2007年1月22日 (月)

失敗を恐れない文化の必要性

わが国には、もっと「失敗を恐れない文化」が必要なのではないか-このような思いをしたのは、去る20-21日に行われたセンター試験の初日にあったリスニングテストをめぐる報道に接したときである。

今年のセンター試験は志願者が55万人を超え、例年最も受験者の多い外国語(筆記)の今年の受験者は、50万5000人だったという。外国語(筆記)の次の時間に行われた英語リスニングテストの受験者数は、私の調べた限りでの報道では明らかにされていなかったが、おそらく50万人前後だっただろうと思われる。

それだけの人数が、昨年から導入されたばかりのリスニングテストを受けたわけだが、そのうち、ICプレーヤーの不具合等による何らかのトラブルのため、再開テストの対象となったのは394人であり、そのうち381人が実際に再開テストを受けたという。トラブルの発生は、およそ50万人が受けたとすれば、その中の394人だったから、率にして、約0.079%である。

この事実がどのように報道されたか? 我が家でとっている産経新聞の21日付朝刊の1面の見出しは、次の通りであった:「リスニングまたトラブル センター試験、381人再テスト」。「またトラブル」という表現に否定的な評価が込められていることは、誰の目にも明らかだろう。

また読売新聞のオンライン記事(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070121ur02.htm)にも、「十分な体制で臨んだはずなのに、またトラブルが発生した」という表現があるし、朝日新聞のオンライン記事(http://www.asahi.com/edu/news/TKY200701200325.html)では、“受験生「まさか今年も」 センター試験リスニング不調”という見出しのもと、かなり否定的・批判的な論調で報じている。

しかしながら、先ほど確認したように、トラブル発生率は(受験者数が50万人と仮定すれば)0.079%である。しかも、センター試験におけるリスニングテストは、今年でたった2回目にすぎない。それを考えると、トラブル発生率が0.1%をすら下回っていることは、試験全体で言えば、かなりの“成功率”を挙げたとは言えないだろうか? 昨年は機器不具合等で465人が再開テスト--昨年は再テストという名称だったが--の対象者となっていたから(そのうち457人が再テストを受験)、再開テスト対象者の数は、昨年に比べ、実は“減っている”、すなわち改善されているのである。

にもかかわらず、なぜ、トラブル発生率が0.1%を下回っていたというこの事実が、「〔今年も〕またトラブル」といったような、否定的・批判的な調子で報じられることになるのだろうか?

私はここに、マスコミ全般によく見られる「暗黒面の強調傾向」もさることながら、センター試験を取り巻く「失敗は許されない…!」という雰囲気が大いに影響しているように思われてならない。というのも、昨年初めてリスニングテストが導入されたとき、試験前に大学入試センターは「万全を期している。機器の不具合はあり得ない」と自信満々に断言していたからである。昨年のトラブル発生を受けて、今年はいくぶんトーンダウンしていたが、それでもやはり「トラブルは大幅に減少できる」とセンターは述べていた。そこには、「トラブルはあってはならない…!」という力みが透けて見える。また、今年のトラブル発生を受けて、センターは「再開テストの受験生に迷惑をかけて大変申し訳ない」と陳謝したというから、トラブルの発生という事実自体に、センターが大変苦悩していることがよく分かるだろう。

しかし、よく考えてみると、センター試験というのは、全国で50万人以上が受けるという、とてつもなく大規模な入試である。しかも、リスニングテストは昨年導入されたばかりの新しい試みである。だとすれば、そこに何らかのトラブルが大なり小なり発生することは、むしろ初めから予想しておくべきことではないだろうか?

たしかに、事前の準備に万全を期そうとすることは、何事を行う場合でも大切なことであろう。私は何も、適当にいい加減にやれ、とここで言いたいのではない。人の生命に関わるような重大な事故が許されるべきだと言いたいのでも、もちろんない。

しかし、だからといって、今回のリスニングテストの場合のように、何らかのトラブルが発生したからといって「今年もトラブルが相次いだ」といって責め立てようとするような報道をすることには、あまり感心しないのである。

