2013年1月18日 (金)

関大最終講義「“権力の病理学”に代わるものを求めて」

今日は、私の関西大学での最終講義を行った。今年度最後というのではなく、非常勤講師として関大で授業するのが最後という意味である。本務校の皇學館大学での仕事が非常に多用になったので、非常勤の仕事は今年度限りとすることにしたのである。

その最終講義では、「“権力の病理学”に代わるものを求めて」と題して講義を行った。その概要は以下の通りである。

政治思想史として教えられることになっている内容は、実は、大体において、“権力の病理学” (the pathology of power)とでも言うべきものである。というのも、それは人類史における危機的で異常な場面に焦点を当てたものであることが多いからだ。

しかしながら、現代アメリカの文明評論家ジェレミー・リフキンに言わせれば、もしもそれが人類史のほとんどを占める本質であったとすれば、種としての人類は、もうずっと以前に滅んでしまっていたことだろう。ところが、リフキンによれば、実は人間は “共感スル人 Homo Empathicus” なのであり、他者の立場に自分を置いて、感情を共有することができるのである。リフキンはそのことを、心理学や脳科学等における最新の研究成果を豊富に挙げつつ、縦横無尽に論じている。そして、リフキンは現代のわれわれに“感情共有文明”(The Empathic Civilization)の構築を訴える。しかも、その感情共有の範囲を、人類にのみとどめることなく、自然界にまで及ぼすべきことを説くのである。というのも、地球環境問題の根本的解決の道はそこにしかないからである。このリフキンの議論は、最近のグリーン・リベラリズム(green liberalism)の目指す方向性とも一致していると私には思われる。

こうした議論を今の日本政治にあてはめるならば、これまでの日本政治を蝕んできた「分断の政治」を超えるためにこそ、感情共有文明の構築が不可欠だという結論が出せるだろう。生活保障問題にせよ、TPP問題にせよ、現代の日本では、高生産性部門と低生産性部門との間で深刻な亀裂が走っている。TPP問題ひとつとってみても、再び政権の座についた自民党の中で推進派と反対派が混在しており、その両派の間で対立の火種はくすぶり続けている。それがいつ火を噴いても、決しておかしくはない状況だ。今夏の参院選の時期が近づくにつれて、両者の間での緊張は高まる一方であろう。“アベノミクス”に、それを解消・昇華させる知恵が果たしてあるのかどうかーーそこに現政権の試金石の一つが存在していると思われるのである。

さて、関大での非常勤が今年度限りであることは、先週の授業で、受講生諸君に公表した。その授業のあと「授業評価アンケート」を行ったが、その自由記述形式の用紙には、「熱意がたくさん伝わってくる授業だったので、毎週楽しみにしていました」とか、あるいは「先生の授業を受けることができなくなると思うと寂しいです。ありがとうございます」というように、これが最後であることを惜しむ声が少なくなかったことは、大変有難かった。この場を借りて、授業を熱心に受けてくれた受講生諸君に、心からの感謝の念を表します。

【参考文献】
Rifkin, Jeremy (2009) The Empathic Civilization (Penguin Books)
鷲田豊明(2006)「グリーン・リベラリズム」環境経済・政策学会編『環境経済・政策学の基礎知識』(有斐閣)94〜95頁。
宮本太郎(2008)『福祉政治 日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣)
中野剛志(2011)『TPP亡国論』(集英社新書)

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2012年6月28日 (木)

公務員講座(行政法)を受けて考えたこと(2)

前回も言及した村松岐夫『日本の行政』〈中公新書1179〉(中央公論新社、1994年)によると、日本の行政システムは「最大動員システム」と呼べるものであった。それは、目的を達成するために、行政が利用できる公務員数、予算、法的権限等(これらを総称してリソースと呼ぶ)を最大限に利用しようとするシステムを意味するが、その際の「目的」とは、言うまでもなく、近代化という国家目標だった。

私なりに言い換えれば、要するに「欧米に追いつけ、追い越せ」という国家目標である。戦前日本においては「富国強兵」だったし、戦後日本では「富国」あるいは「経済成長」であった(特に池田勇人内閣以降の日本)。

