2009年8月14日 (金)

採点をリズミカルに進めるために

8月に入って以来、ずっと取り組んできた採点作業を、このほど、ようやくすべて終了した。本務校の皇学館大学と非常勤先の関西大学との答案数(定期試験とレポート試験)をすべて合わせると約500枚の答案だったので、かなり大変だったことは否めない。

その途上では、採点量の多さに気が遠くなりそうな時もあったが、その採点作業を過度の心理的負担を感じることなく進めていくためのちょっとしたコツを、今回つかめたような気がする。

それは、まだ採点していない残りの答案枚数の多さに目を奪われるのではなく、答案3枚を1組(ひとくみ)と考えて、「1,2,3」「1,2,3」というリズムで採点を進めていくことである。

もう少し正確に言うと、「1,2,3-休み-1,2,3-休み-1,2,3-休み」というように、3枚1組の採点が終わるごとに、“ひと呼吸”置くのである。時には、3・3・7拍子のように、一挙に7枚ほど進んでもよいのだが、いずれにせよ、必ず“ひと呼吸”置くのである。

この“ひと呼吸”置く、ということと並んで、心理的に大変良かったことは、まだ残されている答案の束の厚さに気を取られるのではなく、3枚1組の採点が終わるごとに「はい、1組終了!」というように、“出来たことを数える”ようにしたことであった。これが採点中の心理的負担感を大幅に軽減してくれたのである。

いずれにせよ、これで今年度春学期の授業にかかわる仕事はすべて終了した。この夏のこれからの仕事は、ハイエク全集第Ⅱ期政治学論集の監訳である。

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2009年8月 5日 (水)

ただいま採点中

5月末以来、本ブログの更新を途絶えさせてしまい、事実上の休載状態としてしまっていたが、その間、6・7月はひたすら、週10コマの授業に明け暮れていた。

それに加えて、7月中旬には授業を1週間休講して、チリで開かれた世界政治学会に参加して研究報告を行い(幸い、報告は成功し、実り多い参加となったのだが)、帰国後すぐに、長旅の疲れを抱えながらの補講の連続(帰国当初はまったく大丈夫のつもりだったのだが、帰国後数日が経つにつれて、徐々に疲労が出始めた)、そして7月の最終週からは試験期間という超ハードスケジュールだった。8月3日に私の担当授業の筆記試験はすべて終えたので、現在はその採点中である。

(非常勤も含めて)週10コマも授業を担当していると、採点すべき筆記試験答案やレポート答案も膨大な量になってくる。それに加えて、伊勢での政治学入門の受講者は250名以上(そのうちの受験者は約230名)だったから、その採点だけでも非常な労力が必要である。しかも、8月3日に試験を終えた後、これまでの疲労(あるいは疲労感)が一気にドッと出てしまったので、いまの体調は決して万全ではない。

しかし、採点作業を進めないわけにはいかないので、現在、なんとかその作業を続けている最中である。体調を徐々に整えつつ、採点を続けていこうと思う。

追記:なお、試験の採点内容についての質問・コメントには、ここでは一切応じられないことを付言しておきます。

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2009年5月27日 (水)

授業シーズンをプロ野球にたとえて

今日で今年度春学期の授業期間の第6週を終えた。プロ野球の日程にたとえて言うなら、「第6節」の終了である。明日から「第7節」に入る。

ところで、実は私はプロ野球が大好きなので、授業シーズンも、プロ野球のシーズンにたとえて考えることが多い。そうすると不思議と元気が出てくるからである。

たとえば、今学期の毎週月曜日は、まず名張で2コマ、引き続いて午後には伊勢で2コマなので、これはさしずめ「ダブルヘッダー」である。翌火曜日は、また1時間目に授業があるので、これは「ダブルヘッダーの翌日にデーゲーム」と考えることにしている。明日の関西大学での授業は18:00から2コマだが、これはまさに、「ナイトゲーム」の時間帯だ。

野球のように「対戦相手」があるわけではないので、文字どおりの意味では勝敗がつくわけではないが、1回1回の授業のできばえ、手応えがそれに近い意味を持つ。その「勝敗」は、これまでのところ、「勝ち」が多いと思っているのだが、はたして…?

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2009年5月25日 (月)

大講義室での授業

今年度の毎週月曜日4講時目は伊勢学舎で政治学入門の授業であるが、今年は受講生が200名を超えている。私語が出やすい状況である。

これを放っておくと、真面目な学生から苦情が出るので、こちらも毅然とした態度で臨むことにした。

他の授業では、真面目な中にも和やかな雰囲気で出来るのだが、大講義室ではやむをえない。実は今日もまもなくその授業である。

普段の私とは少し違うことになるが、これからもこの授業の際には、大いに気合いを入れて臨むつもりなので、受講生諸君もそのつもりをしておいてほしい。

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2009年5月 5日 (火)

パワーポイントで授業の心理的負担感を軽減

いつの間にかもう5月5日だが、いま振り返ってみると、先月すなわち新年度が始まってからの1ヶ月は、その最初の1週間が新入生へのガイダンス、その後の3週間はひたすら授業に明け暮れる日々だった。今年度からは、非常勤の授業として関西大学法学部で政治思想史も教えることになり(毎週木曜日2コマ16:20~19:30)、その準備も加わったからである。

今年度の春学期も、その関大での非常勤も入れると、昨年度とほぼ同様のコマ数の授業担当である。すなわち、週平均10コマの授業--隔週で11コマと9コマ--を担当しているので、なかなか忙しい。特に月曜日は、朝7時半に家を出て、まず午前中に2コマの授業を名張で行なった後、すぐに伊勢へ移動してさらに2コマの授業を行ない、帰宅するのは午後8時半頃となるので、非常に慌ただしい。しかも翌日の火曜日には、また1時間目に授業があるので、月曜日は帰宅後もテキパキ行動して、10時までには就寝できるようにしなければならない。

このように今年度も昨年度と同様に--ちなみに昨年度は私の大学人生で最も多忙だった年である--担当授業がかなり多いのだが、授業をこなしていくにあたっての心理的負担感は、実は今年度が最も軽いものであるように思う。その大きな原因は、授業の方法を今年度から完全に切り替え、すべての授業でパワーポイントを使うことにしたからである。

昨年度も実は最初のうちはそうしていたのだが、6月頃からは、やはり従来通り、もっぱら黒板を使った授業に戻っていた。そのやり方にこれまでずっと慣れ親しんできたからである。しかし、今年度の月曜日のように非常に慌ただしい時間割となると、授業中の板書に必要な労力にはとても堪えられないと思ったので、パソコンでパワーポイントのスライドを映しての授業に完全に切り替えることにしたのである。

その場合、たしかに事前の準備には、以前よりもかなり多くの労力が必要となる。しかし、スライドファイルを作ってしまえば、授業本番の間は、心理的に非常に楽なのである。そのことには今さらながら非常に驚いた。事前に作っておいたスライドを順番に映していけばそれでいいし、アニメーションをちょっと工夫すれば、黒板よりも訴求力が格段に向上するので、学生の受けもよい。

そんなわけで、たしかに今年度の授業スケジュールは、特に月曜日のそれは、今まで経験したことのない慌ただしさだったのだが、そのおかげで、授業方式をパワーポイントを使ったものに完全に切り替えることができた。その意味で、今年度の授業スケジュールに感謝している次第である。

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2008年8月11日 (月)

ただいま採点中

今月に入り、週末の私的な用事以外は、採点三昧の日々が続いている。

現在は、非常勤先の大阪市立大学法学部(第1部)の政治学の試験の採点中である。「~について論じなさい」という論述形式の答案を127枚採点するのだから、なかなか大変な作業である。

そのうち今日までで、75枚を何とか採点し終えた。締切が明後日までなので、残りの52枚の答案の採点に明日は専念したい。

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2008年7月30日 (水)

授業期間終了、試験期間スタート

先週末で平成20年度春学期のすべての授業を終え、今週から試験期間に入った。週平均11コマの授業期間を終えてひとまずはホッとしたところだが、その授業は試験のために行ってきたわけだから、ここでもう一度気を引き締めなければならない。

試験が終わればすぐに採点にとりかかる。試験の採点は非常に労力のいる作業である。筆記試験とその採点が終われば、その次には8月4日締切のレポート試験(計4科目)の採点作業が待っている。それが終われば、今度は、私が企画運営責任者の国際シンポジウム(皇學館大学社会福祉学部開設10周年記念事業の一環として:10月3日~4日開催)の詳細な行事進行表の作成などの準備作業である。

そのような訳で、どうやらお盆休みぐらいまでは、以上に挙げた仕事にもっぱら従事することになりそうである。要するに、多用な日々はまだまだ続きそうなのである。後顧の憂いなく盆休みを迎えられるよう、これらの仕事に専念していきたい。

