2008年12月19日 (金)

政治制度としての裁判員制度

1年生対象の基礎演習では、受講生諸君に現代政治の課題の中からテーマを一つ選んで報告してもらう、という授業を行なっている。これまで取り上げられてきたのは、地球温暖化、地方の医療現場での人材不足、米国の人種問題、北方領土、食の安全性、株安などであった。これらはすべて受講生諸君が自発的に選んだもので、そのテーマが多岐にわたっており、それぞれ大変興味深かった。またこれらの問題は、私のクラスの全体テーマである現代民主政治との関連が見えやすいものでもあった。

そんな中で、今週の水曜日には裁判員制度が取り上げられたのだが、そこでは、もっぱら司法制度上の問題として報告がなされていた(最高裁判所による説明はこちら)。

たしかにそれはそうなのだが、その日の授業でも説明を加えたが、実は、来年5月から始まろうとしている裁判員制度は、政治学の観点からは、政治制度としても捉えることができるのである。

政治学専攻の読者であればすでにお気づきであろうように、私がここで念頭に置いているのは、古典的名著『アメリカのデモクラシー』の著者としてあまりにも有名な、19世紀フランスの政治思想家トクヴィルの議論である。

その議論については、宇野重規 2007 『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社)の161-164頁に分かりやすく書かれているので、詳しい説明についてはそちらを参照願いたいのだが、わが国の裁判員制度のように、刑事裁判に一般市民が参加するというのは、実は民主主義=人民主権の論理を、裁判権という権力行使の場面にも貫徹させたものなのである。

授業で受講生諸君の意見を聞いてみると、「素人が手を出すべきことではなく、専門家に任せるべきである」という意見も少なくなかった。「一般市民がかかわると、情に流されて、誤った判断がされてしまうのではないか」という意見もあった。これは要するに、この授業のテキスト--佐々木毅 2007 『民主主義という不思議な仕組み』(筑摩書房)--でも論じられていたように、民主主義が衆愚政治に陥ってしまう恐れもある、という議論に通ずるものなのである。

それに加えて、そのテキストの第5章で取り上げられていた福澤諭吉の議論にもあったように、江戸時代まで長らく権威主義体制の下で暮らしてきた日本国民に、はたして主権者としての政治的自覚が根付き、成熟していけるかどうか--すなわち日本の政治文化が民主主義にとってふさわしいものでありうるか(あるいはふさわしいものに変わりうるか)、という論点も関わってくることになる。

実を言うと、以前の私は、この点に関して、いささか悲観的であったことを正直に告白しておかねばなるまい。しかし、最近、ハイエクとの比較を行なうためにトクヴィルの議論に改めて向き合ってみたとき、この点について、再考を促されることになった(*)。正直に言うと、まだ私の中でも確定的な結論が出せずにいる。私の解釈では、ハイエクが民主主義に対してかなり懐疑的・悲観的であったのに対して、トクヴィルは、鋭い批判を民主主義に対して行ないつつも、最終的には民主主義の可能性について希望をもとうとしていたように思う。

定額給付金やタバコ増税をめぐる最近の麻生政権の迷走ぶりを見ていると、まさに衆愚政治に陥っているのではないか--と悲観してしまうのだが、かといって民主主義以外の政治体制に逆戻りすることが考えられない以上、わが国の民主主義の政治的パフォーマンスを向上させるためには何が必要かを、われわれとしては真剣に考えなければならないだろう。わが国の裁判員制度がこの点でどのような効果を持ちうるのか、今後も見守っていかなければなるまい。

(*)筆者によるハイエクとトクヴィルの比較論については、次の文献を参照。

山中優「ハイエクの民主政治論における懐疑と失望-トクヴィルとの比較の観点から」 日本政治学会編 2008 『年報政治学 2008-Ⅰ 国家と社会:統合と連帯の政治学』(木鐸社) pp. 37-60 所収。

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2006年9月17日 (日)

政治は希望を生み出せるか?

