2007年1月19日 (金)

学生の質問に答えて:9/11はなぜ起こったか?

伊勢学舎での政治学受講者から、「9・11事件がなぜ起こったのか教えて下さい」という質問をいただいた。授業中にできるだけ簡潔に答えるつもりだったが、次回が今年度の最終授業であり、時間切れになってもいけないので、試験範囲外のテーマでもあることから、授業の場ではなく、本欄で簡潔にお答えしておくことにする。

まず、あの9・11で何が標的にされたかを振り返ってみよう。それは、世界貿易センタービルと、ペンタゴン(国防総省)であった。前者はアメリカ(および西洋社会)の富の象徴であり、後者はアメリカ外交政策の象徴である。前者は経済的側面、後者は政治外交的な側面と言えるだろう。すなわち、以下の2つである:

①経済的側面-国際的および国内的な貧富の格差への反発
②政治外交的側面-アメリカの中東政策への反発(とくにイスラエル・パレスチナ問題)

しかしながら、この2点に加えて、もう一つ、

③思想的側面-善悪二元論からくる、妥協を知らない敵意

も挙げておかねばなるまい。というのも、池内恵『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書)によると、いまのアラブ世界では、パレスチナに代表される「イスラーム世界とユダヤ・アメリカ十字軍の戦い」を、終末論的な意味合いを持った(妥協の余地なき)闘争と受け止める傾向が出てきているからである(『現代アラブの社会思想』129ページ)。

ところで、この「善悪二元論」は米ブッシュ政権も同様である。というのも、「悪の枢軸」という言葉を使って、テロリストを庇護しているとみなされている国家を厳しく非難しているからである。

テロという手段がとうてい容認されえないものであることはもちろんである。しかしながら、かといって、なぜテロリストたちがあのような手段に訴えるほどにアメリカおよび西洋社会を恨むことになっているのかについて、欧米先進諸国の側における責任を自ら反省することなく、このような善玉・悪玉論だけでテロリストを攻撃するばかりでは、この問題の解決はとうてい望めないだろう。

なお、国際テロの問題については、本欄において、すでにいくつかの試論を掲載しているので、興味のある学生諸君は、本欄のカテゴリーから「宗教テロ」および「経済・政治・国際」を選んでクリックし、その中に含まれている関連記事をお読みいただきたい(ただし、本欄での考察は、筆者の研究における専門分野の関係で、主に上記の①③に焦点を当てていることを、あらかじめ断っておく)。

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2006年5月19日 (金)

急速な自由化がテロ撲滅への道か?:米国大統領2006年一般教書演説を読んで

私の通っているECCの時事英語クラスで、昨日、今年の1月31日に行われたブッシュ米大統領の一般教書演説の一部を抜粋したものが、教材として取り上げられた。その教材とは、『CNN ENGLISH EXPRESS』(朝日出版社、2006年4月号)pp. 83-89に掲載されていたものである。

以前から気になっていたものの、一般教書演説がなされた当時にはそれに触れる余裕がなかったのだが、昨日ちょうど教材として触れる機会に恵まれたので、大変遅ればせながら、これを機にホワイトハウスのウェッブサイトにアクセスしてその全文を入手し、ECCに通う電車の中で通読した。

読んでみて私の目に止まったのは、中東に自由民主主義を拡大していくという理想を引き続き強力に推し進めることで、米国は世界のリーダーでありつづけるという強い決意を示した部分である。その部分を読んだとき、私は「ちょっと待てよ…」という思いを抱くことを禁じえなかった。

とはいえ、私は反米的な立場に立っているわけではない。わが国の第二次大戦後の発展は日米同盟なくしてはありえなかっただろうし、これからも日米関係は重要なものであり続けるだろう。戦後において、米国が寛大にも市場を日本製品に対して開いていなければ、今の日本の繁栄はありえなかった。その意味で、私は日本がこれからも米国と良好な関係を保っていくべきであると思っている。その意味で、ブッシュ大統領がこの一般教書演説で孤立主義への回帰を戒めたことは、評価されてよいだろうと思う。