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2008年7月 1日 (火)

コピペ検出サービスで盗用防止

今朝7時からのNHKニュースの特集コーナーで、大学生の間で広がっている、いわゆる“コピペ”問題が取り上げられていた(ちなみに、そこで取材されていた小樽商科大学の江頭進教授はハイエク研究者の一人であり、著書に『F・A・ハイエクの研究』日本経済評論社がある)。“コピペ”というのは、コピー&ペースト(貼り付け)の略で、要するに、インターネットを利用して他人の記事から盗用することで、レポートを安易に仕上げようとすることである。

ところが、今日の共同通信によると、そのコピペを瞬時に検出するサービスが、この秋にも日本語への対応を始める見込みなのだという。

コピペ検出サービス日本へ 米システム、瞬時に判定(共同通信2008/07/01)

この記事によると、このシステムを提供するのは、米アイパラダイムス社のturnitin(ターンイットイン)というシステムなのだそうである。すでに英語、スペイン語、ドイツ語、フランス語には対応しており、日本語への対応もこの秋から開始される見込みなのだという。

この turnitin システムのサイトを探してみると、すぐに見つかった。

Turnitin: Plagiarism Prevention

このコピペ問題は、私にとっても決して他人事ではないので、このサービスが日本でも提供されるようになれば、大いに利用してみる価値はあるだろうと思っている。

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2008年5月20日 (火)

2008年度春学期 1/3の授業を終了

4月8日(火)から始まった今学期の授業が、大型連休を挟んで、昨日で5週間目のサイクルを終えた。全部で15週間なので、ちょうど3分の1を終えたことになる。

非常勤での2コマを含めて、隔週で週12コマと10コマの授業が交互に続くというなかなか多用なスケジュールなのだが、これまでずっと、体調を理由とした休講を一度もすることなく、元気に授業ができていることが大変ありがたい。

これからもこの調子で元気に授業を進めていこうと思う。

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2008年4月28日 (月)

大型連休前の授業を終了

今日で大型連休前の授業をすべて終えた。体調不良による休講は一度もせずに、元気に授業を行えたことは大変ありがたかった(一度だけ、4/23の伊勢での水曜4~5講時の授業を休講したのだが、それは名張学舎で臨時に教授会が開催されたためだった)。

明日からいよいよ大型連休だが、とくにレジャーの予定は組んでいない。子供を近所の公園などに連れていくことはあるかもしれないが、それ以外の時間は、5月以降の授業の準備(パワーポイントでのスライド作成など)や、翻訳にもっぱら充てたいと思っている。まとまった時間を無駄にせず、充実した日々を過ごしていきたい。

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2008年4月16日 (水)

充実した日々

授業が先週の火曜日に始まって以来、なかなか多忙な日々を送っている。たとえば、先週の水曜日は自宅→名張学舎→伊勢学舎→自宅という行程の一日だった。そのスケジュールをざっと記すと以下のとおりである。

【自宅→名張へ】
7:35頃 自宅を出て徒歩で大和八木駅へ
8:04 大和八木発近鉄特急で名張駅へ
8:30 名張駅発スクールバスで名張学舎へ(8:40頃着)

【名張での仕事】
9:10 名張学舎で1時間目の授業(基礎演習Ⅰ)
10:50 キャンパス・セミナー(初年次教育プログラム:全教員担当、指導教員別に学生を指導)
11:35 月に1度の学友会総務委員会に学生委員長として出席

【名張→伊勢へ】
12:30 大学発スクールバスで名張駅へ
12:44 名張駅発近鉄特急で伊勢へ(特急車内で昼食)

【伊勢での仕事】
14:40 伊勢学舎で4~5時間目の授業(総合演習:水曜隔週)

【伊勢→自宅へ】
18:29 宇治山田駅発近鉄特急で大和八木へ
19:48 大和八木駅着、徒歩で帰宅(20:15頃)

というわけで、この日はかなり多忙な一日だったが、「多忙」という言葉を使うと消極的な気分になるので、こういうとき、いつも私は「充実した一日だった」と言うことにしている。

この日のような自宅→名張→伊勢→自宅という行程は、今後、毎週月曜日と隔週の水曜日に、すなわち月に6回ほど経験することになるが、授業の準備を事前にしておけば、案外、そんなにハードには感じないことを改めて実感したので、これからも事前の準備を整えた上で、月曜日と水曜日の仕事に臨みたいと思う。

1週間のサイクルでは、月~水に授業が多く集中している。具体的には、月3コマ、火3コマ、水は隔週で3コマ/1コマである。月曜日の帰宅も、先週の水曜日と同じく、伊勢での授業を終えた後、20:15頃になるだろうが、翌日の火曜日は朝1時間目からの授業なので、あまり気は抜けない。しかし、木曜日は2時間目(10:50開始)の授業が1コマのみなので、水曜日の授業を終えると、少しはホッとした気分になれる。金曜日は非常勤講師として、大阪市立大学で毎週3~4時間目(2コマ)の授業を行うが、それが終われば週末の休みを迎えることになるので、元気よく授業ができると思う。

昨日は、9:10に始まる1講時目からの授業に余裕を持って臨むために、いつもよりも早い 7:18 大和八木発の電車に乗り、8:00には研究室に入った。そして1,3,4講時目の計3コマの授業を16:10に終えた後、17:00開始の会議に出席したが、その会議に思いのほか時間がかかり、19:50頃に終わったので、結局、帰宅したのは21:15頃となった。それでも、今朝は5:00過ぎに起きて、3月に提出した論文のゲラ刷り(先週土曜日に手元に届いた)を相手に校正作業を少し進めることができた。自分でも不思議なほど元気である。

昨日で授業開始後1週間が過ぎたことになるが、授業担当のコマ数は昨年同時期よりも増えているにもかかわらず、今年の方がはるかに元気なのは、おそらく、次の二つが主な原因だと思う。

①パソコンを使って授業をするようになったこと。昨年度までは黒板をふんだんに使っていたが、その場合、板書をいかにわかりやすくするかということにかなり神経を使いながら、授業を進めなければならなかった。ところが、今年度からあらかじめパワーポイントでスライドを作っておくようにしたので、授業中の心理的緊張感がかなり緩和されたのである。事前の準備には確かに手間はかかるが、その準備が私を安心させてくれている。

②毎日、自宅から最寄りの駅まで歩くようになったこと。そのおかげで、昨年度までと比べると、体力・持久力が大いに増したように思う。

というわけで、今年度はこれまでで一番元気なスタートが切れた。これからもこの調子で、まずは大型連休を迎えるまでの間、順調に授業をこなしていきたい。

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2008年4月 8日 (火)

平成20年度春学期の授業開始

新年度の授業がいよいよ今日から始まった。初日から3コマの授業をこなすことになったが、さきほど無事に授業をし終えて、まずはホッとしているところである。

今年度からは、極力、授業でのプリント配布をやめて、このブログ上にファイルをアップしておき、必要に応じて受講生諸君にダウンロードしてもらうことにした。残部の発生による紙の浪費をなくしたかったからである。プリントを印刷する場合には、履修登録されている学生諸君の人数分の印刷をしておかねばならない。しかし、授業に必ず全員が出席するとは限らないし、途中で放棄する学生も出てくるから、その分がどうしても余ってしまうのである。そんな訳で、今年度からは、本ブログにファイルをアップしておくことにした。

今後このやり方で随時アップしていくことにするが、その際、カテゴリーの「政治学概論/政治学」をクリックすれば、まとめて表示できるので便利だと思う。

もうひとつ、今年度の授業で新しく取り組もうと思っているのは、教室にノートパソコンを持ち込んで、パワーポイント等を使って授業することである。今日の政治学概論で、非常に簡単なスライドではあったが、早速パワーポイントを使ってみた。今後、スライド作成を進めていき、パソコンを使っての授業に取り組んでいこうと思う。

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2008年4月 1日 (火)

平成20年度始まる

平成20年度が今日からスタートした。教育機関で仕事をしていると4月からいろいろなことが新たに始まるので、仕事の面では、年始の1月よりも4月の方が“新たな始まり”という感じが強い。

さて、平成20年度の私の担当授業は4~7月の春学期に偏ることになった。今年度を通じての私の授業の週間スケジュールは、次のとおりである。

春学期(4月~7月)隔週で週12コマ/10コマ
曜日 場所(コマ数)
月  名張(1) 伊勢(2)
火  名張(3)
水  名張(1) 伊勢(2)〔水の伊勢(2)は隔週〕
木  名張(1)
金  大阪市大(2)〔非常勤〕

