氏は第15回の記事(2011年1月24日)で、(宮沢賢治の童話『洞熊学校を卒業した三人』を引き合いに出しつつ)妬みと強欲による競争を戒めていたのである。

しかしながら問題は、そうした強欲や妬みが、果たして市場内部でのみ抑制することができるかどうか?--ということではないだろうか。というのも、市場におけるギブアンドテイクの損得勘定すなわち経済的な互恵関係だけで、はたして強欲や妬みを抑制することができるとは、私には思われないからである。

この点に関して、今回の連載記事で松井氏が述べていたのは、私が読む限りでは、健全な市場競争のためには妬みは禁物である、ということのみだったように思う(1月24日の第15回の連載記事を参照)。しかし、「妬みは禁物」というメッセージだけでは、また市場内部における経済的な互恵関係だけでは、ホッブズがあれほど警戒していた人間の虚栄心を抑えることは、おそらく不可能ではないかと私は思う。

| | コメント (0)

2011年2月 9日 (水)

『成長なき』所収の拙論にアマゾン・カスタマーレヴューで高評価

昨日、本欄で、『成長なき時代の「国家」を構想する』(ナカニシヤ出版)の増刷について言及したが、その『成長なき』がネット上ではどのようは評価を受けているのかを試しに調べてみた。

そうしたところ、アマゾン書店のサイトでカスタマーレヴューが1件寄せられていた(2011年2月7日付)ので、それを読んでみると、なんと、本書所収の拙論「“生産性の政治”の意義と限界:ハイエクとドラッカーのファシズム論を手がかりとして」に大変高い評価が与えられていたので、非常に驚いた。

『成長なき時代の「国家」を構想する』アマゾン・カスタマーレヴュー

その評者の甲本博人氏を、まだ私は存じ上げないのだが、この場を借りて、心からの感謝を申し上げたい。

このような高い評価を得られたことは、大変光栄であり、もちろん非常に嬉しいことである。しかしながら、昨日もここに書いたことだが、それだけ、著者の一人としては責任が重くなるということでもある。さらに一層気を引き締めて、これからも研究に勤しんでいきたい。

| | コメント (0)

2011年1月 6日 (木)

日経新聞経済教室・集中講義「市場を考える」を読む

1月4日から日本経済新聞朝刊の「経済教室」欄で、「市場を考える」と題した集中講義の連載が始まった。読んでみると、私にとって大変興味深い記事だった。

筆者は東京大学経済学研究科教授の松井彰彦氏で、ゲーム理論の観点から社会現象全体を解釈していく研究で数々の賞を授与されている経済学者である。最近の著書としては『向こう岸の市場(アゴラ)』(勁草書房)や『高校生からのゲーム理論』(ちくまプリマー新書)などがある。といっても、実を言うと、私はこれらの著書をまだ読んでいないのだが、この連載記事を読み始めて、私の視野に入れておかねばならない業績の一つだということを認識できたので、ありがたかった。

読んでみて非常に面白かったことのひとつは、昨日の第2回の連載記事で、松井氏が「さるかに合戦」の昔話を使いながら、17世紀の政治哲学者トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』における自然状態論を説明していることだった。西欧政治思想史を専門分野としている私がホッブズの議論を承知しているのはもちろんだが、それを「さるかに合戦」を引き合いに出して説明するというのは、恥ずかしながら、これまでの私には全く思いもよらないことだったので、非常に新鮮な驚きだった。

今日の第3回の連載記事では、その第2回の内容を受けつつ、ホッブズの言う自然状態と、互恵的な--つまり「お互いさま」の--人間関係が形成された共同体とを分かりやすく対比させていた。ここで念頭に置かれているのは、まず間違いなく、R・アクセルロッド『つきあい方の科学』(松田裕之訳、ミネルヴァ書房)で論じられている「しっぺ返し(tit for tat)戦略」の議論だろう。つまり、互いに相手を裏切ったり、逆に相手から裏切られたりという「しっぺ返し」を繰り返すなかで、互いに相手を裏切ることの愚を悟った末に、ついに協力関係が自生的に形成されていくことが期待される、という議論である。