だが、その上で、やはり「ブッシュさん、ちょっと待って下さいよ…」という思いを禁じえなかった。というのも、この一般教書演説においても相変わらず、「圧政による自由の欠如こそがテロの温床であり、自由民主主義の強力な拡大こそがテロを撲滅する唯一の道である」という立場を鮮明にしていたからである。

本欄の昨年7月24日の記事(「ロンドンのテロをめぐって:宗教テロは“自由からの逃走”か?」)でも触れたが、昨年7月20日のInternational Herald Tribune紙に掲載された、コラムニストのRoger Cohen氏の論説によると、昨今の宗教テロは必ずしも圧政下に置かれるがゆえの絶望の産物ではない。昨年7月にロンドンで自爆テロを起こしたアラブ系青年ハシブ・フサインも、2001年9月11日に世界貿易センターの北側のビルにAmerican Airline Flight 11を突っ込ませたモハメド・アタも、決して自由と豊かさを知らない青年ではなかった。むしろ、彼らはイギリスのリーズや、ドイツのハンブルグで、欧米的な自由を享受して過ごしていたのである。

本欄の昨年7月26日に「宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(1)」「同(2)」を掲載したが、そこでも論じておいたように、むしろ途上国に対してあまりにも拙速に国際統合・自由化を迫ったことが、かえって昨今の宗教テロを呼び起こしている可能性が高いと思われるのである。

だとするならば、たしかにテロリズムという手段が到底許されるものではないとはいえ、テロリストたちを敵呼ばわりし、彼らの原理主義的な主張の背後に横たわる反米的な姿勢を徒らに刺激するだけでは、かえって米国にとっても逆効果となるのではなかろうか? むしろ、本稿の昨年8月8日の記事でも論じておいたように、先進国としては自由市場の論理に首尾一貫して従いつつ、途上国にはむしろ開発主義を採用する余地を寛大に認め、雁行的な国際的経済発展を可能にすることこそが、テロリズムを沈静化させ、米国の国益に適う道だと思うのである。

しかもその「経済発展」は、21世紀の今日、もはや石油をはじめとした化石燃料に依存しつづけるものではありえないだろう。むしろ、これからの米国が進むべき道は、そしてその米国と今後も同盟関係を保っていくべきわが国が歩んでいくべき道は、限りある化石燃料の奪い合いに自らを巻き込ませる道ではなく、むしろ、太陽光や風力等の自然エネルギーの開発に邁進し、経済発展を渇望する途上国にもその技術を気前よく供与することで地球温暖化=気候変動の進行を食い止め、持続可能な経済発展を地球規模で達成していける道を、日米そしてEUが手を取り合って、切り開いていくことでなければならないだろう。

この意味で、京都議定書から離脱している米国ブッシュ大統領その人自身が、今年の一般教書演説で「アメリカは石油中毒である」と認め、一方で石炭や原子力にも言及しつつも、他方ではクリーンな自然エネルギー活用のための技術開発にもハッキリと言及していたことは、大いに評価されてしかるべきことだと思われるのである。

米国が自由民主主義の普遍性を信じるあまりにその拡大に盲信することなく、本来は原理主義的ではないはずのアラブ・イスラム的な価値も認めつつ、共存共栄の道を世界が歩んでいく上で必要な役割を発揮していくことを、心から願うものである。

山中 優

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2005年7月26日 (火)

宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(2)

思ったよりもずっと早く筆がはかどったので、この連載の第二回の記事も今日掲載することにしよう。

さて、

まず(1)政治・経済的側面についてであるが、この点について、著者Stern氏自身は次のように述べている:

We demand that other countries open their markets to our goods, even as we maintain protections on ours, applying textile quotas, for example, against countries like Pakistan, whose citizens are increasingly vulnerable to the notion that Al-Qaeda is more interested in their well-being than is the United States. (Stern, Terror in the name of God, pp. 294-295)

われわれ〔アメリカ人〕は他の国々にわれわれ〔アメリカ〕の財に対してその国の市場を開放するよう求めているが、それはたとえばパキスタンのような国に対して、織物の輸入割当を適用し、われわれ〔アメリカ〕の市場に対する保護を維持しているときでさえ、そうなのである。そのパキスタンの市民たちは、アルカイダの方がアメリカよりもパキスタン人の福祉に強い関心を持っているという考えにますます動かされるようになっている(山中訳)。