同書に話を戻すと、そうした行政システムにおいては、最大動員のためには組織成員個人の事情をかまわない。権限の割り振り方、作業場に関して、大体でよいから早く大量にやりやすい方式が大原則になる。分業的な規則はそれほど問題とされない。規則を犠牲にしても目的実現の最大化に関心が向けられたのである。

同書によると、これと対照的なのが規則による管理である。ここにおいて組織のトップは目的にではなく、規則に従う。トップの恣意性の危険性は少ないし、組織内規則は組織外の行政規則にリンクしており、司法的監視体制の下に置かれる。その代わり、責任のためにしばしば目標が達成されなくても仕方ないという覚悟がある。

それに対して、最大動員システムにおいては、個人責任を明らかにすることを犠牲にしてでも、目標の達成を第一と考えるのである。すなわち、最大動員とは、「規則による責任志向の管理」に対する「目標による能率志向の管理」なのであった。

同書の「まえがき」では、以上のように日本の行政システムの特徴を述べたあと、次のように述べている。

このシステムが大きな功績を挙げたことは否定できない。だから評価され、今後も維持されるべき多くの長所を持つ。しかしシステムとしては、しだいに有為の青年の自主性を引き出すよりもその時間を奪い、不透明をもたらしそれゆえ国民に不安を与え始めた。

こうした不透明性を解消し、行政手続の透明性を確保すべく制定されたのが、行政手続法に他ならなかった。この法律の制定は、「目標による能率志向の管理」から「規則による責任志向の管理」への移行という非常に大きな転換期に日本の行政システムが置かれていることを示すものなのである。

こうした大きな背景を知った上で、行政手続法の勉強を進めて行けば、公務員試験勉強への興味が増すのではないかと思う。公務員志望の学生諸君に、この『日本の行政』の一読を強くお勧めする次第である。

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2012年6月21日 (木)

公務員講座(行政法)を受けて考えたこと

皇學館大学・公務員試験対策講座の経済学は毎週火曜日だが、毎週木曜日は行政法である。今日もその行政法講座を志望学生たちと一緒に受けてきた。経済学とは違って、行政法は大学生時代に授業を受けて単位も取っているので、その学生時代に戻ったつもりで、懐かしい気分にも浸りつつ、毎週受講している。

さて、その学生時代に受けた行政法の授業では全く習わなかった項目が、今日の公務員講座では出てきた。それは、行政手続法のことである。

この行政手続法が制定されたのは平成5年(1993年)のことだったという。私が大学の学部を卒業したのは平成4年3月のことだったから、それを私が学部生時代に習わなかったのは当然である。

その行政手続法の条文の逐次解説を今日の講座で聞いている時に、思わず心の中で笑ってしまうことがあった(いや、今思い返すと、声を出して笑っていたかもしれない)。というのも、至極当たり前だと思われることが、何とも仰々しく明文化されていたからである。

その一例を挙げてみよう。たとえば同法第7条には、「行政庁は、申請がその事務所に到達したときは遅滞なく当該申請の審査を開始しなければなら」ないーーと定められている。すなわち、たとえば飲食店の営業許可申請が行われた時には、行政庁は速やかに審査を開始せよーーとわざわざ規定しているわけである。

このような至極当たり前と思われることが同法にわざわざ謳ってあるということは、その制定前には、申請がすぐに審査されるとは限らなかったということだ。実際、講座担当の先生によると、その申請書類が役所の机の上に、封も切られないまま、一ヶ月以上も放ったらかしにされていることも決して珍しくなかったというのである。

そのような弊害を是正するため、至極当たり前と思われる公正な手続をわざわざ規定したのが、行政手続法という法律である。そのことだけを捉えてみれば、「それまでの日本の行政は一体何をしていたんだ…」と半ばバカらしくなってしまうかもしれない。

しかしながら、この行政手続法が新しく制定されたということの背後には、実は、日本の行政にまつわる非常に重大な事実が横たわっていた。そのことが分かるのは、日本における行政学の第一人者である村松岐夫氏の著書『日本の行政』(中公新書、1994年)を読むことによってである。(続く)

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2012年6月 5日 (火)

公務員試験のミクロ経済学について思ったこと

私の勤務する皇學館大学では、大原専門学校による公務員試験対策講座を放課後に受けることができるので、この五月より、私も公務員志望の学生と一緒に、その授業を受けている。その理由は、試験勉強に取り組む学生たちと苦楽を共にしようと考えたからである。