私は何もここでセンター試験の弁護をしようとしているわけではない。むしろ、あのような画一的な試験のやり方は、受験生の創造性・独創性を養う上で、あまりよろしくないと思っている。むしろ、私がここで言いたいことは、センター試験に限らず、およそ何らかの新しい試みを思い切って行おうとする場合に、わが国において、いい意味でもっと「失敗を恐れない文化」が根付いていくべきではないか、ということである。というのも、これからのわが国には、「欧米に追いつき追い越せ」式の、模倣型・応用型の技術のみならず、いわば創造型の技術革新が様々な分野で求められるはずだからである。

その意味で、上記で言及したオンライン記事の中で、読売新聞のそれに載っていた、ある受験生のコメントに頼もしさを感じた。すなわち、その受験生は「機械を使っている以上、少々のトラブルは仕方ない。明日も頑張りたい」とコメントしていたのである。

これからのわが国には、何かにつけ、この受験生のコメントのようなおおらかな姿勢、一種の図太さのようなものが、失敗を恐れずに新たなことに挑戦していく勇気を養っていく上で、とても重要なことではないだろうか? そうであってこそ、一度失敗し落後したからといって「落ちこぼれ」というレッテルをはるのではなく、「再チャレンジ」がいつでも可能な社会が生まれてくると思うのである。

| | コメント (0)

2006年3月10日 (金)

格差社会:総合雑誌の特集記事

「ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ」の連載記事がまだ完結していないが、本欄でその二番目のキーワードたる“希望格差社会”を取り上げ始めたその時期に、総合雑誌が軒並み「格差社会」について特集記事を組んでいたので、その符合に少し驚いている。

私の見つけたのは、次の三つの総合雑誌での特集記事であった。以下、雑誌名…特集テーマ名の順で示す:

『諸君!』2006年4月号…素晴らしき「格差社会」

『文藝春秋』2006年4月号…衝撃ルポ下層社会

『中央公論』2006年4月号…若者を蝕む格差社会

この三冊の総合雑誌を、最寄の近鉄大和八木駅構内の書店で、今朝買っておいた。これを徐々に読んでいって、明日から早速というわけにはいかないが、読み進めていくにつれて、上記の特集記事の概要と、それを読んでの私なりのコメントを、本欄に書いていきたいと思う。

そのようなわけなので、三つ目のキーワード「アフルエンザ」について論じるのは、もう少し先に延ばさせていただくことにしたい。

| | コメント (0)

2006年2月28日 (火)

衆院予算委で格差社会を審議

「ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ」と題した記事を本欄に連載中であるが、前回書いた「希望格差社会」に関して、興味深い記事に接したので、今日はその記事についての覚書を書いておきたいと思う。

NEWS@nifty掲載の読売新聞ニュース速報によると、2月28日の衆院予算委員会で「構造改革と地方経済」に関する集中審議を行い、そこで格差社会について議論されたという。

リンク: @nifty:NEWS@nifty:「格差は悪いとは限らない」首相、改革路線を堅持(読売新聞).

それによると、小泉首相は、構造改革に伴う格差の広がりに批判が出ていることについて、「どの国にも、どの時代にも、ある程度の格差はある。格差は悪いとは限らない」と述べて改革路線を堅持する考えを強調するとともに、「格差ととらえるのではなく、互いの違いを学び合い、競争して良い点を伸ばしていく競争が必要ではないか」と述べ、規制緩和などにより民間の活力を高める必要性を指摘したという。

また、「勝ち組、負け組が固定化されてはいけない。一度、敗れても、また勝てるチャンスを提供することが必要だ」と語った同時に(同記事は、この首相の言葉を、「再就職向けの職業訓練の充実や起業支援などを進める考えを示した」と見ている)、その一方で、「どうしても自分だけではやっていけない人に対し、国としてどのような支援の手を差し伸べられるかが重要だ」と語り、社会的弱者に配慮する考えも示したという。

ここには「格差社会」としか述べられていないが、「勝ち組、負け組が固定化されてはいけない。一度敗れても、また勝てるチャンスを提供することが必要だ」と首相が語ったところをみると、これはおそらく「“希望”格差社会」を念頭に置いたものだったとも考えられるだろう。もしもそうだとすると、この首相の姿勢自体は、一定の評価に値すると思われる。というのも、それはただ単に、市場競争に人々を放り込んでおいて、あとは知らない、という姿勢ではないからである。