ここで思い出されるのが、宮田律『現代イスラムの潮流』(集英社新書、2001620日第1刷発行)の議論である。9・11より前の出版だが、この本における次のような記述は、現在の中東諸国の政治経済情勢にも基本的に当てはまるだろう:

イスラム世界では社会主義や資本主義が導入されたが、その社会・経済矛盾を救済するような手立てにならなかった。特に一九八〇年代には、世界銀行やIMF(国際通貨基金)の勧告によって、市場経済原理をとり入れたが、国営企業の民営化や通貨の切り下げなどの措置は、かえって失業やインフレを助長することになる。(宮田律『現代イスラムの潮流』80頁)

イスラム政治運動を支持する青年層が卒業した大学の学部を見ると、神学部というよりも法学や経済、工学など一般的な学部が多い。このことからもイスラム政治運動が雇用機会を得られない青年層の不満を吸収していることが分かる。イスラム世界を訪ねてみると、若者の数が特に多いという印象をもつが、若者が街で日中何もしないでぶらぶらしている姿は、失業問題が深刻になっていることを明らかに印象付けるものだ。(同書82頁)

本欄76日付の記事で紹介したように、現代アメリカの経済学者スティグリッツ氏は、現代のグローバリゼーション最大の問題点をそれが「世界政府のない世界統括」であることに求めている。たとえばスティグリッツ氏は次のように述べている:

そこにあるのは「世界政府のない世界統括」とでも言うべきシステムである。少数の機関-世界銀行、IMFWTO-と少数の人間-特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当省-が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている。(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店、2002年、43-44頁)

もしも、1980年代の中東諸国における市場経済原理の導入が、スティグリッツ氏の糾弾するような形でのものだったとすれば、イスラム原理主義の過激派テロリストたちが憤るのも無理はないと言えるだろう。たとえその結果彼らの採用するテロという手段は決して許されるものではないとしても、である。

さらに問題を深刻にしているのは、アラブ諸国の国民が自国政府による社会的セイフティ・ネットを保障されていず、教育・福祉といった機能が、急進的なものも含めたイスラム組織によって提供されているという事実である。

宮田律氏の前掲書にもう一度耳を傾けてみよう:

イスラム世界では、一九八〇年代以降、政府は教育や社会福祉にあまり熱心ではなくなっていった。これは、中東イスラム諸国における経済の構造改革の開始と時を同じくするものだった。世界銀行やIMFなど国際的援助機関が政府補助金を削減するよう勧告したことによって、教育や福祉事業から政府が次第に後退し、代わってイスラム組織による草の根レベルでの運動がそれらの事業に着手していった。〔中略〕たとえばエジプトでは、暴力をも用いる急進的なグループを含めてイスラム組織が人々に援助の手をさし伸べ、教育・福祉事業を通じて次第にエジプト社会に根を張っていく(同書104頁)。

ハマスのリーダーの一人だったイスマイル・アブ・シャナブも、ハマスの成功のうち最も重要な要素は、その社会福祉活動であると述べていたという。(Stern, Terror in the name of God, p. 41

こうしてみると、現在世界各地で頻発している宗教テロの多くは、要するに地球大での自由放任主義に対する反撃とみなさなければならないと思われる。たとえグローバリゼーションが正しく進めば世界中の利益になるだろうということが言えるからといって、現在のあまりに性急かつ強引なグローバリゼーションは、途上国の反発を誘発するだけだろう。大野健一氏がその著『途上国のグローバリゼーション』(東洋経済新報社、2000年)13頁で述べているように、「工業化して久しい先進国とまだ一次産品しか輸出できない途上国が同じ土俵の上で輸出競争をすれば、後者が負けるのは当たり前である」。にもかかわらず、米国をはじめとした先進国が、工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示すとすれば、バグワティ氏の言うようにたとえ途上国自身も先進国からの輸入品に高い保護関税をかけているとしても、途上国が先進国に対して不公平感を抱き、また世銀やIMFWTOによって進められるグローバリゼーションに「新たな植民地システム」のにおいを嗅ぎ取ったとしても、無理はないと思われるのである。繰り返しになるが、たとえその結果、彼らの採用するテロという手段が絶対に許されないものだとしても。