秋学期(10月~1月)隔週で週5コマ/3コマ
曜日 場所(コマ数)
月  -
火  名張(1)
水  名張(1) 伊勢(2)〔水の伊勢(2)は隔週〕
木  名張(1)
金  -

このように、春学期がとても忙しくなる。その代わり、秋学期には時間的余裕を作れそうである。

授業で忙しい春学期だが、その間に、例のハイエク全集第Ⅱ期第5巻政治学論集の翻訳を是非とも仕上げねばならないので、今後数ヵ月は体力の勝負とも言えるかもしれない。

さて、新年度を迎えるにあたり、山中研究室のドア掲示も一新してみた。それがこの写真である。

ここでは小さくしか載せられないが、Photo この私の似顔絵は、プロの似顔絵師に描いてもらったものである。先日、3月29日(土)に家族で大阪・天保山にある海遊館に行ったのだが、その海遊館に隣接する「天保山マーケットプレイス」の一角に、似顔絵コーナーがあったので、そこで描いてもらったのがこの似顔絵である。ただし、このドアに貼ったのはそのコピーである。原画は自宅に飾ることにした。

天保山の似顔絵コーナーのサイトによると、ここには幾人かの似顔絵師がおられるようだが、私たちが訪ねた時に、そこにおられたのは、立石久美子さんという方だった。どこかで専門的に美術を学ばれたに違いないと思っていたが、このサイト掲載のプロフィールによると、「嵯峨美術短期大学卒業」とのことだから、やはり…と納得した。パステル画で優しく描いてくれたのも、私の好みに合っていて、とてもよかった。この場を借りて、似顔絵師の立石久美子さんに、感謝させていただきます(この立石さんのブログはこちら→illustron935☆大阪天保山似顔絵デスク)。この似顔絵(のコピー)を、大学の公式ホームページ掲載用の似顔絵として提出したので、いずれ近いうちに、そこにも掲載されることになると思う。

それにしても、このような絵による表現の方が、写真よりも趣きを感じることがあるのは何故だろう? どちらの方が実物に近いか…と考えれば、それは明らかに写真の方だ。それにもかかわらず、このような絵での表現には、写真にはない趣きがある。それはどうしてなのだろう…? これはなかなか興味深い問題ではないかと思う。

いずれにせよ、いよいよ新年度がスタートした。また新たな気持ちで仕事に勤しもうと思う。

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2007年10月 2日 (火)

毎日少しずつ着実に、そして部屋は整理整頓

昨日から秋学期の授業期間がスタートした。年末年始の休みを挟んで、来年1月までの4ヶ月間、授業が続くことになる。幸い、順調に滑り出すことができた。体にエンジンがかかってきたように思う。体力も徐々に回復してきたようだ。

やりたいこと、やるべきことは、なかなか沢山ある。試みに書き出してみよう。

○研究:来年3月までに論文1本執筆(そのための文献精読)、同じく3月までに春秋社刊ハイエク全集第Ⅱ期第5巻政治学論集の翻訳

○教育:隔週で週6コマあるいは8コマの授業(そのための準備を含む)

○委員会関係:学生委員会、広報委員会、FD推進委員会等の諸委員会の仕事

○クラブ・サークルの顧問:サッカー部、フットサル部、軟式野球サークル、ソフトボールサークルの練習を、時々見に行ってあげること(あまりできていない…)

○英語:通訳トレーニング入門(毎晩30分ほど)、ECC英会話学校への通学(毎週土曜日午前、ただし仕事が土曜日にも入ることが先月は多くて、ほとんど行けていなかったが…)

--などなどである。

これらの仕事をコンスタントにこなしていくためには、うまくスケジュールを組んで、毎日少しずつ進めていくことだ--と改めて実感している。それも、できるだけそのスケジュールを定期的なものとし、それを習慣づけた方がよい。授業の時間割は動かせないものとして定められているから、それ以外の時間に他のことを組み入れていくことになる。

週ごとの仕事のリズムが完全に定まるまで、まだもう少し手探りの状態が続きそうだが、今月半ばぐらいには、だいたいの要領が分かってくるだろう。どうやら研究の時間は、私の場合、やはり朝食前の早朝の時間を利用するしかなさそう(あるいはそれがベスト)である。

順調に滑り出せた大きな要因の一つは、部屋を整理整頓したことだった。研究室も自宅の部屋も、少々乱雑になっていたので、先月末に思い切って整理整頓を敢行したのである。おかげで、気分がスッキリした。

また、大学の仕事は自宅に持ち帰らないことにした。それにこれからは、夏・冬・春休みでも平日には大学に行って、休み期間中の研究は、自宅ではなくて研究室で行うことにした。私の場合、その方が生活のリズムにメリハリがつくことが分かったからである。現在、自宅に置いてある本を、毎日少しずつ、研究室に持って行っているところである。自宅では語学の勉強に限ることにした。その方が、自宅の部屋もきれいに保ちやすいからである。

いずれにせよ、大切なのは、そうしたリズミカルなスケジュールのなかで、毎日少しずつ進んでいくことだと思う。一気に進もうとしない方がよい。毎日着実に、少しずつ。少しずつでよい。その積み重ねが、大きな成果へとつながっていくのだから…。

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2007年6月 1日 (金)

授業を “晴れ舞台” と考える

今日から6月である。新年度が始まってから2ヶ月が経ったわけだが、5月末は気持ちが少々バテてしまい、身体的にも少し体調不良となってしまった。そのため、今週の月・火の二日間、休講してしまったのである。水曜日から復帰したが、それでも今週は疲れやすくなっていた。

原因は何だったのだろう…と反省してみて思い当たったのは、授業を義務=負担と考えすぎていた、ということである。授業をイヤだと思っていたわけではなく、いい意味で楽しんでいるつもりだったのだが、その一方で、心のどこかでまだ、「やはりなかなかシンドイことだ」という思いも残っていたのである。

しかし、それではやはりどうしても疲労の蓄積を避けられない。疲れるのはイヤなことである。そこで、授業に対する考え方を変えることにした。授業に臨むことを、負担ではなく、“晴れ舞台”だと考えることにしたのである。

そのヒントは、私の好きなプロ野球から得た。実は心中ひそかに、私は新学期のスタートをプロ野球のシーズンインにたとえて自分の気持ちを引き立てることにしていた。ところが、なぜか不思議と、そのたとえを授業にも適用して“授業=試合”と考えることはなかった。しかしながら、もしも新学期の開始をプロ野球の開幕にたとえるのであれば、毎回の授業をその試合と考えることはむしろ自然であろう。とはいっても、別に勝ち負けを争うという意味ではない。そうではなくて、自分の力を発揮するための“晴れ舞台”という意味で、授業をプロ野球の試合と同じと考えることにしたのである。

そうすると、授業の準備は、さしずめ試合前の練習である。心身ともにベストコンディションで臨むためには、試合前の練習が非常に大切だが、授業を晴れ舞台としての試合と考えることができれば、それに備えての練習=授業の準備にも、これまで以上に気持ちを込めることができるようになるだろう。

6月からはそのような気持ちで、毎週の“晴れ舞台”に臨もうと思う。

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2007年4月11日 (水)

頭脳明晰な早朝の時間

昨夜は9時半には床に就いた。おそらく10時頃には眠りに落ちたと思う。そのおかげで、今朝はずいぶん早くに目が覚めた。なんと午前3時前である。もっとも、それは、その時間に消防車の音がけたたましく鳴っているのが聞こえたためであったのかもしれない。しかし、その後すぐに再び眠るのではなく、パッチリ目が覚め、体も爽快だったことを考えると、やはりそれは“早寝”の効果だったと思う。

しばらく横になったままでいたのだが、もうスッカリ目覚めてしまったので、本を読むことにした。それは以前に、帰りの電車で夕方に読んでいたときには、あまり頭に入ってこなかったものだった。ところが、今朝早くに読んでいると、不思議にもスーッと頭に入ってきて、スムーズに理解できたのである。

これには2つの要因があったように思う。一つは睡眠により疲れが取れていたこと。もう一つは気分がゆったりしていたことである。以前に帰りの電車で夕方に読んでいたときには、その日の仕事で少々疲れていたし、それに焦りの気持ちもあった。それだけに、今朝の読書との理解度の違いに、改めて驚いたのである。

やはり早朝の時間は、私の経験では、頭脳が明晰な時間帯のようである。もっとも、早起きできるためには、あまり心配しすぎないことも大切だろう。というのも、ここ数週間は、授業シーズンの開始を目前にして、少々、取り越し苦労が過ぎてしまっていたため、思うように早起きできなかったからだ。それでも幸い、だいだい授業の日々を順調に送れるだけの最低限の目処はたってきた。いよいよのときになると不思議に腹が据わるのは、私の性格の有り難いところだ。