この連載記事の目的を、松井氏は、「市場理論や人と人のつながりを分析の核とするゲーム理論を用いて、市場や、そこで活動する家族、企業、政府など参加者のつながりをみていきたい」と第1回(1月4日)の末尾で述べておられるから、これからもゲーム理論の知見を踏まえた興味深い連載が続いていくことと思う。

私はゲーム理論を本格的に勉強したことはまだないが、拙著『ハイエクの政治思想』(勁草書房)の第3章でハイエクの文化的進化論を批判的に検討した際、V. Vanberg の非常に有名なハイエク批判で展開されていた古典的なゲーム理論--「協力問題」や「囚人のジレンマ問題」--を踏まえたことがあった。そのこともあって、今回の経済教室での連載記事は、私にとって非常に興味深いものである。

明日からもしばらくこの連載は続いていくものと思われるので、今後も注目して読んでいきたいと思っている。

| | コメント (0)

2010年5月22日 (土)

政治思想学会2010に参加

今日は、東京大学・本郷キャンパスで開催された2010年度政治思想学会に参加してきた。今日・明日の二日間の日程での開催だが、私自身は日帰りで今日のみの参加とさせていただいた。いま帰りの新幹線の中で、この文章を書いている(学会プログラムの詳細はこちら。ただし、報告ペーパーのダウンロードは政治思想学会員に限定されている)。

今回の共通テーマは《福祉社会と政治思想》というもので、私の研究テーマと密接に関わるものだった。とくにシンポジウムⅠでは「市場イメージの再検討」がテーマとされており、その第三報告が、ハイエクの市場イメージについて、その法の支配概念と科学論の検討を通じて論じるものだったので、大変興味深く聞かせていただいた。

その報告者だった酒井弘格会員(法政大学)に、私の方から質問を2つさせていただいたのだが、その1つ目は、「ハイエクが、みずからの市場イメージとの首尾一貫性が損なわれてしまうにもかかわらず、生活保護など、一定の福祉政策の必要性を認めざるをえなかったのは、一体なぜだったのか?」という質問だった。

それに対する酒井会員のお答えの主旨は、「それはハイエクの自由論や法の支配論から一義的に導かれた論理的な結論ではなく、むしろ心情的なものだったと思われる。その点で想起されるのは、彼が青年時代にはフェビアン主義的社会主義者だったという事実である」というものだったが、それは私自身も秘かに考えていたことだったので、酒井会員からも同趣旨の見解が聞けたことは心強かった。

私からのもう一つの質問は、「ハイエクには、ソ連型社会主義やケインズ主義的福祉国家に対する批判という消極的意義を超える、より積極的な意義などない--というJohn Grayのような立場もありうるが、そのような立場に対して、〔酒井会員は〕どのように応答されるか?」というものだったが、それに対するお答えは、大略、次のようなものだった。

「たしかにハイエクの議論それ自体は、市場と両立しうる福祉政策の基準は何かという問題について、曖昧かつ矛盾した解答しか出せていない。したがって、もっと確固たる思想的基礎を与える作業はこれからの課題として残されているが、ハイエク思想の独創性を継承しつつ、その課題に応えていくことは可能だと思う」

このお答えは、酒井会員の今後の研究業績について、大変強い興味を私に持たせてくれるものだった。というのも、かつて Jeremy Shearmur というハイエク(とポパー)の研究者は、1996年に出した次の本の中で、(私の読解が正しければ)この問題に対してむしろ否定的な答えを出し、リバタリアニズムの一種たる最小国家論の立場にこそ、ハイエク思想を現代的に発展させうる可能性を見出していたからである。

Jeremy Shearmur (1996) Hayek and After: Hayekian liberalism as a research programme (Routledge)