その学生たちの苦労がよくわかるのは、例えば、ミクロ経済学に出てくる計算問題を解けと言われた時である。そこでは、完全競争市場における消費者/生産者の効用最大化/利潤最大化条件を求めるために、偏微分を使って計算するーーといったような作業が求められるのだが、これが結構ややこしくて、手間がかかるのだ。

こうした計算問題を、公務員試験の一次試験(択一式)で出題するのは、一体何故なのだろう?ーー私が思うに、それはおそらく、型の決まった日常業務を忠実にこなす意欲と能力が受験者にあるかどうかを判定するためだと思う。

新しい問題発見・解決にむけた意欲と能力については、それとは別の試験、例えば論文試験とか面接での集団討論などで見定めるのだろう。その前に、まず一次試験では、定型的で、必ずしもエキサイティングではなく、それでいて結構複雑な日常業務を着実にこなせるかどうかーーその資質の有無を問うていると思われるのである。

他方、大学教員として私が養成すべきなのは、何か新しい問題を発見し、その原因を探り、その解決ができる能力であり、そして、そのための旺盛な意欲である。もしも私が現在のように公務員試験対策講座を受けていなかったとしたら、このことにのみ専念していたことだろう。

だとしたら、公務員試験の択一式で、完全競争市場に関わる出題がされているのを見て、「ナンセンス……!」と一蹴してしまっていたかもしれない。というのも、私の専門はハイエクの政治・経済思想であり、そのハイエクは、完全競争市場などという極めて非現実的な想定を行うことを厳しく批判していたからである。ハイエクに言わせれば、完全競争市場という概念は自由市場を擁護すべき根拠を却って掘り崩してしまうことになる。彼はそのことを、社会主義経済計算論争で雄弁に主張していたのである。

しかし、そんな専門的な知識を公務員志望の学生たちに頭ごなしに説いたとしても、あまり意味を為さないだろう。というのも、その学生たちは学者になろうとしているわけでは決してないからである。

もっとも、定型的な仕事だけしかこなせない、あるいはこなそうとしないとすれば、それはまた別の意味で問題だろう。だからこそ、他方で私のような大学教員の出番があるのだ。

しかし、その大学独自の仕事にだけ専念していたのでは、一次試験の勉強に苦労している学生たちの気持ちは、全く分かってやれなかったに違いない。そんなわけで、私は今、公務員志望の学生たちと一緒に、ミクロ経済学を受講している。

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2012年2月24日 (金)

私の経済学の勉強ノートを公開します

今日は、これから経済学の勉強を始めようとしている(あるいは始めたばかりの)学生の皆さんの参考にしてもらえるよう、私の勉強ノートを一部公開します。


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これらはいずれも、『マンキュー経済学 Ⅰ ミクロ編』の「第3章 相互依存と交易(貿易)からの利益」 を勉強したときに私が自分なりに作ってみたものです。

初めて学ぶことは、ただテキストを目で読むだけだと、よく分からないことが多いです。そんなとき、こんな風に手も動かしてみて下さい。目で読むだけでは分からなかったことも、こんな風にジックリとノートに写してみると、理解が進みます。

なので、手間を惜しまずに、どんどん手を動かしてノートを書いていって下さい!それが勉強の秘訣です!!

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2012年2月 1日 (水)

経済学の勉強を始めた理由

昨日の本欄で、私が経済学の勉強を始めたことを読者の皆様に報告したが、今日はその直接的な理由が何だったかについて述べておこう。それは、公務員試験を目指している学生の勉強を支援するためという理由である。

とはいえ、その学生たちは、すでに公務員試験対策の講座を受け始めているので、その講座で教えられている内容を私がただ繰り返して教え直そうとしているわけではない。

そうではなくて、いま私がしようとしていることは、経済学が実は私たちの生活にとって非常に身近なものであり、本当はとても面白いものであることに気付いてもらい、試験対策の勉強を自分でずっと続けていく意欲を高めてもらうことである。

教えることは学ぶことでもあるので、学生たちに教えようと思ったら、まずは私から学ばねばならない。そして、分かりやすく教えようとする過程で、私自身の理解も一層深まることだろう。