今日からいよいよ授業が開始される。今日の9:10からの1講時目から早速私の担当授業が幕を開ける。今日は早起きできたおかげで、気持ちにも余裕を持てているようだ。

これからも心をゆったりとさせ、早寝早起きを続けながら、早朝の時間を生かしてコツコツと研究を続けつつ、授業にもシッカリ取り組んでいきたいと思っている。

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2007年4月 2日 (月)

新年度がスタート

今日からいよいよ新年度がスタートした。正確には昨日からだろうが、昨日は日曜日だったから、気分としては今日が新年度のいわば“仕事始め”である。人事異動により教員スタッフ構成にも変化があった。何よりも大学の場合には、卒業生が巣立ち、新入生が入ってくるし、在学生も学年が進むから、雰囲気が一変する。明日が新年度最初の新入生の登学日となっているから、キャンパスには初々しい気分がみなぎることになるだろう。楽しみである。入学式が明後日の4日に挙行される。

さて、その新年度の授業担当であるが、4月~7月までが週平均8コマ、10月から翌年1月までが7コマとなる。「週平均」という表現をしたのは、水曜日の4・5講時連続の授業が隔週で開講されるからだ。つまり、たとえば最初の週は9コマだが、その次の週は7コマとなるというように、週によって変わるのである。4月~7月までは9コマ→7コマのサイクルで、10月~1月までは8コマ→6コマのサイクルで、授業を進めていくことになる。いずれにせよ、昨年度よりも少し担当が増えた。

今年度からの大きな変化は、本務校の皇學館大学以外に、一つ非常勤で別の大学にも講義に行くようになることだ。10月~1月まで、大阪市立大学法学部の2部で政治学概論を担当することになった。上記の担当コマ数には、この非常勤の授業もカウントしている。

もう一つ、今年度からの大きな変化は、英語を習いに行っているECC難波校でのクラスと曜日が変わることだ。時事英語上級クラス(木曜日)から、時事英語の最上級クラス(水曜日)へと移るのである。時間帯もこれまでの18:30~19:50から、20:00~21:20となり、帰宅がその分遅くなる。クラスのレベルも上がるから、授業の雰囲気もだいぶ変わることだろう。ただし、先生は同じなので、その点ではすぐに馴染めそうである。

いずれにせよ、今日から新年度がスタートした。また新たな気持ちで、教育にも研究にも、英語の勉強にも喜んで勤しみたいと思う。

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2007年3月29日 (木)

授業の準備を開始

平成18年度もいよいよ残すところ、あと2日あまりとなった。新年度は目前である。

新年度の授業の準備に今日から着手したが、まず取りかかったのが、地球温暖化問題をテーマとした総合演習(教職)の授業計画の練り直しである。というのも、2年前からテキストとして使用してきた神保哲生『ツバル-地球温暖化に沈む国』(春秋社、2004年)が品切れとなり、今年4月時点での販売ができないという連絡を、2週間ほど前に、皇學館大学名張学舎の取り扱い書店(丸善名古屋支店)から受けたからだ。

春秋社に直接問い合わせてみると、現在、その増補版が準備中で、6月頃に刊行予定だという。そこで、その増補版が刊行され次第、テキストとして使うことにしたが、それまでの間、何を教材とするかの問題が残っていたのである。

いろいろと探してみたのだが、結局、かつて本欄でも詳しく取り上げた、石弘光『環境税とは何か』(岩波新書)の主に第1~2章を、4月から5月までの授業の教材とすることにした。教材として使うには、自分がまずその内容をしっかりと理解していなければならないからである。受講者諸君には購入するテキストが1冊増えることになるが、新書版で税込777円だから、無理な金銭的負担を強いることにはならないと思う。

実は、一度は加藤尚武『環境倫理学のすすめ』や同『新・環境倫理学のすすめ』(いずれも丸善ライブラリー)も考えた。しかし、その2冊を読んでみて分かったことは、倫理学の薫陶を受けてこなかった私には、そこで説かれている環境倫理学の三つの基本的主張-自然の生存権、世代間倫理、地球全体主義-のおおまかな内容は大体理解できても、それらをめぐる環境倫理学上の込み入った議論を綿密に消化することが、今の私にはすぐにはできそうもない、ということだった。新書サイズの本ではあるが、そこに書かれている内容はなかなか本格的で、読み応えがある。

そのようなわけで結局授業のテキストとしての採用は見送ったが、しかしながら、必要に迫られて上記の加藤尚武氏の著作を読んだことで、自由主義や民主主義や人間中心主義といった近代の価値が地球環境問題を前にして根本的な見直しを迫られている、という重大な事実への基本認識を深めることができたことは、大きな収穫だったと思う。

いずれにせよ、『ツバル』の品切れ→増補版6月刊行予定、という連絡を2週間ほど前にいただいてから練り直しを迫られていた授業計画の立て直しに、おおよその目処が立ってきたことは、大きな進歩だった。明日からも着々と授業準備に励んでいきたい。

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2006年9月29日 (金)

授業開始を間近に控えて:適切なレベル設定の重要性

ここのところ本欄の更新のペースが落ちてしまっていた。その理由は、10月からの授業開始に向けて、あれこれ考えていたからである。特に「どうすればいいかな…」と考え込んでいたのは、英書講読の授業をどのように進めていけばよいか、ということだった。

4~7月までの春学期の授業について、受講者の学生諸君から寄せられた「授業評価アンケート」の回答集計結果が夏休み中に私の手元に届いた。幸い、おおむね好評であり、英書講読についてもなかなか好評だったのだが、好評さの度合いが、私の担当授業のなかで相対的に低かったのが、実は英書講読だったのである。私が一番苦労していたのが英書講読だったから、この結果は当然だったと言えるだろう。

なので、10月~翌年1月までの秋学期の英書講読はどのようにしていけばよいのか、ということについて、ずいぶんとこれまで、あれやこれやと考えてきたのであった。

およそ教える側のもつ希望としては、①「たくさん教えてあげたい」、②「分かりやすく教えてあげたい」、という2つがあると思われるが、この2つの間でのバランスをほどよく保つことは、実を言うと、そんなにたやすいことではない。というのも、その年その年によって、受講者の学生諸君のレベルや様子は異なるからだ。しかも、受講者一人一人の間でのレベルの違いもなかなか相当な開きがあって、そのレベルのバラツキ具合も、その年その年によって微妙に違っている。なので、毎年、上記の①②の間でのバランスを今年はどのあたりに落ち着かせるか、ということを、その年に応じて探っていかなければならないのである。

春学期に取り上げたテキスト(本の購入は求めずに、コピーを配布していたのだが)は、その原文そのままだと、学生諸君には大変むずかしく感じられたようであった。なので、それを私が、主旨のみを伝えられるような、よりシンプルな英文に直したものをプリントにして、毎時間配っていたのだが、その労力は非常に大きなものだったので、これを秋学期にも続けることはちょっとできそうになかった。

そこで、秋学期には、内容的に関連した、もう少し簡単な題材をテキストとして取り上げることにした。要するにテキストの変更を決断したのである。これは、もしも受講者諸君にテキストの購入を義務づけていたのなら、とてもできないことだったが、そのほんの一部分を、ほんの数ページ分のみを、コピーして配布していただけだったので、テキストの変更も可能だと判断したのである。

秋学期に学習できる分量も、微々たるものにとどめることになるだろうが--だからこそ、コピーでも対応できるし、著作権侵害の心配もなくなるのだが--それは、上記の①「たくさん教えたい」という希望を極力抑えることに決めたからである。これは私にとっては、なかなか辛い決断だったのだが、学生諸君の現在のレベルや要望をあまりにも大きく超える量や内容を提供することは、かえって逆効果になるおそれがあると考えたからである。たとえ良いことでも、それを無理に押しつけることはできない。

とはいっても、受講者の中には、向学意欲も英語理解能力もなかなか素晴らしい学生もいるから、そういう学生のニーズも満たさなければならない。しかし、たかが1回90分の授業中だけにできる作業などはしょせん限られているし、本当に力を伸ばすためには、授業以外の時間に自分でトコトン勉強するしかない。時間を忘れて集中・没頭して、喜んで勉強に打ち込むほどでないと、大きくは伸びないのである。

もちろん授業に出ることは非常に大切である。だが、その授業で習ったことを“身につける”には、それを自分自身で練習していくしかないのである。だから、授業で受講者諸君に私から提供できることは、自分で勉強するときによい導きとなるような重要な内容を伝えることだけである。それを身につけるために自分でも毎日努力するかどうかは、受講者諸君の自主性に委ねるほかはない。