今朝の産経新聞の「Sunday読書」欄に、評論家の稲垣真澄氏による「時評 論壇10月号」の記事が載せられていたが、そこに付けられた見出しが「意欲・希望に関わる政治」というものであった。

そこでは10月号の各総合雑誌のなかから三つの論文あるいはルポが取り上げられていたが、その中で、稲垣氏は『文藝春秋』10月号に掲載されている次の二つ、すなわち、山田昌弘氏の「『希望格差』から『希望平等社会』へ」と、後藤正治氏の「ワーキング・プアの時代」とに言及しつつ、ある一つの問いかけを投げかけていた。以下、その問いかけを私なりにできるだけ簡潔にまとめてみると、それは次のようなものである:

「再チャレンジが可能な社会の実現」が政策として声高にいわれているが、その場合に政治にできることは、スポーツの敗者復活戦のような「制度」を作ることのみにとどまるのか。それとも「再チャレンジしよう!」という「意欲」まで政治が生み出さねばならないことを意味するのか。政治は「希望」にかかわることができるのか。

稲垣氏自身はこの問いかけに対する答えを書いてはおられなかったが、この問いかけはなかなか鋭く、重要なものだと思う。というのも、ポスト小泉の政治のあり方に関心が集中しつつある中で、小泉後の総理大臣--それが誰であろうと--に「私たちに“希望”を、“意欲”を与えてくれ!」という期待を寄せている人たちも、もしかすると少なくないかもしれないからだ。

しかし、私自身は、政治が“希望”や“意欲”の直接の生みの親になることはできないと思うし、またなるべきでもないと思う。というのも、政治にできることは、あくまでも「制度」の整備のみだからだ。

たしかに政治の目的は共通善、すなわち社会の人々に共通する善い目的--自由・平和・福祉・安全・繁栄など--であり、その意味では、「働く意欲」や「生きる希望」といったことも、もちろんその共通善の中に含まれるだろう。したがって、政治は少なくとも“希望”や“意欲”を間接的に促進できるような制度的整備は目指せるだろうし、また目指すべきだと思う。

その意味で、この5年間で小泉首相が行おうとしてきた「構造改革」は、たとえその背景に首尾一貫した理論的・思想的バックボーンを欠いていた嫌いが多分にあったとはいえ、一定の評価に値するものだっただろう。すなわち、山田昌弘氏が上記の『文藝春秋』10月号に寄せた論文の中で指摘されているように、既得権益に安住して「努力しなくても報われる人」を生み出すような政治的仕組みを打破しようとしたという意味で、すなわち「働く意欲」や「生きる希望」を全ての人が持つための妨げとなる制度的要因を改革しようとした、という意味で、それは一定の評価に値するものだったと思われるのである(『文藝春秋』2006年10月号、299ページ)。

しかしながら、政治は希望や意欲の直接の生みの親にはなれない。またなるべきでもないだろう。というのも、政治の政治たるゆえんは、その目的を実現する手段として「権力」を使う、ということだからだ。もっとあからさまに言ってしまえば、それは要するに「強制力」なのである。

しかしながら、希望や意欲といったものは、権力を使って強制的に持たせるべき性質のものではないはずであろう。というのも、それはすぐれて、一人一人の「心の問題」だからである。

そのような、いわば“心の救済”を政治に、あるいは政治的リーダーに直接求めることは、きわめて危険である。それはかつて、前世紀に全体主義が行おうとしたことだ。しかも全体主義は、何らかの“敵”を攻撃の対象に挙げることで、それを行おうとした。すなわち、ナチズムはユダヤ人種に、共産主義は資本主義階級に、この世の矛盾の全責任を負わせ、その“敵”の殲滅を政治の目的とし、その目的に心身ともに捧げることを“人生の意義”として国民に強制したのが、かつての全体主義だったのである。

この点でいささか気になることは、小泉氏の政治手法が、つねに敵・味方をはっきりさせ、敵を排除することで国民の支持を劇的に得ようとするものだったということである(この敵・味方を鮮明にする「分かりやすい」政治手法については、今朝の産経新聞の正論欄に掲載された、佐伯啓思・京都大学教授による「小泉流の政治手法が残したもの」と題された論説でも、的確に指摘されている)。