その際、私が過去に経済学を敬遠してしまったことがあるという経験は、むしろプラスに働くと思う。というのも、経済学を学び始めたばかりの学生たちの気持ちに、私も同感できるからだ。

そのようなわけで、このほど経済学を改めて勉強し始めることができた。ずっと以前から「いつかは、またやり始めなければ…」と思っていた経済学の勉強に、今こうして実際に着手できた直接のキッカケは、紛れもなく私を頼ってくれた学生たちのおかげである。そんな学生たちに、この場を借りて、心から感謝する次第である。

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2011年8月29日 (月)

試験の採点で体験した新たな心境(2)

昨日の本欄で「穏やかな温かい心境で採点できるようになった」と書いたが、それは決して「甘い採点をする」ということではない。適切なレベル設定に基づいて客観的な採点基準を設けて試験を行なっている以上、厳正に採点しなければならないのは当然だ。したがって、所定の基準に達していない答案には、不可という評価を付けざるを得ない。

しかし、その「不可」という評価を与える場合、これまでは、強い徒労感を覚えてきた。「こちらはこれだけ一生懸命授業をしてきたのに…」という失望感を、かなり強く感じてきたのである。

ところが、今回から味わうようになった新たな心境の下では、ある答案を不合格にする場合にも、穏やかな平常心を保てるようになった。「はい、残念だけど不合格!また来年、出直しておいで!!」という感じで、非常にサッパリとした気持ちになることができたのである。

たしかに、以前の私のように、「これだけ一生懸命教えてあげたのに…」という思い、すなわち教師として行なってきた努力に学生も応えてほしい!!--という思いを強く抱くのは、人情として当然だと言えるかもしれない。

だが、教えを受けたうえで、それを身につけるためにどれだけ努力しようとするかどうかは、よく考えてみれば、学生の自由だとも言えるだろう。こちらの熱意をどれだけ受け止めようとするかどうかは、最終的には、学生次第なのだ。にもかかわらず、「どうしてこちらの思いに応えてくれないのか…」と腹立たしく思ってしまうのは、一種の執着だと言えるのではあるまいか。

そういう考えに立ち至ったとき、非常に爽やかな気持ちになることができた。これは決して、「学生の成績など、どうでもよい」という無関心では全くない。教師として必要な努力をしてきたという確信があるのであれば(実際にその確信は持っているのだが)、あれだけの労力を費やして、15週間にもわたって授業を行なってきた以上、受講生諸君には必要な知識・能力を是非とも身につけてほしい!!--と願う気持ちを抱くのは当然だろう。

そういう熱い思いを強く強く持っていたとしても、にもかかわらず、それをどれだけ真剣に受け止め、それに応えるべくどれだけ努力しようとするかは、最終的には学生の自由に任せるのである。これはいわば、執着から解き放たれた“放つ愛”とでも言えるだろうか。

また、そうした“放つ愛”の背後には、「もっとやる気を出して努力すれば、必ず合格レベルに達することができるはずだ」という信念、すなわち受講生諸君の潜在能力に対する期待・信頼がなければならない。そうであってこそ、「また来年、出直しておいで!!!」と力強く心の中で叫ぶことができるのである。

今回、必要な場合にはやむなく不可とするにあたって、非常に穏やかな平常心を保てたのは、以上のような心境に達することができたからだと思う。

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2011年8月28日 (日)

試験の採点で体験した新たな心境

去る8月25日に、本務校の皇學館大学と非常勤先の関西大学における試験答案の採点を、追試験答案も含めて、ようやく全て終えることができた。8月に入ってからは、お盆休みを除けば、採点に明け暮れる日々だった。この春学期の担当科目をすべて合わせると、500枚以上の答案を採点したと思う。

実はその採点の最中に、今年はちょっとした新たな心境を体験した。

一生懸命に採点するのは例年のことだったが、昨年度までは、義務感ばかりが強すぎたためか、正直言って、かなり苦痛な作業だと感じていた。苦痛とはいえ、非常に重要な仕事なので、その義務感だけで何とか乗り切ってきたように思う。

ところがこの夏は、そのような冷たい義務感ではなく、温かな心で採点に取り組むことができるようになった。1枚1枚に集中しつつ、時間を忘れて、穏やかな心で採点に集中することができるようになったのである。