しかしながら、他方では、「せめてこれだけは受講者全員にクリアしてもらわないと…」という最低の基準は定めなければ、単位認定の際に「可」という評価を出すことはできないから、その必要最低限の到達目標も決めなければならない。

そんなわけで、「可」「良」「優」の3通りのレベルを設定しつつ、そのうちのどのレベルを目指すかは学生一人一人の自由に任せて、全ての学生がそれなりの達成感を味わえるような授業を展開していくことが必要となるわけである。

具体的にどのようにこの秋学期の英書講読の授業を進めていこうとしているかは、授業の時間にお伝えさせていただくことにするが、学生諸君の満足度が春学期よりも上がるよう、コツコツと努力していきたいと思っている。

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2006年7月14日 (金)

今学期の授業を終えて

来週水曜日に組まれている補講1コマのみを残して、今日で春学期の授業を終えた。週7コマの授業が13サイクルだったから、7×13=101コマの授業を本来なら行なってきたことになる。

しかし、現実には98コマだった。というのも3コマ分、少し体調を崩して休講してしまったからである。そのうちの1コマは来週水曜日に補講をすることになるが、それを加えても99コマである。こうして計算してみると、どうせなら100コマにしておけばよかったと、ちょっと惜しい気がする。

それでも、平成10年4月から教え始めて以来、今学期が最も休講の少ないセメスターだったように思う。昨年度までは、いつも4コマぐらいは補講をしてきたからだ。しかし、こうして振り返ってみると、毎学期、少しずつではあれ必ず休講してきたことを、恥ずかしく思う。

プロ野球の世界で連続試合出場や連続イニング出場といった記録がある。そうした記録を残してきたのは、みな偉大な選手ばかりであった。だから私も授業シーズン中の準備や体調管理をもっと万全にして、連続授業記録を伸ばしていくことを励みに、来学期からはコンスタントに授業をしていきたいと思う。

さて授業内容自体については、受講者諸君からの授業評価アンケートに書かれていた自由記述欄には、おおむね好意的なことが書かれていたので、ほぼ満足していただけたのではないかと考えている。

しかし、まだまだ改善の余地はありそうだ。とくに英書講読は、正直、手探りの状態が続いている。中学・高校と英語を苦手としてきた受講者が多い中で、いかにして英語を読む面白さを伝えることが出来るかが、教育者としての私にとって、現在最も大きな課題である。

ともあれ、補講1コマを残して、今学期の授業を終えた。政治学概論の受講者諸君は筆記試験に向けての試験勉強に、基礎演習(教養)と総合演習(教職)の受講者諸君はレポートの作成に、そして英書講読の受講者諸君には夏休み中の英語の練習に、励んでもらいたいと切に願う次第である。

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2006年6月24日 (土)

苦手意識から脱却しよう!:政治学概論(名張)は入門レベルです

政治学概論(名張)の受講者諸君へ

前々回の記事で、「困難と見え、努力を要することにこそ、やり甲斐がある」と述べた。とはいえ、それぞれの成長段階というものはあるから、たとえば小学生にいきなり「この専門的な英書を読破せよ」などという課題を与えることは、はなはだ不適切ということになるだろう。小学生には小学生向けの、中学生には中学生向けの、高校生には高校生向けの、大学生には大学生向けの、適切なレベル設定を行なうことは、教員として細心の注意を払って慎重に行なわなければならない事柄である。

しかし、政治学概論(名張)に関して言うならば、そこで設定されているレベルは、実は、高校を出たばかりの大学1年生を想定した「入門レベル」なのである。

以前に授業中にも一度話したことがあるが、注目してもらいたいのは、テキストの書名と、テキスト表紙の左下に表示されているマークの色である。

テキストの書名をもう一度よく見てみよう--そこには『はじめて出会う政治学』と書いてあるはずだ。つまりこのテキストは、「まえがき」のiiiページ冒頭に書かれてあるように、「どのような話題から始めれば、高校を出たばかりの学生たちを政治学の講義に引きこめるのだろうか」という問題意識のもとに、内容をわかりやすくするために大変苦心を重ねて書かれた書物なのである。

また、このテキストは「有斐閣アルマ」というシリーズのなかの一冊であり、このシリーズには4段階のレベル設定がされているが、この『はじめて出会う政治学』の場合は、その一番初歩のレベルに設定されていることを示す、赤色のマークがついているのである(表紙の見返し部分で各自確かめられたい)。

したがって、決して、諸君が思っているほどには、本当はそんなに難解な内容ではないのである。

にもかかわらず、諸君の中で「難しい…」と感じている人がいるとすれば、やはりそこには一種の苦手意識が働いてしまっているからではないかと思われる。その奥には、いつのまにか諸君の心のうちに巣食ってしまっている何らかの“劣等感”のようなものが横たわっているのかもしれない。その苦手意識、劣等感が、諸君のうちに潜む巨大なる潜在能力にフタをしてしまっているのである。

政治学概論(名張)の設定レベルは、客観的に言って、大学で学ぶ政治学における最も初歩的なものである。したがって、決して、今の諸君の成長段階に不相応なまでに高度・難解なものではないのである。

したがって、諸君が試験勉強に取り組むにあたっては、「決して今の自分には太刀打ちできないような不相応なレベル設定はされていない、むしろ努力すれば必ず到達できるような、ちょうど良いレベル設定が為されているのだ」ということに安心して、喜んで意欲的に試験勉強に取り組んでもらいたいと思う。

山中 優

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2006年6月23日 (金)

「単位を下さい」という言葉

大学の教員をしていると、時々、「単位を下さい」と言われることがある。あるいはまた、試験結果が公表された後に、「単位をありがとうございます」と言われることもある(つい最近にも、こういう声がある1枚の聴講券の裏面に書かれていた)。

学生諸君から時々発せられるこうした言葉は、決して悪意から出たものではなく、きわめて素朴かつ率直な気持ちから来るものであろう。

しかし、その表現は、実は非常に的外れな言葉づかいである。というのも、教員が行なっていることは、決して単位を“あげる”ことではないからである。

たしかにわれわれ教員も、時々、言葉の綾で「このままでは、君には単位をあげられないよ」などといった表現をしてしまうこともある。しかしながら、厳密に言うならば、これは誤った表現である。

というのも、教員が行なうこと、また行なうべきことは、単位を“あげる”ことではなく、“認定する”こと、すなわち、ある客観的な採点基準を事前に設けておいた上で、その基準に学生諸君の答案が達しているかどうかを、主観を交えず、あくまでも客観的に判定することだからである。

人情としては、ついつい「単位を下さい」と言ってしまいたくなる気持ちは、分からないではない。しかし、もしもある学生の答案がしかるべきレベルに達していないにもかかわらず、それを大目に見て単位を“あげる”とするならば、それは公平な客観的評価ではなく、単なるエコヒイキなのである。

これを学生諸君の立場から言い換えるならば、諸君にとって、単位は教員から“もらう”ものではない。そうではなく、諸君の実力によって“かちとる”ものなのである。

たとえば、もしもスポーツの世界で、自分の実力が不足しているにもかかわらず、試合相手に対して「勝たせて下さい」などと懇願することは、非常に情けないことだろう。ましてや、仮に試合に勝った場合に、「勝たせてくれてありがとうございます」などと口走ってしまったならば、その試合相手は「何という屈辱…!」と怒り出すにちがいない。もしもそう言われてその試合相手が怒り出すのではなく、逆にニヤッと笑ったとするならば、それはとりもなおさず八百長試合、すなわちインチキだったということになるのである。

従って、学生諸君が行なうべきことは、単位を下さいと懇願することではない。そうではなく、むしろ必要なレベルに達するよう、努力・精進することのみである。また、その努力の結果、単位が認定された場合に諸君の発するべきは、教員に対する「単位をありがとうございます」という言葉ではなく、むしろ自分自身に対する「よくやった!」という自己賛嘆の言葉なのである。それは自分の実力によってかちとったものに他ならないからである。

そのようなわけで、学生諸君には、「単位を下さい」「単位をありがとうございます」などという言葉づかいは、一切やめていただきたい。そうではなく、ただひたすら、自分の実力の向上のために、自分の潜在能力を徹底的に信じて努力・精進し、単位が認定された暁には、そのことに大いに自信と誇りを持ってもらいたいと、教員の一人として心から念願する次第である。

それとともに、私自身、教員としては、決して「単位をあげる」などという言葉づかいをしてはならないと、改めて決意するものである。

山中 優

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2006年6月21日 (水)

授業関連の時事問題記事を中断します:試験勉強に全力を!