ここで筆者のハイエク研究に関連させて論ずるならば、市場競争に臨むに当たって、たとえば「先進国が工業製品の輸入を途上国に迫る一方で、一次産品を途上国から輸入することには難色を示す」というようなダブル・スタンダードは、ハイエクの最も嫌うところであった。また、それと同時にハイエクは、たとえ二十世紀の福祉国家が行なったような広範な再分配政策は否定したとはいえ、国民全員に一定の必要最低限の社会的セイフティ・ネットを保障することの必要性を、明確に主張していた。この点に関して、筆者にとって大変重要と思われるのは、ハイエクの次の一節である:

すべての人に対するある最低所得の保障、あるいは、誰も、自分自身を扶養できないときでさえ、それ以下に落ちなくてもよい、ある種の最低水準の保障は、単に、万人共通の危険に対する完全に合法的な保護であるだけでなく、また、個人には、自分の生まれ出た特定の小集団の成員に対して、特別な請求をする権利がもはやない、偉大な社会〔the Great Society:市場社会のことをハイエクはアダム・スミスの用語を借りてこう呼んだ-山中〕のなすべき必要な事柄であるように思われる。大多数の人を誘って、こうした小集団の成員であることによって従来与えられてきた相対的な保障を放棄させようとする体系は、おそらくすぐに、大きな不満と激しい反対をひき起こすであろう。すなわち、かつてその恩恵を享受してきた人々が、それによって、自分自身の落ち度でもないのに、生計の資を得てきたかれらの資格を奪われ、逃げ道がなくなっていることに気づくからである。(『ハイエク全集10 法と立法と自由  自由人の政治的秩序』春秋社、1988年[原著1979年]83頁。ただしsecurityの訳が「保証」となっているのは「保障」と改めた)

ここに引用した文章は翻訳調でやや読みにくいという印象は否めないだろうが、要するにハイエクがここで言っていることは、近代化・市場化にともなう急激な社会変動により、従来の農村における地縁・血縁関係から切り離され都市に出てきた人々に対して、最低限の生活保障を行なうことは、政府の果たすべき重要な仕事だ、ということなのである。

しかも、ハイエクは、上記の文章に付した注で、次のような事実にも読者の注意を促していた:

いわゆる自由放任の絶頂期でさえヨーロッパのあらゆる先進国においては貧者を扶養するための規定があった(同書、237頁)。

だとすると、そのような最低生活の保障の意志も能力も欠いている途上国に対して、適応の猶予も与えないままに国際統合を迫るのは、あまりに危険なことではないだろうか?

大野健一氏の『市場移行戦略:新経済体制の創造と日本の知的支援』(有斐閣、1996年)17-18頁でも論じられているように、IMFや世銀の「市場移行戦略」の特徴の一つは、市場信奉と政府不信であった。しかし、IMFや世銀、WTO、それに先進国は、次の大野氏の言葉にもっと耳を傾けるべきなのではなかろうか?:

グローバル市場経済に背を向けた開発戦略は必ず破綻する。むしろ私は後発国に、前向きに国際システムに組み込まれよと言いたいのである。だが同時に、産業・制度・政策の準備なしに飛び込むことは無謀である。国際統合はその社会の主体性と連続性を失わないような形で進行しなければならない。この逃れえない緊張のなかで、それぞれの国が自ら選んだ統合の道を試行錯誤を繰り返しながら進んでいくのが最も健全な姿であろう。そしてそのような道を可能にするような国際環境を構築することは、先進国や国際機関の責任である(『途上国のグローバリゼーション』東洋経済新報社、2000年、33-34頁)

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宗教テロとグローバリゼーションをめぐって(1)