ただ問題は、勝ち組・負け組の固定化を実際にいかにして防ぐかであろう。私自身、それではいかにして若者たちに就業支援していくべきなのか、まだ具体的な考えをもてているわけではないが、勁草書房から、フリーターやニートなどの若者にかんするものとして、独立行政法人 労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子氏の編集による次の二冊の興味深い書物が出ていることを今日知ったので、いずれまた読んで勉強しようと思っている:

『フリーターとニート』勁草書房、2005年4月15日発行

『キャリア教育と就業支援:フリーター・ニート対策の国際比較』勁草書房、2006年2月15日発行

| | コメント (1)

2006年2月26日 (日)

ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ(2)

現在の資本主義が“ターボ資本主義”と呼ばれるほどにその構造変化のペースを加速させ、“一億総中流化”と呼ばれてきたわが国においてさえ経済格差をもたらすようになっている現在、いわゆる“構造改革”が政治的に推し進められていく中でわが国に生じつつある社会は、構造改革路線が目指しているであろう社会像、すなわち「地道な勤労精神にみちた健全な中産階級社会」であるとは、残念ながらどうも言い切れないようである。

むしろそこに生じつつあるのは、勝者と敗者とが両極分解した社会であり、経済的格差のみならず、「努力すれば報われる」という希望の面でも両極分解した社会、すなわち“希望格差社会”ではないかと思われるのである(*)。

(*)山田昌弘『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房、2004年)

そこにおける敗者――いわゆる“負け組”――は、一攫千金を手にした勝者たちを羨望の眼差しで眺めながら、いつかは自分もそうなれるという非現実的な夢を抱きつつ、その実、地に足の着いた将来の展望や確たる人生設計を持てないまま刹那的にしか生きていけない人たちである。山田昌弘氏によると、現代日本のいわゆるパラサイト・シングルやフリーターたちは決して夢を全く持っていないわけではないのだが、その「夢」はそれに向かって着実に努力していくための目標では決してなく、むしろ努力しても報われないという現実の自分の状況を忘れさせるための夢想でしかないのである(前掲書、217~218頁)。

このことはもちろん、現代日本において、長期的な視点に立って真面目にコツコツと努力するタイプの人々が全く消失したということを意味するものではない。現代日本にもそのようなタイプの人々はまだ数多くいるに違いない。

しかしながら、そのようなタイプに属するのは、山田昌弘氏によると、主に旧来型の職に従事してきた四〇代以上の世代の人々、すなわち高度成長期の大量生産・大量消費時代において安定した雇用と持続的な昇進が期待できる職業に就いてきた人々であって、グローバル化やIT化が進み、モノよりもサービスが優勢になり、単純労働者の間で雇用が流動化・不安定化しつつある現代にあって、その影響を真っ先に受けている若者の間では、真面目に努力していくという行動様式が薄れつつあるのである(同前、100~128頁)。

もっとも山田氏は、このような問題点を主に「負け組」に属する若者たちの間に求めている。他方で氏は「〔近代社会に入って〕宗教意識が薄れると、金持ちの享楽的、自己中心的傾向に歯止めがかからなくなる。これが、日本のバブル経済期に起こったことである」とも述べているものの(同前195頁)、氏の分析の焦点は--その書物のサブタイトルに表れているように--やはり圧倒的に「負け組」における問題点に置かれている。

しかしながら筆者は、他方の「勝ち組」の間でも、手っ取り早く一攫千金を手に入れようとする行動様式が見受けられるという意味で、「長期的な視野のもとで真面目に努力していく」タイプが若者たちの間で消失しつつあるのではないか、という懸念を拭い去ることができない。

すなわち、この希望格差社会でもてはやされている“勝ち組”は、ライブドア事件や、それを期に改めて問題視されるようになった、青少年の間での金融教育のありさまなどに象徴されるように、実体経済の世界の中で地道に顧客のニーズに応えていく勤労の倫理を兼ね備えた人物ではなく、むしろ実体経済から遊離したマネーゲームに狂奔し、着実な努力によるよりもラッキーな偶然によって一攫千金を手にし、その物質的豊かさをあからさまに謳歌するという、倫理的にいかがわしいタイプの人物と言うべきだと思われるのである。

その“勝ち組”の間にも見られる行動様式の問題点をよく言い表しているのが、「アフルエンザ」(=アフルエンス+インフルエンザ)すなわち「消費伝染病」という言葉であると筆者には思われる。そこで次回は、この「アフルエンザ」について述べることにしたい。

| | コメント (0)