学生の皆さんへ(特に政治学概論の受講者諸君へ)

本欄の5月8日の記事で、受講者からの要望にお応えして、「時事的・専門的な話題はここで取り上げます」とお約束し、それ以来、主に道路公団民営化問題と地球温暖化問題を取り上げてきた。

まだまだ授業に関連する時事的な話題は尽きないが、このあたりでいったん、本欄で授業関連の時事的な話題を取り上げることは中断しようと思う。

というのも、学生諸君には、約1ヵ月後に控えた学期末試験のための準備に、今のうちから全力を注いでほしいからである。

私の授業の場合は、試験問題を事前に公表し、その解答のためのヒントもお伝えするなどして、単位認定に必要なレベルに達してもらうための事前の導きを惜しみなく行なっているが、それは、穴埋めや選択式ではなく、記述式・論述式の出題を行なっているからである。

最近では入試問題でも選択式(大学入試センター試験におけるような)が主流となりつつある現在、ある一定のまとまった文章を書くことに慣れていない学生諸君も少なくないだろうと思う。そのような場合、私の授業の試験は「難しい…」という印象を持たれることも多いかもしれない。

しかし、それでもあえて、記述式・論述式の出題を行なうのは、その方が、必ず “身につく” からである。

もちろん、努力は必要である。およそ何らかの新しいことを身につけようとする際に、努力を必要としないものはない。しかし、だからこそ、それが興味深い作業となるのである。

たしかに、努力を必要としない簡単なことの方が、しんどくなくてありがたい、と思われるかもしれない。しかし、それなら、今の諸君にとってきわめて簡単なこと、たとえば「1+1=2」という計算作業は、たしかに何の努力も要らないとはいえ、それが果たして楽しい作業といえるだろうか?決してそうではあるまい。むしろ、きわめて退屈なものであるはずだ。

あるいはなぜ諸君は、たとえば現在ドイツで行なわれているワールドカップサッカーに熱中するのだろうか?それは、猛烈な練習を経て、最高度の技を競おうとするサッカー選手たちのプレイに感動するからではないか?

あのナショナルチームの選手たちにとって、ワールドカップでのプレイは、非常に過酷なことであるに違いない。にもかかららず、彼らがあれほどまでに全力を注ぐのは、困難な、多大な努力を要することこそ、全力を傾ける価値のある素晴らしい営みだからではないだろうか?彼らが今さら小中高生を相手に試合をしてみたところで、たしかに高校生を相手に練習試合を行なう場合は調整の意味合いがあるとはいえ、決して彼らにとって最高に面白いことではないだろう。

サッカーにあまり興味のない人は、バレーボールやバスケットボール、野球など、ご自分の好きなスポーツに置き換えて考えてもらえばよい。またスポーツでなくても、ピアノなどの音楽でもよい。要するに、何かやり甲斐のあることを考えてもらえばよいのである。

いずれにせよ、諸君には、努力を要する一見困難なことだからこそ、一生懸命に取り組む価値のある、やり甲斐のあることなのだ、という事実に目覚め、大いに奮起して試験勉強に臨んでもらいたい。諸君の中には、自分でもまだ気づいていない、莫大なる潜在能力が埋まっているのだから…。それを信じて、全力を注いでもらいたいのである。

受講生諸君の奮起を大いに期待するものである。

山中 優

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2005年11月11日 (金)

自己の潜在能力を信頼しよう!:“ストレングス視点”の自己への適用の提案

学生諸君へ

諸君は、ソーシャルワークにおける“ストレングス視点”というのをご存知だろうか?

ストレングスとは strength のことで、「強さ」という意味だ。

最近のソーシャルワークでは、援助者が援助を必要とする利用者を欠点のある不完全な人として見下すのではなく、むしろ利用者には未活用の潜在能力(=強さ)があると考えてそれを尊重し、それを引き出すことを目指すようになったというのである。

山縣文治・岡田忠克編『よくわかる社会福祉 第3版』(ミネルヴァ書房、2005年)101頁には、次のように書かれている:

ストレングス視点は、ソーシャルワーカーが利用者の潜在的な力を信頼することで、利用者自身が自らの力を信頼できるように支援していく見方です。

私もこれは正しい方向だと思う。というのも、援助を必要とする利用者を不必要なまでに依存的な状態にとどめておくことは、援助者にとっても、利用者自身にとっても、不幸なことだと思われるからである。それよりも、利用者の自立をできるだけ促し、自己実現を図れるように導くことの方が、援助者・利用者双方にとって、はるかに喜ばしいことだろう。

そこで、私がここで諸君に提案したいのは、

-この“ストレングス視点”を諸君自身にも適用してみてはどうか?

ということなのである。

他人との比較という意味ではない。そうではなく、他人の天分も尊重しつつ、自分独自の天分を誇りに思うという姿勢をもてばよいのである。

つまり、ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指すということだ。

自分も他のみんなも、それぞれ自分だけのオンリーワンを、潜在能力として、自分独自のストレングスとして、自分のうちに宿しているのだ、という考え方である。

将来、社会福祉の世界で働きたいと思っている諸君についてはもちろんのことであるが、そうではなくむしろ一般企業を考えている諸君にも、このことを提案したい。というのも、せっかく社会福祉学部にいるからこそ、知ることの出来たことなのだから。それを生かさない手はないだろうと思うのである。

それとも諸君は、自分のオンリーワンとしての潜在能力を疑うか?

それも諸君の自由だろう。しかし、それでは本当に喜びのある人生は送れないだろう。

人はなぜ、オリンピックを見て感動するか? なぜスポーツを見て歓喜するか? なぜ美しい演奏に聞き惚れるか? それはことごとく、さまざまな困難を克服して最高の技を競う姿に、最高の美を発揮しようとする姿に、感動するからではないか?

ならば諸君も、自分に出来ることからでいいから、自分に手の届きそうな、自分にあった高さのハードルからでいいから、それを克服できる「自分だけのオンリーワンとしての潜在能力」を信じて、歓喜勇躍して、努力してみてはどうだろうか? そういう自分に感動してみてはどうだろうか?

何もすぐに結果が出ないからといって、焦りなげく必要はない。偉大な能力というのは、一朝一夕には表現しきれないものだ。カイワレ大根なら数日で生えるかもしれないが、たくましくそびえたつ大木は、樹齢何百年とかかってあの雄姿を現わしているのだ。

諸君の能力が今すぐ結果として現れないのは、その奥に偉大な能力が宿っている証拠なのだ、と考えればよいのである。

自己を信頼しよう! 自己に宿る偉大なる潜在能力を信頼しよう! そしてそれを表現すべく、今日から一歩一歩、喜んで努力していこう! そこから諸君の生きがいある人生が開けてくるに違いない。

私は若き諸君の大いなる未来を心から祝福するものである。

なお、「真の自己成長を遂げたい」という諸君には、次の本をお勧めする:

G・レナード著『達人のサイエンス-真の自己成長のために』(日本教文社)

↓ 出版社のホームページでの紹介はこちら

http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN4-531-08078-5.html

山中 優

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とんだ失敗:テキストの第2版と第3版

今日の社会福祉基礎演習の授業では、とんだ失敗をしてしまった。テキストの食い違いが判明したのである。

この授業のテキストは山縣文治・岡田忠克編『よくわかる社会福祉』(ミネルヴァ書房)なのだが、今日はそのⅦ-1,2,3の社会保障のところを解説していた。ところが、どうも学生諸君とのやりとりがかみ合わない。

おかしいな…と思ったら、なんと、テキストの版が違っていたのである。

学生諸君が持っていたのはテキストの第3版で、今年の4月に出たものだったのだが、私の方は、昨年度に引き続いて同じテキストを使っていた関係で、昨年3月に出た第2版を、今年度も同様に使っていたのであった。どおりで、かみ合わなかったわけである。

それにしても、にもかかわらず、これまではずっとかみ合ってきた。そっちの方がむしろ不思議だったというべきかもしれない。おそらく、これまでの頁では、改訂が(少なくとも大幅には)されていなかったのだろう。

それがここにきて、大きく改訂されているところにさしかかったために、今日になってはじめて食い違いが判明した、というわけである。

実を言うと、同じ失敗を昨年度にもしていた。というのも、一昨年度のうちにテキストを検討している段階で第1版を見本として手に入れており、それを持って昨年度の授業に臨んだ。ところが、その間に第2版が新たに出ていたのに気づいていなかったために、食い違いが生じてしまったのである。たしか、昨年度は春学期のうちにそれが判明していたと思う。

今年度はこれまでスムーズに進んでいたので、まさか学生諸君のものと私のものとが、今年もまた版を異にしていたとは、夢にも思っていなかった。いやはや、まったく恥ずかしい限りである。

というわけで、教訓の一首をば…:

テキストは版みて使おう確かめて 同じテキスト私もみんなも

何か交通標語みたいですね。シツレイ シマシタ(笑)。

それにしても、このように、こまめに改版がなされているということは、編者の意識が高いということなのだろう。それとも、分担執筆者の方から、改訂の申し出があったということだろうか。いずれにせよ、社会福祉の分野は、変化の激しい転換期に置かれているということなのかもしれない(それだけに、改版時に編者のまえがきが新たに加えられていると、なおありがたいのだが…)。

いずれにせよ、状況・制度の変化に合わせて版が改められているのはよいことだ。これからは、この最新版を使って授業をしていきますので、受講者諸君、これからもよろしくお願いします。

山中 優

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2005年11月 8日 (火)

「どうせできない」という考えを捨てよう!