今日は本来なら、勤務先の大学で三つの学期末試験の試験監督をする予定だったが(私の担当科目の政治学概論を含む)、台風7号の接近に伴って、あさっての木曜日に順延され、今日は休日となった。水害などの被害が出ないことを祈るほかないが、いずれにせよ、思わぬ形でまとまった時間ができたので、以前から少しずつ読み進めていた次の本を、午前中にゆっくり読むことができた:

Jessica Stern, Terror in the Name of God: Why Religious Militants Kill ( HarperCollins Publishers, 2003)

本欄7月15日の記事でも紹介したように、著者はハーバード大学のケネディ・スクールで教えているテロリズム研究者で、本書は、宗教的信念に基づいたテロリストたちを実際に訪ねて(!)インタビューすることによって、「なぜ宗教戦士は人を殺すのか」という問いを探求した、全部で400ページにわたる浩瀚な書物である。

この本を全部読み通したわけではない。読めたページ数はまだまだ不十分であり、あわせて計90ページほどにすぎないが、残りのページについてはまた少しずつ読み進めていくとして、それでも私の研究関心に直接かかわる点、すなわちグローバリゼーションと関わる点については、ある程度その要点をつかめたように思う。私が読んだ計90ページのなかには、この書の結論部分に当たる章(ch.10 Conclusion / Policy Recommendation, pp. 281-296)も含まれてるから、この書物の要点をある程度つかめたと言っても、許されると思う。そこで、今日からしばらくは、この書物の中から、イスラム原理主義のテロリストによるグローバリゼーション批判をわれわれはどう受け止めるべきか?-という点について、ここで試しに論じてみたい。

昨今のテロとグローバリゼーションの関係について、非常に重視すべきと思えたのは、パレスチナの過激派武装組織ハマスの指導者の一人イスマイル・アブ・シャナブIsmail Abu Shanabへのインタビューにおいて、「グローバリゼーションについてどう感じているか」という著者の質問に対するシャナブの次の言葉である(ちなみに、インターネット検索で調べてみたところ、シャナブは2003年8月21日にイスラエル軍により暗殺されたようである。http://www.onweb.to/palestine/siryo/ismail-morisawa.html)。原文の次に拙訳を試みてみよう:

Globalization is just a new colonial system. It is America’s attempt to dominate the rest of the world economically rather than militarily. It will worsen the gap between rich and poor. America is trying to spread its consumer culture. These values are not good for human being. The problem with pursuing capitalism as an end in itself is that the name of the game is the dollar. In the West, money really does talk. This is bad for the human being. It leads to disaster for communities. (Stern, Terror in the Name of God, pp. 38-39)

グローバリゼーションは、新たな植民地システムにすぎない。それは残りの世界を軍事的というよりは経済的に支配しようとするアメリカの企みである。それは貧富の格差を悪化させるだろう。アメリカはその消費文化を〔世界に〕広げようとしている。これらの価値は人間にとってよいものではない。資本主義を目的それ自体として追求することにともなう問題は、そのゲームの名前がドルであるということだ。西洋では、まさにカネがものを言う。これは人間にとって悪いことだ。それは共同体にとっての災厄につながる(山中訳)。

このシャナブという人物は、コロラド大学でエンジニアリングを学んだ(ibid., p. 38)というから、エリート知識人であり、アメリカ人の生活ぶりについても身近に知っていたことと思われる。このインタヴューにおける会話も、通訳を介さずに、英語で直接交わされたものに違いない。

このシャナブという人物から出たグローバリゼーション批判の要点は、次の二点にわたってなされたものと考えることができるだろう。すなわち、(1)政治・経済的側面と(2)文化・倫理的側面である。

そこで、以下では、この二点にわたるグローバリゼーション批判について、考察を加えていこうと思う。

〔つづく〕

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2005年7月24日 (日)

ロンドンのテロをめぐって:宗教テロは“自由からの逃走”か?