そのきっかけは、誠に意外なものだった。そうした心境に達することができたのは、小学校2年生の娘がその友達二人と我が家で遊んでいたとき、私がその三人の遊び相手をしてやった日の夜のことだったのである。

その日の昼は、我が家の庭に家庭用のプールをセットし、そのプールで遊んだのだが、元来、子どもと遊ぶのが好きであり、得意でもある私は、久しぶりに童心にかえり、その子供たち三人と思いっきりはしゃいだ。子供たちに楽しんでもらう一心だった私は、ボールをぶつけられたり、水をかけられたりして、子どもたちが喜べるよう、「やられ役」に徹したのだった。

そうして、その日の夜に採点を再開した時、上記のような心境の変化を感じたのである。そのことに気付いた時は、我ながら非常に驚いた。そして、「どうしてだろう?」と考え始めたのである。

そのときに思い浮かんだのが、子どもたちの遊び相手になってあげたときの心境だった。その時の心の状態は、非常に穏やかで温かいものになっていた。その穏やかで温かい感情をもったまま採点を再開したために、苦痛を感じることなく、柔らかい心で、採点の仕事に取り組めるようになったのである。

このような新たな心境に到達できたことは、誠に有難いことだった。これからも家族や子どもたちへの温かい愛の心を大切にしつつ、穏やかな心で仕事に取り組んでいきたいと思っている。

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2010年2月25日 (木)

「アフルエンザ」の授業改善に向けて

しばらく本ブログの更新が滞ってしまったが、その間に、今年度の試験にかかわるすべての採点はすでに終えたので、これからいよいよ、来年度の授業に向けた準備を本格的に行なっていくことになるが、大きな課題となっているのは、「アフルエンザ」をテーマとした授業である。

アフルエンザ(Affluenza)というのは、Affluence(豊かさ)+Influenza(インフルエンザ,流行性感冒)とを合わせた造語だが、それをテーマとした授業では、テキストとして、邦訳版『消費伝染病「アフルエンザ」:なぜそんなに「物」を買うのか』(日本教文社)を使ってきた。来年度もそれを使うことにしている。

幸い、これまでおおむね受講者には好評だったのだが、今年度は、昨年度までとは違い、必ずしも大半の受講生の関心を惹きつけられたわけではなかったので、来年度に向けては、もっと改善したいと思っている。

アフルエンザをテーマとしたテレビ番組を放送したアメリカPBSにその番組サイトがあるのは以前から知っていたが、このサイトを活用することまでは考えていなかった。しかし、改めて読んでみると、授業にも使えそうなコンテンツがたくさんあった(もちろん、その英語版の教材を英語のままで使うことは、受講生諸君にはおそらく酷だろうから、使うとしたら、私が日本語に訳しておかねばならないが)。

また、その番組のDVDあるいはVHSも、Bullfrog Filmsというところから、そのホームビデオ版が30ドル弱で購入できることも知った。そのDVDを買おうかと思ったのだが、規格の違いで日本では再生できないかもしれないという懸念が一瞬頭をよぎったので、先方に問い合わせのメールを送っておいた。いまは、その返事待ちである。

その番組は第1回とその続編の第2回があったようだが、調べてみると、その第1回の方は、なんと無料で、1時間弱のその動画を全部見ることのできるサイトもあった(こちら)。見てみると、やはり非常にinterestingな番組である。とはいえ、インターネット環境の整った教室で授業を行えるとは限らないし、著作権の問題もあるので、規格の違いの問題がなければ、そのDVDを購入して、私が日本語で解説しながら、授業で上映したいと今のところ考えている。

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2010年2月13日 (土)

ただいま採点中

数日前から進めてきた関西大学での政治思想史2(現代)筆記試験の採点作業を、さきほど終えることができた(答案数120)。

皇學館大学・名張学舎での筆記試験やレポート試験の採点はすでに終えているので、あと残されているのは、大阪市立大学の政治学筆記試験(答案数61)と、皇學館大学・伊勢学舎の総合演習レポート試験(提出者19名)の採点作業である。

その採点の際には、昨年8月14日の記事にも書いたように、「1,2,3-休み-1,2,3-休み」というリズムで行うと、心理的な負担感が減り、かなりスムーズに進めることができた。

明日も一日、この調子で採点作業に取り組みたい。

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