学生諸君へ

授業をしていて、多少なりとも真面目さに欠ける受講態度をみせる学生に接することは、そして、いい加減のところでお茶を濁しておこうとする学生に出会うことは、大変つらいことだ。

そんな学生に共通していることがひとつある。それは、「どうせ自分にはできない」という考えを、心のどこかに抱いていることである。

もしもそのような考えをもっていたとしたら、「真面目に頑張ろう」とはとても思えないのも無理はない。なぜなら、「やっても仕方がない」ということになるからだ。

しかし、本当に諸君は「どうせやってもできない」のだろうか?もしかすると、それはいい加減なところで自分の潜在能力を自分で勝手に見くびっているだけではないだろうか?

なぜ「どうせできない」のだろうか? どうして「どうせ自分は馬鹿だから」「自分はこれこれが苦手(なのでできない)」ということになるのだろうか?

もしも「どうせ自分は…」という考えを持った場合、それは諸君が無意識のうちに諸君の親を恨んでいることになる。なぜなら、親は諸君を生んだ存在だからだ。自分が何かをできないのは「親がこんな自分に生んだからだ!」-ということになるのである。

しかし、もしもそんな考えをもっていたとしたら、きっと諸君は、今度は自分が親になったときに、自分の子供から同じような恨み言(うらみごと)を向けられることになるに違いない。そうして、そんなふうに子供から思われる親のつらさを、身にしみて味わうことになるのだ。

また、親をそのように恨む場合、それはまた、その親の親をも憎んでいることになる。諸君の親を生んだのは、そのまた親だからだ。そうすると、それは自分の先祖代々を憎むことになる。そうして、そんな家柄に生まれた自分が、つくづくいやになるのである。

このようにして、「自分がどうせできない」ことを、親や先祖のせいにして、あるいはまた自分に教えてきた先生のせいにして、はたまた自分に劣等感を抱かせるキッカケを作った友人のせいにして、あげくのはてには社会全体のせいにして、要するに自分以外の何かのせいにして、自分の能力開発をいい加減なところで済ますような人生を送ることになる。努力をすることを怠る人生、ナマケル人生を送ることになるわけだ。

たしかにそれも個人の自由だろう。自分の人生をどのように送るかは最終的には自分で決めるしかないから、どのような考えを持って人生を送ろうと、それは諸君の自由である。

しかし、「どうせできない」などと自分を見限ってしまう人生を、諸君は本当に心の底から欲しているのだろうか? そんなことで、本当に生きがいのある人生を送ることができるだろうか?

諸君が自分の可能性をそのように見限ってしまう前に、ぜひとも考えてほしいことがある。それは、五体満足の諸君よりも肉体的には遥かに大きな欠陥を抱いているはずの障害者の人たちが、その障害にもかかわらず、自分の可能性を最大限発揮しようとして精一杯生きようとしている-という厳然たる事実である。

乙武さんを見よ! ホーキング博士を見よ! はたまた、パラリンピックで活躍する障害者の方々を見よ! あの人たちは、諸君よりもずっとずっと不利な肉体的条件を抱えながらも、素晴らしい活躍をしておられるではないか!!

もっと諸君の心の内にくすぶっている「内部理想」の声に耳を傾けてみよう。諸君は本当に今の自分のままで、心の底から満足しているか? 本当は、もっともっと、「できる自分」になりたいのではないか? ところが、そんなことはムリだと初めからあきらめてしまっているために、諸君の心の奥底の「内部理想」の声を、いい加減なところで押し殺してしまってはいないだろうか?

諸君はまだ20歳前後の、まだ社会に出る一歩手前の青年だから、いい加減なところで自分を見限っていても、要領よく授業の単位をもらっていれば、それでやっていけるかもしれない。

しかし、これからの諸君を待っているのは、そんなことでは済まされない、自分の能力発揮を否が応でも要求される世界なのである。諸君が大学を卒業して社会に出るということは、そういうことなのである。他ならぬ私自身もまさに、そのような社会に身をおいているのだ。それはいい加減なことが決して許されない、“真剣勝負”の世界である。

諸君はいまの自分の足りなさに、もっとくやしがってみてはどうだろうか? 諸君はきっと、できない自分を心の底から好きになれていないに違いない。本当は「もっとできる自分になりたい!」と思っているに違いないのである。

だったら、「もっとできる自分」を夢見て、それを目指して努力してみてはどうだろうか? もっともっと本当の自分を信頼してみてはどうだろうか?


もちろん、自分の天分にあった道というものはあるだろう。今の諸君がたとえばプロのバイオリニストになるなんてことは、(少なくともこの人生では)ちょっとできないにちがいない。

しかし、この世に生まれてきた自分が、この世で果たせる天分というものが、諸君でなければできない役割というものが、必ずあるに違いない。

それは必ずしも「目立つ」仕事でなくともよい。大きな役割だろうと、小さな役割だろうと、それはかまわない。どんな役割であれ、およそ善いことであれば、人のお役に立つことであれば、それを目指して自分の天分を磨いていけばよいのである。

本当の自分、まだ隠れている潜在的可能性としての自分-この「自分」を信じることに、何の損があるだろうか?

信じなければ、それでおしまいである。信じなければ、あっても発揮できない。本当は地中奥深くに素晴らしい宝鉱が隠されているのに、「どうせ掘ってもムダだ」と思って“宝の持ち腐れ”となっているのと同じことになってしまうのである。しかし、信じれば、いつか必ず、その宝鉱を掘り当てることができるのである。

諸君のうちには、賭けごとが好きな人もいるだろう。パチンコ、マージャン、競輪、競馬、等々…。スクールバスの中での学生同士の会話が聞こえてくることがよくあるが、パチンコ好きの学生はなかなか多いようである……(あるいはスロットか?)。

しかし、もしも諸君が賭け事を好むのなら、そんなチッポケなものに賭けないで、もっと大きな、もっと偉大な、自分の“潜在的可能性”に賭けてみてはどうだろうか? 諸君はもっともっと自己能力を開発して、世のため人のために役立つ人生を送ることができるはずなのである。

諸君はきっと、社会に出たときに、自分の能力を力いっぱい発揮しなければやっていけない場面に、いわゆる“正念場”に、直面するときが来るに違いない。

そんなとき、自分を信じて普段どれだけ努力していたかが問われるのである。それはまさに諸君の「真価」が問われるときである。そんなとき、「自分を信じる」=「自信」のある者こそが成功する。自信のない者が成功できるはずがない。そして本当の自信とは、普段から努力して練習している者のみが持つことができる心の財産なのである。

自分を信ぜよ! 本当の自分をもっと信ぜよ!! 現状の足りない自分を本当の自分だと思うな!! そんな自分を否定し去って、本当の自分=自分の潜在的可能性をトコトンまで信じて努力せよ!! そこから諸君の未来が開けてくるのである。

やればもっとできるはずである。そう信じて、少しずつでもいいから、今からでも遅くはないから、ぜひとも自分をもっと信じて努力してほしい--これが一人の教員としての、私の切なる願いである。

分からなければ、私にもっと食い下がってみよ! 「もう一度説明してください!」という声をあげてみよ! それでも分からなければ、授業後に私の研究室まで押しかけてきてみよ! そんな諸君の積極性を、私は心から期待するものである。

山中 優

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2005年11月 4日 (金)

英書講読:第32段落の解説

英書講読の授業に関連して、本欄11月1日に、「やさしく説明することのむずかしさ」について書いたが、その分かりやすい説明を試みてみた。

私のウェッブサイトの「第32段落の解説」に掲載しておいたので、ご覧いただきたい。

ここで、できるだけ分かりやすくなるよう、説明を試みたつもりであるが、いかがだろうか?