本欄に721日付で「博士論文執筆再開」を書いた途端に、またもやロンドンで爆破事件が起こった。それに引き続き、昨日723日にはエジプトでテロである。「しばらく現実の動きから一歩身を引いて執筆に専念しようか…」と思っていた矢先のことだった。いやが応でも、「なぜこれほどまでに宗教テロが頻発するのか?」という問いが、またもやむくむくと湧き起こってこざるを得ない。

この『研究日記』で「国際テロとグローバリゼーションをめぐって」と題して書いたときには、昨今のテロの原因を、経済的に欧米と肩を並べたいにもかかわらずそれが叶わないことに対する苛立ちに求めた。

しかし、そのような経済的要因だけではなく、それとはまた別の要因にも目を向けなければならないのではないか-と思うようになってきた。それは、「自由という価値そのものに孕む問題性」という要因である。

私が購読している英字新聞はInternational Herald TribuneIHT)であるが(より正確には『ヘラルド朝日』と言って、朝日新聞の英語版が合わさったものだ。ちなみに日本語の新聞は産経を購読している)、私が自由という価値の問題性にも注目すべきだと思うようになったのは、720日付IHTに掲載された論説を読んでのことである。

私の目を引いたのは、ロジャー・コーエン氏(Roger Cohen)によるものであった。タイトルは A deadly idea defies any simple doctrines である。“a deadly idea というのは、自爆テロを促すイスラム原理主義のことであるが、それをうまく説明できない単純な教義として氏が指しているのは、イスラムのテロリズムの原因を〔テロを働くことになる者たちが〕抑圧や排除を受けてきたこと、すなわち自由の欠如による絶望の産物とみなし、テロをなくすための解決策をそのような国々に〔欧米的な〕自由を広げることに求めようとする考え方のことを指している。

この考え方は米ブッシュ大統領や英ブレア首相が抱いているものであるが、コーエン氏に言わせると、今回のロンドンのテロは、その考え方によってはうまく説明できない。なぜなら、今回のロンドンのテロの実行犯が住んでいたイギリスの都市リーズLeedsは、決して自由を知らない都市ではなかったからだ。また、9・11の実行犯モハマド・アタにしても、ドイツのハンブルグに10年間住んでおり、そのハンブルグも自由を知らない都市ではなかったのである。

今日(7/24)午後610分より放映されたNHKの「海外ネットワーク」を見たが、たしかに彼らは自由な生活を送っていたようである。この番組では、ロンドンのテロの実行犯となった四人の青年のうち、パキスタン系のイギリス人青年二人のリーズでの生活ぶりについて伝えていた。モハンマド・シディック・カーン(30)は、リーズの小学校で補助教員をしていたという。教えられていた小学生の一人は「いい先生だったよ」と言い、ある女性(教え子の母親だったのか、あるいは同じ学校の同僚教師あるいは事務職員だったのか、それとも近所の住民なのかは分からないが)は、「カーン先生があのテロに関わっていたなんて信じられない」とインタビュアーに答えていた。

もう一人の青年シャハサド・タンウィール(22)の親は飲食店を経営していた。看板にはSouth Leeds Fisheriesと書いてある。店内の様子を映した映像で見たところ、明らかにそれは、欧米社会によくあるファースト・フードの店構えであった。ただし、Fisheriesと書いてあるところを見ると、イスラムでタブーとされる豚肉はもちろんのこと、牛肉でも鶏肉でもなく、魚肉を出していたのだろうか。そうすることで、イスラムとしてのアイデンティティを保持しようとしていたのかもしれない。しかしながら、その店構え自体は、明らかに欧米的なファースト・フード店そのものであった。いずれにせよ、その父の店で時々親の手伝いをして働いていたというタンウィールはお客に笑顔で接し、同店で働いていた従業員の話によると、助けを求められればいつでもその手助けをしていたらしい。友人の話では、クリケット好きのごく普通の青年だったという。言うまでもなく、クリケットはまさにイギリスのスポーツである。

彼らは地元のモスクに併設されたスポーツ・ジムで知り合ったらしい。小学校の補助教員だったカーンがそこでトレーナーとしても働いており、タンウィールともう一人のパキスタン系イギリス人の青年(18)とがそのジムに通っていて、今回の実行犯四人のうち、ジャマイカ系イギリス人の青年(19)を除いた、パキスタン系の青年三人の接点のひとつがこのジムにあったと考えられているそうだが、日々の生活が苦しく、食べ物にも困るぐらいだったとしたら、スポーツ・ジムに通うどころではなかったはずである。そのジムの利用に料金が必要だったかどうかはその番組を見るかぎりでは分からなかったが、かりに無料だったとしても、栄養不足や空腹で悩む青年だったとしたら、スポーツ・ジムで身体を鍛える気力など湧かなかったにちがいないのである。