ここで急いで付け加えておかなければならないが、私は何も小泉政権が全体主義だったと言っているわけではない。というのも、そもそも日本は全体主義体制とは対極の位置にある自由主義体制の国だし、また小泉政権は別に、敵を文字通り抹殺しようとはしていなかったからだ。せいぜい、総選挙の時に、ある一つの分かりやすい争点をめぐって国民の支持を一時的に集めようとしただけである。それどころか最近では、かつて郵政民営化問題で自民党を離党した郵政反対組に対して、「離合集散は世の習い」という言葉で、復党容認の姿勢をさえ示したというではないか(これに関しては、gooニュースのこちらの記事を参照)。このようなことを飄々とやってのけ、自らは権力の座からあっさりと引いてしまうような人物を、私たちはとても全体主義者だとは言えないだろう。ヒトラーにせよスターリンにせよ、死ぬまで権力の座に執着し続けた人物だったのである。

しかしながら、小泉流の政治手法が、たとえ一時的にせよ、その時その時に応じて“敵”を作り出すことで国民の劇的な支持を集めようとするものだったことに、私はやはり一抹の懸念を覚えざるをえない。

たしかにそれは、既得権益を守ってきた政治的仕組みを打破するには一定の効果を発揮したかもしれない。しかし、そのような既得権益に安住してきた人々を排除しただけで、残りの人々の人生がたちどころに好転するわけではあるまい。

そのようなとき、もしも自らの恵まれない境遇をもたらした責任を自分以外のどこか外部に、すなわち何らかの敵に見いだそうとするメンタリティを、国民の少なからぬ人々が持ってしまっていたとしたらどうだろう? 最近では資源問題や歴史問題をめぐって中国や韓国との関係がギクシャクしているが、そのような中で、隣国を外敵に仕立て上げ、それを標的にする形で偏狭なナショナリズムが我が国で盛り上がってしまったとしたら、どうだろうか? 外敵の排除に希望や意欲を見出させるようなことが起こってしまわないだろうか? 「内政の危機を外交で挽回する」という昔から行われてきた政治手法が、我が国でも行われないとも限らないのではないだろうか?

もちろん、こんなことは杞憂に過ぎないのかもしれない。私自身もそうであってほしいと思う。しかし、敵を作り出すことで一定の政治的効果をあげようとする政治手法が、最近の我が国で多くの国民の人気を集めてしまっていたことに、やはり私はいささか心配してしまうのである。

話がいつの間にかずいぶん大きくなってしまったが、要するにここで私の言いたかったことは、《政治に心の救済を求めるべからず》ということである。というのも、政治の用いる手段は「権力」だからである。“働く意欲”とか“生きる希望”といった「心の救済」の問題は、政治権力の扱うべき問題ではない。それを間接的に促すための制度的整備はできても、そこから先は、一人一人の心の問題である。それを扱うべきは、政治権力ではなくて、よい意味での宗教や思想・哲学なのである。

私たち国民は、政治に無関心になりすぎることもなく、またそれと同時にあまりに政治に熱狂しすぎることもなく、政治以外の場面で、自らの人生において持つべき人生観を提供してくれる思想・哲学、あるいは宗教とは何かということを正しく追求・判断し、その一方で政治に対しては、「政治にできること」と「政治のできないこと」、「政治の為すべきこと」と「政治の為すべきでないこと」とをシッカリと区別しつつ、冷静に政治と付き合っていくべきだと思うのである。

その意味で、総選挙前後の時にだけ政治的熱狂に踊らされ、その熱狂がさめた後はまた政治に無関心になってしまうといった状況がもし我が国にあるとしたら、それはあまり好ましいものではない。政治はもっと冷静に、しかも持続的に付き合っていかなければならない性質のものである。あまり感情的に流されることなく、もっと粘り強い議論を丹念に行っていくべき領域なのである。そういう意味での政治的成熟を、われわれ日本人はもっと示していくべき時だと思うのだが…。

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