いずれにせよ、「やさしく説明すること」は、つくづく「難しい」と思う。

とはいえ、それは、こちらの理解がどれだけ正確かを試される場面でもある。その分、こちらの教育能力が鍛えられるというわけだ。

その意味で、英書講読の学生諸君には感謝している。これからもよろしくお願いします。

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2005年11月 1日 (火)

やさしく説明することのむずかしさ:今日の英書講読を終えて

今日(11月1日)の英書講読では、第32段落の説明に思いのほか、時間をかけてしまった。学生諸君には申し訳ないことをしたと思う。

この段落では、非常に専門的な論点について、補足を述べた段落だったが、諸君にとって必要となるより、はるかに詳細に説明しすぎたかもしれない。

教員として学生諸君に対して「してあげたい」と私が常々思っていることは、次の二つである:

①分かりやすく教えてあげたい

②たくさん教えてあげたい

この2つのバランスが大変大事なのだが、今日はこのうちの②に偏りすぎたようだ。もっと①に徹して、時間を短縮すべきだったと思う。

というわけで、今日は大変失礼いたしました。その責任を取って、後日、私のウェブサイトに、もっと分かりやすい説明を掲載します。

これに懲りずに、どうぞ次回からも出席して下さい。

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2005年10月28日 (金)

社会福祉基礎演習のみなさんへ

この授業では、テキスト『よくわかる社会福祉〔第2版〕』(ミネルヴァ書房、2004年)に基づいて、毎回小テストを作成し、諸君に解いてもらっているが、その小テストに取り組んでいる諸君のけなげな様子を見て、私はいつも微笑ましく思っている。それとともに、教える喜びを味わわせてくれる諸君の存在に、感謝している。

実を言うと、社会福祉そのものは、私の元々の専門分野ではない。私の専門分野は政治学、とくに政治思想である。だから、必ずしも自分の専門分野に直接的な意味で関わるものとして、この授業を担当しているわけではない。

しかしながら、当然のこととして、授業を担当する以上こちらもシッカリと勉強しておかなければならない。したがって、私はこの授業を進めていくに当たって、新たに一から勉強を始めたのである。

最初のうちは慣れないこともあったが、もうこの授業を担当するようになって4年目に入っており、最近ではかなり慣れてきた。おかげで、社会福祉に関する基礎知識を身につけていくことができているので、その意味でも感謝している。

とはいえ、小テストを毎回用意するのは、労力のいる作業である。小テスト方式は昨年度からとっているものであり、テキストも同じものを使用しているのだが、小テスト問題は、今年度は今年度として、また新たな気持ちで作成している。だから、授業の準備には毎回、一定の手間がかかるというわけである。

しかも、作業は小テストを実施してそれで終わりではない。当然のこととして、最終的には単位認定のための評価をしなければならないが、この授業では毎回の小テストの成績を総合評価することにしているから、小テストを終えた後に、毎回の成績をつける作業もあるのである。Excelに正答率を入力することにしているが、いまのところ、その作業が毎回確実にできているわけではないので、その遅れを取り戻すために、また新たに時間をさく必要もあるわけだ。

そんなわけで、この授業一つとっても、必要な作業が多くあるのだが、それによって、諸君が社会福祉の基礎知識を身につけていくための手助けができるのだと思えば、それは喜びである。

諸君には毎回の小テストに備えた準備を要求しているわけで、なかなか大変だという思いもあるかもしれないが(いかがですか?)、一回一回の努力が積み重なっていけば、それは大きなものとなるから、どうか一回一回の小テストを、これからも大事にしてほしいと思う。

授業中だけではなかなかとりきれないコミュニケーションを、このブログを通じて諸君と交わすことができればと考えているので、どうぞ気軽に、遠慮なくコメントを下さい。お待ちしています。

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2005年10月27日 (木)

英語を学習しよう!:私も日々努力中です!

英書講読の学生諸君へ

諸君は、英語が得意だろうか?

「得意です」「苦手な方ではありません」という人もいるだろうが、そうではない人も少なくないだろう。

教えている私の方はどうだろうか?

もちろん、英語は好きであり、自分ではまぁまぁ得意な方だと思っている。だからこそ、教えているわけだ。少なくとも、英語を「読む」ことに関してはそうだし、また英語で論文を一本書いたこともあるから、英語を「書く」ことも、少なくとも苦手ではないと言えるだろう。

それなら諸君は、私の英語力が、もうこれ以上の努力を要しないほど、完璧だと思うだろうか?--とんでもない話である。特に「聞く・話す」となると、私のレベルは、せいぜい中の上(upper-intermediate level)というところなのである。

「それで十分じゃないですか」と諸君は言うだろうか?

たしかに現状で満足するならば、その通りかもしれない。しかし、それでは私自身が満足できないのである。

なぜ満足できないのか?--それは、自分自身の能力向上ということもあるが、それだけではない。

それに加えて、教える能力も向上させたいからである。自分自身の能力が向上すれば、教える能力もさらに向上するに違いないからなのである。

諸君にぜひとも分かってほしいことは、「教員になったのだから、教える立場になっているのだから、もう新しいことを学ぶ努力は必要ないんでしょう?」ということでは決してない、ということである。私自身、諸君への教育能力の向上のために、コツコツとではあるが、日々努力中なのである。

私も日々努力しているのである。だから諸君も、ぜひとも自分の可能性を信じて、日々努力し、向上してほしい。それが私の喜びであり、そして諸君自身の喜びになるのだから。

期待しています。頑張ってください。

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2005年10月26日 (水)

アフルエンザ:基礎演習10月26日の授業を終えて

一年生を主な対象とした「基礎演習」の私の担当クラスでは、ジョン・デ・グラーフほか著『消費伝染病「アフルエンザ」:なぜそんなに「物」を買うのか』(上原ゆうこ訳、日本教文社、平成16年刊)をテキストにして授業をしているが、今日は、その第9章 「意味」を求める痛み の要約ノートを作成する作業を学生諸君にしてもらった。

この要約ノート作成作業は、前々回の授業から学生諸君に取り組んでもらっているものだ。前々回は第8章について作業をしてもらい、前回はその解説と個別指導をおこなった。今回はそれを受けての2回目の要約ノート作成作業だったというわけである。

学生諸君が作成に取り組んでいる様子を見て回っていて、うれしかったことが二つあった。

一つは、前回の私の解説と個別指導のおかげだと思うのだが、要約ノートの作成に進歩が見られたことだった。私のアドバイスに従って、章全体の話の展開をなんとかノートに表そうと努力している様子がよく分かった。提出された答案を詳しくみるのはこれからであるが、授業中に見て回ったところでは、学生諸君に一定の進歩が見られるようであったことが、うれしかった。

もう一つは、本日出席の学生諸君全員が、ちゃんとテキストを持参していたということである。当たり前といえば当たり前のことなのだが、それでも全員がそろってテキストを持参して、まじめに取り組もうとしていた様子が、うれしかったのである。

教育の醍醐味は、何といっても、学生諸君が進歩していく様子を見られることである。進歩できるように導くのが教員の役目だ。これからもその醍醐味をさらに味わえるよう、喜んで授業を進めていきたいと思う。

ところで、このテキストの第9章を読んで、学生諸君は大いに考えさせられたのではなかろうか? というのも、ここに書いてあるのは、アメリカの人々が人生の意味・喜びをこぞって「物」に求めているものの、それによってかえってむなしさを感じる一方であり、人生の本当の意味を求めて苦しんでいる様子が、鮮やかに描き出されていたからである。

そしてこのような現象はもちろん、アメリカ的生活様式を追求してきたわが国にとっても、他人事ではないのである。

学生諸君には、この章を読んで、人生の本当の意義とは一体どこから、どんな活動からこそ得られるものなのか、ジックリと考えてほしいと思う。諸君はまさにこれから人生を生きていく有望な若者だからである。

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2005年10月25日 (火)

ブログの名称変更:教育を加えます

このブログの名前を、『研究日記』から『教育・研究日記』に改めることにした。学生との交流をもっと活発にしたいからである。

これまで、授業に関する内容は学内サイトに掲載してきたが、どうもアクセス状況が思わしくなかった。そこである学生に聞いてみたところ、「自宅からアクセスできないので…」という答えが返ってきた。大学にいるときには、授業の合間を縫って学内の情報処理室にわざわざ足を運ぶことは、案外少ないということだった。

そこで、思い切って、従来から@nifty上にもっていた私のサイトに授業ページも加えることにしたのである。従来の学内サイトは、トップページにそのリンクを貼るだけにした。

これで、私の授業を受ける学生たちも、私のウェッブサイトにアクセスしやすくなったことと思う。

これまで、このブログには、プロフィール欄にも書いてあるように、教育・授業になかなか多用な中で、どのように時間をさいて研究に取り組もうとしているか、という内容を書き綴ってきた。つまり『研究日記』だったのである。

もちろんこれからも、このブログは『研究日記』でありつづけるが、それに加えて、これからは『教育・研究日記』として、教育・授業に取り組む中での私の思いも、ここに書き綴っていこうと思う。

これからも、この『山中優の教育・研究日記』をよろしくお願いします。

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