要するに、このパキスタン系のイギリス人青年は、イギリス政府によって抑圧されてもいなければ、社会的に排除されていたわけでもない。裕福ではなかったかもしれないが、社会の底辺においやられて日々の生活に困っていたわけでもない。移民であるがゆえに政治的抑圧や社会的排除を受けるといったことはなく、ごく普通に、自由に暮らしていたのである。

だとしたら、彼らはなぜ、自爆テロを促すイスラム過激派の原理主義的な信仰から多大な影響を受けることになったのか?

ここで先ほどのコーエン氏の論説に戻ろう。氏に言わせると、今回の実行犯となった青年たちがリーズで生活を送っていたという事実は、テロを「抑圧と排除を受けたことによる絶望の産物」とする考え方とは別の結論をわれわれに示唆している。その結論とは、次のとおりである(まずは英語の原文を掲げ、その後に拙訳を試みてみよう):

perhaps it is the very onerous nature of Western freedom, with its multiplicity of choices and absence of moral absolutism, that led them to seek refuge in a fanatical faith.

おそらく、西洋的自由のまさにあのやっかいな性質が、選択の多様性と道徳的絶対論の欠如とあいまって、彼らを狂信的な信仰へと逃避させたのである。

このコーエン氏の議論を読んで私が真っ先に連想したのは、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、新版1965年[原著1941年])の議論である。この書は言うまでもなく、全体主義の原因を“自由からの逃走”に求めようとしたものであるが、この書の序文には次のような文章がある:

自由は近代人に独立と合理性を与えたが、一方個人を孤独に陥れ、そのため自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。〔中略〕全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとするすべての行為の前提である。(同書4頁)

もしもコーエン氏がこのフロムの議論を念頭に置いており、そしてそれが昨今の宗教テロリズムを理解するための重要な鍵の一つだとするならば、まさにハイエク研究者としても、これを看過するわけにはいかない。というのも、かつてハイエク自身も、このフロムの議論を念頭に置きつつ、自由と責任の不可分性について、次のように論じていたからである:

責任の否定は、通常、責任を恐れるからであり、その恐れは必然的に自由を恐れることである〔ここでハイエクは注をほどこし、その注でフロムの『自由からの逃走』の参照を読者に促している-山中〕。疑うまでもなく、自分自身の人生を築き上げる機会は、絶えることのない課題、すなわち、もしも人が自分の目的を達成しようとするならば、自分に課さなければならない訓練を意味するのであるから、多くの人々は自由を恐れるのである。(『ハイエク全集5 自由の条件  自由の価値』春秋社、1986年[原著1960年]、106頁)

もちろん、コーエン氏が本当にフロムの“自由からの逃走”という議論を念頭においていたかどうかは分からないし、このフロムの議論が本当に昨今の宗教テロを理解する鍵となるかどうかについても、私にはまだ100%の確信はないが、もしもフロムの議論がまさにそのための鍵だとするならば、私の博士論文の第5章でハイエクの現代的意味を論じようとする場合に、取り上げないわけにはいかない非常に重要なトピックになることと思う。

このまま中途半端にこの問題を脇においておくことはできないので、またしばらく、博士論文の執筆の手を止めて、原理主義による宗教テロの問題を考えるための読書に邁進することにしよう。いまさら躊躇していても始まらない。脇においておくには、あまりにも重要なトピックと私には思われてならないのである。

この問題が私のハイエク研究とどのようにつながることになるのかはまだ明白には分からない。ただ、「どうもつながるような気がする…」という直観としか言いようのないものである。しかし、かくも強く私の心を駆り立てる以上、そこには何かがあるに違いない。

現実と理論の往還運動は、相変わらず多大な労力を要する作業であるが、そこにこそ、私の研究の生命線もあるように思われる。躊躇逡巡することなく、前進あるのみである。

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