それに対して、酒井会員は、福祉国家に妥協的なハイエクの立場を、Shearmurとは反対に、極端なリバタリアニズムよりも魅力あるものと捉えている。だとするならば、酒井会員はこのShearmurのハイエク研究に対してどのような批判を展開されることになるのだろうか? 私としては大変強い興味を惹かれるのである。

もちろん、これは私自身が一方的に抱いている興味であって、酒井会員の今後の研究方向をそちらに強制しようとする意図は全くない。

とはいえ、実のところ、私自身はこのShearmurのハイエク研究を、まだ十分には消化し切れてはいない。なので、もしも酒井会員がご自分の意志でShearmurのハイエク研究を今後本格的に取り上げることになるのであれば、大いに参考にさせていただきたいのである。

ちなみにShearmurは、そのハイエク批判に当たって、ポパーの科学哲学に依拠していることを、上記の著書で述べている。そして、酒井氏の今日のご報告からは、ハイエクを何よりもまず科学者として捉えているように見受けられた(その点では、渡辺幹雄氏の研究スタンスとよく似ていると言えると思う)。

なので、私の勝手な憶測かもしれないが、もしかするとShearmurの議論スタイルは、人間論を中心に据えたハイエク論を展開していた私よりも、むしろ酒井氏のご関心の方にこそ、まさに合致するかもしれないという気もするのである。

もしもそうだとしたら、氏はShearmurに対してどのような異議を唱えることになるのか。あるいは逆に、綿密な検討の結果、むしろShearmurの見解に同意されることになるのだろうか--もしも氏がご自分の意志でShearmurのハイエク論を取り上げられるとしたら、私としては、そのご研究の成果を是非とも期待したいと思った次第である。

ついでながら、今回のシンポジウムⅠの第三報告においては、報告者の酒井会員からも、またコメンテーターの辻康夫会員(北海道大学)からも、拙著『ハイエクの政治思想』(勁草書房)に対して、大変好意的に言及していただいたことは、まさに望外の喜びであった。これを励みに、これからも研究に勤しんでいきたいと思っている。

| | コメント (0)

2010年3月17日 (水)

ドラッカー再評価熱、高まる

一昨日、本欄でドラッカー『経済人の終わり』を私が再読し始めたことについて書いたが、そのドラッカーの再評価熱が最近、日本でにわかに高まっているらしい。そのことを、今日放送されたNHKクローズアップ現代を見て知った。

そのクローズアップ現代を見て私の心に強く印象に残ったのは、「利益は手段であって目的ではない」などをはじめとしたドラッカーの警句の数々が、多くの経営者たちに強い影響力を与え、その経営を立ち直らせているということだった。どうやらドラッカーの思想は、経営者たちに元気を与えるものらしいのである。

またスタジオゲストとして、ドラッカーの邦訳本のほとんどを訳している上田惇夫氏が登場していたが、その上田氏も非常に明るく、生き生きとしていることにも感心させられた。上田氏の目がキラキラと輝いているのである(その上田氏の肩書が「ドラッカー学会代表」となっていたのを見て、「ドラッカー学会」というものがあるということも初めて知った)。また糸井重里氏もスタジオゲストとして呼ばれていたが、糸井氏もドラッカーのファンだということであった。

そのドラッカーの著書の一つ『産業人の未来』(上田惇夫訳、ダイアモンンド社)では、しかしながら、経済的自由を決して甘いものだと述べているわけではない。むしろ、なかなか厳しいものだと論じており、「自由とは楽しいものではない」とハッキリ述べているのである(第6章)。

にもかかわらず、そのドラッカーの思想が多くの経営者たちを力強く生き生きと立ち直らせていることを考えると、彼の思想は、産業構造の大きな転換期の真っ只中にある現代において、人々にその厳しい自由をあえて引き受けさせ、困難を乗り越える知恵と勇気を与え、さらには、いたずらに利益のみを追い求めることなく、利益を上げること以上の、働くことそれ自体の意義を教えるものらしいのである。

ドラッカー思想のこうした非常に明るい側面は、同時代を生きたハイエクにはないドラッカー独自の特徴だと言えると思う。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