2006年2月24日 (金)

ターボ資本主義・希望格差社会・アフルエンザ(1)

今回からしばらくは、現代日本社会を読み解くキーワードを標題に掲げた三つの言葉に求めつつ、わが国が市場原理にどう向き合っていくべきかについて、筆者なりの考察を書き綴ってみようと思う。今回は一つ目のキーワード、“ターボ資本主義”についてである。

“ターボ資本主義”とは、米ワシントンの戦略国際問題研究センター上級研究員のエドワード・ルトワク氏が次の書物で用いている言葉である:

エドワード・ルトワク、山岡洋一訳『ターボ資本主義――市場経済の光と闇』(TBSブリタニカ、一九九九年 [原著一九九八年] )

この“ターボ資本主義”について私の見解を述べるのは後に回して、今回はこの言葉を用いたルトワク氏の議論の要約のみにとどめたいと思う。

この書の中でルトワク氏は、構造変化のペースを加速化させた資本主義のことを「ターボ・チャージされた資本主義」(turbo-charged capitalism)あるいはもっと端的に「ターボ資本主義」と呼び、それがもたらす生産性の向上と、その代償としてもたらされる社会の混乱とを詳しく描写している。

ルトワク氏によると、(1)生産性の高さ、(2)創造的破壊、(3)急激な構造変化による混乱、この三つの点で資本主義は昔も今も変わっていないが、現代の資本主義の新しさは、その構造変化のペースが加速した点だけである。しかし、若干のペース加速だけで、状況が一変したといえる状態になったという。(同書、78-79頁)。

氏は、このペース加速をもたらした要因として、第一に世界各国での政府の市場からの撤退、第二にグローバル化、第三に伝統から契約へ(すなわち昔からの慣習に基づく取引関係が崩れ、取引ごとに交渉され、純粋に需要と供給に基づく商業ベースの契約関係にとって代わられたこと)、第四にコンピュータの導入による生産性の飛躍的向上、この四つの要因を挙げている(79-93頁)。

このような諸要因による構造変化のペースの加速化によって、世界各地の進取の気性に富む人たちには機会が与えられると同時に、それについていけない人たちは挫折の憂き目にあっているのである(93-99頁)。本書の原題は、Turbo-Capitalism: Winners and Losers in the Global Economy,すなわちその副題は「グローバル経済における勝者と敗者」であるが、まさにこのターボ資本主義の下で、勝者と敗者とがはっきりと分かれていく傾向が生じているわけである。

言うまでもなくこのターボ資本主義はアメリカ発のものであるが、ここで興味深いのは、ルトワク氏が、現在世界各国でターボ資本主義によって引き起こされている混乱がアメリカ型の資本主義の導入自体によるものだとはしていないことである。むしろ、氏はその混乱の原因をアメリカ型資本主義の導入の“中途半端さ”に求めているのである。氏は次のように述べている:

皮肉なことに、ターボ資本主義に対するもっとも強い反発は、アメリカの流儀を無批判に受け入れたからではなく、アメリカの流儀のとり入れ方が不十分なことの危険性から生じているのだろう。世界各国はターボ資本主義を輸入しているが、アメリカでその圧倒的な力を抑える要因と、ターボ資本主義の厳しさと極端な不平等をほとんどのアメリカ人が受け入れる理由になっている要因は輸入していない(30頁)。

氏によると、アメリカでは一方で人々を勝者と敗者とに容赦なく両極分解させる市場競争の論理を徹底させているとともに、他方ではその両極分解という結果を人々に納得させ、勝者を過度に傲慢にさせないと同時に敗者を従順にさせるための要因が二つあるという。それは次の二つである:

①ごく普通の庶民が、極端に貧乏であっても、「損害賠償請求」という建前のもと、裁判で自分の利益を追求することができること。

②カルヴァン主義の価値観が根強い影響を与えていること。

①について、氏は「傲慢で貪欲な弁護士にも良い面がある」と述べ、アメリカの法律制度あるいは法文化について詳しく論じている(30-45頁)。

私にとってより興味深い点は、②のカルヴァン主義の影響力である。ルトワク氏によると、アメリカでのカルヴァン主義は次の三つの規則をもっている:

1.高所得者向け:勤労によって得た富は神によって救いを予定されていることを示す。金持ちになりたいという欲求は非難されるべきものではない。富の蓄積はその努力と禁欲の結果として賞賛に値するものである。ただし、その蓄積した富は浪費されてはならず、社会的に意義ある活動のために寄付すべきものである。それは子孫に遺してはならない。

2.大多数の勤労者向け:敗者になったのは、運が悪かったからでも不公正のためでもなく、神の恩寵を受けられなかったからである。したがって、敗者は社会制度を責めるのではなく、むしろ神の恩寵を受けるに値しない罪人である自分を責めるべきである。

3.敗者の中でもカルヴァン主義を信じない人たち向け:第二の規則を受け入れず、罪の意識にも苛まれないが、教育水準が低くて合法的な方法で恨みを表明できない人たちは、刑務所に隔離されるべきである。

この三つの規則からなるカルヴァン主義がアメリカでは大きな影響力を発揮しているため、勝者は自分の富を正当化されていると同時にそれを浪費せず、大多数の敗者はその敗者としての境遇を従順に受け入れており、従順ではない敗者は刑務所に送り込まれる。このような氏のいわゆる“カルヴァン主義体制”が根付いているため、アメリカではターボ資本主義が反社会的な勢力を生み出すことなく浸透しているのである(46-60頁)。

ところが氏によると、

ターボ資本主義に移行しようとしている国の多くでは、勝者は富をあまりにもあからさまに楽しんでおり、子孫に富を残そうとしており、教会以外にはほとんど寄付しようとしていない。敗者の側は、罪の意識にさいなまれず、勝者への恨みつらみをつのらせている。そして、勝者も敗者も、法を破る敗者をきびしく処罰すべきだとする確固とした倫理感をもっていない(60頁)。

したがって、氏に言わせれば、中途半端な真似は危険である。われわれのとるべき道は「活力を求めるのか、安定を望むのか」の二者択一である。すなわち「経済」と「社会」のいずれを優先させるのかをはっきりとさせなければならないのである(同書第13章)。

以上のようなルトワク氏の議論からするならば、わが国もアメリカ型資本主義の「中途半端な真似」の部類に入ることになるだろう。実際、氏は「日本語版への序文」で、同様の二者択一を日本の読者に対して迫っているのである(同書4頁)。

そして、本書の原題の副題にあったように、わが国でもまさに「勝者」と「敗者」、すなわち最近の言葉で言えば“勝ち組”と“負け組”との間での二極分解が起こっている。そこに生じつつあるのが、家族社会学・感情社会学を専門とする山田昌弘氏の言う“希望格差社会”なのである。これについては次回論じることにしたい。。

| | コメント (0)

2005年9月21日 (水)

気になる言葉遣い:勝ち組と負け組?

最近、気になる言葉遣いがある。それは、「勝ち組」「負け組」という言葉遣いだ。

今日の産経新聞朝刊社会面に、マルチ商法の被害に会う学生が急増していることを伝える記事が載っていたが、それによると、「学生起業で勝ち組に」といった誘い文句で、学生たちが就職難や将来への不安につけこまれる傾向にあるという。

この勝ち組・負け組という言葉を、最近よく目にするようになった。私は@niftyの会員であるが、その@niftyHPトップページのトピックス欄にも、「あなたも恋の勝ち組になれる、転機はいつやってくる?」などという文句が謳われている…。

私が心配しているのは、何でもかんでもこのように「勝ち組と負け組」というように色分けしてしまう昨今の社会風潮が、もしかすると、構造改革による市場原理の浸透が「赤裸々な弱肉強食の社会の到来」と人々に受け止められていることによるのかもしれない、ということだ。

同紙はまた次のようにも伝えている:

学生が“カモ”にされる背景には、マルチ商法に関する知識が乏しいことに加え、就職難や、リストラ、倒産など、サラリーマン生活に対し学生が不安を抱いていることが挙げられる。

だとするならば、市場競争の荒波に彼らを何の手助けもなく放り出すことは、却って市場原理への反発を呼び起こすことになるだろう。

このような社会風潮をどのように考えればよいかについて、まだ一定の結論に達したわけではないが、ハイエク研究者としては、このような社会風潮をただ座視しておくわけにはいかないだろう。真剣に考えていかなければならないと思う次第である。

| | コメント (0)